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2013年12月26日木曜日

王殺しの記憶喪失/ラカンの資本家のディスクール

資本家のディスクールは、四つのディスクールに引き続く、「五番目」のディスクールではなく、あらたなディスクールの領野を開くーー資本主義が席巻する世界の新しい四つのディスクールを開くーーというLevi R. Bryantの議論をみた(ラカンの資本家のディスクールと資本主義の世界のディスクール)。

わたくしは英訳で読んでみただけだが、ラカン自身、資本家のディスクールは主人のディスクールを代替するものだという意味に受けとれる言葉を、訳文から推測する範囲では、ラカン独特の《おじいさんがわりと内輪の社会でしゃべっておるフランス語》中井久夫)のインティメイトな調子、沈黙とスカンシオンの綯い交ぜになった口調で語っているようだ。

It would have perhaps involved . . . but besides, it will not involve it . . . because it is now too late . . . . . . the crisis, not of the master discourse, but of capitalist discourse, which is its substitute, is overt (ouverte).(On Psychoanalytic Discourse Discourse of Jacques Lacan at the University of Milan on May 12, 1972, published in the bilingual work: Lacan in Italia, 1953-1978. En Italie Lacan, Milan, La Salmandra, 1978, pp. 32-55. Translated by Jack W. Stone.)

あるいは「主人のディスクールは消滅しつつある」 the discourse of the master has largely disappearedとは、すでにセミネール17(精神分析の裏側)にて語っている。

Bryantの議論は、「父性的な象徴権威の弱体化」の時代の新たな領野として、「主人の言説」を代表とする主人(支配)の領野から、「資本家の言説」を代表とする資本主義の領野への移行を指摘するものであった。

冒頭叙したことをくり返せば、資本家のディスクールは、五番目のディスクールではなく、あらたな世界の四つのディスクールを開くものだという主張なのだ。

ここで、旧来の主人の世界における主人のディスクールと、新しい資本主義の世界における資本家のディスクールを並べて見比べてみよう(旧体制の四つの言説と、新体制の四つの言説そのそれぞれを代表するものであり、各々の残りの三つの言説は割愛する)。








旧来の主人の言説では、最初のエージェント(話し手)の箇所に、当然のことだが、S1(主人)がある。新しい資本主義の領野の資本家の言説では、分裂した主体$がある。


主人のディスクールの最も基本的な読み替えをすれば、こうなる。

王(主人)S1は召使いS2に要求する、わたしを楽しませてくれ、と。召使いはそのための生産物を生み出すが、そこにはかならず剰余(廃棄物)aが生じる。王の真理は斜線をひかれた主体$、すなわちあらゆる主体と同様に、根源的な享楽(楽しみ)が何であるかを、言語で言い表わすことが不可能な存在であり(真理は半分しかいえないmi-dire)、$aは永遠に一致しない宿命にある。ここでラカンのローマ講演での有名なことば、言語による「物の殺害」をも想起しておこう(参照:ラカン派における「主体と大他者の欠如」、あるいは「疎外と分離」の覚書)。


他方、資本家のディスクールではこうなる。

王殺しのあったあとの主人とは、利益を追求する商売人たち$である。もちろん召使いなどいはしない。だがかつての王と同じように、どうやったら楽しむことができるか(どうやったら利益を得ることができるか)を、テクノロジーやノウハウS2に求める。そこでも同じように剰余aが生まれる。この剰余とはまさにマルクスの剰余価値(ラカンの剰余享楽(対象a)である。商売人の隠された真理のポジション(左下隅)にある主人S1は資本(貨幣)である(具体的には銀行であったり株主であったりするだろう)。生み出された剰余価値aは再投資されなければ事業は破綻する。こうして資本S1の無限の運動のサイクルが永遠に続く。ここではマルクスの「守銭奴」、あるいは価値形態論を想いだすべきだろう。


「金儲け」の論理、あるいは守銭奴(ヴァレリー、マルクス)より
マルクスが資本の考察を守銭奴から始めたことに注意すべきである。守銭奴がもつのは、物(使用価値)への欲望ではなくて、等価形態に在る物への欲動――私はそれを欲望と区別するためにフロイトにならってそう呼ぶことにしたいーーなのだ。別の言い方をすれば、守銭奴の欲動は、物への欲望ではなくて、それを犠牲にしても、等価形態という「場」(ポジション)に立とうとする欲動である、この欲動はマルクスがいったように、神学的・形而上的なものをはらんでいる。守銭奴はいわば「天国に宝を積む」のだから。(柄谷行人『トランスクリティーク』)
マルクスが価値形態論を完成させたと考えた光りまばゆい貨幣形態の姿では、商品の価値形態はけっして完成していないことを知るはずである。まさに価値形態論の構造じたいが、みずからの完成を拒み、みずからに無限のくりかえしを強いることになるのである。そして、価値形態論のこの無限のくりかえしの極限において、われわれは黄金色の輝きを失い、商品の世界のなかにあって商品よりもはるかにみすぼらしい姿になった貨幣形態をみいだすことになるだろう。だが、そのみすぼらしい姿にこそ本来の意味での「貨幣の謎」が隠されているはずである。(岩井克人『貨幣論』)



主人のディスクールと資本家のディスクールの説明の形式的基本構造は次の通り。





agentが話し手であり、otherが聞き手、そして生産物がある。agentの話し手はラカンによればサンブラン(見せかけ)であって、発話の真の動因は、左下のtruth真理である。主人のディスクールでは、言語によって分裂した主体、資本家のディスクールでは資本(貨幣)ということになる。



上に書かれたものはもっとも基本的な読み替えであって、読み方はいくらでもある。

王殺しなどかつて起りはしなかったかのごとくに振舞いながら、記憶喪失に徹すること。また一方で、忘れられた王殺しにもかかわらず、空位になった王座に誰もが自分を位置づける権利だけはあると確信すること。(蓮實重彦『物語批判序説』P195)

これは蓮實重彦がサルトルやフーコー、あるいはフローベールを引用しつつ「現代的言説」を説明する文脈での文だが、王殺しのあとは空位となって王座に位置づける権利だけはあるとするのが資本家でもあり、まがいものの真理や美を体現しようとする「知識人」、「芸術家」でもあるのだ。これは蓮實重彦の70年代から80年代末にかけての大きな主題のひとつである。

他人の言葉によって自分の言葉を二重に奪われた者たちが、その奪われたさまを隠蔽すべく提起する「問題」、それをたとえばジャン=ポール・サルトルであれば、大革命によって王殺しを演じた自分にうろたえるブルジョワジーたちが、王の代理として捏造した新たな幻想と呼ぶかもしれないし、あるいは神の死に続いて起った必然的な事態と呼べば、話はより明確であるかもしれない。また、神の死は、それと同時に個人の自己同一性を崩壊させたのだといいそえれば、さらにわかりやすいということもあるだろう。(同 P120
現代的な言説とは、原則的に、また権利の点で、誰が何を語ることも可能であり、特権的な知が中心的な主題と叙述の秩序を正当化することのない、匿名的な複数性によって定義づけられる。(同 P132

これらの言葉から、分裂した主体($)は、王殺しなどなかったかのようにして真理を抑圧し(左下のS1)、テクストの解釈学(S2)に耽って(不可能)、廃棄物としての糞(a)を生み出すが、それはテクストの真理(S1)とは永遠に合致しない(永遠のインポテンツ)と読むことができないか(実はこの言い方はやや自信がないが、いまは敢えて思いつきのようにして誤読の試みをしてみる。いっそう自虐的にいえば、解釈学の典型的な見本として糞としての対象aを生成させているとしてもよい)。


ただし蓮實重彦の「現代的言説」の意味するところが、そのままラカンの資本主義の言説を意味するとは、断言はしないでおこう。そもそもポスト・モダンによって「主人」が死んだのではなく、主人はとっくの昔に死んでいるのに、いまさら主人のディスクールとはなんだ、とっくに現代的ディスクールの時代になっているのに、という考え方がくり返されているのだから。

フーコーにとって「ポストモダン」という問題は存在しない。(……)現在のエピステーメーの領域にはいかなる断絶の兆候もない。いわゆる「大理論」の成立は何の変化ももたらさず、またそれらの死と呼ばれるものも、全く効力がない。考古学者フーコーにとって、「ポストモダン」とは、いわば誤まった問題なのである。(蓮實重彦『フーコーと《19世紀》』)
僕自身としては、真実をめぐる言説が「大いなる物語」の中に錨をおろしていた時代をモダンと呼び、その「大いなる物語」の機能失調が明らかになって以後の時代をポスト・モダンとよぶことには反対であり、かりに「大いなる物語」が近代=モダンの言説だと呼ぶなら、その成立は、真実とは無縁の「小さな物語」の発生と同時代的であり、あるいはその「小さな物語」こそが「大いなる物語」の伝播に役立っていたという視点をとっているので、ポスト・モダンをモダンに続く時代ととることにも反対です……(『闘争のエチカ』)


さていずれにせよ、Bryantの提案する資本主義の世界の言説は、主人の言説が「神経症」の時代のディスクールであるならば、それとはまったく異なった世界を開くものだろう。主人の質が変わってしまったのに、ラカンの旧来の「主人の言説」に固執する必要は毛筋ほどもない。主人は父権制時代の主人から、いつのまにか猥雑な享楽的主人に変わっているのだ(もっともラカンの「主人」には、享楽的主人も含まれているという議論もあるだろう、だがもしそうなら、ラカンのいう主人の言説は消滅しつつあり、資本家の言説がそれにとってかわるというのは、なにを意味するのだろうか)。

選挙にも、科学にも「主人」はいない。
要は専門家のもっている専門てほんとに狭くって、世界に数人〜数十人しか分かる人がいない。それでも業界外に位置づけを説明するために自分が数千人から数十万人のコミュニティに属しているように説明する。素人から期待される質問に答えようとするととたんに擬似専門家になる。(震災からたしか半年後ぐらいの鈴木健ツイート)

ヒステリーのディスクールとして当り散らす主人もいない。主人がいなければ、どうやってデモ運動ができるだろう。実は標的である主人は「資本(の欲動)」なのに。

《資本主義社会では、主観的暴力((犯罪、テロ、市民による暴動、国家観の紛争、など)以外にも、主観的な暴力の零度である「正常」状態を支える「客観的暴力」(システム的暴力)がある。(……)暴力と闘い、寛容をうながすわれわれの努力自体が、暴力によって支えられている。》(ジジェク『暴力』)
Everywhere, it seems, elections are in question, there is cynicism towards elected officials, and subjects profoundly doubt the truthfulness of news sources. This even bleeds into the sciences, where people regularly express doubts about global warming, for example, claiming that the scientists are motivated to claim certain things based on their desire to secure grant funding. As a consequence, individual agents begin to pick and choose their own news and science according to what accords with their beliefs and tastes. In short, science and the news are no longer experienced as an objective Third that is independent of the whim of individuals and that adjudicates disputes. Trust in these institutions and figures increasingly becomes overwhelmed by doubt.(……)

hysteric has also become ineffectual and has largely disappeared (see Boltanski and Chiapello 2007). Where the master-signifier disappears or goes underground, the politics of the hysteric disappears insofar as it loses its target and no longer knows where to turn.(Levi R. Bryant)

・歴代の経団連会長は、一応、資本の利害を国益っていうオブラートに包んで表現してきた。ところが米倉は資本の利害を剥き出しで突きつけてくる……

・野田と米倉を並べて見ただけで、民主主義という仮面がいかに薄っぺらいもので、資本主義という素顔がいかにえげつないものかが透けて見えてくる。(浅田彰 『憂国呆談』2012.8より)
if the decline of the discourse of the master is not simply a fall into social psychosis but the emergence of a new form of social relations, we can expect that other discourses, other social relations, will emerge to respond to the precariousness of the contemporary social structure. (『Žižek’s New Universe of Discourse: Politics and the Discourse of the Capitalist』Levi R. Bryant)


「主人のディスクールから資本家へのディスクールへ」のヴァリエーションとしては、

・神経症のディスクールから、ふつうの精神病のディスクールへ
・欲望のディスクールから、欲動(享楽)のディスクールへ
・自我理想のディスクールから、猥雑な超自我のディスクールへ

などが挙げられる。

ようするにシロウトの気楽な思いつきで挙げているだけなのは断わるまでもないが、やはり誤解を招くかもしれないので、断わっておく。しかもジジェクやその朋友たちは資本の論理への言及はふんだんにあるのだが、なぜか資本家のディスクールへの言及は不思議にないのだ。

まるでホームズの対話(『白銀号事件』)を思い出させるかのようだ。

「そのほかに何か、私の注意すべきことはないでしょうか」
「あの晩の、犬の不思議な行動に注意なさるといいでしょう」
「犬は何もしなかったはずですが」
「そこが不思議というのです」とホームズは言った。

これが、探偵が殺人犯を捉えるやり方だ。殺人犯が消せなかった行為の痕跡を見つけ出すことによってだけでなく、痕跡がないこと自体を痕跡として捉えることによって、犯人を捕まえるのである。したがって、「知っているはずの主体」としての探偵の機能を、次のように規定することができようーーー犯行現場にはさまざまな手がかりが含まれている、つまり(精神分析過程における分析主体の「自由連想」のように)明白なパターンを欠いた無意味な細部が散乱しているが、探偵は、彼がその場にいるというただそれだけで、それらすべての細部が遡及的に意味を得るであろうことを保証するのである。いいかえれば、探偵の「全知」は転移の結果である(探偵にたいして転移関係にある人物は、何よりもなず、ワトソンに類する助手である。助手は探偵に情報を提供するが、助手自身にはその情報の意味がまったくわからない)。そして、「意味を保証する者」としての探偵のこの特別な立場を出発点にすることによってはじめて、われわれは探偵小説の循環的構造を明らかにすることができるのである。(ジジェク『斜めから見る』)

ーーもちろんこれもなかば冗談であるぜ。

あだしごとはさておき。

上に、《自我理想のディスクールから、猥雑な超自我のディスクールへ》としたが、ここでの「自我理想」は象徴界、「超自我」は現実界とする解釈でのものである(フロイト的な自我理想≒超自我ではなく)。

ーー《楽しみを強制するものはない。超自我を除いて。超自我は享楽の命令である。「楽しめ!」》(「セミネールⅩⅩ」)

ラカンはここでは享楽と超自我の間に等号をおいている。もともと《超自我とは、われわれに無理な要求を次々と突きつけ、われわれがその要求にこたえられないのを大喜びで眺めている、残酷でサディスティックな倫理的審級であり、ここでの楽しむというのは、自分の自発的傾向に従うことではなく、むしろ、いわば気味の悪い、歪んだ倫理的義務としておこなうものである》(ジジェク『ラカンはこう読め』)。

フロイトは、主体を倫理的行動に駆り立てる媒体を指すのに、三つの異なる術語を用いている。理想自我、自我理想、超自我である。フロイトはこの三つを同一視しがち、……だがラカンはこの三つを厳密に区別した。

<理想自我>は主体の理想化された自我のイメージを意味する(こうなりたいと思うような自分のイメージ、他人からこう見られたいと思うイメージ)。

<自我理想>は、私が自我イメージでその眼差しに印象づけたいと願うような媒体であり、私を監視し、私に最大限の努力をさせる<大文字の他者>であり、私が憧れ、現実化したいと願う理想である。

<超自我>はそれと同じ媒体の、復讐とサディズムと懲罰をともなう側面である。

この三つの術語の構造原理の背景にあるのは、明らかに、<想像界><象徴界><現実界>というラカンの三幅対である。理想自我は想像界的であり、ラカンのいう<小文字の他者>であり、自我の理想化された鏡像である。自我理想は象徴界的であり、私の象徴的同一化の点であり、<大文字の他者>の中にある視点である(私はその視点から私自身を観察し、判定する)。超自我は現実界的で、無理な要求を次々に私に突きつけ、なんとかその要求に応えようとする私の無様な姿を嘲笑する、残虐で強欲な審級であり、私が「罪深い」奮闘努力を抑圧してその要求に従おうとすればするほど、超自我の眼から見ると、私はますます罪深く見える。見世物的な裁判で自分の無実を訴える被告人についてのシニカルで古いスターリン主義のモットー(「彼らが無実であればあるほど、ますます銃殺に値する」)は、最も純粋な形の超自我である。

これらの厳密な区別から、ラカンにとって、超自我は「その最も強制的な要求に関しては、道徳意識とはなんの関係もありません」。それどころか超自我は反倫理的な審級であり、われわれの倫理的裏切りの烙印である。(ジジェク『ラカンはこう読め』)

そして資本の欲動とはこのようなものである。

資本主義の「正常な」状態は、資本主義そのものの存在条件のたえざる革新である。資本主義は最初から「腐敗」しており、その力をそぐような矛盾・不和、すなわち内在的な均衡欠如から逃れられないのである。だからこそ資本主義はたえず変化し、発展しつづけるのだ。たえざる発展こそが、それ自身の根本的・本質的な不均衡、すなわち「矛盾」を何度も繰り返し解決し、それと折り合いをつける唯一の方法なのである。したがって資本主義の限界は、資本主義を締めつけるどころか、その発展の原動力なのである。まさにここに資本主義特有の逆説、その究極の支えがある。資本主義はその限界、その無能力さを、その力の源に変えることができるのだ。「腐敗」すればするほど、その内在的矛盾が深刻になればなるほど、資本主義はおのれを革新し、生き延びなければならないのである。(ジジェク『イデオロギーの崇高な対象』)

たとえば、3.11以後の除染ビジネスは己れの内在的矛盾を取り込む資本の「死の欲動」の典型的な現象であろう。

ラカンは「エクリ」のなかで、《すべての欲動は、実質的に、死の欲動であるevery drive is virtually a death drive (Ec, 848)》、と書いている。

フロイトの「死の欲動」(……)。ここで忘れてはならないのは「死の欲動」は、逆説的に、その正反対のものを指すフロイト的な呼称だということである。精神分析における死の欲動とは、不滅性、生の不気味な過剰、生と死、生成と腐敗という(生物的な)循環を超えて生き続ける「死なない」衝動である。フロイトにとって、死の欲動といわゆる「反復強迫」とは同じものである。反復強迫とは、過去の辛い経験を繰り返したいという不気味な衝動であり、この衝動は、その衝動を抱いている生体の自然な限界を超えて、その生体が死んだ後まで生き続けるようにみえる。(ジジェク『ラカンはこう読め!』)

「死の欲動」とは、ジジェクが別の書(『斜めから見る』)で語っている例をあげれば、アンデルセンの童話「赤い靴」でもある。少女が赤い靴を履くと、靴は勝手に動き出し、彼女はいつまでも踊り続けなければならない。靴は少女の無制限の欲動ということになる。

……ラカンが言わんとしたのは、欲動の真の目的はその終点(充分な満足)ではなく、その目標である。欲動の究極的目標は、たんに欲動それ自身が欲動として再生産されること、つまりその循環的な道に戻り、いつまでも終点に近づいたり遠ざかったりしつづけることである。享楽の真の源泉はこの閉回路の反復運動である。(カオス理論における「ストレンジ・アトラクター」とラカンの<対象a>  ジジェク



さてすこしまえに戻って、再度くり返せば、主人の死などはとっくの昔に起っているとするフーコーや蓮實重彦の言葉がある。もちろんマルクスの『資本論』がなにを語っているのかは、わたくしの場合寡聞にしろ、岩井克人や柄谷行人、ジジェクの言葉から窺われるし、Bryantの論文Žižek’s New Universe of Discourse: Politics and the Discourse of the Capitalist』にもマルクスの引用が比較的豊富である。

蓮實重彦の挑発を口真似すれば、いまごろとやかくいうのは、《王殺しなどかつて起りはしなかったかのごとくに振舞いながら、記憶喪失に徹》していたためだ、と。あるいは、どうしてマルクス、ニーチェ、フロイトの三幅対のあと一世紀も経て、「主人」などと呑気なことを語っているのか、としてもよい。


※参考:ドゥルーズのマゾッホ論に附された蓮實重彦の小論「問題・遭遇・倒錯」より(1973)。


人は、新たな思想家の登場に立ちあるごとに、その思想家の思想を一つの疑問符として想定し、その疑問を正しいコンテキストの中に据えてこれを把握しようとする仕草に馴れ親しんでいる。だが、巨大なる疑問符が消滅した以後の白々とした地平には、もはや疑問符が疑問符たりうる条件は残されていないのだから、それが不毛な試みであることは自明の理でありながら、あえて不可能と戯れようとする意図からではなく、ただ驚くほかはない楽天的な姿勢で、新たな思想家の思想を解明しようと躍起になる。それが、「神の死」を徹底した虚構だといいはる人びとによって遂行されるのであればまだ救われもしようが、「神の死」はおろか、「不条理」を、フーコーの「人間の死滅」を当然のこととしてうけ入れている人びとの口からもれてくるもっともらしい言葉であったりすると、それこそ絶句するほかはない。なぜならそれは、「神の死」を無造作に口にしながら、しかも「神の死」をひたすら隠蔽せんとする無意識の仕草にほかならないからである。そんな仕草があたりにまき起こすものはといえば、疑問符の消滅を前にする存在が捉えられる失語症をめぐって、その徹底した絶句だけをこれまた徹底した饒舌によって註釈している無自覚な言葉の崩壊である。ミシェル・フーコーの『知の考古学』が途方もなく読みにくいのは、まさに絶句そのものをなぞろうとする言葉たちが、言葉の輪郭を極端に曖昧にし、その内実を可能なかぎり希薄にしようとしているからにほかならず、それ故にこそあの書物は、たとえようもなく美しいのだ。だからフーコーは、難解な思想を語る難解な思想家なのではない。巨大なる疑問符の消滅とともに、思想も思想家も消滅したという事実を、シュペーグラー流のあのうぬぼれきった饒舌によってではなく、最も絶句に近くあろうとする言葉たちの沈黙との戯れによって、身をもって示しているからにほかならない。