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2014年5月27日火曜日

五月廿七日 「ユーモア」と「超自我」(柄谷行人とフロイト)

今回も前投稿に引き続き、フロイトの『ヒトはなぜ戦争をするのか』に関連する。

柄谷行人のエッセイ「超自我と文化=文明化の問題 には、このアインシュタインとフロイトの往復書簡への言及がある。もっとも「ヒトはなぜ戦争をするのか Why War?」には超自我という語句は一度も出てこない。もっぱらエロスとタナトス(攻撃欲動)、あるいは支配欲動Bemächtigungstriebである。

柄谷行人の『フロイト全集』(岩波書店)「月報」に書かれたらしいこの文章は、今読み返せば、やや疑念を抱かざるをえない叙述がある。

超自我の…性質は何よりも、「ユーモア」という論文(一九二八年)において端的に示されている。フロイトによれば、ユーモアとは、超自我が苦境におかれた無力な自我に「そんなことは何でもないよ」と励ますものなのである。

これは柄谷行人への疑念というよりフロイトのユーモア解釈への疑念である。それはドゥルーズによって示されている。

われわれは、ユーモアというものがフロイトの思惑どおりに強力な超自我を表現するものとは思わない。たしかにフロイトは、ユーモアの一部をなすものとして自我の二義的な特典の必要を認めていた。彼は、超自我の共犯による自我の侮蔑、不死身性、ナルシスムの勝利ということを口にしていた。ところが、その特典は二義的なものではない。本質的なものなのである。だから、フロイトが超自我について提示するイメージーー嘲笑と否認を目的としたイメージを文字通りうけとるのは、罠にはまることにほかならない。超自我を禁止するものが、禁断の快楽獲得のための条件となるのだ。ユーモアとは、勝ち誇る自我の運動であり、あらゆるマゾヒスト的帰結を伴った超自我の転換、あるいは否認の技術なのである。というわけで、サディスムに擬マゾヒスム性があったように、マゾヒスムにも擬サディスム性が存在するのだ。自我の内部と外部とで超自我を攻撃するこのマゾヒスムに固有のサディスムは、サディストのサディスムとはいかなる関連も持ってはいない。(ドゥルーズ『マゾッホとサド』P154 蓮實重彦訳)

『マゾッホとサド』に附された蓮實重彦の解説にはこうある。

ドゥルーズは、精神分析の領域が抽象的な変質をこうむっていた「父親」と「母親」のイメージを修正しつつ、法学的ディスクールをかりて、マゾッホの契約的思考とユーモア、サディスムの制度的思考とイロニーというかたりで、「否定」と「否認」の展開ぶりを明らかにする。それは、とりもなおさず、異質な衝動や本能のあいだに転位は起こりえないと説くフロイトが、なおサディスムを起点としてマゾヒスムの生成を説き続けたことの矛盾を明らかにする役割を果たしている。だが、そのフロイト的自己撞着の指摘によってドゥルーズは精神分析の風土と訣別するのではなく、かえってその領域に深くとどまり、まさに精神のフロイト的基本構造としての「自我」と「超自我」の関係にマゾヒスムとサディスムが対応しているが故に、二つの倒錯症状がたがいに還元性を持ちえない独自の世界であることが立証されるのだ。

フロイト自身の叙述は次の通り。

誰かが他人にたいしてユーモア的な精神態度を見せるという場合を取り上げてみると、きわめて自然に次のような解釈が出てくる。すなわち、この人はその他人にたいしてある人が子供にたいするような態度を採っているのである。そしてこの人は、子供にとっては重大なものと見える利害や苦しみも、本当はつまらないものであることを知って微笑しているのである。(フロイト「ユーモア」 フロイト著作集3 P408)
ユーモアとは、ねえ、ちょっと見てごらん、これが世の中だ、随分危なっかしく見えるだろう、ところが、これを冗談で笑い飛ばすことは朝飯前の仕事なのだ、とでもいうものなのである。

おびえて尻込みしている自我に、ユーモアによって優しい慰めの言葉をかけるものが超自我であることは事実であるとしても、われわれとしては、超自我の本質について学ぶことがまだまだたくさんあることを忘れないでおこう。(……)超自我がユーモアによって自我を慰め、それを苦悩から守ろうとすることと、超自我は両親が子供にたいして持っている検問所としての意味を受けついでいるということとは矛盾しないのである。(同P411)

ドゥルーズはマゾッホのマゾヒズムを調査するなかで、ユーモアは超自我の機能ではないとするのだが、たとえばフロイトの『マゾヒズムの経済的問題』には次のような叙述がある。

マゾヒストは小さな、頼りない、依存した、ひとりでは生きてゆくことのできない子供、しかもとくにきかん気な子供として取り扱われることを欲している (フロイト『マゾヒズムの経済的問題』人文書院旧訳 p302)

「きかん気な」はこの旧訳では「いたいけな」となっているが、英訳を参照して「きかん気な」に変更した。
masochist wants to be treated like a small and helpless child, but, particularly, like a naughty child. (Freud - Complete Works. Ivan Smith 2000, 2007, 2010)

独語はまったく不案内の身だがおそらくこのあたりなのだろう。

der Masochist wie ein kleines, hilfloses und abhängiges Kind behandelt werden will, besonders aber wie ein schlimmes Kind.


訳文のことはこの際どうでもよいが(いや全く逆の意味に受け取れる誤訳ではあるが)、さて、すくなくともマゾヒストのユーモアとは、超自我によるものだという断定は疑ったほうがよいのではないか。むしろ自我が横にずれることによって生じるのではないだろうか。それは「きかん気な」という形容詞が象徴する。超自我の命令とは懲罰的なものであり、受け手が「きかん気な」態度に出る(あるいはドゥルーズのマゾッホ論では契約的な態度を取る)とは相容れないのではないか。

サド=マゾヒスムは、(……)誤って捏造された名前の一つである。記号論的怪物なのだ。みかけは両者に共通するかにみえる記号と遭遇したとき、その度ごとに問題となっていたのは、還元不能の徴候へと解離しうる一つの徴候群だったのである。要約しておこう。

①サディスムと思弁的=論証的能力、マゾヒスムの弁証法的=想像的能力。
②サディスムの否定性と否定、マゾヒスムの否認と宙吊り的未決定性。
③量的な繰り返しと、質的な宙吊り。
④サディストに固有のマゾヒスム、サディストに固有のサディスム、そして両者は決して結合しない。
⑤サディスムにおける母親の否定と父親の膨張、マゾヒスムにおける母親の「否認」と父親の廃棄。
⑥二つの場合における物神的な役割と意味の対立関係、幻影についても同様の対立関係。
⑦サディスムの反審美主義、マゾヒスムの審美主義。
⑧一方の「制度的」な意味、他方の契約的な意味。
⑨サディスムにおける超自我と同一視、マゾヒスムにおける自我と理想化。
⑩性的素質の排除と再強化の対立的二形態。
⑪全篇を要約するかたちで、サド的意気阻喪とマゾッホ的冷淡さとの根源的命題。

以上の十一の命題は、サドとマゾッホの方法の文学的な違いにおとらず、サディスムとマゾヒスムの幾多の違いをも明白に表明すべきものであろう。(『マゾッホとサド』p163)

柄谷行人自身、1992年に書かれた論では次のようにしている。

それがメタレベルに立つのは、同時にメタレベルがありえないことを告げるためである。ヒューモアは、「同時に自己であり他者でありうる力の存することを示す」(ボードレール)ものである。(柄谷行人『ヒューモアと唯物論』)

…………

さて、次の疑念は、柄谷行人自身の記述である次の文にかかわる。

戦争を拒絶するのに必要なのは、罪の感情よりも恥の感情、つまり、そんな下品で野蛮なことはしたくない、という嫌悪感なのである。(『超自我と文化=文明化の問題』)

これも、もともとはフロイトの超自我=自我理想とする叙述(『自我とエス』)に由来するのだが、ラカンやジジェクによれば、超自我=自我理想ではない(もっとも、柄谷行人の「超自我」は標準的な解釈であり、ラカン派視点からみれば異和があるだろう、ということに過ぎない。たとえば日本では中井久夫も、ほぼ柄谷行人が使う意味での「超自我」という語を使っている)


これらはフロイトの『自我とエス』にて、「超自我」は「自我理想」と等号がおかれているためやむえないところがある。いや、ほとんど等号が置かれている、としておこう。すくなくとも第三章の表題は「自我と超自我(自我理想)」となっている。

だがフロイト自身、「自我理想」の二面性を指摘している。

エディプスコンブレクスに支配された性的発達段階の最も一般的な結果として、自我のうちの沈殿物を仮定しうる。それは、何らかのかたちで両立することができる、これら二つの同一化〔父同一化と母同一化〕を生み出すものである。こうして生じた自我変容は、その特権的地位を保ち、自我理想ないし超自我として、それ以外の自我の内容に対立するようになる。

しかし、超自我はエスが最初に対象を選択したさいのたんなる残存物ではなくて、その対象選択にたいする精力的な反動形成の意味ももっている。その自我との関係は「お前はこうで(父のようで)あらねばならない」という勧告につきるものではなく、「お前がこうで(父のようで)あることはゆるされない」すなわち、父のなすことのすべてを行ってはならない、という禁制をもふくんでいる。すなわち多くのことが父のために残されている。自我理想のこの二面は、自我理想がエディプス・コンプレックスの抑圧の労をおわされており、それどころか自我理想の成立が、そもそもこの急転によるものである。(『自我とエス』フロイト著作集 6 P280からだが「フロイト翻訳正誤表」の指摘により一部変更)


90年初めのまだ若いジジェクによれば、フロイトの『自我とエス』を読むポイントのひとつは、次のようである。

フロイトの「自我とエス」というタイトルの見事なアイロニーは、この論文の真の理論的革新を含んでいる決定的に重要な概念を除外していることである。本来ならば、このタイトルは「自我とエスとの関係における超自我」となるべきであろう。

したがって、無意識は野蛮で無法な欲動の「貯水池」であるという通常の考え方は捨てなければならない。無意識は同時に(何よりもまず、とすら言いたくなる)、外傷的で、残酷で、気まぐれで、「理解できない」、「不合理な」、法のテクスト、すなわち一連の禁止と命令の、断片の集積でもある。いいかえれば、「正常な人間は、自分で考えているよりもはるかに反道徳的であるだけでなく、自分が知っているよりもはるかに道徳的である、という逆説的な命題を提出」しなければならないのである。これは『自我とエス』からの引用だが、この「考えている」と「知っている」の区別は、正確には何を意味しているのだろうか。まるでちょっと筆が滑っただけのように見えるし、実際、この部分に添えられた註ではこの区別は失われている。その註において、フロイトは次のように述べているーーこの命題は「たんに、人間の性質は、善に関しても悪に関しても、自分で考えているglaubtよりも、つまり自我がその意識的知覚を通して気づいているよりも、はるかに程度が大きい」ということを言っているのだ、と。ラカンはわれわれに教えてくれたーーこのように一瞬あらわれてはその後すぐに忘れられる区別には最大限の注意を払わなければならない、なぜならそれらを通して、フロイトの決定的に重要な洞察を探り当てることができるからだ、フロイト自信はその洞察の重大な意義に気づいていないのだ、と(一例だけ挙げるならば、ラカンが、これと同様の、自我理想と理想自我との「口がすべったかのような」区別から何を引き出したかを思い出してみようではないか)。

では、「考えている」と「知っている」との束の間の区別は何を意味しているのか。結局のところ、答えは一つしかない。もし人間が、自分が(意識的に)考えているよりも反道徳的で、(意識的に)知っているよりも道徳的だとしたら、いいかえれば、もしエス(禁じられた欲動)に対する彼の関係が「考えている(考えていない)」という関係で、超自我(とその外傷的な禁止と命令)に対する関係が「知っている(知らない)」という関係、つまり無知の関係だとしたら、次のように結論しなけらばならないのではなかろうか。すなわち、エスそのものは抑圧された無意識的な考えからなり、超自我は無意識的な知からなる(その知は、主体の知らない逆説的な知である)、と。すでに見たように、フロイト自身は超自我を一種の知と見なしている(「超自我は無意識的なエスについて自我よりも多くを知っている」)。(『斜めから見る』)

そして自我理想と超自我の関係は次のように書かれることになる。

フロイトは、主体を倫理的行動に駆り立てる媒体を指すのに、三つの異なる術語を用いている。理想自我、自我理想、超自我である。フロイトはこの三つを同一視しがち、……だがラカンはこの三つを厳密に区別した。

<理想自我>は主体の理想化された自我のイメージを意味する(こうなりたいと思うような自分のイメージ、他人からこう見られたいと思うイメージ)。

<自我理想>は、私が自我イメージでその眼差しに印象づけたいと願うような媒体であり、私を監視し、私に最大限の努力をさせる<大文字の他者>であり、私が憧れ、現実化したいと願う理想である。

<超自我>はそれと同じ媒体の、復讐とサディズムと懲罰をともなう側面である。
『ラカンはこう読め』2006)

ここに「同じ媒体の」と書かれているように、「自我理想」と「超自我」を厳密に分けているわけではないように思えるが、続いて次のように書かれることになる。

この三つの術語の構造原理の背景にあるのは、明らかに、<想像界><象徴界><現実界>というラカンの三幅対である。理想自我は想像界的であり、ラカンのいう<小文字の他者>であり、自我の理想化された鏡像である。自我理想は象徴界的であり、私の象徴的同一化の点であり、<大文字の他者>の中にある視点である(私はその視点から私自身を観察し、判定する)。超自我は現実界的で、無理な要求を次々に私に突きつけ、なんとかその要求に応えようとする私の無様な姿を嘲笑する、残虐で強欲な審級であり、私が「罪深い」奮闘努力を抑圧してその要求に従おうとすればするほど、超自我の眼から見ると、私はますます罪深く見える。見世物的な裁判で自分の無実を訴える被告人についてのシニカルで古いスターリン主義のモットー(「彼らが無実であればあるほど、ますます銃殺に値する」)は、最も純粋な形の超自我である。

これらの厳密な区別から、ラカンにとって、超自我は「その最も強制的な要求に関しては、道徳意識とはなんの関係もありません」。それどころか超自我は反倫理的な審級であり、われわれの倫理的裏切りの烙印である。(ジジェク『ラカンはこう読め』)


さらにはまた、2012年に上梓された書にて、「罪の感情は、超自我に由来し、恥の感情は自我理想に由来する」という意味に取れる文がある。

gaze–shame–Ego Ideal, and voice–guilt–superego. (Slavoj Žižek: Presence『LESS THAN NOTHING』 2012)

この解釈であるなら、柄谷行人が「超自我」を語るなかでの《罪の感情よりも恥の感情、つまり、そんな下品で野蛮なことはしたくない、という嫌悪感》という文章における《恥の感情》は自我理想に由来することになる。

さらにはジジェクは同じ書で、死の欲動と超自我の関係を、対象aと関連付けて書いている箇所がある(Slavoj Žižek: The Objet a Between Form and Content)。
Perhaps this double status of the objet a also provides a clue to the relationship between the death drive and the superego.…

One path to take here would be to link this duality of the superego and the drive to the duality in the status of the objet petit a: is not the “superego,” as the name for the excess of the drive, the object in its aspect of material reality, the foreign intruder that “drives me crazy” with its impossible requests; and is not the OwB the object in its aspect of a purely formal structure? Both aspects display the same self‐propelling structure of a loop: the more the subject obeys the superego, the more he is guilty, caught up in a repetitive movement homologous to that of the drive circulating around its object. The passage from the first to the second aspect is itself structurally homologous to that of the Rabinovitch joke, or of the problem which is its own solution: what, at the level of the superego, appears as a deadlock (the more I obey, the more I am guilty …) turns into the very source of satisfaction (which is not the object of the drive, but the very activity of repeatedly encircling it).19

もっともこのジジェク=ラカンの解釈も異論の余地があるのかもしれない。


ここでの文脈とはあまり関係がないが、上の文に附された注に、フロイトの《愛は抑止された欲望から生まれる》をめぐって、愛と欲動の関連が書かれている文があり、これはしばしば語られてきた「標準的な」フロイト=ラカン派の愛の解釈でありながら、その表現がおもしろいので附記しておこう。

19) According to Freud, love arises out of the inhibited desire: the object whose (sexual) consummation is prevented is then idealized as a love object. This is why Lacan establishes a link between love and drive: the space of the drive is defined by the gap between its goal (object) and its aim, which is not to directly reach its object, but to circulate around the object, to repeat the failure to reach it—what the drive and love share is this structure of inhibition.

禁止された愛の対象が理想的なのであり、ひとはその対象aのまわりを永遠的に反復する。禁止されていなかったら「飛んで火にいる夏の虫」であり、性交渉が終ったら熱烈な愛はすぐさま死に終る(いや、シツレイ! そういう傾向が多い、とだけしておこう)。

欲望が、「飛んで火に入る夏の虫」であるなら、欲動は、灯火にむれる蛾の灯りを目ざしてはそれてゆく、その反復運動である(ロメオとジュリエット、ウェルテル……)。