早野龍五:笑えないですよね。だって、知事が県内産の食材安全ですと言って、どうして県庁の食堂は県外産の食材使うのか。だから依然として地元食材を使った定食を長期間測るプロジェクトというのが頓挫しています。でも、僕は、まだ諦めていません。どこかでできないかと思っています。(早野氏 ロングインタヴュー2012年08月27日)
未だに「福島のコメは…」とか言っている人は,昨年1000万袋以上の全量全袋検査で,100Bq/kg超が71袋しか出なかった(それらは廃棄)事実も,その意味も,その理由も,その背後にあった努力も知らない(ないしは知らないふりをしている)hayano 2013-08-22ツイート
・いわき市の給食はまだ北海道産のコメを使っていたのか。それでいて、コメを市外に販売してるのか。市外の消費者としては、とうてい納得がいかない。市外に販売するなら、給食に使え。給食に使わないなら、市外に販売するな。それくらいの矜持(きょうじ)を持て。
・そんなことだから、福島は信用されないんだ。
・子どもの給食に地元産のコメを出せないなら、市外に出荷するな。出荷せずに、東京電力に損害賠償しろ。
ーーこのところ「美味しんぼ」批判で賑わっているが、ここではそれをめぐってとやかくいうつもりはない。
ところで<あなた>に小さな子供がいるとして、その子供に「安全な」福島産米を継続して与える選択をするだろうか。
「テクノクラシーはこのような保障(原子力の安全性)を与えることに関しては、無能である。その理由は本質的なもので、状況によるものではない。それは、テクノクラシーは、さまざまな人間的現象のうち非合理的と判断したことには意味を与えることができないということなのだ。」
「とりわけ、専門家の狭い意味での合理主義的では、人間が、人類に対し、最大限の悪をなすために自殺することもできるなど予想だにできないのだ。」(デュピュイ「テクノ・セントリズムの終焉」)
あだしごとはさておき、--すなわち、上の文脈とは、以下は「おそらく」関係がない。
島尾敏雄は「人間魚雷」震洋隊の隊長だった。
もし出発しないなら、その日も同じふだんの日と変るはずがない。一年半のあいだ死支度をしたあげく、八月十三日の夕方防備隊の司令官から特攻戦発動の信令を受けとり、遂に最後の日が来たことを知らされて、こころにもからだにも死装束をまとったが、発進の合図がいっこうにかからぬまま足ぶみをしていたから、近づいて来た死は、はたとその歩みを止めた。
経験がないためにそのどんなかたちも想像できない戦いが、遠巻きにして私を試みはじめる。(島尾敏雄『出発は遂に訪れず』)
ミズーリ号の左舷中央構造物に迫る特攻機の写真がある。凄絶である。なにゆえの特攻だったか。吉田満の『戦艦大和ノ最期』で士官の議論をまとめた臼井大尉は「新生日本にさきがけて散る。本望じゃないか」という。日本は敗北して一から出直すしかないところまできている、そのために死ぬのだ、自分たちの死の意義はそれしかない、というのだ。特攻隊の犠牲の上に今の日本があるとはそういう意味である。それ以外にはおよそ考えられない。
特攻機は無効ではなかった。米艦の乗務員は燃えるガソリンを全身に浴びる恐怖に脅え、戦争神経症を大量に生んだ。しかし、「では降伏しよう」に繋がらない。そして戦勝目前に死ぬほどつまらないことはない。米兵の憎悪を増幅した理由の一つである。
一九四四年末の「天王山」レイテ戦敗北後のわが国に勝算はなかったが、その時点では降伏を言いだせる「空気」はなかった。特攻隊員は時間稼ぎ、それも「空気」が変わる時間を稼ぐために死んだ。私は南米諸国までが次々に対日宣戦を行なう新聞記事を読んで、とうとう世界を敵に回したと思ったが、口に出せることではなかった。
最近暴露されている企業・官庁の不正は、それを知った従業員が「とても言いだせる空気ではなかった」にちがいない。重役会でもだろう。「空気が読める」ことが単純によいことではないのを記して、二〇〇七年のこのコラムを閉じる。(中井久夫「戦艦ミズーリと特攻機」(「清陰星雨」『神戸新聞』2007.12.29)
たえがたきを忍び、忍びがたきを忍んで、朕の命令に服してくれという。すると国民は泣いて、外ならぬ陛下の命令だから、忍びがたいけれども忍んで負けよう、と言う。嘘をつけ! 嘘をつけ! 嘘をつけ!
我々国民は戦争をやめたくて仕方がなかったのではないか。竹槍をしごいて戦車に立ちむかい、土人形のごとくにバタバタ死ぬのが厭でたまらなかったのではないか。戦争の終わることを最も切に欲していた。そのくせ、それが言えないのだ。そして大義名分と云い、また、天皇の命令という。忍びがたきを忍ぶという。何というカラクリだろう。惨めともまたなさけない歴史的大欺瞞ではないか。しかも我等はその欺瞞を知らぬ。天皇の停戦命令がなければ、実際戦車に体当たりをし、厭々ながら勇壮に土人形となってバタバタ死んだのだ。最も天皇を冒涜する軍人が天皇を崇拝するがごとくに、我々国民はさのみ天皇を崇拝しないが、天皇を利用することには狎れており、その自らの狡猾さ、大義名分というずるい看板をさとらずに、天皇の尊厳の御利益を謳歌している。何たるカラクリ、また、狡猾さであろうか。我々はこの歴史的カラクリに憑かれ、そして、人間の、人性の、正しい姿を失ったのである。(坂口安吾 「続堕落論」ーーコビトの国の王様)
最近わかってきたのは、世界は日本の戦後六〇年を評価し、戦前への回帰を好ましくないとしていることである。米国にとって日本は同盟国であると同時に旧敵国である。原爆を持たせないという決意は非常に固い。日米同盟も、日本軍国主義の復活を抑えるという面があると私は思う。少なくとも、日本以外はそう解説しているように見える。イランもイラクもかつての親米国だったのだ。(同「日本が“入院”した一二日間」2007.9.27)
元商船三井監査役、熊谷淑郎氏によれば、戦争末期も末期、昭和二十年七月、病院船「高砂丸」が米駆逐艦の臨検を受けた。乗艦してきた米水兵は皆船尾に翻る日の丸に向かってきちっと敬礼した。若き乗務員の熊谷氏には「目のくらむような驚き」だった。この時期、日本では米英の国旗を踏みつけていた。米国に兜を脱ぎたくなるのはこういう時である。(中井久夫「国際化と日の丸」(神戸新聞 1991.12.26)『記憶の肖像』所収)
もちろん、この叙述は今では(ヴェトナム戦争以後は)、大いに割引して読まねばならない。
アメリカの戦記は個人をヒーローのように描くことでメリハリをつけている。将軍だけでなく一兵卒も英雄として描かれる。特に、第二次世界大戦はアメリカの「よい戦争」であった。ヴェトナム戦争以後、米国に戦記ものが出ないのも何ごとかを意味しているだろう。米国人の多くは個人的には戦争をよいこととは思っていないと私は感じる。アメリカへの移民の秘められた動機として、戦争を繰り返していたヨーロッパからの徴兵忌避があるときいた。(中井久夫「伝記の読み方、愉しみ方」)
ーーとしても更にアメリカ先住民への態度は? とは思いを馳せざるをえないが、ここではこのくらいにしておく。
1994年の時点で(「リテレール」第十一号)、中井久夫は次のように書いている。
中国人は平然と「二十一世紀中葉の中国」を語る。長期予測において小さな変動は打ち消しあって大筋が見える。これが「大国」である。アメリカも五十年後にも大筋は変るまい。日本では第二次関東大震災ひとつで歴史は大幅に変わる。日本ではヨット乗りのごとく風をみながら絶えず舵を切るほかはない。為政者は「戦々兢々として深淵に臨み薄氷を踏むがごとし」という二宮尊徳の言葉のとおりである。他山の石はチェコ、アイスランド、オランダ、せいぜい英国であり、決して中国や米国、ロシアではない。([「日本人がダメなのは成功のときである」『精神科医がものを書くとき Ⅰ』所収広英社)