『失われた時を求めて』のすべては、この書物の生産の中で、三種類の機械を動かしている。それは、部分対象の機械(衝動)・共鳴の機械(エロス)・強制された運動の機械(タナトス)machines à objets partiels(pulsions), machines à résonance (Eros), machines à movement forcé (Thanatos) .である。(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』「アンチロゴスまたは文学機械」宇波彰訳CHAPITRE IV “Les trois machines”)
ここでのタナトスにかかわるとされる「強制された運動の機械」の「強制forcé」は『プルーストとシーニュ』のキーワードだ。
真実の探求者とは、恋人の表情に、嘘のシーニュを読み取る、嫉妬する者である。それは、印象の暴力に出会う限りにおいての、感覚的な人間である。それは天才がほかの天才に呼びかけるように、芸術作品が、おそらく創造を強制するシーニュを発する限りにおいて、読者であり、聴き手である。恋する者の沈黙した解釈の前では、おしゃべりな友人同士のコミュニケーションはなきに等しい。哲学は、そのすべての方法と積極的意志があっても、芸術作品の秘密の圧力の前では無意味である。思考する行為の発生としての創造は、常にシーニュから始まる。芸術作品は、シーニュを生ませるとともに、シーニュから生まれる。創造する者は、嫉妬する者のように、真実がおのずから現れるシーニュを監視する、神的な解釈者である。(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』「思考のイマージュ」の章)
友情には「強制された運動の機械」、すなわちタナトスは起りがたいというのがこの書でのドゥルーズの見解(プルーストを読むことによる)である(これを死の欲動、反復衝動とすることができるかどうかは、異なった見解があるだろう)。
死の本能(欲動)を、仮面や 仮装との関係において理解すれば、 それで十分である。反復とは、 まことに、 構成されながら偽装されるもの、偽装されながらでなければ構成されないも のである。 (ドゥルーズ『差異と反復』財津理訳)
一般に、これら純粋な欲動の具現化は仮面をかぶっている。なぜか。おそらく、<現実界>についてのラカンのいささか謎めいた定義を通して、その答えが得られるだろう。『テレヴィジョン』の中で、ラカンは「<現実界>のしかめ面 grimannce」という表現を用いている。つまり<現実界>は幾層もの象徴化の下に隠された到達不可能の核ではなく、表面上にある。すなわち、いわば現実の過度の変装のようなもの、要するに、映画『バットマン』におけるジョーカーの顔に貼りついた歪んだ微笑みたいなものである。ジョーカーはいわば自分自身の仮面の奴隷になっていて、その盲目的衝動に翻弄されている。死の欲動はこの表面上の歪形の中にあるのであって、その下にあるのではない。本当に怖いのは笑っている間抜けな顔であって、それが隠している歪んだ顔ではない。
このことは日常的に子どもを観察しているとよくわかる。子どもの眼の前でわれわれが仮面をつけたとする。子どもは、その下にはよく知っているわれわれの顔があることを知っているわけだが、それでも怖がる。まるで、言葉ではあらわせない何か邪悪なものが仮面にとりついているかのように。このように仮面が位置しているのは、<想像界>でも<象徴界>でもなく(つまり、われわれが演じている象徴的な役割を示しているのではなく)、<現実界>である。ただし、それはもちろん、<現実界>を現実の「しかめ面」と捉えた上での話しである。(ジジェク『斜めから見る』注より)
◆ドゥルーズ『マゾッホとサド』(蓮實重彦訳)より
快感原則はすべてに支配権をふるいはするが、それを統禦するものではないというべきなのだ。快感原則に例外はないが、その原則には還元しがたい残滓が存在するのである。快感原則に逆らうものは何もないが、その原則の外部にあるもの、異質な何ものかーーつまり彼岸……が存在するということなのである。
続けて、《ここに到って、哲学的考察の必要性が明白なものになる》とし、
まず、一領域を統轄するものを人は原則と呼ぶ。その場合は、原則とは経験的な原理または法である。かくして快感原則は、<エス>にあって心的生活を統轄する(例外なしに)。だが、その領域を原則に従属せしめるものが何かを知ることは、まったく別の問題なのである。それとは違った別の原理、次元が一段上の原則が必要であり、それが、経験的原理へと領域が従属する必然性を説明することになるのだ。超越的とはこの別の原理のことである。快感は、心的生活を統轄する限りにおいて原則なのである。
結局、ドゥルーズの言うのは、死の欲動の一元論なのだ(この見解はジジェクも同じくする。ーーラカンがドゥルーズのマゾッホ論を評価したらしい(参照:荻本芳信氏のラカン勉強会ブログ)。
完全な性的満足の後の状態と死は類似しているし、下等動物では死と交尾とが一致する。これらの生物が生殖行為の中で死ぬのは、満足によってエロスが後退してしまったのちに、死の衝動が自由になって、その目的を遂行することができるからである。(フロイト『自我とエス』)
・jouissance is the path towards death (Lacan S17)
・every drive is virtually a death drive (Lacan Ec, 848)
In terms of the drives, the voice and the gaze are thus related as Eros and Thanatos, life drive and death drive……gaze–shame–Ego Ideal, and voice–guilt–superego.(“LESS THAN NOTHING”)
眼差し、恥、自我理想が死の欲動(タナトス)で、声、罪、超自我が生の欲動(エロス)だって?
ーーみなさん、いろんなことを言って下さる。
認知主義のなかで、私たちは機能不全というパラドクスと遭遇しています。つまり、自覚や人間の心が、ある非経済的な身振り、何らかの失敗を前提としているということです。ですから、認知主義的な進化論という点からは説明できない、ある根本的な機能不全の形態に出くわしてしまうのです。さて、言うまでもなくこの苦境を覆す解決策は、ドイツ観念論と精神分析にこの機能不全に対する特定の用語があるということです。すなわちドイツ観念論では、それは絶対的で自己関係的な否定性であり、精神分析においては死の欲動でしょう。 (…)私がここで主張しているのは、カントからヘーゲルに至るまで分節化されてきたように、この自己関係的な否定性がフロイトの死の欲動という概念と同じようなものを哲学的に意味しているということです。これが私の基本的なパースペクティブです。言いかえれば、フロイトの死の欲動という概念は、生物学的なカテゴリーではなく、哲学的な威厳をもつものなのです。人間の精神の機能を快楽原則、あるいは現実原則などという観点から説明しようとして、フロイトは次第にラディカルで非機能的な要素、説明のつかない否定性という、基本的な破壊力と過剰に気づくようになりました。だからこそフロイトは死の欲動という仮説を提起したのです。この死の欲動というネーミングは、否定性の過剰にまさにぴったりのものだと思います。これはある意味、私の仕事全体にとり憑いて私を悩ましているものだと言えます。つまり、死の欲動というフロイトの概念を、ドイツ観念論において自己関係的な否定性として主題化されているものと一緒に読んでいくことです。 (『ジジェク自身によるジジェク』 )
おそらくジジェクだって、「死の欲動」概念の整合性をもたせるため死の欲動(反復衝拍)中なのだ。
…………
◆プルーストの友情をめぐる叙述のいくつか。
……つまり、友情はきわめてとるに足らぬものであるというのが私の考えかたなので、なんらかの天才と称せられる人たち、たとえばニーチェなどが、これにある種の知的価値を賦与するといった、したがって知的尊敬にむすびつかなかったような友情はこれを認めないといった、そのような素朴な考をもったのは、私の理解に苦しむところなのだ。そうだ、自己への誠実さに徹するあまり、良心にとがめて、ワグナーの音楽と手を切るまでになった人間が、本来つかみどころがなく妥当性を欠く表現形式であり、一般的には行為であるが個別的には友情であるこの表現形式のなかに、真実があらわされうると想像した、またルーヴルが焼けたというデマをきいて、自分の仕事をすてて友人に会いに行き、その友人といっしょに泣く、といったことをやりながら、そこに何ほどかの意味がありうると想像した、そんな例を見ると、私はいつもあるおどろきを感じてきたのである。私がバルベックで若い娘たちとあそぶことに快楽を見出すにいたったのも、そういう考えかたからなので、つまりそんな快楽は、精神生活にとって友情よりも有害ではない、すくなくとも精神生活とはかかわりがないと思われたのであって、そもそも友情なるものは、われわれ自身のなかの、伝達不可能な(芸術の手段による以外は)、唯一の真実な部分を、表面だけの自我のために犠牲にするという努力ばかりを要求するのであり、この表面だけの自我のほうは、もう一つの真実の自我のようには自己のなかによろこびを見出さないで、自分が外的な支柱にささえられ、他人から個人的に厚遇されていると感じて、つかみどころのない感動をおぼえる、そしてそういう感動にひたりながら、この表面的な自我は、そとからあたえられる保護に満悦し、その幸福感をにこにこ顔でほめたたえ、自己のなかでなら欠点と呼んでそれを矯正しようとつとめるであろうような相手の性癖のたぐいにも、目を見張って関心するのである。(『ゲルトマントのほう 二』 井上究一郎訳)
……というのは、彼といっしょにしゃべっているとーーほかの誰といっしょでもおそらくおなじであっただろうがーー自分ひとりで相手をもたずにいるときにかえって強く感じられるあの幸福を、すこしもおぼえないからであった。ひとりでいると、ときどき、なんともいえないやすらかなたのしい気持に私をさそうあの印象のあるものが、私の心の底からあふれあがるのを感じるのであった。ところが、誰かといっしょになったり、友人に話しかけたりすると、すぐ私の精神はくるりと向きを変え、思考の方向は、私自身にではなく、その話相手に移ってしまうので、思考がそんな反対の道をたどっているときは、私にはどんな快楽もえられないのであった。ひとたびサン=ルーのそばを離れると、言葉のたすけを借りて、彼といっしょに過ごした混乱の時間にたいする一種の整理をおこない、私は自分の心にささやくのだ、ぼくはいい友達をもっている、いい友達はまたとえられない、と。そして、そんなえがたい宝ものにとりまかれていることを感じるとき、私が味わうのは、自分にとって本然のものである快感とは正反対のもの、自分の薄くらがりにかくれている何かを自分自身からひきだしてそれをあかるみにひきだしたというあの快感とは正反対のものなのであった。(『花咲く乙女たちのかげに 二』)
社交の快感は、嫌悪を催すたべものをのみくだしたときのようなむかつきをひきおこすのが落ちでだし、友情にしても、それは一つの見せかけである、というのも、友人と一時間おしゃべりするために、仕事を一時間放棄する芸術家は、どんな道徳的理由からそうするにしても、実在しない何物かのために一つの実在を犠牲にしていることを知るからである。(『見いだされた時』)
何にも増して私が遠ざけるべきものは、精神をさしおいて唇が選ぶあの言葉、会話で人がよく口にするようなユーモアたっぷりな言葉、他人との長い会話のあとで、人が自分自身に向かってわざとらしく発しつづける言葉、そしてわれわれの精神をうそで満たすあの言葉の数々である。(……)一方、真の書物は、白昼と雑談との子ではなくて、晦冥と沈黙との子でなくてはならない。そして、芸術は人生を正確に再構成するものであるから、人が自分自身の内部に到達してとらえた真実のまわりには、つねに、詩の雰囲気が、ひそやかな神秘が、ただようだろう。それこそは、われわれが通ってこなくてはならなかった薄明のなごりにほかならず、深度計ではかったように正確に記録された標示、ある作品の深さの標示にほかならぬであろう。(『見いだされた時』)
◆最後にジジェクがドゥルーズの見解、《エロスとタナトスは対立した欲動ではない、ただ一つの享楽を追求するリビドーがあるだけだ、eros and thanatos are not two opposite drives that compete and combine their forces (as in eroticized masochism); there is only one drive, libido, striving for enjoyment(Jouissance)》に添うようにした語る箇所を抜き出す(下記にMalabouの名が出てくるのは、この論はカトリーヌ・マラブーのタナトス論批判=吟味としてあるため)。――――Zizek Descartes and the Post-Traumatic Subject
Freud, taking Freud too (not literally, but) “hermeneutically,” not distinguishing between the true core of Freud's discovery and the different ways he himself misunderstood the scope of his own discovery. Malabou accepts his dualism of drives as it is formulated, ignoring those precise readings (from lacan to laplanche) which convincingly demonstrated that this dualism a false way out, a theoretical regression. so, ironically, when Malabou opposes Freud and Jung, emphasizing Freud's dualism of drives against Jung's monism of (desexualized) libido, she missed the crucial paradox: it is at this very point, when he resorts to the dualism of drives, that Freud is at his most Jungian, regressing to a premodern mythic agonism of opposite primordial cosmic forces. How, then, are we to grasp properly what eluded Freud and pushed him to take recourse in this dualism? When Malabou varies the motif that, for Freud, eros always relates to and encompasses its opposite other, the destructive death drive, she – following Freud's misleading formulations – conceives this opposition as the conflict of two opposed forces, not, in a more proper sense, as the inherent self-blockade of the drive: “death drive” is not an opposite force with regard to libido, but a constitutive gap which makes drive distinct from instinct (significantly, Malabou prefers translating Trieb as “instinct”), always derailed, caught in a loop of repetition, marked by an impossible excess. Deleuze, on whom Malabou otherwise constantly relies, made this point clear in his Difference and repetition: eros and thanatos are not two opposite drives that compete and combine their forces (as in eroticized masochism); there is only one drive, libido, striving for enjoyment, and “death drive” is the curved space of its formal structure – it“plays the role of a transcendental principle, while the pleasure principle is only psychological. this is why it is above all silent (not given in ex-perience), while the pleasure principle is flourishing. the first question is thus: how can the motif of death which appears to assemble the most negative aspects of the psychic life be in itself what is most positive, transcendentally positive, to the point to affirm repetition? […] eros and thanatos differ in that eros has to be repeated, can be experienced only in repetition, while thanatos (as the transcendental principle) is that what gives repetition to eros, what submits eros to repetition.”
フロイトの初期の欲動(部分欲動)と後期の欲動(タナトス)を繋げることは、ほぼ諦めた見解だってある。
原 和之)
フロイトでは、いわゆる二大欲動である「生の欲動」と「死の欲動」、それから部分欲動という二つのものが同じ「欲動」というタームで語られてしまっているところがありますが、十川さんが「欲動」とおっしゃる時の欲動概念をフロイトの二つの欲動、つまり生の欲動と死の欲動のレベルと関連させると、どういうことになるんでしょうか?
(十川幸司)
それはフロイトがかなりあとになって使った欲動の概念ですよね? 私が論じているのはもっぱら『性理論三篇』(1905年)の欲動論で、のちの生の欲動と死の欲動は、厳密には欲動の問題ではないと思いますが……。(来るべき精神分析のために)
ドゥルーズやジジェク以外に、部分欲動と死の欲動を繋げようとする見解がないではない。そのうちまとめよう??
まずはこれだな、[PDF]1 Sexuality in the Formation of the Subject Paul Verhaeghe
あるいは[PDF]Phallacies of binary reasoning: drive beyond gender
→「エロスとゆらめく閃光」へ引き続く