わたくしの渋江抽斎、伊沢蘭軒等を伝したのが、常識なきの致す所だと云ふことは、必ずや彼書牘の言の如くであらう。そしてわたくしは常識なきがために、初より読者の心理状態を閑却したのであらう。しかしわたくしは学殖なきを憂ふる。常識なきを憂へない。天下は常識に富める人の多きに堪へない。
この文は、荷風の『濹東綺譚』にも引用されている、ーー《「言文一致でも鴎外先生のものだけは、朗吟する事ができますね。」帚葉翁は眼鏡をはずし両眼を閉じて、伊沢蘭軒が伝の末節を唱えた。「わたくしは学殖なきを憂うる。常識なきを憂えない。天下は常識に富める人の多きに堪えない。」》(『濹東綺譚』)
◆その三百七十より
……此にわたくしの自ら省みて認めざることを得ざる失錯が胚胎してゐる。即ち異例の長文が人を倦ましめたことである。(……)
人はわたくしの文の長きに倦んだ。しかし是は人の蘭軒伝を厭悪した唯一の理由では無い。蘭軒伝は初未だ篇を累ねざるに当つて、早く既に人の嘲罵に遭つた。無名の書牘はわたくしを詰責して已まなかつたのである。
書牘はわたくしの常識なきを責めた。その常識なしとするには二因がある。無用の文を作るとなすものが其一、新聞紙に載すべからざるものを載すとなすものが其二である。此二つのものは実は程度の差があるに過ぎない。新聞紙のために無用なりとすると、絶待に無用なりとするとの差である。
わたくしは今自家の文の有用無用を論ずることを忌避する。わたくしは敢て嘲を解かうとはしない。
…………
『伊沢蘭軒』を読み終わって、今度は『渋江抽斎』を読み返す。かねてからいささか奇妙に感じていた叙述がある。抽斎の嗣子である渋江保と姉や甥のあいだに十数年も付き合いがなくなってた事が書かれてる箇所だ。明治時代に姉弟の間でそんな形で疎遠になることがあるのは、よほど互いに軋轢があったのではないかと疑うのだが、鴎外の文には、そのことに触れている箇所はやはり今回も見当たらない。たとえば父母の忌日などの法事も姉と弟でそれぞれ勝手にやっていたのだろうか。
血族関係は杵屋勝久さんが姉で、保さんが弟である。この二人の同胞の間に脩という人があって、亡くなって、その子が終吉さんである。然るに勝久さんは長唄の師匠、保さんは著述家、終吉さんは図案を作ることを業とする画家であって、三軒の家は頗る生計の方向を殊にしている。そこで早く怙を失った終吉さんは伯母をたよって往来をしていても、勝久さんと保さんとはいつとなく疎遠になって、勝久さんは久しく弟の住所をだに知らずにいたそうである。(その七)
今残っている勝久さんと保さんとの姉弟、それから終吉さんの父脩、この三人の子は一つ腹で、抽斎の四人目の妻、山内氏五百の生んだのである。勝久さんは名を陸という。(その九)
鴎外の『渋江抽斎』新聞連載が機縁になって三人は漸く顔を合わせたり手紙をやりとりするようになる、《叔父甥はここに十数年を隔てて相見たのだそうである。》(その八)
あるいは杵屋勝久、すなわち保の姉陸は、母五百に溺愛され過ぎた弟保との気持ちの疎隔があって、《勝久さんと保さんとはいつとなく疎遠になって、勝久さんは久しく弟の住所をだに知らずにいた》のではないかなどと憶測したくなるときがある。
陸が生れた弘化四年には、三女棠がまだ三歳で、母の懐を離れなかったので、陸は生れ降ちるとすぐに、小柳町の大工の棟梁新八というものの家へ里子に遣られた。さて嘉永四年に棠が七歳で亡くなったので、母五百が五歳の陸を呼び返そうとすると、偶矢島氏鉄が来たのを抱いて寝なくてはならなくなって、陸を還すことを見あわせた。翌五年にようよう還った陸は、色の白い、愛らしい六歳の少女であった。しかし五百の胸をば棠を惜む情が全く占めていたので、陸は十分に母の愛に浴することが出来ずに、母に対しては頗る自ら抑遜していなくてはならなかった。
これに反して抽斎は陸を愛撫して、身辺におらせて使役しつつ、或時五百にこういった。「己はこんなに丈夫だから、どうもお前よりは長く生きていそうだ。それだから今の内に、こうして陸を為込んで置いて、お前に先へ死なれた時、この子を女房代りにするつもりだ。」(その八十五)
陸は翌年まで里親の許に置かれた。 棠は美しい子で、抽斎の女の中では純と棠との容姿が最も人に褒められていた。五百の兄栄次郎は棠の踊を看る度に、「食い附きたいような子だ」といった。五百も余り棠の美しさを云々するので、陸は「お母あ様の姉えさんを褒めるのを聞いていると、わたしなんぞはお化のような顔をしているとしか思われない」といい、また棠の死んだ時、「大方お母あ様はわたしを代に死なせたかったのだろう」とさえいった。(その六十九)
さらには杵屋勝久は愛する父の嗣子保に不甲斐なさを感じていたのかもと疑える痕跡ーーもちろんこれもわたくしの勝手な憶測であるがーーそう読みたくなる鴎外の保評がわずかにないでもない。
保さんは抽斎の第七子で、継嗣となったものである。(……)師範学校において、教育家として養成せられ、共立学舎、慶応義塾において英語を研究し、浜松、静岡にあっては、あるいは校長となり、あるいは教頭となり、旁新聞記者として、政治を論じた。しかし最も大いに精力を費したものは、書肆博文館のためにする著作翻訳で、その刊行する所の書が、通計約百五十部の多きに至っている。その書は随時世人を啓発した功はあるにしても、概皆時尚を追う書估の誅求に応じて筆を走らせたものである。保さんの精力は徒費せられたといわざることを得ない。(その百十二)
抽斎伝は嗣子渋江保からの聞き書きの箇所が多分にある。抽斎の四人目の妻五百をめぐる出来事の叙述は何度読んでも面白いが、この小説を史伝物とするわけにはいかない。
大岡昇平が鴎外の『堺事件』を美談に過ぎないとしたように、抽斎伝も抽斎の妻五百の「美談」の物語と言ってもよい箇所が多分にあるのではないか。五百は息子保を溺愛していた。その溺愛された渋江保の母の物語の聞き書き。とくに抽斎が死去した後の後半はその印象が強い。
保の名は成善(しげよし)であったが、明治四年、保と名を改めている。《これは母を懐うが故に改めたので、母は五百の字面の雅ならざるがために、常に伊保と署していたのだそうである。》(その九十三)
保の名は成善(しげよし)であったが、明治四年、保と名を改めている。《これは母を懐うが故に改めたので、母は五百の字面の雅ならざるがために、常に伊保と署していたのだそうである。》(その九十三)
以下の加藤周一の文は『渋江抽斎』の最も有名な箇所を引用しての五百賛である。この賞賛を批判するつもりはない。おそらく殆どの読み手は、この五百が腰巻一枚で三人の不埒な侍を追い払った場面の叙述に魅惑されるだろう。だが、この加藤周一の文は五百という人物をいささか褒め過ぎているきらいがないでもないと今は思う。鴎外の聞き書き文にわずかでも「批判=吟味」があっていいのではないか、と。鴎外の小説には、大正以後の多くの日本の小説家や批評家たちに救い難くある「メロドラマ性」の嚆矢がありはしないか。
みずから進んで抽斎の妻に嫁し、思慮深く、好学心があり、しかも勇敢であった五百に鷗外は遂にみずから得なかった理想の妻の姿を見出したのではなかろうか。
作中もっとも劇的な場面の一つは、抽斎を脅迫する三人の侍を、五百が追い出した話である。三人が訪れたとき、五百は浴室にいた。三人は奥の間に通って、抽斎に金を要求し、容れられずとみるや、刀の柄(つか)に手をかけて、抽斎をかこんだ。そのにらみ合いの最中に、廊下に足音もせず、静かに障子が開く。
《刀の柄に手を掛けて立ち上った三人の客を前に控えて、四畳半の端近く坐していた抽斎は、客から目を放さずに、障子の開いた口を斜に見遣った。そして妻五百の異様な姿に驚いた。
五百は僅(わずか)に腰巻一つ身に著けたばかりの裸体であった。口には懐剣を銜(くわ)えていた。そして閾(しきい)際に身を屈めて、縁側に置いた小桶二つを両手に取り上げるところであった。小桶からは湯気が立ち升(のぼ)っている。縁側を戸口まで忍び寄って障子を開く時、持って来た小桶を下に置いたのであろう。
五百は小桶を持ったまま、つと一間に進み入って、夫を背にして立った。そして沸き返るあがり湯を盛った小桶を、右左の二人の客に投げ附け、銜えていた懐剣を把って鞘を払った。そして床の間を背にして立った一人の客を睨んで、「どろぼう」と一声叫んだ。
熱湯を浴びた二人が先に、柄に手を掛けた刀をも抜かずに、座敷から縁側へ、縁側から庭へ逃げた。跡の一人も続いて逃げた。》(森鴎外著『渋江抽斎』)
これは探偵小説の一場面ではなく、さながら映画の活劇場面であろう。腰巻一枚の方はしばらく措き、果たして今日の映画女優に、一声能(よ)く三人の侍を走らせる裂帛(れっぱく)の気合ありやなしや。私は尊敬する先学北野克氏から恵贈された五百自筆の短冊「秋雨」を居室に掲げ、それをみる度に、鴎外の描いた幕末の女の勇気を想出す。(加藤周一著「『渋江抽斎』について」)
附記:
抽斎の長男恒善が没した後の経緯を、考証家梅谷文夫氏は次のように書いている(「渋江抽斎・吉田篁墩・岡本況斎に関する雑記」1993)。
嫡子を失った抽斎は,当然のことながら,他の子息をもって嫡子とし,その旨を藩庁に届出ているはずである。『江戸日記』を検したところ,安政三年十二月二十八日の条に,次の一項が記録されていた。
一 渋江道純儀,嫡子無之二付,道陸儀,嫡子,願之通被仰付之。
分限帳には「道陸」嫡子願いを証する記事を見出し得ないが,そのほかに,弘前市立弘前図書館所蔵『江戸御家中明細帳』元治元年本に,抽斎の跡式を相続した「道陸」について,次のように記録されていた。
七代目 道純三男為嫡子渋江道陸
一 安政三丙辰年十二月廿八日嫡子願之通。○同四丁巳年三月朔日御目見。○同五戊午年十一月朔日親道純跡式御給分無相違瑛喜人被下置,小普請医被仰付之。尤道純是是迄之勤料は被差引之。
抽斎は,安政三年十二月二十八日に,三男「道陸」を嫡子とすることの允許を得たというのである。既述のように,三男八三郎は,天保十三年八月三日に生まれ,同年十一月九日に没している。四男幻香水子は,弘化三年十月十九日に死産した子である。
とすれぱ,抽斎が三男と称して嫡子とすることを願い出た「道陸」は,安政元年二月十四日に生まれた五男専六(修)でなければならない。七男成善,すなわち保は,まだ生まれていなかったのである。
渋江家六代目道純,すなわち抽斎の後を継いだ七代目道陸は,抽斎の五男専六,すなわち図案家渋江終吉の父脩であったと考えて,誤りあるまい。
保が脩に代わって渋江家を継いだ時期は,いまだに,これを明らかにし得ない。鴎外によれぱ,脩は,明治三年十二月二十九日に,山田源吾の養子になったというから,それ以前に,廃嫡されたのであろう。保は,抽斎の後を継いだのではなく,脩の後を継いだのであるが,当時の習慣では,このような場合,保を抽斎の嗣子と称しても,虚偽を称したことにはならなかったようである。
抽斎の知友海保漁村は,『抽斎渋江君墓砥銘』に,「有三子。長恒善,尾島氏出。先卒。次優善,岡西氏出。出為矢島氏後。三成善,山内氏出。継。」と記述している。鴎外は,保の証言に従って,墓隅銘に言う三男「成善」を保と解し,『渋江抽斎』その八に,「勝久さんや終吉さんの亡父脩は此文に載せて無い」と書記している。しかし,抽斎の跡式を相続した「道陸」が,既述のように,五男専六,のちの脩であるならば,墓碍銘に言う三男「成善」も,また,五男専六と解するのが自然であろう。早世した三男・四男を数えぬとすれば,専六は三男ということになる。七男保を「成善」に当てるより,無理はないのである。「成善」は,保の名ではなく,専六,すなわち脩の名であったのではあるまいか。
抽斎没後の渋江家の相続人に関する謎を解く鍵は,一家が弘前に移住した後にあると推察するが,その時期の渋江家の動静を知る資料を,いまだ見出し得ないでいるために,あと一歩のところで解決し得ないのである。