以下は、フロイト著作集6(人文書院旧訳)からだが、著作集の "Bemächtigungstrieb" 訳語そのものは「支配欲動」となっている。だが、ここではかねてからウェブ上で精神医学系の著書における訳語の吟味を積極的になされているフロイト郵便氏の「フロイト翻訳正誤表」の提案に則って、大幅に訳文を変更した(一部人文書院訳のままにした箇所もある)。この正誤表の提案には“Bemächtigungstrieb”は「征服欲動」となっている。
論文『快感原則の彼岸』(1920)からであり、フロイトのエロスとタナトス概念が初出した最も有名な論文のひとつであることがよく知られている。
その論文のなかでも、もっともしばしば言及される箇所のひとつ、子どものfort-da(いないいないばあ)の糸巻き遊びの箇所。なぜfort(いない)だけが倦むことなく繰り返される場合があるのか、という問いが書かれた後の文。
フロイトのあらゆるテクストのうちで、傑出した書物たる『快感原則の彼岸』は、おそらくこれこそ哲学的と呼ぶほかない考察のうちに、最も直線的に、しかも驚くべき才能をもって、透徹せる視線を注いだテキストであるに違いない。(ドゥルーズ『マゾッホとサド』蓮實重彦訳)
その論文のなかでも、もっともしばしば言及される箇所のひとつ、子どものfort-da(いないいないばあ)の糸巻き遊びの箇所。なぜfort(いない)だけが倦むことなく繰り返される場合があるのか、という問いが書かれた後の文。
こうなれば遊戯の意味は、ほぼ解かれたもおなじである。それは子供のみごとな躾の効果と関係があった。つまり母親が立ち去るのを、さからわずにゆるすという欲動断念(欲動満足に関する断念)を子供がなしとげたことと関係があった。子どもは自分の手のとどくもので、同じ消失と再来を上演してみて、それでいわば欲動断念を埋め合わせたのである。この遊戯を情動の面から評価するさい、子供がみずから案出したのか、それとも何かに誘発Anregungされてわがものにしたのかは、むろん問題ではない。われわれの関心は、他の一点にむけられるであろう。母親の出発Fortgehenは、子供にとって好ましかったはずはなく、またどうでもよかったこととも考えられない以上、子供が苦痛な体験を遊戯として反復することは、どうして快感原則に一致するのであろうか。出発はよろこばしい再出現の前提条件として演じられるのに相違なく、再出現にこそ本来の遊戯の目的があったはずだ、と答えたくなるかもしれない。しかし、最初の行為、つまり出発が単独で遊戯になって演出され、しかもそれが、快い結果にみちびく完全形よりも、比較にならないほどたびたび演じられたという観察は、その答に矛盾することになるだろう。
このようなただ一つだけの場合の分析から、確実な結論はみちびけない。しかし、偏見なしに観察すれば、子供は別な動機から自分の体験を遊戯にしたてたのだという印象をうける。子供はこの場合、受け身だったのであって、いわば体験に襲われたのであるが、いまや能動的な役割に身を置いて、体験が不快であったにもかかわらず、これを遊戯として反復しているのである。この志向は、記憶そのものが快に充ちていたかどうかには関わりのない、征服Bemaechtigung欲動に帰することもできるかもしれない。しかしまた、別の解釈を試みることもできる。見えなくなるように、物を投げすてることは、子供〈のもと〉から出発fortgehenした母親にたいする、日ごろは禁圧された復讐欲動の満足でもありうる。さあ、出発fortgehenしろよ、お母さんなんかいらない、ぼくがお母さんをあっちへやっちゃうんだ、という反抗的な意味をもっているのかも知れないのだ。(……)ここで論議されたいくつかの例では、この衝迫が不愉快unangenehmな印象を遊戯のなかに反復したのは、この反復に、種類がちがってはいるが、ある直接的な快獲得が結びついているからでしかないかもしれないからである。
(……)子供たちは、生活のうちにあって強い印象をあたえたものを、すべて遊戯の中で反復すること、それによって印象の強さをしずめて、いわば、その場面の支配者になることは、明らかである。しかしこの反面、彼らの遊戯のすべてが、この彼らの年代を支配している願望、つまり大きくなりたい、大人のようにふるまいたいという願望の影響下にあることも充分に明白である。また、体験が不快だからといって、その不快という性格のせいで、体験を遊戯に利用できなくなるとはかぎらないことも観察されている。たとえば医者が子供の喉の中をのぞきこんだり、ちょっとした手術を加えたりすると、この恐ろしい体験は確実にすぐあとの遊戯の内容になるであろうが、そのさい他の理由から快感を獲得することも見落とすわけにはいかない。子供は体験の受動性から遊戯の能動性に移行することによって、遊び仲間に自分の体験した不快を加え、そして、この代理のものに復讐するのである。(フロイト『快感原則の彼岸』p156-158 人文書院旧訳)
これはラカンの有名な別解釈があるが、いまはフロイト解釈における「征服欲動」の能動性と受動性の反転の叙述にのみ注目したい。そもそもラカンのfort-da解釈では、上に引用された最後のパラグラフの《医者が子供の喉の中をのぞきこんだり》するのを、どのように解釈し直したらよいのか、やや困惑をおぼえる。
とはいえラカン解釈を示さないと、ジジェクの脅しのような言葉が浮かんでこないでもない。
フロイトの『快感原則の彼岸』にでてくる「いない-いた Fort- Da」遊びは、フロイトに関する理解度をはかる上で恰好のテストになるかもしれない。標準的な解釈によれば、フロイトの孫は、糸巻きを投げることによって、母親の不在と回帰を象徴化している。「いない Fort!」──そして糸巻きをたぐり寄せて──「いた Da!」というふうに。したがって、事態は明確であるようにみえる。母親の不在というトラウマを経験した子供は、その不在を象徴化することによって不安を克服し、状況を操作するのである。母親を糸巻きに置き換えることによって、この子供は、母親の出現と消失を演出する舞台監督になるのだ。かくして不安は、子供がこの支配力を嬉々として行使するなかで、首尾よく「止揚される aufgehoben」。(ジジェク『操り人形と小人』)
しかしながら、と続くのだが、ウェブ上では、この箇所のみの引用しかみつからず(なぜこの箇所の引用だけなのだろう? 次が肝要なのに)、さてわたくしは原文しか手元にない。既存の訳があるのに、まさか拙訳を附すわけにもいかないだろう。
The Fort-Da story from Freud’s Beyond the Pleasure Principle can perhaps serve as the best test to detect the level of understanding of Freud.According to the standard version, Freud’s grandson symbolizes the departure and return of his mother by throwing away a spool— “Fort!”—and retrieving it—“Da!” The situation thus seems clear: traumatized by the mother’s absence, the child overcomes his anxiety, and gains mastery over the situation, by symbolizing it: through the substitution of the spool for the mother, he himself becomes the stage-director of her appearance and disappearance. Anxiety is thus successfully “sublated [aufgehoben]” in the joyful assertion of mastery.
However, are things really so clear? What if the spool is not a stand-in for the mother, but a stand-in for what Jacques Lacan called objet petit a, ultimately the object in me, that which my mother sees in me, that which makes me the object of her desire? What if Freud’s grandson is staging his own disappearance and return? In this precise sense, the spool is what Lacan called a “biceptor”: it properly belongs neither to the child nor to his mother; it is in-between the two, the excluded intersection of the two sets.Take Lacan’s famous “I love you, but there is something in you more than yourself that I love, objet petit a, so I destroy you”—the elementary formula of the destructive passion for the Real as the endeavor to extract from you the real kernel of your being. This is what gives rise to anxiety in the encounter with the Other’s desire: what the Other is aiming at is not simply myself but the real kernel, that which is in me more than myself, and he is ready to destroy me in order to extract that kernel. . . .Is not the ultimate cinematic expression of the ex-timate character of the objet petit a in me that of the “alien” in the film of the same name, which is quite literally what is “in me more than myself,” a foreign body at the very heart of myself, and can therefore be extracted from me only at the price of my destruction?
Consequently,we should invert the standard constellation: the true problem is the mother who enjoys me (her child), and the true stake of the game is to escape this closure. The true anxiety is this being caught in the Other’s jouissance. So it is not that, anxious about losing my mother, I try to master her departure/arrival; it is that, anxious about her overwhelming presence, I try desperately to carve out a space where I can gain a distance toward her, and so become able to sustain my desire.Thus we obtain a completely different picture: instead of the child mastering the game, and thus coping with the trauma of his mother’s absence, we get the child trying to escape the suffocating embrace of his mother, and construct an open space for desire; instead of the playful exchange of Fort and Da, we get a desperate oscillation between the two poles, neither of which brings satisfaction— or, as Kafka wrote: “I cannot live with you, and I cannot live without you.” And it is this most elementary dimension of the Fort- Da game that is missed in the cognitivist science of the mind. (ZIZEK 『The Puppet and the Dwarf』)
《the ultimate cinematic expression of the ex-timate character of the objet petit a in me that of the “alien” in the film of the same name, which is quite literally what is “in me more than myself,” a foreign body at the very heart of myself》とある。
ここには、ラカンの対象aの説明のなかのex-timateが出て来ると同時に(この語はラカンの造語であり、最もintimateなものは外部exにあるということ),a foreign body at the very heart of myselfともある。ところで初期フロイトはすでに”foreign body”という用語を使っている(フロイト『ヒステリー研究』1895)。
それは”Fremdkörper”であり、英訳ではまさに”foreign body”、邦訳では「異物」と訳されている。フロイトはこの語を言葉にできないトラウマに関連させて主に使っており、すなわち快感原則の彼岸にある言語の世界(象徴界)にex-sist(外ー存在)するものであり、ここでもex-timateとの関連がある。
Fremdkörper, a foreign body present in the inside but foreign to this inside. The Real ex-sists within the articulated Symbolic.(Paul Verhaeghe "Mind your Body ")
結局、これらのやや親しみにくいラカン造語は、ほとんどすべて現実界をめぐる思考にかかわり、非ー全体の論理もそれである。たとえば、言語によって分節化された快原則の此岸の象徴界にあるファリックな享楽(快楽)に対して、分節化されえない快原則の彼岸に<他者>の享楽がある。その後者の享楽が<女>の享楽と言い換えられ、そして<女>の享楽が、非全体の論理にかかわる。上のジジェクの文脈では、「自我」には、対象aやトラウマなど言葉にならない現実界に属するFremdkörper(異物、寄生虫)がいる。
The not-whole whole insistently undertakes attempts to assume and colonise this foreign body that ex-sists in the not-whole itself.(同ヴェルハーゲ)
あるいは、ジジェクが『LESS THAN NOTHING』で、讃嘆してやまないFrançois Balmèsの美しい表現ならこうなる。
現実は象徴界によって多かれ少なかれ不器用に飼い馴らされた現実界である。そして現実界は、この象徴的な空間に、傷、裂け目、不可能性の接点として回帰する。
reality is the Real as domesticated—more or less awkwardly—by the symbolic; within this symbolic space, the Real returns as its cut, gap, point of impossibility(François Balmès, Ce que Lacan dit de l'être)――ジジェク『LESS THAN NOTHING』 より孫引きであり、邦訳は私訳
ところで、テクストでさえも、そこに書かれていない外-存在を視野に入れながら、われわれは読むはずだ。すなわちテクストも非ー全体であるだろう。詩には明らかに外ー存在があるが、言語による分節化に汲々としているだけの父性原理のみに侵された二流論文ではなく、一流論文、たとえばフロイトの論文にも〈詩〉はある。
詩とは言語の徴候的側面を主にした使用であり、散文とはその図式的側面を主にした使用である。(中井久夫『現代ギリシャ詩選』序文)
わたくしに言わせれば、中井久夫の「徴候」概念は、現実界のことを言い表わそうとしている。
《もっとも遠くもっとも杳かな兆候をもっとも強烈に感じ、あたかもその事態が現前する如く恐怖し憧憬する》とする中井久夫の分裂症状の心理状態を表わす美しい言葉は、Fremdkörperや心的外傷の感覚を言い表わそうとする言葉でもある。
あるいは蓮實重彦の「表象の奈落」とは言語による分節化の先にふと垣間見える、象徴界の裂け目、すなわちこれも「現実界」のことを言い表わしている。
「批評」は、本質的に言い換えの作業にほかならない。翻訳とも呼べるその作業は、言い換えるべき対象としての他者の言説の中でまどろんでいるしかるべき記号に触れ、それを目覚めさせることから始まる。数ある記号のどれに触れて目覚めさせるかで、読む主体の「動体視力」が問われることにもなろうが、それは、読むことで、潜在的なものを顕在化させる作業だといってよい。その覚醒によって、他者の言説は、誰のものでもない言説へと変容する。その変容は、“できごと”として生起し、「批評」の主体をもいくぶんか変容させずにはおくまい。言い換えれば、その二重の変容を通して、とりあえずの翻訳におさまるのだが、「批評」は、それがあくまでとりあえずのものでしかないことを知っている。また、それを知らねば、たんなる「厚顔無恥」に陥るほかはない。
決定的な翻訳にたどりつくことなく、「厚顔無恥」に陥ることも避けながら、とりあえずの翻訳にとどまるしかない「批評」は、あるとき、その宿命として、「表象の奈落」を目にする。そこには、もはや、他者の言説など存在せず、覚醒すべき記号さえ見あたらない。(蓮實重彦『表象の奈落』「あとがき」)
繰りかえせば、蓮實重彦は「表象の奈落」という概念で、象徴界の裂け目を語ろうとしている。象徴界におけるたえまない「翻訳」により潜在的なものを目覚めさせること。たとえば現実界を垣間見るとは、子供のスライドするパズル遊戯の「穴」を顕在化させることである。
just think of a child's toy like those sliding puzzles. This mini symbolic system works on one condition: that there is a gap. One compartment has to be empty, thus permitting the necessary displacements in the system itself. (Verhaeghe, P. (2001). Subject and Body. Lacan's Struggle with the Real. )
以下はすこし異なった文脈で若き浅田彰が書いているのだが、現実界の類の言葉は、「それをいっちゃあおしまい」のところがあり、優れた書き手は分かっていながらあまり多くを語らないだけである。
クリステヴァが差異の共時的体系とその外部の相互作用を分析するのに千語万語を費やしているのを後目に、デリダは初めから差異と同一性や共時態と通時態の双対性をとびこえた差延化のたわむれを語ってみせるのである。それにしても、差延化といい、パルマコンといい、hymenといい、デリダがのっけからあからさまに舞台に上せるこれらの言葉たちは、蓮實重彦が述べたように(『事件の現場』)、それを言ってしまえば何もかもおしまいだという類の言葉ではなかったろうか? 口に出して言わずにおいたまま、それに無限に漸進していく長い長い道筋を辿る方が、有効な戦略なのだとしたら? (浅田彰『構造と力』 7《女》について)
《じゃあ絶対にやらなければいけないことは何かといったとき、ラカン的な意味での「réel(現実)」について論ずることがそうかというと、そうではないと思う。その種の「réel」について論ずることには形式的にある種の安易さがあって、その安易さは、ニーチェもいうようにカントの「物自体」から始まったといってもいいですけれど、やたらな人間がそれに言及すると、世界を必要以上に単純化してしまう。》
「 réel」と口にするひとは、そう口にしてしまった自分にその資格があるかどうかという疑いを持たねばなりません。ところが、「 réel」について語ることは、その資格もないひとたちがもっとも楽天的に戯れうる制度になってしまった。この制度は、なんらかのかたちでもう一度わさわさと揺り動かさなければならない。無限の翻訳の連鎖に組み入れられた体験を持たないひとが、「原 =翻訳」なんていっちゃいけないわけですよね、本来は。にもかかわらず、現代では、自分に果たしてその権利があるのかどうかを誰も反省しなくなっているという怖さがあります。それは、思考の頽廃でしかありません。自分がそれを語るにふさわしい人間か、また、そのかたちで語っていいのかということに対する反省が、いたるところで失われてゆきます。そのとき、職業ではなく、体験としての批評が改めて意味を持ち始めるのですが、言い換えの無限の連鎖に取り込まれるより、ひとこと「 réel」といっているほうが、疲れなくていいのかもしれません。(蓮實重彦インタビュー ──リアルタイム批評のすすめ vol.2)
ーーというわけで、それを語るにふさわしくない〈わたくし〉が、いささか安易に現実界を語ってしまったことに、すくなくともわたくしは自覚的であるつもりだ……。