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2014年5月2日金曜日

五月初二 砂「両」の蟻塚、あるい『渋江抽斎』記述への疑義

羽蟻大量発生する。雨季の初期には毎年そうなのだが、既に雨季が始まって二度ほど発生したので、油断して常夜灯を点けっぱなしにしておいたのだが――羽蟻は光と水を求めて閉ざされた窓や戸の狭い隙間からでさえ入り込むーー、朝起きると炊事場の流しに死骸が蝟集、いや蟻集している。

これは我が家の流しの写真ではないが、この量よりは二倍ほどはある。





これでも少なくなったほうで、十数年前家が建て込んでいなかった折は、あたりに発生した羽蟻が我が家の光をめがけて風呂場に山盛りになったことがある。あれは砂金の山とでもいうべきものだった。





いま鴎外の史伝を読みつつ、江戸時代の一両の価値に頭をひねっている最中であるのだが。




…………

俸禄としては知行取り1石=米1俵、現米35石=100俵、1人扶持=米5俵で換算されていた。つまり、知行取り100石=蔵米100俵=現米35石=20人扶持=金35両(名目レート:現米1石=1両換算)となる。(wiki/蔵米

梅谷文夫氏の「渋江抽斎・吉田篁墩・岡本況斎に関する雑記」1993 http://hermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/rs/bitstream/10086/8925/1/gengo0002900030.pdf には、次のような記述がある。

《江戸においては同年八月十七日に,家中に下達された永の御定めによれぱ,以後,知行は三ツ五分物成として金子で支給された》と。すなわち石高の35パーセントが金子で支給された。

たとえば《高三百石十人扶持を受けていたのであれぱ,平年の文政六年の給与所得は,米一石金一両とするならぱ,百二十二両三歩弱》となる、と。

これをもうすこし分けて計算すると、三百石の35パーセントである百五石、一両=一石として、百五両となる。

そして十人扶持というのは、年によって異なるが、たとえば平年の文政六年では十七石七斗であり(1石=10斗)、十七両三歩弱(1両=4分)となる(これは上のwikiの記述にも、現米35石=20人扶持=金35両とあり、これからも10人扶持とは、17両2歩となり、ほぼ等しい)。

こういった具合で、百五両と十七両三歩弱をあわせて百二十二両三歩弱となる。


◆梅谷文夫「渋江抽斎・吉田篁墩・岡本況斎に関する雑記」より

鴎外は,『渋江抽斎』その一に,抽斎の「知行は三百石である。」と書記している。また,その十一には,抽斎の父道陸允成について,「三百石十人扶持の世禄の外に,寛政十二年から勤料五人扶持を給せられ,文化四年に更に五人扶持を加へ,八年に又五人扶持を加へられて,とうとう三百石と二十五人扶持を受けることとなった。」とも書記している。鴎外は,文政五年八月朔日,家督相続を允許された抽斎は,道陸允成が受けてきた世禄三百石十人扶持を父に替わって受けることになったと思いこんでいたようである。

『江戸日記』の文政五年分は散逸してしまったが,藩庁日記『御国日記』同年八月三十日の条に,抽斎の家督相続を,次のように記録している。

一 去ル朔日,渋江道陸儀,隠居,願之通御給分無相違伜道純江被下置候。尤親道陸是迄之勤料は被差引候。

御給分」は給与として支給する扶持米の意である。知行を相続したのであれば,「御給分」ではなく,「高三百石十人扶持」と書記されるはずである。前項に引用した『江戸日記』の抽斎嫡子道陸某(脩)の跡式相続の記録においても,「高三百石十人扶持」ではなく,「御給分」と書記されている。抽斎は,弘前藩から知行を受けていたのではなく,実は扶持米を受けていたのである。

『江戸御家中明細帳』元治元年本には,抽斎の家督相続を,次のように記録している。

O同年(文政五年)八月朔日,親道陸隠居,願之通御給分無相違二十人扶持被下置。尤道陸是迄之勤料は被差引之。

また,『分限元帳 文化二年八月改』第七上冊,医者の条には,次のように記録している。

一 弐拾人扶持  親御習医者道陸跡無足  江戸渋江道純

抽斎は,無足,すなわち無給から,親道陸允成の後を継いで,二十人扶持を受けることになったというのである。

抽斎が相続したのは,高三百石十人扶持であったのではなく,二十人扶持であったのである。

いささか横道にそれるが,国元においては安永三年七月二十八日に,江戸においては同年八月十七日に,家中に下達された永の御定めによれぱ,以後,知行は三ツ五分物成として金子で支給されたはずである。高三百石であれぱ,米百五石相当の金子を受けたはずということになる。扶持米は,年によって年間日数が異なるので,一定の額は示し得ないが,抽斎が家督相続した文政五年は,正月に閏月があったから,年間日数は三百八十四日,十人扶持であれぱ十九石二斗を受けたはずである。平年の翌六年の年間日数は三百五十四日であったから,十人扶持は十七石七斗ということになる。鴎外が言うように,抽斎が高三百石十人扶持を受けていたのであれぱ,平年の文政六年の給与所得は,米一石金一両とするならぱ,百二十二両三歩弱であったことになる。これだけでは,高三百石の体面を保つには,少々不足であったかもしれないが,ほかに,診療・調剤等による副収入があったはずであるから,ことさら貧を嘆くにはあたらぬほどの暮らしを営み得ていたはずである。しかし,実際に抽斎が受けた二十人扶持は,平年の文政六年の場合,三十五両二歩弱に過ぎなかったのである。以上の計算は,天保十一年二月付で家中に申し渡された歩引を無視したものである。
なぜ鴎外は,渋江家が代々三百石十人扶持を受けてきた家柄であるかのように記述して,はぱからなかったのであろうか。渋江保の証言を無批判に信じたのであろうか。それとも,保が虚偽の証言をしていることに気づいていて,虚偽の証言を申し立てる保の心根を汲んで,あえて事実に反する記述を行なったのであろうか。今,にわかには,結論を出し得ない。

渋江保氏は抽斎の嗣子であり、鴎外が抽斎伝の新聞連載中に知り合い、資料提供などにより、『渋江抽斎』を書き進めるのに大きく貢献した人物である。

鴎外は,『渋江抽斎』その十一に,道陸允成が「文化十一年に一粒金丹を調製することを許された。これは世に聞えた津軽家の秘方で,毎月百両以上の所得になったのである。」と記述している。これは,『抽斎年譜』文化九年の条に,保が年時を誤って書き入れた記事,「一粒金丹は(中略),三十粒入一包金一歩,十五粒入半包金二朱にて広く全国へ配布す。保の少時実験する所に拠るに,毎月四五百包づつ需要者ありたり。」に拠って書記したのであろうが,到底,信じられぬ内容である。毎月百両以上,年間千二百両以上と言えば,当時の町人社会においては,長者番付に名を連ねる最も富裕な層の次順の層の所得水準に匹敵する所得である。それだけの所得があれば,抽斎が述志の詩に,「安楽換銭不患貧」などと作るわけがないのである。

1朱は、その貨幣価値は、1/16両、また1/4分に相当する。上に《金一歩》とあるのは金一分ということだろう。一袋金一分のものが五百包売れれば、五百分、すなわち百両以上になる。


梅谷文夫は『狩谷棭斎』の著書で著名な考証家であるが(一橋大学名誉教授)、上の記述も額面通り受け取る必要はないだろう。文政五年家督相続した抽斎は当時十八歳だった。抽斎が父道陸允成の石高は何処にいってしまうのだろう。梅谷氏の考証によれば、允成の三百石ではなく百石ではないか、ともされている。

渋江の当主で三百石十人扶持を受けたのは二代目道陸輔之までで,三代目玄瑳為隣は,二百石を減ぜられて,百石を相続した。鴎外は,「富士川游蔵抽斎手記抄」に,次のように書きとめている。

・元文六年辛酉正月十一日,玄春家督被仰付,亡父道陸知行三百石之内,当分家業修業之間,百石被下置。

《当分家業修業之間,百石被下置》とあり、その後三百石に戻った形跡が文献にはないということなのだろうが、逆に抽斎の家督相続は、《当分家業修業之間》のみ二十人扶持であり、その後、百石高、あるいは三百石が付加されたと憶測もできる。だがその文献は見当たらない、という考証家の態度は正しい。


たとえば、渋江保氏からの聞き書きであろう次のような話が『渋江抽斎』にはある。ここにでてくる五百は、抽斎の妻であり保氏の母である。

藤堂家でも他家と同じように、中臈は三室位に分たれた部屋に住んで、女二人を使った。食事は自弁であった。それに他家では年給三十両内外であるのに、藤堂家では九両であった。当時の武家奉公をする女は、多く俸銭を得ようと思っていたのではない。今の女が女学校に往くように、修行をしに往くのである。風儀の好さそうな家を択んで仕えようとした五百なぞには、給料の多寡は初より問う所でなかった。 修行は金を使ってする業で、金を取る道は修行ではない。五百なぞも屋敷住いをして、役人に物を献じ、傍輩に饗応し、衣服調度を調え、下女を使って暮すには、父忠兵衛は年に四百両を費したそうである。給料は三十両貰っても九両貰っても、格別の利害を感ぜなかったはずである。(その三十二)

このとき五百は十五歳になっている。藤堂家の《殿様は伊勢国安濃郡津の城主、三十二万三千九百五十石の藤堂和泉守高猷である。官位は従四位侍従になっていた。奥方は藤堂主殿頭高崧の女である。》(その三十二)

藤堂家に奉公するのは九両とあるが、他家では年給三十両内外とあり、藩医として仕える十八歳の抽斎が年給三十五両二歩弱とは、若輩でありながらも、いかにも抽斎の給料は少なすぎる。もっとも《五百が十五歳になったのは、天保元年である》(その三十一)。抽斎が家督相続した十八歳の折は文政五年(1822)である。天保元年は1830年であり八年の懸隔はあるが、ここでは物価の変動がなかったものとしての比較である。

とはいえ抽斎家に金の余裕がなかったのは、将軍家慶に謁見した嘉永二年(1849)、すなわちすでに四十五歳時のとき妻五百が着物を質に入れて借金していることからも窺われる。もちろんこれらさえ、渋江保氏からの聞き取りをベースにして書かれているのだろうから、疑ってかからねばならないだろうが。

目見をしたものは、先ず盛宴を開くのが例になっていた。そしてこれに招くべき賓客の数もほぼ定まっていた。然るに抽斎の居宅には多く客を延くべき広間がないので、新築しなくてはならなかった。五百の兄忠兵衛が来て、三十両の見積を以て建築に着手した。抽斎は銭穀の事に疎いことを自知していたので、商人たる忠兵衛の言うがままに、これに経営を一任した。しかし忠兵衛は大家の若檀那上りで、金を擲つことにこそ長じていたが、靳んでこれを使うことを解せなかった。工事いまだ半ならざるに、費す所は既に百数十両に及んだ。

平生金銭に無頓着であった抽斎も、これには頗る当惑して、鋸の音槌の響のする中で、顔色は次第に蒼くなるばかりであった。五百は初から兄の指図を危みつつ見ていたが、この時夫に向っていった。「わたくしがこう申すと、ひどく出過ぎた口をきくようではございますが、御一代に幾度というおめでたい事のある中で、金銭の事位で御心配なさるのを、黙って見ていることは出来ませぬ。どうぞ費用の事はわたくしにお任せなすって下さいまし。」 抽斎は目を睜った。「お前そんな事を言うが、何百両という金は容易に調達せられるものではない。お前は何か当があってそういうのか。」
五百はにっこり笑った。「はい。幾らわたくしが痴でも、当なしには申しませぬ。」(その三十八)

こうして五百は質屋を呼ぶ。

ほどなく光徳の店の手代が来た。五百は箪笥長持から二百数十枚の衣類寝具を出して見せて、金を借らんことを求めた。手代は一枚一両の平均を以て貸そうといった。しかし五百は抗争した末に、遂に三百両を借ることが出来た。 三百両は建築の費を弁ずるには余ある金であった。しかし目見に伴う飲醼贈遺一切の費は莫大であったので、五百は終に豊芥子に託して、主なる首飾類を売ってこれに充てた。その状当に行うべき所を行う如くであったので、抽斎はとかくの意見をその間に挟むことを得なかった。しかし中心には深くこれを徳とした。(その三十九)

一両が現在のどのくらいの金額か、五万円から十万円などといわれたりもするが、もし十万円としたら、武家奉公の一年の給金が三百万円、新居の見積が同じ三百万円だったのが、《工事いまだ半ならざるに、費す所は既に百数十両》、すなわち一千万円強となってしまう。五百は着物一枚十万円強で質にいれ三千万円手にする、ということになるのだが、この半額ぐらい、すなわち一両五万円が適当か。

ここで『伊沢蘭軒』の記述をみてみよう、天保六年(1835)、この年狩谷棭斎が逝くのだが、棭斎の息子懐之が経営する津軽家用達として世に聞えていた湯島の店にかんして次のようにある。

湯島の津軽屋は大い店で、留蔵、音三郎、梅蔵三人の支配人即通番頭が各年給百五十両であつた。渋江保さんの話に、渋江氏の若党柴田清助の身元引請人利兵衛は、本町四丁目の薬店大坂屋の通番頭で、年給二十両であつた。大坂屋では是が最高の給額で、利兵衛一人がこれを受け、傍輩に羨まれてゐた。渋江抽斎の妻五百の姉夫塗物問屋会津屋宗右衛門方の通番頭は首席を庄太郎と云つて、年給四十両であつた。五百の里親神田紺屋町の鉄物問屋日野屋忠兵衛方には、年給百両の通番頭二人があつて、善助、為助と云つた。此日野屋すら相応の大賈であつた。此等より推せば、通番頭三人に各年に百五十両を給した、津軽屋の大さが想見せられる。且津軽家は狩谷に千石の禄を与へた。次年五月は廩米中より糯米三俵を取つて柏餅を製し、津軽藩士と親戚故旧とに貽るを例としてゐたさうである。(『伊沢蘭軒』 その二百十三)

年給二十両で傍輩に羨まれてゐた、となると、どうもやはり一両五万円とするわけにはいかない。一両十万円でも年給二百万円である。


最後に蘭軒伝の巳巳年(明治2年)の記述である。この時期はすでに幕末の急激なインフレ後のことのはずだが、銀相場について書かれているので、ここに記載する。

「十一日。(七月。)晴。吉津へ行、家作大工に為積。飯島金五郎引請に而、銀札三貫目、月一歩二之利足を加へ、当暮迄借用、養竹証人也。」当時の銀相場金一両銀十八匁を以てすれば、三貫目は百六十六両余である。是が関西地方当時の家屋建築費である。しかしわたくしは此の如き計算に慣れぬから、此数字には誤なきを保し難い。

《江戸時代平均 金 1 両 = 約 6.6万円 = 銀 60 匁 = 銭 4千文(16.5円/文)》などという記述があるが、上の文には、《銀相場金一両銀十八匁》となっている。

鴎外の計算は正しいのだろうか。1貫は1000匁であり、3貫は3000匁。

3000÷18 = 166.7


…………


さて梅谷文夫氏が指摘するなかで、すくなくとも鴎外の一粒金丹の記述は明らかにおかしい。《到底,信じられぬ内容である。》と梅谷氏が書くのは当然だ。だが、いままで梅谷氏以外の誰かが指摘しているのを寡聞にしてか聞いたことがない。史伝でなく小説であっても、この記述にはひどい落度がある。

文化十一年に一粒金丹を調製することを許された。これは世に聞えた津軽家の秘方で,毎月百両以上の所得になったのである。(『渋江抽斎』その十一)

一両十万円としたら、毎月一千万円の収入である。もし百両の収入が毎月あるなら、新築の見積三十両が、《工事いまだ半ならざるに、費す所は既に百数十両》になっても、抽斎が《何百両という金は容易に調達せられるものではない》などと言うことはあり得ない、またどうして妻の五百が着物を質入する必要があろう。

砂金と一両小判の話で始めたのだ、鴎外の抽斎伝は、金銭の観点からは、砂両の楼閣である、と言っておこう。