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2014年5月31日土曜日

五月卅一日 黒服の婦人の娘のような流し目

木曜日 十一時半

私は読書室で二時間仕事をした。それから、パイプを燻らすために抵当権登記所の中庭に降りた。そこは薔薇いろの煉瓦で舗装された広場であって、十八世紀に落成し、いまはプーヴィル市民の誇りとなっている。シャマード街とシェスペダール街との入口には、古い鎖が車の出入を遮っている。犬を散歩させにきた黒服の婦人たちが、壁に沿ってアーケードの下を通って行く。彼女たちは陽当りのよい場所には滅多に行かないが、娘のような流し目をこっそりと満足げに、ギュスターヴ・アントベトラーの銅像に注ぐ。彼女たちがこのブロンズの巨人の名を知っているはずはないが、フロックコートとシルクハットとによって、この男が上流階級に属していただれかであることを悟るのである。銅像は左手に帽子を持ち、右手を二つ折判の本の山の上に置いている。自分たちのおじいさんが、青銅で鋳造されて、この台の上に立っているかのような感じがいくらかする。あらゆる問題について、彼が自分たちと同じように、ほとんど同じように考えていることを知るために、長い間銅像を眺める必要はない。彼の権威と、彼が重い手で押し潰している二つ折判のたくさんの本の中から汲みとられた絶大な博識とが、彼女たちの狭くて堅実な、取るに足りぬ意見の助けになるのだ。黒服の婦人たちはほっとするのを感じる。心安らかに家事にいそしみ、犬を散歩させることができる。彼女たちが父から受けついだ神聖な考えや思いつきを、守護する責任はもはやない。代りに青銅の男が番人になっているのだから。(サルトル『嘔吐』白井浩司訳 p47-48)


自分たちのおじいさんのような銅像に、黒服の婦人たちは娘のような流し目を送る。それだけで、ほっとするのを感じる。そうすれば、《彼女たちが父から受けついだ神聖な考えや思いつきを、守護する責任はもはやない》。祖先伝来の厳格なモラルは、青銅の男の番人が代って守ってくれる。

ここには「礼儀」の効用がある。信じたふりをする効用がある。それはなにも跪く必要はない。娘のような流し目だけでよい。「おじいさん、分かってるわ、覚えているわよ、あなたの言いつけ」、――こうしておけば、その後、すこし羽目を外しても大丈夫なのだ。われわれも同じく。正月に神社にお参りにしたり、神棚をちらっと横目で見たり、仏壇の線香の香りに束の間うっとりするだけでよい。いや手を合わせて祈ったら、もっと効果がある。さあ、そうすれば、急いだってかまわない、夜の街へ(男を騙しに)。





《自分の信仰を大事にするのではなく、信仰が侵入してくるのを追い払い、一息つくスペースを確保するために跪くのだとしたらどうだろう。信じる--媒介なしに直接に信じる--という苦しい重荷を、儀式を実践することによって誰か他人に押しつけてしまえばいいのだ。(結婚…愛がなくても結婚的生活によって愛が生まれる・・・ではなく、相手を愛しすぎないように儀式化するために結婚する)


以下、上のジジェクの文の前後を、もう少し長く抜き出しておこう。

どうやらわれわれがここで論じているのは、ずっと昔にブレーズ・パスカルが描き出した現象のようだ。パスカルは、信仰を持ちたいのに信仰への飛躍がどうしてもできない非信者への助言の中で、こう述べている。「跪いて祈り、信じているかのように行動しなさい。そうすれば信仰は自然にやってくるだろう」。あるいは、現代の「断酒会」はもっと簡潔にこう言っている。「できるふりをしろ。できるようになるまで」。しかし今日、文化的ライフスタイルへの忠誠心から、われわれはパスカルの論理を逆転する。「あなたは自分が本気すぎる、信じすぎると思うのですね。自分の信心が生々しく直接的すぎるために息苦しいのですね。それならば跪いて、信じているかのように行動しなさい。そうすれば信仰を追い払うことができるでしょう。もはや自分で信じる必要はないのです。あなたの信仰は祈りの行為へと対象化されたからです」。つまり、自分の信仰を大事にするのではなく、信仰が侵入してくるのを追い払い、一息つくスペースを確保するために跪くのだとしたらどうだろう。信じる--媒介なしに直接に信じる--という苦しい重荷を、儀式を実践することによって誰か他人に押しつけてしまえばいいのだ。(結婚…愛がなくても結婚的生活によって愛が生まれる・・・ではなく、相手を愛しすぎないように儀式化するために結婚する)

 ここから、われわれは象徴的秩序の次なる特徴、すなわちその非心理的な性質へと向かうことになる。私が他人を通じて信じる時、あるいは自分の信仰を儀式へと外在化し、その儀式に機械的に従うとき、あるいはあらかじめ録音された笑いを通じて笑うとき、あるいは泣き女を媒介して喪の仕事をおこなうとき、私は内的な感情や信仰に関わる仕事を、それらの内的な状態を動員することなく、やり遂げている。そこに、われわれが「礼儀」と呼ぶものの謎に満ちた状態がある。私は知人に会うと、手を差し出し、「やあ(会えてうれしいよ)、元気?」と言う。私が本気で言っているのではないことは、両者とも了解している(もしその知人の心に「この人は私に本当に関心を持っているのだろうか」という疑念が芽生えたら、その人は不安になるだろう。彼の個人的なことに首を突っ込もうとしているのではないか、と。古いフロイト的なジョークを言い換えるとこうなる。「どうして会えてうれしいなんて言うんだ? 会えてうれしいと本気で思っているくせに」)。ただし、私の行為を偽善的と呼ぶのは誤りだ。別の見方をすれば、私は本当にそう思っているのだから。礼儀正しい挨拶は、われわれ二人の間にある一種の契約を更新しているのだ。同様に、私はあらかじめ録音された笑いを通じて「本気で」笑っているのである(それが証拠に、私は実際に気分が楽になる)。(ジジェク『ラカンはこう読め』




《結婚…愛がなくても結婚的生活によって愛が生まれる・・・ではなく、相手を愛しすぎないように儀式化するために結婚する》については、ジジェクには種々の変奏がある。


ここでは最近の書『LESS THAN NOTHING』(2012)から、ひとつだけ抜き出しておこう。

ラカン派の用語では、結婚は、対象(パートナー)から“彼(彼女)のなかにあって彼(彼女)自身以上のもの”、すなわち対象a(欲望の原因―対象)を消し去ることだ。結婚はパートナーをごくふつうの対象にしてしまう。ロマンティックな恋愛に引き続いた結婚の教訓とは次のようなことである。――あなたはあのひとを熱烈に愛しているのですか? それなら結婚してみなさい、そして彼(彼女)の毎日の生活を見てみましょう、彼(彼女)の下品な癖やら陋劣さ、汚れた下着、いびき等々。結婚の機能とは、性を卑俗化することであり、情熱を拭い去りセックスを退屈な義務にすることである。(私訳)

逆に言えば、「犬のお尻にほれてしまえば、 犬のお尻もばらの花」(プルースト)。

ジジェクの文の<対象a>が結婚によってなくなってしまうとあるが、対象aとはかくの如し。

永遠に退屈な女性的な質問、「どうしてあなたは私のことが好きなの」という質問を例にとって考えてみよう。本当の恋愛においては、この質問に答えることはもちろん不可能である(だからこそ女性はこの質問をするのだが)。つまり、唯一の適切な答えは次の通りである。「なぜなら、きみの中にはきみ以上の何か、不確定のXがあって、それがぼくを惹きつけるんだ。でも、それをなにかポジティヴな特質に固定することはできない」。いいかえれば、もしその質問にたいしてポジティヴな属性のカタログによって答えたなら(「きみのおっぱいの形や、笑い方が好きだからだ」)、せいぜいのところ、本来の恋愛そのものの滑稽なイミテーションにすぎなくなってしまう。(ジジェク『斜めから見る』P194)

もっともさきほど私訳した『LESS THAN NOTHING』の文のあと、しばらくして次のような文がある。

結婚とは崇高化が理想化のあとに生き残るかどうかの真のテストの鍵となるものだったらどうだろう? 盲目的な愛では、パートナーは崇高化されるわけではない。彼(彼女)はただ単純に理想化されるだけだ。結婚生活はパートナーをまちがいなく非―理想化する。だがかならずしも非―崇高化するわけではない。(ジジェク『LESS THAN NOTHING』)

理想化と崇高化? 理想化と崇高化を混同してはならない。


誤った崇拝は理想化をうむ。それは他者の弱さを見えなくする──あるいは、それはむしろ、自己のいだく幻影を投影するスクリーンとして他者を利用し、他者そのものを見えなくする。(ジジェク『信じるということ』)

二流詩人や小説家の「理想化」に耽溺するのには注意しなければならない(場合によっては、一流詩人・作家でさえ)。

宮廷恋愛を考えるにあたってまず避けるべき落とし穴は、<貴婦人>を崇高な対象とする誤った見方である。そんなことを言えば通例、生々しい性的な欲情が浄化されて精神的な思慕へと高められるというプロセスのことが考えられる。かくて<貴婦人>は、ダンテのベアトリーチェのようにより高い次元の宗教的エクスタシーへと人を導く神聖なものだととらえられるのだ。

こうした考え方とは反対に、ラカンは、このような浄化作用に反するような特徴をいくつも指摘している。たしかに、宮廷恋愛における<貴婦人>は、具体的な特徴は一切持たず、ただ抽象的な<理想>として崇められる。そのため、「詩人たちはみな同一人物を称えているようだという点に作家らは着目した。……これらの詩の世界における対象の女性からは、現実的な実体は一切うかがわれない」となるのだ。しかし、<貴婦人>のこうした抽象的な性質は、精神的な純化とは何ら関係はない。むしろこの性質は、冷淡で隔たりのある非人称的な相手にありがちな性質に近い。
つまり、<貴婦人>は、暖かく思いやりがあり人の気持を察するような、われわれ人間の同類などでは絶対にありえない。(……)

したがって、騎士と<貴婦人>の関係は、臣下-隷属者である家臣と、無意味でとてつもない、とうていできそうにないような、勝手で気まぐれな試練を課してくる<封建的主人-支配者>の関係である。

ラカンはまさに、こうした試練が崇高とはおおよそかけ離れていることをはっきりさせようと、<貴婦人>が家臣に文字通り尻の穴をなめるよう命令する詩を引用している。詩人は、その場所で待ち受けていた悪臭に対してぐちをこぼし(中世の人々が恐ろしい衛生状態にあったことはよくご存じだろう)、こうやって務めを果たしている最中に尿を顔にひっかけられるかもしれないという危険をひしひしと感じる……。
これほどさように、<貴婦人>は浄化された神聖なものとはほど遠い。(ジジェク『快楽の転移』)

これらはジジェク独特の極端な例でありーー極端だから愉快になるのだがーー、実際のところは結婚生活では、ほとんどの場合理想化も崇高化も生き残らず、友達化やら母親化などがせいぜいのところだろう。

と書いたところで、また愉快な極端さをもったジジェクの文を想い起こす、《いっしょに暮している女は<女>ではない、結婚生活の平和はつねに脅かされている》。こうして男たちは結婚後も「もう一人の女the Other Woman」を探し求める(参照:ジジェクの愛の定義)。

ーーなどとジジェクばかり引用せずにも、わが野坂昭如の言葉がある。

「男どもはな、別にどうにもこうにもたまらんようになって浮気しはるんとちゃうんや。みんな女房をもっとる、そやけど女房では果たしえん夢、せつない願いを胸に秘めて、もっとちがう女、これが女やという女を求めはんのや。実際にはそんな女、この世にいてへん。いてえへんが、いてるような錯覚を与えたるのがわいらの義務ちゅうもんや。この誇りを忘れたらあかん、金ももうけさせてもらうが、えげつない真似もするけんど。目的は男の救済にあるねん、これがエロ事師の道、エロ道とでもいうかなあ。」(野坂昭如『エロ事師たち』)



ーー実は、昨晩Tumblrを眺めていてこの写真に行き当たり、しばらく茫然としていたのだよな。ああ、失われたもの。日本にノスタルジイを覚えるのはそんなに多くはないけど、これだけは紛れもない喪失感だ。祇園の女が去って行く。これはおそらく宮川町通か? あの店のママの名前だけ憶い出して、店の名が憶いだせない。こじんまりしたほの暗い空間のなか、白木のカウンターの向こうの匂いやかな中年の女のほほえみ。低く穏やかな声。肌理の細かい象牙色の肌。薄暗さのなかの妖艶さは他の国でもあるが、あのほの暗さのなかの清冽さと親密さというのはなかなか出会うことはできない。せつなさ、遣る瀬無さ、沈んだ翳りのなかのつややかさ--谷崎の『陰翳礼讃』でもあり川端の『美しさと哀しみと』でもあるあの感覚。

《けやきの木の小路を/よこぎる女のひとの/またのはこびの/青白い/終りを》(西脇順三郎)

あれはオレの「崇高化」だね、三十前後の青年が、バブルの余沢もあったけど、週に二、三度は通ったからな。「お日様の光のもとでみたら、あたしなんかもうおばあさんよ」などと囁いた声まできこえて来るよ。それとも単なる「理想化」だったのか。厨房に弟子入りしてカウンターの向こうに入ったら究極のシアワセじゃないか、などとまで思い詰めたことがあるからなあ。

さて何の話だったか。結婚?女たち? 彼女たちも母親化にうんざりして、別のアバンチュールを探すんじゃあないかい? もしそうでなかったら、次のようなことになりかねない。

「そう。君らにはわかるまいが、五十六十の堂々たる紳士で、女房がおそろしくて、うちへ帰れないで、夜なかにそとをさまよっているのは、いくらもいるんだよ。」(川端康成『山の音』)

だが、そもそも結婚前の情熱恋愛などというものが稀になっているのかもしれない。いまでは結婚とは「セキュリティ」のためであったり、最初から妥協化によってなされることが多いのだろう。「婚活」などというなんともはしたない言葉の流通は、「新自由主義」ーーその三つの標語「成功」「自己投資」、そして「負け犬」)ーーの猖獗を象徴するものである。その破廉恥を破廉恥とさえ感じなくなっているのが現代日本人というものだ。「女子力」などというものもその類であろう。結婚がいまだ「神聖」なものでありうるのは、同性愛者の間だけかもしれない。