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2014年5月16日金曜日

五月十六日 南沙諸島

にわか知識とさえ言えない程度だが、ほとんど無知であった「南沙諸島」(中国名:南沙群島、越語名:Qun Đo Trường Sa群島長沙、英語名:Spratly Islands)についていささか調べてみる。

東「支那」海、南「支那」海について――名称から明らかのように東中国海、南中国海と呼ぶべきものだがーー、歴史上遡れば、中国文献が豊富であり、彼らの属「領」という印象は免れがたくなる。だが中国史研究者としても有名な作家の陳舜臣によれば《天下そのものである国家には、蛮族の住む辺境はあっても国境はなく、朝貢はあっても対等の国家や通商がない、というのが中華帝国の伝統であった》(『中国の歴史』)ということになる。ということで「近代国家」概念が鮮明になった十九世紀から二十世紀の歴史のみを振り返ってみれば、つぎのようになるらしい。

紀元前から南シナ海の歴史に一貫して登場してきたのは中国であるが、一九世紀に入ってからは、ヨーロッパの帝国主義勢力とくにフランスがベトナムを征服して保護国化することにより、第二次大戦までは中国対フランス・ベトナムの対決構造が主流を占めた。しかし、第二次世界大戦勃発の直前に日本が南沙諸島(新南群島と呼称)を占領したいきさつがある。そして第二次大戦の結果、日本が降伏を喫するや、当時の中華民国(Republic of China:ROC)政府は、その直後に南沙諸島を接収し、自国の管理下に置いたのである。(山口開治『西沙、南沙諸島の領有問題』

ベトナムを植民地支配していたフランスが1930年頃からいくつかの島々を実効支配するという事実は、清仏戦争の勝者であったフランスが、南沙諸島も「植民地化」したという文脈でも捉えうるのだろう。

また、第二次大戦の結果、日本が降伏を喫するや、当時の中華民国(台湾)の政府が管理化においたというのは次のようなことに由来するらしい。

第二次世界大戦中には日本政府が同諸島(南沙諸島)を占領し、台湾総督府が管轄する高尾市に所属させた。(「南シナ海と尖閣諸島をめぐる馬英九政権の動き」)

もしこの事実に立脚して、中国が尖閣諸島の領有権を主張する論理、すなわち「1943年のカイロ宣言、1945年のポツダム宣言で、尖閣諸島は台湾の付属諸島として中国に返還」(『尖閣諸島について』 20133月 外務省)とするなら、南沙諸島も第二次世界大戦後台湾の付属諸島であったのだから、中国の「領土」ということになってしまう。

他方、尖閣諸島は、日本人の島民が住みついていたり、利用していたのと同じように、南沙諸島は、ベトナム人の島民が住みつき、あるいは利用していた、という事実はある。

外務省の中国の尖閣諸島の「領有権」に対する反論としては、《中国・台湾は石油の存在が指摘された後の1971年に初めて領有権を主張》しており、それまで何ら主張を行なっていなかった、と。

日中首脳会談(田中角栄総理/周恩来総理)】 (1972年9月27日)(外交記録公開済み)

(田中総理)尖閣諸島についてどう思うか?私のところに,いろいろ言ってくる人がいる。
(周総理)尖閣諸島問題については,今回は話したくない。今,これを話すのはよくない。石油が出るから,これが問題になった。石油が出なければ,台湾も米国も問題にしない。

これは南沙諸島の石油についてはおそらくいっそうそうなのだろう(かつて中国政府は南沙諸島の石油の推定埋蔵量を最大でサウジアラビア並みの2千億バレルと推測している)。


――これらについては、より分かり易く次の記事にまとめられている。→ 南沙諸島(スプラトリー諸島)

佐藤優が「日本と中国が友好国になることはない(……)意思、能力の双方において、日本を侵略する可能性がある中国は現実的脅威。日本を敵とするイメージで、近代化による国家統合を図ろうとしている。今後50年は変わらない」(「今後50年は変わらない」中国の弱点研究が不可欠)と言うように、中国とベトナムの関係も「友好国」にはなりがたい、というのが実情というものか。





この地図をさかさにしても、あまり面白くないのだが、数年前、富山県が日本海の地図をさかさにして作製した図がひどく印象に残っている。《富山県は、日本海を中心に地図の南北を逆転させた「環日本海諸国図」(通称:逆さ地図)の改訂版を作成した。》

逆転させて眺めれば、中国からは日本などただの目のうえのたんこぶとでもいうべきものに過ぎない。




武藤国務大臣)……そのオーストラリアへ参りましたときに、オーストラリアの当時のキーティング首相から言われた一つの言葉が、日本はもうつぶれるのじゃないかと。実は、この間中国の李鵬首相と会ったら、李鵬首相いわく、君、オーストラリアは日本を大変頼りにしているようだけれども、まああと三十年もしたら大体あの国はつぶれるだろう、こういうことを李鵬首相がキーティングさんに言ったと。非常にキーティングさんはショックを受けながらも、私がちょうど行ったものですから、おまえはどう思うか、こういう話だったのです。私は、それはまあ、何と李鵬さんが言ったか知らないけれども、これは日本の国の政治家としてつぶれますよなんて言えっこないじゃないか、確かに今の状況から見れば非常に問題があることは事実だけれども、必ず立ち直るから心配するなと言って、実は帰ってまいりました。(第140回国会 行政改革に関する特別委員会 第4号 平成九年五月九日

中国は、今後「一人っ子政策」などの影響で著しく高齢化が進んで苦しむのは確かだ(あるいは人口でも数十年後にインドに追い抜かれる)。中国とインド? --ここで、《一九九〇年以来、世界資本主義は、中国やインドのおかげで、何とかもっています》(「生活クラブとの対話」)、あるいは《現在は先進国で耐久消費財が飽和し、中国やインドなどの新興国が頼りである。》(『<戦前>の思考』)という柄谷行人の言葉を挿差しておく。

具体的に、高齢者人口(65 歳以上)を生産年齢人口(現役世代、15~64 歳)で割った老年人口指数を求めてみると、 2010 年時点では 100 人の現役世代で 11 人の高齢者を支えていたが、 2020年には 17 人、2050 年には 42 人を支えることになり、約 4 倍の負担になる。

今後の中国は、これまでの 2 桁台の高い成長率から質の伴った安定成長へスムーズにシフトするという目標を実現しながら、社会保障制度など膨張する費用を賄わなければならない。例えば、子どもが 1 人しかいない家庭では高齢者介護が大きな負担になるために、年金補助制度などを強化していく方針であるという。

ちなみに、 日本において高齢化比率が中国の 2010 年と同じ 8.2%を上回ったのは 1977 年であった。中国の現在の経済規模は日本を抜いて世界 2 位だが、1 人当たり名目 GDP(2010 年時点)は 4,400 米ドル程度であり、 1977 年当時の日本の 1 人当たり名目 GDP6,100 米ドルを下回っている。この間の生活水準や物価の変化を考えれば、その格差はより大きい。単純な比較はできないが、中国では人々の生活が豊かになる前に高齢化が始まっている。(大和総研 DIR30年プロジェクト「超高齢日本の30年展望」より)

平然と「二十一世紀中葉の中国」を語る中国の指導者層であるから、この極度の高齢化進行の将来は、彼らには痛いほど分かっているのだろう。その痛みを少しでも和らげるためには、経済成長率を「安定」して維持しなければならない、と。中国の「覇権主義」と言われる実態は、世界資本主義、あるいは「資本の論理」の文脈からだけではなく、中国内政の息詰まりという観点からも見てみる必要がある。もっともこれも大きく言えば「資本の論理」の暴走の問題に帰結すると言えるのだろうが。--《資本の論理はすなわち差異性の論理であるわけです。差異性が利潤を生み出す。ピリオド、というわけです》(『終りなき世界』柄谷行人・岩井克人対談集1990)

とはいえ、中国という「大国」は、日本と比べれば、次のような事実があることは認めなければならない。

中国人は平然と「二十一世紀中葉の中国」を語る。長期予測において小さな変動は打ち消しあって大筋が見える。これが「大国」である。アメリカも五十年後にも大筋は変るまい。日本では第二次関東大震災ひとつで歴史は大幅に変わる。日本ではヨット乗りのごとく風をみながら絶えず舵を切るほかはない。為政者は「戦々兢々として深淵に臨み薄氷を踏むがごとし」という二宮尊徳の言葉のとおりである。他山の石はチェコ、アイスランド、オランダ、せいぜい英国であり、決して中国や米国、ロシアではない。(「日本人がダメなのは成功のときである」1994初出『精神科医がものを書くとき Ⅰ』所収広英社)