《女性は過去何世紀もの間、男性の姿を実物の二倍の大きさに映してみせるえも言われぬ魔力を備えた鏡の役目を果してきた。》
《文明社会における用途が何であろうと、鏡はすべての暴力的、英雄的行為には欠かせないものである。ナポレオンとムッソリーニがともに女性の劣等性をあれほど力説するのはそのためである。女性が劣っていないとすると、男性の姿は大きくならないからである。女性が男性からこうもたびたび必要とされるわけも、これである程度は納得がいく。また男性が女性の批判にあうとき、あれほど落ち着きを失うことも、あるいはまた、女性が男性にむかってこの本は良くないとか、この絵は迫力がないなどと言おうものなら、同じ批判を男性から受けるときとは段違いの絶えがたい苦痛を与え、激しい怒りをかきたてるわけも、これで納得がいく。》
《つまり、女性が真実を語り始めたら最後、鏡に映る男性の姿は小さくなり、人生への適応力が減少してしまうのである。もし男性が朝食の時と夕食の時に、実物よりは少なくとも二倍は大きい自分の姿を見ることができないなら、どうやって今後とも判決を下したり、未開人を教化したり、法律を制定したり、書物を著したり、盛装して宴会におもむき、席上で熱弁をふるうなどということができようか?そんなことを私は、パンを小さくちぎり、コーヒーをかきまわし、往来する人々を見ながら考えていた。》
《 鏡に映る幻影は活力を充たし、神経系統に刺激を与えてくれるのだから、きわめて重要である。男性からこれを取り除いてみよ、彼は、コカインを奪われた麻薬常用者よろしく、生命を落としかねない。この幻影の魔力のおかげで、と私は窓の外を見やりながら考えた、人類の半数は胸を張り、大股で仕事におもむこうとしているのである。ああいう人たちは毎朝幻影の快い光線に包まれて帽子をかぶり、コートを着るのだ。》
《女性が真実を語り始めたら最後、鏡に映る男性の姿は小さくなり、人生への適応力が減少してしまう》…そうさ、二〇世紀中葉から、漸く女たちが真理を語り始めた…偉大なる先駆者の尻馬に乗ったてかまいはしない…「真理」だと? そんなものはない、わかってるさ…ではなんていったらいいのかい? またしてもニーチェやラカンかい? もうとっくのむかしに耳にタコができたさ…
《真理が女である、と仮定すれば-、どうであろうか。すべての哲学者は、彼らが独断家であったかぎり、女たちを理解することにかけては拙かったのではないか、という疑念はもっともなことではあるまいか。》(『善悪の彼岸』)
《真理は乙女である。真理はすべての乙女のように本質的に迷えるものである。》(『同一化』セミネール)
限りなくサドを遠巻きにしてサドの隠れた親戚みたいな偉大なウルフ、初潮の狼…《うしろむきの夫/大食の父親/初潮の娘はすさまじい狼の足を見せ/庭のくろいひまわりの実の粒のなかに/肉体の処女の痛みを注ぐ》(吉岡実「聖家族」)
そもそも女というものは、自然がわれわれ男の必要と快楽を満足させるために与えた家畜ではないかね? われわれの家畜飼育場の牝鶏より以上に、彼女たちがわれわれの尊敬を受けねばならぬという、どんな権利があるのだね? この二つのあいだに見られる唯一の違いは、家畜というものが従順なおとなしい性格によって、なんらかの意味でわれわれの寛容なあしらいを受けるに値するのに対し、女は許術、悪意、裏切り、不実といった永遠に根治しない性質によって、過酷と乱暴なあしらいしか受けるに値しない、ということではないかね?(サド『悪徳の栄え』)――「十六通りのさまざまな方法で、縛られた十六人の娘」を殺し、その死骸を昼食用に「料理」して食べる登場人物ロシア人ミンスキー曰く)
サドを誤読してはならない…サドはどんな性行動の基底にも実は殺人があるってことを明らかにしただけさ…そんなことはもう何度も復習されている…上品ぶった連中だけがいまだ気づかないだけだ…
イポリット)動物は交尾している時、死に委ねられています。しかし動物はそれを知りません。
ラカン)一方、人間はそれを知っています。それを知り、それを感じています。
イポリット)そのことは、人間こそ自らに死を与えるということにまで至ります。人間は他者を介して己れ自身の死を望みます。
ラカン)愛は自殺の一形態であるという点で私たちは完全に意見が一致しています。
(ジャック・ラカン『フロイトの技法論』上 岩波書店 242頁)
いま耳をすますのは別の声だ…さあ、耳をそばだててもう一度よく聞くがいい、聴診器なんかいらない…ウルフ、初潮の狼の声…最もささいな形容詞のなかでもそれがふつふつと沸き立っているのが聞こえてくる…
「これ以上はっきり申し上げられるでしょうか、マダム? 私の胸の裡をこれ以上はっきりお聞かせできるでしょうか? どうかお願いですから、私のおかれた状態を少しは憐れんでください! 恐ろしい状態なのです。そう申し上げることで私があなたを勝利者にしてしまうことくらい承知しています。しかしもうそんなことはかまいません。私はあまりにも不運なやりかたであなたのお心の平安を乱してしまったがために、マダム、私の犠牲であなたに勝利をご提供致すはめになったことを悔やむ気にすらなれないのです。あなたはご自分の力を尽くして、ひとりの人間が蒙りうる最高度の辱めと、絶望と、不幸とに私が見舞われるのをご覧になろうとしたわけですから、どうぞご享楽ください、マダム、さあどうぞ、なぜならあなたは目標を達せられたのですから。私はあえて申しますが、人生を私ほど重荷に感じている存在はこの世にひとりたりともおりません。 」(サド「1783 年 9 月 2 日付モントルイユ夫人宛書簡」)
ごらんの通り、女はつねに勝利する、マダム、マドモアゼル、どうぞご享楽ください!
気をつけるがいい…「父」にすっかり飼い馴らされてしまった女たちだっている…男に尻尾を振る女たち、男たちの家畜…「父」になろうとする女だっている…小説家のなかにさえ…偽のエディプス的女…ーー《「男性」に戦いをいどむ、と言っているのは、つねに手段、口実、戦術にすぎぬ。彼女らは、自分たちを「女そのもの」、「高級な女」、女の中の「理想主義者」に引き上げることによって、女の一般的な位階を引き下げようとしている存在だ。》(ニーチェ『この人を見よ』)
そんな女のいうことには耳を塞がねばならない…善意の女だってそうだ…退化した女…
それに、きみたち!…勘違いしてはいけない…女にヒステリーが多いというのは通り相場だが、あのヒステリーの女たちがウルフと同属だとは…あれは女でも「男性の論理」で動いているのだ…
ラカンの『主体の転覆』 のテクストにはこうある―― 「神経症者では (-Φ) はファンタスムの下に潜り込み、 自我に特有なイマジネーションを助長する。 なぜなら、神経症者はイマジネールな去勢を最初から被っており、それが彼の強い自我を支持しているのだ。この自我はあまりにも強いので、自分の固有名さえじゃまとなり、結局、神経症者とは名無しなのである」 。
ラカンのこのマテームは、そもそも男女の性別化を示す二つのマテームの内の男性を表わすものである。したがって、ヒステリーは女性であっても男性であっても、男性の論理のもとに行動するわけである。これはフロイトのエディプスの論理に相当するものであるから、結局、フロイトは男性の論理しか展開しなかったということになる。(向井雅明「ヒステリーの、ヒステリーのための、ヒステリーによる精神分析」――東京精神分析サークル)
偉大なる女たちは「精神病的」なのだ…「女性の論理」…無限判断…境界を欠いた〈非-全体〉の体現者…(
「否定判断」と「無限判断」--カントとラカン)
《ラカンは精神病を「女性への衝迫[pousse a la femme]」とみなすという、今では有名となったフレーズを作りました。精神病は女性の領域にあるのです。神経症においては、 ヒステリーと強迫が区別され、 一般に女と男に関連付けられます。しかし、だからといってヒステリーの男性がいないと主張するのではありません。…(ミレール「ラカンの臨床パースペクティヴへの導入」 ーー「
ひとりの女のうちにある不誠実は、けっして深くとがめられることではない」)
いや、だからといって「精神病親和型」の女が、ヒステリーにならないとも限らない…気をつけろ…ややこしいのだ…ラカンなんて読むもんじゃない…《病的ナルシシストをヒステリー化するには、その属性に還元できないような象徴的委託を押しつけさえすればいい。そうした対決はヒステリー的な疑問をもたらず。「どうして私は、あなたがこうだと言っているような私なのか」。》(ジジェク『斜めから見る』p195)
まあ、なんでもよい…ヒステリーからは逃げ出せ! 逃げたら追いかけろ! 「女のもとへ行くなら、鞭をたずさえることを忘れるな」(『ツァラトゥストラ』)…やめとけ、鞭なんて…かえってひどい目にあう、サドのように…勝利にするのは、いつも女たちだ…
《女が男の徳をもっているなら、逃げだすがよい。また、男の徳をもっていないなら、女自身が逃げだす》(ニーチェ『偶像の黄昏』「箴言と矢」28番)
女という女はわたしを愛するーーいまさらのことではない。もっとも、かたわになった女たち、子供を産む器官を失った例の「解放された女性群」は別だ。 ――幸いにしてわたしには、八つ裂きにされたいという気はない。完全な女は、愛する者を引き裂くのだ ……わたしは、そういう愛らしい狂乱女〔メナーデ〕たちを知っている ……ああ、なんという危険な、足音をたてない、地中にかくれ住む、小さな猛獣だろう! しかも実にかわいい! ……ひとりの小さな女であっても、復讐の一念に駆られると、運命そのものを突き倒しかねない。 ――女は男よりはるかに邪悪である、またはるかに利口だ。女に善意が認められるなら、それはすでに、女としての退化の現われの一つである …(『この人を見よ』)
ウルフのような女に感染しなければならない…わかっているだろうな
女性独自のエクリチュールについて意見を求められたとき、ヴァージニア・ウルフは「女性として」書くと考えただけで身の毛のよだつ思いだと答えている。それよりもむしろ、エクリチュールが女性への生成変化を産み出すこと、一つの社会的領野を隈なく貫いて浸透し、男性にも伝染して、男性を女性への生成変化に取り込むに足るだけの力をもった女性性の原子を産み出すことが必要なのだ。とても穏やかでありながら、厳しく、粘り強く、一徹で、屈服することのない微粒子。(ドゥルーズ&ガタリ『千のプラトー』)
《それに「好きだ」「嫌いだ」っていうのは、結局どういう意味なのか? 梨の木のそばに釘付けにされて立ち尽くしていると、二人の男性のさまざまな印象が降り掛かってきて、目まぐるしくかわる自分の思いを追いかけることが、速すぎる話を鉛筆で書き留めようとするのにも似た、無理な行為に思われてくる。しかもその「話し声」は紛れもない自分自身の声で、それが否定しがたく、長く尾を引くような、矛盾に満ちたことを次々と言い募るのを聞いていると、梨の木の皮の偶然の裂け目やこぶでさえ、どこか永遠不変の確乎としたもののように感じられた。》(ヴァージニア・ウルフ『灯台へ』)
《そもそも肉体に宿る感情を、一体どうすれば言葉にすることができるといのだろうか? たとえばあそこの空虚さを、どうように表現すればいいのか?(リリーの眺める客間の踏み段は恐ろしく空虚に見えた。)あれを感じ取っているには身体であって、決して精神ではない。そう思うと、踏み段のむき出しの空虚感のもたらす身体感覚が、なお一層ひどくたえがたいものになった。》(ヴァージニア・ウルフ『灯台へ』)
耳をかっぽじってよく聞くがいい …ウルフとサドの言葉…それはつねに女の問題なんだ、とどのつまり …人の語り合うことすべてが …女「なるもの」を伝えるため …問いのなかの問いから逃れるためだ …
世界は女たちのものだ、いるのは女たちだけ、しかも彼女たちはずっと前からそれを知っていて、それを知らないとも言える、彼女たちにはほんとうにそれを知ることなどできはしない、彼女たちはそれを感じ、それを予感する、こいつはそんな風に組織されるのだ。男たちは? あぶく、偽の指導者たち、偽の僧侶たち、似たり寄ったりの思想家たち、虫けらども…一杯食わされた管理者たち…筋骨たくましいのは見かけ倒しで、エネルギーは代用され、委任される…(ソレルス『女たち』)
何度もくりかえして、ウルフの《女性は過去何世紀もの間、男性の姿を実物の二倍の大きさに映してみせるえも言われぬ魔力を備えた鏡の役目を果してきた》の文に耳をすましてみるがいい
幻想のスクリーンとしての<女>
不可能な<女>
<女>は存在しないla Femme n'existe pas
<対象a>としての<女>
The problem with woman is …that it is not possible to formulate her empty ideal‐symbolic
function—this is what Lacan has in mind when he asserts that “Woman
does not exist.” The impossible “Woman” is not
a symbolic fiction, but again a fantasmatic specter whose support is objet a,
not S1. (zizek”LESS THAN NOTHING”)
<対象a>それ自体はごくありふれた日常的なものだ、だが些細な出来事で突然、一種のスクリーンとして、つまり主体が自分の欲望を支えている幻想を投射できるような空間として機能しはじめる。ーー《幻想とは不可能な視線のことである。幻想の「対象」は、幻想の光景そのもの、つまりその内容ではなく、それを目撃している不可能な視線である。》(ラカン)
ーーわかるか? 男の不可能な視線、それが<対象a>としての<女>のスクリーンに自らの姿を写しだす…最近の鏡は写りが悪い…曇って歪んでいる…だれのせいだ? だれのせいでもいい…そんなことはとっくの昔にわかってたのさ…男たち…あぶく、偽の指導者たち、偽の僧侶たち、似たり寄ったりの思想家たち、虫けらども…《女性が真実を語り始めたら最後、鏡に映る男性の姿は小さくなり、人生への適応力が減少してしまう》
《男性とは「自分が存在すると信じている女性である」。》( アレンカ・ジュパンチッチ『リアルの倫理―カントとラカン』)ーー男ども! 虫けら! はやく自分が存在しないとする「女性」に生成変化しろ! 初潮の狼の声に束の間耳をすましたらよいだけだ、《エクリチュールが女性への生成変化を産み出すこと、一つの社会的領野を隈なく貫いて浸透し、男性にも伝染して、男性を女性への生成変化に取り込むに足るだけの力をもった女性性の原子を産み出すことが必要なのだ。とても穏やかでありながら、厳しく、粘り強く、一徹で、屈服することのない微粒子。》
背筋をまっすぐにのばして
目を閉じると
風のにおいがする
まるで果実のような
ふくらみを持った風
そこには
ざらりとした果皮があり
果肉のぬめりがあり
種子のつぶだちがある
果肉が空中で砕けると
種子はやわらかな微粒子となって
男たちの腕にのめりこむ
穏やかでありながら
粘り強い微粒子
一徹で屈服することのない原子
そしてそのあとに
微かな痛みが残る
ーー微かな痛みでよい、まずはそれだけでも感じとれ
(ところで、この詩は剽窃だってことが分ってるだろうな、誰のだって?)
女は存在しない。われわれはまさにこのことについて夢見るのです。女はシニフィアンの水準では見いだせないからこそ我々は女について幻想をし、女の絵を画き、賛美し、写真を取って複製し、その本質を探ろうとすることをやめないのです。いずれにせよ女性という存在についてそれに本質などあるかどうかは、普遍的愚行connerie universelle-愚行には常に一片の真理が含まれています-によって疑問とされることですが。このことは女性の価値を低めるものと見なされるかもしれません。しかし別の観点からすると、本質を持たないことは荷が軽いことにもなります。おそらくこれこそ女性を男性よりもはるかに興味深いものにするのでしょう。(ミレール“El Piropo”)
科学があるのでさえ<不可能な女>のせいだ…
《科学があるのは女性というものla femmeが存在しないからです。知はそれ自体他の性についての知の場にやってくるのです。》(ミレール「もう一人のラカン」)
耳をかっぽじってよく聞くがいい …もう一度だ…ラカン派なんてほうっておいてもいい…肝心なのは小説家だ…ウルフとサドの言葉だ…そこにニーチェの胡椒をふりかけて…それはつねに女の問題なんだ、とどのつまり …人の語り合うことすべてが …女「なるもの」を伝えるため …問いのなかの問いから逃れるためだ …大文字の他の性Autre sexs…男たちにとってだけでなく、女たちにとっても「大文字の他の性」は「女」なのだ…
哲学者だと? 思想家だと? 卑しいごますりどもめ あれら提灯持ち! 最近ではドゥルーズまで
解釈学の餌食になっている、なんというテイタラク…ドゥルーズ殺し!-- 《彼らはこれまで真理を手に入れる際に、いつも恐るべき真面目さと不器用な厚かましさをもってしたが、これ こそは女っ子に取り入るには全く拙劣で下手くそな遣り口ではなかったか。女たちが籠洛されなかったのは確かなことだ。》(ニーチェ)
オレはもちろん読んでない、ドゥルーズ読み殺しの噂の本など…でもやつの文体をわずかでも掠め読んでみろ…「解釈学」だぜ、あれは…
Meaning is an affair of hermeneutics(解釈学), Sense is an affair of interpretation(解釈)…前者が男性の論理、後者が女性の論理だ、《Meaning belongs to the level of All, while Sense is non‐All……Lacan's notion of interpretation is thus opposed to hermeneutics: it involves the reduction of meaning to the signifier's nonsense, not the unearthing of a secret meaning.》…「解釈」の気配など微塵もない…秘かな「意味meaning」を穿り返すのが好みらしい…おめでとう、超越論的経験論のご臨終!…「ボン・サンス」や「コモン・サンス」の閉域を突き破り、ランボーが「あらゆる感覚の錯乱」と呼んだような非人称的な高次の経験へと突き抜けていく超越論的経験論…その姿の気配などどこにもない…いやいや、オレは知らないぜ…しかし、あの文体…文学とはほとんど縁がない…人に説教ばかり垂れている内容空疎な文化人もどき…わかりやすさのファシズム…大衆を間抜けにすることに専念するへぼ教師…でないことを祈るよ…
参考ツイートだ、《國分功一郎は人気のある若手の大学教員らしいが、『暇と退屈の倫理学』も『ドゥルーズの哲学原理』も今ひとつだった。分かりやすいが、このつまらなさは何なのだろうか。國分の個人的なものなのか30代の研究者の平均的なつまらなさなのか、私が臍曲がりだけなのか考えてみるのも面白いかもしれない。
むろん、面白さやつまらなさというものは一般的にあるわけではない。その証拠に國分を面白いと思う人間もいるだろう(人気があるから多くいるのだろう)。だから違う感想を持つ根拠を、それも単なる個人的なものではなく、考える必要がある。おそらく現代の思想の何かが見えてくるはずだ。》
いやいや、分りやすさも、今では貴重だ…土人の時代の復活なのだから…土人たちにはきっと面白いさ…(
「観念の万能」(フロイト)と「腰の奥の力の圧力抜き」(大江健三郎))
あだしごとはさておき。
《作家というものはその職業上、しかじかの意見に媚びへつらわなければならないのであろうか? 作家は、個人的な意見を述べるのではなく、自分の才能と心のふたつを頼りに、それらが命じるところに従って書かなければならない。だとすれば、作家が万人から好かれるなどということはありえない。むしろこう言うべきだろう。「流行におもねり、支配的な党派のご機嫌をうかがって、自然から授かったエネルギーを捨てて、提灯持ちばかりやっている、卑しいごますり作家どもに災いあれ」。世論の馬鹿げた潮流が自分の生きている世紀を泥沼に引きずりこむなどということはしょっちゅうなのに、あのように自説を時流に合わせて曲げている哀れな輩は、世紀を泥沼から引き上げる勇気など決して持たないだろう)。》(マルキ・ド・サド「文学的覚書」、『ガンジュ侯爵夫人』)
《あの礼節を弁えない連中が言うにことかいて、作家のうちに誠実な人物を探し求めなければならないのだという。私が作家に求めるのは天才である。品行や性格はどうでもいい。なぜなら、私が共にありたいと思っているのは、作家その人ではなく、その作品だからであり、作家が私にもたらすもののうちで私にとって必要なのは、真実のみだからだ。〔 … 〕ディドロ、ルソー、ダランベールは、社交にかけてはほとんどお粗末と言っていいくらいだったようだが、彼らの書いたものは、「デバ」紙の紳士方の恥知らずな攻撃を受けたところで、その崇高さに変わりはない … 》。(同サド「文学的覚書」)
………
《メタ言語を破壊すること、あるいは、少なくともメタ言語を疑うこと(というのも、一時的にメタ言語に頼る必要がありうるからである)が、理論そのものの一部をなすのだ。「テクスト」についてのディスクールは、それ自体が、ほかならぬテクストとなり、テクストの探求となり、テクストの労働とならねばならないだろう。》(ロラン・バルト『作品からテクストへ』)
ーー超越論的経験論についてのディスクールは、それ自体が、ほかならぬ超越論的経験論の姿を示さなければならない、などとそのあたりの物書きに無謀な要求をするつもりはない。だが、少なくとも次のことは忘れてはならないだろう。《
「美しい書物は一種の外国語で書かれている・・・・・・」(プルースト)これが文体の定義だ。これはまた生成変化の問題だ。人々はつねに多数者の未来を想う(私が偉くなったら、権力をもった時には・・・・・・)。だが、問題は少数者=になることにかかわる。子供、狂人、女性、動物、どもり、あるいは外国人、彼らのふりをするのではない。彼らをつくり出すのでも模倣するのでもない。新たな力、新たな武器を創出するために、それらすべてになることである。》(ドゥルーズ『ディアローグ---ドゥルーズの思想』)
模範的反どもり文体なり?!
我々はドゥルーズの哲学原理を超越論的経験論として描き出した。その出発点にあったのは「発生」への視点である。ドゥルーズは、あらゆるものの発生を描き、あらゆるものをその発生において捉えようとする。これは、どんなものでもその現状の存在様態は発生‘後’の姿として解されるということ、したがって、発生の条件や過程次第で‘変化するもの’として解されるということである。ドゥルーズは、何についてであれ、「そのようなものがあるとしか考えられない」とか「そうしたものを想定せざるをえない」といった仕方で想定されてしまうことを認めない。
ドゥルーズは、カントによって創始された超越論哲学のプログラムを極めて高く評価していた。しかし同時に、カントが超越論哲学を運用するにあたって問うのをやめてしまった問いがあることに気づいていた。それが発生の問いである。超越論哲学のカント的運用は「超越論的統覚」という概念によって‘特定の’主体を‘想定’し、その特定の主体によって諸能力の一致(共通感覚)を根拠づける。カントは主体の発生を問わない。ゆえに、諸能力の発生も問わない。 ドゥルーズは、カントに先立つヒュームの哲学に、この発生の問いへの視点を見出した。一般に、カントの超越論哲学はヒューム経験論哲学を乗り越えることで出現したものと理解されている。(『ドゥルーズの哲学原理』)