いったん成功した「芸術家」の辿る道として、四つの仕方がある、と中井久夫は書いている。
第一は「自己模倣」、第二は「絶えざる実験」、第三は「沈黙」、第四は「自己破壊」。
「自己模倣」――これは到る処に見られる、ほとんどの場合そうだと言っていい。《自分自身のイメージにたいする気づかい、こいつはどうも、人間の矯正しようのない未熟さなんですねえ。自分のイメージに無関心でいるのはなんとも難しい! そういう無関心は人間の力を超えている》(クンデラ『不滅』P328)――クンデラは死後のゲーテとヘミングウェイの架空の対話のなかで、ゲーテに語らせている。
「芸術家」でなくてもよい、次は同じ小説の主要登場人物の会話文。
哲学者たちは、世の中の意見などどうでもいい、あるがままのぼくらだけが大事なんだと巧みに説明するかもしれない。しかし、哲学者たちには何も分かっていないのさ。ぼくたちが人類諸氏のなかで生きている限り、ぼくたちは人類諸氏によってこうだと見られる人間にされるだろうね。他のひとたちがぼくたちのことをどう見ているだろうかと考えこんだり、ひとの眼にできるだけ感じよく見られようと努力したりすると、腹黒い奴とか策士だとみなされるものなんだな。だけど、ぼくの自我と他人の自我のあいだに、直接の接触が存在するものなのかね、視線をおたがいに交わしあわなくても? 愛している相手の心のなかで自分がどう思われているか、その自分自身のイメージを不安な気持で追跡しないで、愛が考えられるものなのかね? 他人がぼくたちをどう見ているか、その見方が気にならなくなったら、ぼくらはその他人をもう愛していないことなんだよ(『不滅』P194)
ぼくたちのイメージは単なる外見で、そのうしろに、世の中のひとびとの視線とかかわりのない、自我のまぎれもない本質が隠されているなどと思うのは、まあ無邪気な幻想だよ。(……)ぼくたちの自我というものは単なるうわべの外見、とらえようのない、言いあらわしようのない、混乱した外見であり、それにたいして容易すぎるくらい容易にとらえられ言いあらわされるたったひとつの実在は、他人の眼に映るぼくたちのイメージなんだよ。そしていちばん困るのはこういうことだね。きみにはそのイメージに責任がもてないんだ。(同上)名声、もちろんそれもイメージだ。《ロダンは名声を得る前、孤独だった。だがやがておとずれた名声は、彼をおそらくいっそう孤独にした。名声とは結局、一つの新しい名のまわりに集まるすべての誤解の総体にすぎないのだから。》(リルケ『ロダン』)
他人の眼にうつるイメージに責任がもてないだけでなく、それはときに変質する。
「自己破壊」--、《自己破壊への拒みがたい傾斜が生まれても不思議ではない》と下に書かれているが、これは芸術家でなくても、一般人にもありうるだろう。「自己模倣」、「絶えざる実験」、「沈黙」ーーとなれば、たとえばブログなどを書いていても、「自己破壊」は起こりうる。
「イメージ」の変質とは、相手のことでわたしが恥ずかしい思いをするときに起ると言えるかもしれない(パイドロスによれば、まさしくそうした恥へのおそれこそ、ギリシャの恋人たちを「善」の道につなぎとめるものであったという。恋人たちはみな、相手の眼に映る自分のイメージに気をつけなければならないのであった)。ところで、恥は服従から生じるものである。わたしの洞察力、あるいは錯乱をもってしてようやく把えられるささいなできごとを通じて、突如あの人の姿は、本来が奴隷のものであるような願望に縛られたものと見えてくるーー隠された姿があらわれ、引き裂かれ、写真でいう意味で焼き付けられてくる。突如としてあの人が、社交的な典礼に迎合し、これを尊び、これに身を屈してまで自分を認めてもらおうと奔走し、狂乱し、あるいはただ単に夢中になっているのが見えてくる(ことはあくまで視覚的な問題である)。「悪しきイメージ」とは悪意のイメージではない。卑俗なイメージなのだ。陳腐な社交界のとりこになったあの人を示すイメージなのだ。(ロラン・バルト「変質」『恋愛のディスクール』P42)いったん大衆に受け入られた自己のイメージを意識的に保持しようするのは困難だ。そこで人は「絶えざる実験」に向かったり、「沈黙」する。
もし私が意識的に威厳を保とうとしたり、他人から尊敬を集めようとしたら、滑稽な結果になってしまうだろう。きっと私は下手な役者のように見えることだろう。これらの状態の根本的パラドックスはこうだ―それらはきわめて重要なのだが、それをわれわれの行動に直接的な目標にしたとたん、逃げていってしまうのである。
そうした状態をもたらす唯一の方法は、その状態を目指して行動するのではなく、他の目標を追求し、それらが「自然に」生まれるのを望むことである。たしかにそれらはわれわれの行動に属しているが、究極的には、われわれが何をするかによってではなく、われわれが何であるかによってわれわれに属している何かなのである。
このわれわれの行動の「副産物」にラカンが与えた名前は<対象a>である。これは隠された財宝、「われわれの中にあって、われわれ以上のもの」、すなわち。われわれの肯定的特質のいずれと結びつけることもできないにもかかわらず、われわれの行動すべてに魔法のオーラを投げかける、捉えどころがなく、手の届かないX、である。
<対象a>を通じて、われわれは究極的な「副産物」状態、他のすべての状態の母体、すなわち転移の働きを捉えることができる。主体は、自分が他人の中にどのように転移を引き起こすかを思いどおりに支配・操作することはできない。そこには常に「魔術的」なものがある。まったく突然に、自分が正体不明のXを所有しているように思われる。そのXによって、自分のすべての行動が色づけされ、変質させられる。(ジジェク『斜めから見る』)
「自己破壊」--、《自己破壊への拒みがたい傾斜が生まれても不思議ではない》と下に書かれているが、これは芸術家でなくても、一般人にもありうるだろう。「自己模倣」、「絶えざる実験」、「沈黙」ーーとなれば、たとえばブログなどを書いていても、「自己破壊」は起こりうる。
◆中井久夫 「「創造と癒し序説」 ――創作の生理学に向けて」より
私は文体獲得によって初めて創作行為は癒しとなりうると考える。それは癒しの十分条件ではないが必要条件であると私は思う。
むろん個人の日記、ノートの類も癒しの意味を持たないわけではないが、それは別個の問題であって、文字言語的定着による前ゲシュタルト的言語・イマージュ複合の減圧、貧困化、明確化による癒しである。
( ……)
しかし、文体獲得を以て万事よしとすることはできない。
芥川賞を初め、文学賞受賞作と受賞後第一作との相違を次のように定式化することができる。受賞作にあるあらゆる萌芽的なもののうち、受賞第一作においては、受賞によって光りを当てられた部分が突出しているとーー。しばしば、受賞作にある豊穣さは第一作においては単純明快化による犠牲をこうむっている。
作家となることは実にしばしば流入する体験が偏り、狭くなることである。わが国の作家が世に知られるとともに文壇と家庭の事件を書くことになってしまう例はいくらでもある。
一般に、作家が創造的でありつづけることは、創造的となることよりもはるかに困難である。すなわち、創造が癒しであるとして、その治癒像がどうなるかという問題である。
一般に、四つの軌道のいずれかを取ることが多い。一つは「自己模倣」であり、第二は「絶えざる実験」であり、第三は「沈黙」である。第四は「自己破壊」である。実際には読者および時代の変化と当人の加齢とに応じて、時とともに変化することが少なくない。
「自己模倣」はもっとも安全である。彼の書くものがいかにも彼の書くものらしいことを求める「ひっそりとした固定読者」の層に包まれて彼は一種の「名優」となる。わが国においては、詩人あるいはエッセイストの場合でさえ「その人のものなら何でも買う」固定読者が千五百人はいる。彼は歌舞伎の俳優のように芸の質を落とさないように精進していればよい。ただ、読者の移り気は別としても、文学における「自己模倣」は演劇あるいは絵画よりも困難である。林武のように薔薇ばかり描いているわけにはゆかない。こうして彼は第二の「実験」に打って出る誘いを内に感じる。
「実験」は画家ピカソあるいは谷崎潤一郎を思い浮かべられればよいだろう。ただ、マルクスが創造的である条件とした「若く貧しく無名であること」が失われている場合、「実験」はショウに堕する危険がある。この場合、彼が実験することを求める騒がしい読者、批評家、ジャーナリストに囲まれて、彼は「絶えざる実験者」となるが、危険は「スター」に堕することである。それはこのタイプの「囲む連中」が求めることである。私は三島由紀夫の例を思い浮かべずにはいられない。この道を全うするには、ゲーテほどの狡知と強制的外向人化と多額の金銭とが必要である。
第三は「沈黙」である。これは志賀直哉がほぼ実現した例である。創造的でない時に沈黙できるのは成熟した人、少なくとも剛毅な人である。大沈黙をあえてしたヴァレリーにして「あなたはなぜ書くのか」というアンケートに「弱さから」と答えている(彼は終生金銭に恵まれなかった)。もっとも、彼が無名の時にかちえた「若きパルク」完成のために専念した四年間のような時間は、著名になってからは得るべくもなく、第二次大戦が強制した沈黙期間がなければ最後の大作「わがファウスト」に着手できなかったであろう(死が完成を阻んだが)。
第四は例を挙げるまでもない。己が創ったものは自己の外化であり、自己等価物、より正確にいえば自己の過去のさまざまな問題の解決失敗の等価物、一言にしていえば「自己の傷跡の集大成」である。それらはすべて新しい独特の重荷となりうる。それらはもはや廃棄すべくもないとすれば、代わって自己破壊への拒みがたい傾斜が生まれても不思議ではない。老いたサマセット・モームは「人を殺すのは記憶の重みである」と言い残して自殺している。
サリヴァンは、フロイトがあれほど讃美した昇華を無条件な善ではないとして、それが代償的満足である以上、真の満足は得られず、つのる欲求不満によって無窮動的な追及に陥りやすいこと、また「わが仏尊し」的な視野狭窄に陥りやすいことを指摘している。それは、多くの創造の癒しが最後には破壊に終る機微を述べているように思われる。
フロイトの昇華については、次のような見解もある。これも「自己破壊」がおこるひとつの機微といえる。
昇華(=崇高化)はふつう非・性化と同じことだと考えられている。非・性化とはすなわち、リビドー備給を、基本的な欲動を満足させてくれそうな「野蛮な」対象から、「高級な」「洗練された」形の満足へと置き換えることである。われわれは女に直接に襲いかかる代わりに、ラヴレターや詩を書いたりして誘惑し、征服する。敵を気絶するまでぶん殴る代わりに、その敵を全面否定するような批判を含んだ論文を書く。通俗的な精神分析的「解釈」によれば、詩を書くことは肉体的欲求を満足させるための崇高にして間接的な方法であり、精巧な批判を書くことは肉体的攻撃衝動の崇高な方向転換ということになろう。 ラカンの出発点は、直接的で「野蛮な」満足とされているものの対象ではなく、その反対、すなわち原初的な空無である。原初的な空無とは、そのまわりを欲動がぐるぐる回っている空無であり、<物自体 the Thing>(フロイト的な das Ding。不可能にして獲得不能な享楽の実体)の形のない形としてポジティヴな存在形態をとる欠如である。崇高な対象とはまさしく「<物自体>の気高さまで高められた対象」である。(ジジェク『斜めから見る』)この物自体das Dingの場には何があるというのか。
幻想は、われわれ各人が、想像のシナリオによって、非整合的な<大他者>、すなわち象徴的秩序の根本的行き詰まりを解消し、かつ/あるいは隠蔽する、そのやり方である。 <対象a>、すなわち剰余享楽を具現化している欲望の対象=原因を、まさしく、普遍的交換のネットワークを擦り抜ける剰余として定義づけることができる。 普遍的「人権」の領域は、ある一つの権利(享楽の権利)の排除の上に成立している。この特殊な権利を含めたとたん、普遍的権利の領域全体が均衡を失う。 主体は、まさに「それ自身のまわりだけを回り」ながら、「それ自身の中にあってそれ自身以上のもの」、すなわちラカンが das Ding というドイツ語であらわしている外傷的な享楽の核のまわりを回っている。主体とはおそらく、この循環運動の、すなわちもっと近くに寄るには「熱すぎる」、この<物自体>との距離の、別名である。この<物自体>があるゆえに、主体は普遍化に抵抗し、象徴的秩序内の場所――たとえ空っぽの場所だとしても――に還元することはできない。 (同)