「無媒介」といえば、録音技術の進歩により、音楽がほとんど「リアルな」音で自宅のスピーカーからきこえてくるようになりつつある(もちろんデジタル音声の限界を知らないわけではないが)。演奏会にいけば、まわりの人の気配、ざわめき、そのほか別の音が聞こえて来る。自宅で聴けば、それもない。
そんなとき、昔の録音の透明な幕がかかった感じ、曇った音、レコード盤の傷による針とびや、ざわざわした感触を懐かしく思うのは「倒錯」だろう。《表象の透明性を厭い記号をその直接の意味の外へと絶えず逸脱させる「倒錯性」》(松浦寿輝)
詩が読みたくなることはほとんどないが、音楽が聴きたくなることはしょっちゅうある。喜怒哀楽から離れた感動という心の状態を初めて体験したのも、音楽によってだった。1940年代、音楽を聴く手だてはNHKの放送か、でなければ重くて割れやすい78回転のSPレコードだった。
それが33回転のLP、45回転のEPになって音の生々しさが革命的だったし、多様なジャケットデザインも楽しめた。同時にオープンリールのテープレコーダー、カセット、CD、MDと音楽を運んできてくれるメディアはどんどん進化して、今やパッケージで音楽を聴く時代ではなくなりつつある、とか。
iTunesやRadistarやNaxosで、未知の名曲をストリーミングで聴いているうちに、手巻きの古い蓄音機が懐かしくなって、とうとう1台買い込んでしまった。竹針を削ってレコードを裏返すのも悪くない。(俊)――谷川俊太郎「竹針」)
無媒介で「直接的な」音に耳を傾けるとき、ひとは「まがいもの感」を感じてしまう。
《“It's so real, it must be fiction!”》(
Zizek “The Parallax View”)
―――《リアルというやつはほんとにアンリアルであって、あまりにもリアルにすると、アンリアルになっちゃうということはカフカがやったこと》(柄谷行人『闘争のエチカ』)
もちろん、カラー作品よりも白黒写真や映画、あるいは無声映画を求め、そこにいっそうの「リアル」を感じてしまうなどということもある。
これらをめぐっては、アドルノがすでに『レコード針の溝』(1927)という小論で書いていることだ。《かつての写真において見られた経緯が、歴史の上で繰り返されている》――録音技術の完璧さが増すことにより、《歌い手が装置からどんどんと遠ざけられているかのようである》と。
※英訳ならここにある、『The Curves of the Needle』(THEODOR W. ADORNO TRANSLATED BY THOMAS Y. LEVIN)http://www.clas.ufl.edu/users/burt/silentfilmphilology/778935.pdf
グールドはその録音に、ピアノ演奏にある、《あの廃棄物、寄生物、身体の痕跡、つまりテクノロジーの細菌処理法にしたがえば抹殺すべきものとなるはずの声の雑音、椅子のきしみ音、ピアノのアクションが発する雑音などを残したままにしたい》と願った。これもグールトの「倒錯」である。
ベートーヴェンの作品のレコード録音では、和声の肉付きの薄いシュナーベルのような音の響きを追求した。それに対して、レコーディング・エンジニアはこんな応答をしている。「長距離電話で聞けば、そんなふうになりますよ。」(……)音楽によって他人とそして彼自身と遠くから接触をはかろうとするのが彼の物理学と形而上学なのだ。演奏している、誰を呼んでいるのかはわからない。自分自身の内部で誰が呼んでいるのかもわからない。ふたつの遠隔地のあいだの単なる空気の振動、ただ迷っているということのほかにはなにもわからないふたりの存在を結びつけ、かすかなざわめきを発する線。(ミシェル・シュネデール『グールド 孤独のアリア』)
ここで再度、昨日の記事から松浦寿輝の文を抜き出しておこう。
「倒錯」は,たとえば記号の意味作用をめぐる磁場においても生きられうるものだ.「倒錯」的な記号,それはその「意味」がただちに消費されてしまうことを拒む記号 ――透明なものであるべき表象作用を混濁させ,そのなめらかな進行をみずから妨害して,それに向けられたまなざしを攪乱し,読もうとする欲望が成就する瞬間をどこまでも遅らせつづけようとする記号のことだ.
もちろん、これらとは異なった角度から、技術の発展に文句をいうこともできるだろう、たとえばゴダールのように。
技術者というのは子供みたいなもので、玩具を与えられて遊んでいるうちはいいが、二年もすると飽きてしまって別のものを発明しないと気がすまない。しかし、デジタル・サウンドにしても、期待された成果を生んでいない。彼らは、音響製品を作っても音を聞かない。映像器具を作っても映像を見ない。だから、間違った製品を平気でつくってしまう。だから、すべては途方もない速度で進んでいながら、結局はいつまでたっても同じことなのです。テレビがお得意なズームという奴のようなもので、とりわけスポーツ中継のときには耐えがたい。選手が遠くにいるとキャメラがズームで近寄り、こんどは選手が近くに来ると、もう飽きてしまってズームを引いて遠ざかるというあれです。技術はこうした退屈さしか生まないのです。(「憎しみの時代は終り、愛の時代が始まったと確信したい」『光をめぐって』蓮實重彦インタヴュー集所収)
過去の録音ばかりを聴きたいというのではない。たとえば、バルバラ・ヘンドリックスのいささか田舎臭いドレスを纏った、録音状態が必ずしもよいわけではない演奏会でのアンコールのシューベルト。遠くからやってくるような歌声。音が遠くからやってくればくるほど、音は近くからわたしに触れる。
※「録音状態がかならずしもよくない」と書いたが、この録音は、グールドを撮り続けたブルーノ・モンサンジョンのものであり、この「遠くからやってくる音」には、バルバラやシフの技倆以外にも、なんらかの秘密があるのかもしれない。
こうして、ラカンのいう"extimité"や<対象a>が生まれる。《the objet a is this structure in which the most interior is conjoined to the most exterior in its turning》
それは「みせかけsemblance」でもあろう、《The key formula of semblance was proposed by J‐A. Miller: semblance is a mask (veil) of nothing. Here, of course, the link with the fetish offers itself: a fetish is also an object that conceals the void. Semblance is like a veil, a veil which veils nothing—its function is to create the illusion that there is something hidden beneath the veil.》(zizek『LESS THAN NOTHING』2012)
さて最後にいささかの諌めの文として(あるいは古い世代の常識的な見地からの「新しさ」への嘲笑として捉えられることを畏れて)、もう一度、松浦寿輝の「電子的レアリスム」から抜き出しておこう。
ここでの問題は,「今はマルチメディアの時代」「今はヴァーチュアル・リアリティの時代」といった物言いを常識的な叡知の名の下に嘲笑することではなく,「新しさ」をめぐって取り交わされる言説には,古来,きわめて貧しい種類しかないという呆気ない事実を確認することにある.「新しさ」をめぐる言説は,結局,囃し立てるかシニックに構えるか,「技術」を讃えるか「人生」に開き直るか,といった貧しい二元論に還元されるほかないのが通例なのだ.21世紀の地平を開くと言われる視覚メディアを主題とする場合であろうと,同じ貧しさの再現を免れることは難しいだろう.