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2013年6月19日水曜日

「声」と「沈黙」

武満徹が瀧口修造への追悼曲「閉じた眼Ⅱ」の題名について問われて、《閉じた眼と謂う言葉が、私に 開かれた耳 と謂う言葉を聯想させたから……》(瀧口修造と武満徹)、と.。


瀧口修造の「地上の星」にはこうある、《鳥、千の鳥たちは/眼を閉じ眼をひらく/鳥たちは/樹木のあいだにくるしむ。/(……)/盲目の鳥たちは光の網を潜る。》

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どこにいようと、彼が聴きとってしまうもの、彼が聴き取らずにいられなかったもの、それは、他の人々の、彼ら自身のことばづかいに対する難聴ぶりであった。彼は、彼らがみずからのことばづかいを聴きとらないありさまを聴きとっていた。

しかし彼自身はどうだったか。彼は、彼自身の難聴ぶりを聴き取ったことがないと言えるのか。彼は、みずからのことばづかいを聴き取るために苦心したのだが、その努力によって産出したものは、ただ、別のひとつの聴音場面、もうひとつの虚構にすぎなかった。

だからこそ、彼はエクリチュールに自分を託す。エクリチュールとは、《最終的な返答》をしてみせることをあきらめた言語活動のことではないか。そして、他人にあなたのことばを聴き取ってもらいたいという願いをこめて、自分を他人に任せることによって生き、息をする、そういう言語活動ではないか。(『彼自身によるロラン・バルト』)

柄谷)僕は明快な人間ではない。だから不明快さに対する苛立ちがあるわけです。なにか明快さというのは倫理的な問題だと思っている。たとえばロゴサントリスムと言っても、これも倫理なんですね。ロジックの根底には倫理がある。つまり倫理的であれという命令がひそんでいる。それを拒否するのはかまわない。しかし、一方に論理があって、他方に倫理や美があるというのはおかしい。もし対決するなら、論理そのものにひそむ倫理と対決すべきです。ところが、それはほとんど論理を選ぶことと同じことになる。ウィトゲンシュタインがそうですね。ニーチェもそうだと思う。しかし、たとえば小林秀雄は「二足す二は四である。それ以外は文体の問題だ」という。彼は「二足す二は四である」が論理で、それ以外は美や倫理の問題だと言いたいわけでしょうが、僕は「二足す二は四である」というのは倫理的な問題ではないかと考えるわけね。

蓮實)僕がいう倫理もほぼそれに近いものだと思うけど、柄谷さんは、少なくともある段階まではそれを形式的に追いつめることができるという確信で書いていますね。僕のはやや違って、自分が自分でなくなるかもしれない自家撞着というか二律背反をエクリチュールとして背負い込むというほどの意味です。

柄谷さんの言った意味での倫理を見失わずに書くと、必ずある種の二律背反に追いこまれる。それは論理的な明晰さを体験したいという意志と、その意志を貫徹した場合に絶対に明晰さには到達しえないという感じとが解消しがたく筆を捉え続けているからです。僕は必ずしも明晰さの方向には向かわないんだけれど、書くことを通して生きることのプロフェッショナルでありたいという気持と生きることのプロであってはならないという気持との二律背反になってくる。(蓮實重彦/柄谷行人対談集『闘争のエチカ』)


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かつてジョージ・バランシンは、ウェーベルンの作品を次のように演出したそうだ。

Georges Balanchine staged a short orchestral piece by Webern (they are all
short) in which, once the music is over, the dancers continue to dance for some time in complete silence, as if they had not noticed that the music providing the substance for their dance was already over. Like the living dead who dwell in the interstices of empty time: their movements, lacking vocal support, allow us to see not only the voice but silence itself.(zizek "LESS THAN NOTHING" )

その映像はインターネット上には見当たらない。かわりにいくつか。
















「声」の哲学者、ムラデン・ドラー「His Master’s Voice Mladen Dolar」より。

Ultimately, it is not even the voice that can be heard. In order to conceive its function as the object of the drive, one must deprive it of sonority, divorce it from the empirical voices to be heard. Inside the voices heard there is a voice unheard of, the silent voice. One has to detach the object voice from sonority, one has to devise an aphonic voice. For what Lacan called objet a, to put it simply, is not an object of this world. It is not an existing thing that could be the object of a “sense certainty.” To be sure, it is always evoked only by bits of materiality, attached to them as an invisible appendage, yet not coinciding with them, it is both evoked and covered, enveloped by them, for “in itself” it is just a void. So sonority both evokes and conceals the void of the voice.

One could put it in these terms: the drive reaches its aim without attaining its goal, it is satisfied through its being thwarted, without attaining its end, it is “inhibited in its goal,” zielgehemmt, but nevertheless not missing its aim; the aim is merely the path taken, and the drive is entirely “on the way.” So if the goal of the utterance is the production of meaning, then the voice, the mere instrument, is the aim attained on the way, the side-product of the way to the goal, the object around which the drive turns. Hence, the problem with music is that it tries to turn the aim into the goal, it takes the object of the drive as the object of immediate enjoyment, and thus misses it—it obtains aesthetic pleasure and runs the risk of being stuck with a fetish instead of the object. One can make a brief remark here that the entire work of Adorno is a massive warning against this—Adorno’s wager is that there is an object other than the fetish, a musical object has to undo the ties of the fetish-object.


《私はまず音を構築するという観念を捨てたい。私たちの生きている世界には沈黙と無限の音がある。私は自分の手でその音を刻んで苦しい一つの音を得たいと思う。そして、それは沈黙と測りあえるほどに強いものでなければならない。》(武満徹『音、沈黙と測りあえるほどに』)

この作品は特定の宗教のために書かれたものではないが、私の想像──厳密には私の聴覚的な創造世界──のうえでのひとりの神に捧げられている。


Chant と題したのはそのためであり、私は音楽の形は祈りの形式に集約されるものだと信じている。私が表したかったのは静けさと、深い沈黙であり、それらが生き生きと音符にまさって呼吸することを望んだ。(武満徹のエラボレーション


≪一撥(いちばち)、一吹きの<一音>は論理を搬ぶ役割をなすためには、あまりに複雑complexityでありそれ自体ですでに完結している。<一音>として完結しえるその音響の複雑性が、<間>という定量化できない力学的に緊張した無音の形而上的持続をうみだしたのである。たとえば能楽の一調べにおけるように、音と沈黙の<間>は、表現上の有機的関係としてあるのではなく、それらは非物質的な均衡のうえにたって鋭く対立している。繰りかえせば、<一音>として完結しえる音響の複雑性、その洗練された<一音>を聴いた日本人の感受性が<間>という独自の観念をつくりあげ、その無音の沈黙の<間>は、実は、複雑な<一音>と拮抗する無数の音の犇く<間>として認識されているのである。つまり、<間>を生かすということは、無数の音を生かすことなのであり、それは、実際の<一音>(あるいは、ひとつの音型)からその表現の一義性を失わした。音は無音の<間>にたいして、表現上(この言葉はきわめて一般的な意味としてうけとってほしい。)の優位にたつものではない。音は演奏表現を通して無名の人称を超えた地点へ向かう。尺八の名人がその演奏のうえで望む至上の音が、風が朽ちた竹薮を吹きぬけ鳴らす音であるということは、こうした日本の音楽のありようを直截に示している。音は表現の一義性を失い、いっそう複雑に洗練されながら、朽ちた竹が鳴らす自然の音のように、無に等しくなってゆくのだ。・・・私は沈黙と量りあえるほどに強い、一つの音に至りたい。私の小さな個性など気にならないような―――。≫
(『小沢=武満 69』)


かつて音楽は、まず人々の―特に作曲家の頭の中に存在すると考えられていた。音楽を書けば、聴覚を通して知覚される以前にそれを聞くことができると考えられていたんです。私は反対に、音が発せられる以前にはなにも聞こえないと考えています。ソルフェージュはまさに、音が発せられる以前に音を聞き取るようにする訓練なのです……。この訓練を受けると、人間は聾になるだけです。他のあれこれとかの音ではなく、決まったこの音あの音だけを受け入れられるよう訓練される。ソルフェージュを練習することは、まわりにある音は貧しいものだと先験的に決めてしまうことです。ですから〈具体音の〉ソルフェージュはありえない。あらゆるソルフェージュは必然的に、定義からして〈抽象的〉ですよ……。(『ジョン・ケージ 小鳥たちのために』 より)


《私は想像することができる。すなわち、武満が、ひとつの月にさまざまの眺めを見ようとするためにではなく、いわば、さまざまな樹木にただひとつの風の音を聴こうとして、日本を旅してまわっていることを――。それから、かれは贈り物の数かずをたずさえて都市にかえってくる。それらの贈りものとは、自然を芸術に変形することにほかならない。われわれは感謝せねばならぬ。》(ジョン・ケージ)


《If we make music and listen to it,. . . it is in order to silence what deserves to be called the voice as the object a".( Jacques-Alain Miller, 1989 cited in Dolar, 1996)》-- Mladen Dolar,”The Object Voice”

"Why do we listen to music?": in order to avoid the horror of the encounter of the voice qua object. What Rilke said for beauty goes also for music: it is a lure, a screen, the last curtain, which protects us from directly confronting the horror of the (vocal) object.

(……)
The true object voice is mute, "stuck in the throat," and what effectively reverberates is the void: resonance always takes place in a vacuum—the tone as such is originally a lament for the lost object.— ---Zizek"I Hear You with My Eyes"

………


ジョン・ケージの「ソルフェージュ」批判をめぐって、ごく個人的なメモを附記。

私たちは、外傷性感覚の幼児感覚との類似性を主にみてきて、共通感覚性coenaesthesiaと原始感覚性protopathyとを挙げた。

もう一つ、挙げるべき問題が残っている。それは、私が「絶対性」absolutenessと呼ぶものである。(……)

私の臨床経験によれば、絶対音感は、精神医学、臨床医学において非常に重要な役割を演じている。最初にこれに気づいたのは、一九九〇年前後、ある十歳の少女においてであった。絶対音感を持っている彼女には、町で聞こえてくるほとんどすべての音が「狂っていて」、それが耐えがたい不快となるのであった。(……)

私は自閉症患者がある特定の周波数の音響に非常な不快感を催すことを思い合わせる。

絶対性とは非文脈性である。絶対音感は定義上非文脈性である。これに対して相対音感は文脈依存性である。音階が音同士の相対的関係で決まるからである。

私の仮説は、非文脈的な幼児記憶もまた、絶対音感記憶のような絶対性を持っているのではないかということである。幼児の視覚的記憶映像も非文脈的(絶対的)であるということである。

ここで、絶対音感がおおよそ三歳以前に獲得されるものであり、絶対音感をそれ以後に持つことがほとんど不可能である事実を思い合わせたい。それは二歳半から三歳半までの成人型文法性成立以前の「先史時代」に属するものである。(……)音楽家たちの絶対音感はさまざまなタイプの「共通感覚性」と「原始感覚性」を持っている。たとえば指揮者ミュンシュでは虹のような色彩のめくるめく動きと絶対音感とが融合している。

視覚において幼児型の記憶が残存する場合は「エイデティカー」(Eidetiker 直観像素質者)といわれる。(中井久夫「発達的記憶論」『徴候・記憶・外傷』所収 P59-60)