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2013年6月9日日曜日

《おわかりだろうが、わたしは、粗暴ということをあまり見下げてもらいたくないと思っている。粗暴は、きわだって”人間的な”抗議形式であり、現代的な柔弱が支配するなかにあって、われわれの第一級の徳目の一つである。--われわれが豊かさを十分にそなえているなら、不穏当な行動をするのは一つの幸福でさえある。……》(ニーチェ)

いくらか粗暴に振舞ってみよう、これは止む得ないことのようだ。


いまだオレの仕事関係の人間のRTの連発に苦しめられたなどと妄想に耽っている「お嬢さん」だか「ババア」がいるが、《胴元のお仕事のかたから受けたRT攻撃》などと、――こういう「妄想」にたいして、否定しても始まらないのだろう。何度、そんなものはないと繰り返しても微塵も自らの妄想による確信を疑う気配はないし、どこかの他人にオレ宛のDMを送ったらしいが、それも、いまだその誰かがオレだとの錯覚を疑う気配もない。

どうもあまりにも奇妙なので、最初はオレの勘違いと(つまり、オレ宛のDMとか胴元の仕事の仲間というのは、オレにかかわるのではないのだろう、と)思っていたのだが、どうも引用されている文句をみてみると、やはりオレにかかわるらしい。


そうなら、一度、そのRTの主なり、DMを送った「どこかの他人」のアカウントを提示してみたらどうかね? 


オレの仕事関係で、日本に繋がっている人間はいないはずだがね、すくなくともこの二十年ほどは。


まあきみがオレ宛のDMを送ったらしい「どこかの他人」には興味がある。奇怪なDMがその人間の元に送られたはずだが、知らばっくれているなら、なかなかの器だろうから。


しかし、いずれにしろ、きみのDMとやらは、読んでみたいとは思わないから、むしろ誰か別人に送ったほうがよかったが。きみの記念碑的なDMは、昨年末の怒涛のもの(40近くあるんじゃないか、数えてみる気はしないが)、それ以来、ウンザリしているのでね。あの「はしたなさ」には驚いて、いわれのない杞憂に襲われたのでiPadのスクリーンキャプチャ機能で保存してあるがね、もし、きみが振り返ってみたいなら、公開してもよい。


前にも書いたが、誰彼を、「労働者」とか「共産党」とか「ヤクザ」と書いたり、――オレはこれでも「労働者」と「共産党」の国に住んでいて、学生時代はマルクスを学び、自称「インテリヤクザ」のつもりでいるのだがーー、あるいは、きみが普段は親しく会話している人物を誹謗したものだったからね、《○○先生はコウモリで自分の特(ママ)にならないことは絶対にしないし影では△△氏をも批判している。おめでたいのは△△氏だが云々》、――まあ真打部分はいまは敢えて引用しないが、やっぱり誰でもこういうことを裏でこっそり書く人間との付き合いは御免蒙ると思うのじゃないかね。


今日もコウモリ先生と慇懃に礼節をもって会話しているようだがね。


オレは「礼儀」正しいほうで、こんなことは書きたくないのだが、きみのあまりに礼を失する振る舞いに対するには、このくらいの「粗暴さ」は許されるだろうよ。


――などと書いてもきみには自らが「礼を失している」かどうかの自覚は生まれる気配は微塵もないのだろうから、それはこのさいどうでもよろしい。


ところで、きみは、昨日オレが書いた「ロマネスク」をめぐってごたごたツイートしているようだが、ナントイウノカ、オレの頭が悪いせいなのか、まったく理解できなくてね

つまりオレには、きみが「ロマネスク」概念を全く誤解しているんじゃないかと思えるんだが、まあ誤解はきみの勝手であり、とくに正したいとは思わない。

オレも間抜けであるには相違ないが、きみはどこか根本的な「マヌケ」なんじゃないかね、「ロマネスク」は、きみの自己陶酔型表現からもっとも離れたもののはずだぜ、オレのいう「ロマネスク」はね。


まあ文学好きもいろいろあるようなので、好きなようにしたらいいのだが。


こっち系列の「文学好き」なのだろうよ、きっと。《おしなべて他者への媚びと「つるつる生きる」ことの鈍重な自足》――そしてオレはそれに《改めて愕然とさせられる。》

「君」と「父」「母」、「弟」、「生徒」、そして「万智ちゃん」からなる、朝日新聞の「ひととき」欄のように、ほっと心なごむささやかな歌集をはじめて読んで驚いたのは、「万智ちゃん」であり「我」や「吾」や「私」とも表記される若い女性の、わが眼を疑うような媚び方だった。紋切り型に「父」と「母」が娘を心配し、陳腐そのものに、その「父」と「母」はふとしたはずみに「男」や「女」であることをかいま見せるのは、何もそれが短歌という土人の言葉によって韻律化されているからというわけではない。サラダの味を恋人に、この味がいいね、と言われて有頂天になり、「君」がケチャップ味が好きなことをメモに書きとめ手製のタマゴ・サンドが食べ残されるのを気に病み、「君」がアスパラガスが嫌いなことを発見して心を騒がせ、失恋することをおびえつつ、しかし失恋して「見る前に翔ばず何を見るのかもわからずけれどつるつる生きる」と考え、「我が膝に胎児の重み載せながら無頼派君が寝息をたてる」のを聴いている若い娘の世界は、短歌に詠まれる以前から、おしなべて他者への媚びと「つるつる生きる」ことの鈍重な自足とに韻律化されていることに、改めて愕然とさせられる。歌集に寄せられた、荒川洋治、高橋源一郎、小林恭二という三馬鹿青年たちのスイセンの言葉の、歌集そのものに輪をかけた退廃ぶりは、1988年の339版の裏表紙に、心得顔やしたり顔のスイセン者の方が名前を知られていない、という奇妙な事態をひきおこしたが、その程度のことで、この3人は反省ということをするとは思えない。(金井美恵子『本を書く人読まぬ人とかくこの世はままならぬ』)

きみは金井美恵子ファンのようだが、ナントイウノカ、金井美恵子も別の読み方があるんだろうよ…まあオレには別世界の人に思えるぜ。金井美恵子ならきみのような自己陶酔型の発話をプレモダンな土人というのじゃないか。まあ文学好きの土人もたくさんいるようで、彼らと仲良くしたらよい。――(ことばを失い、こころに…)などの類を連発しているようだが、オレの「錯覚」では、この発話のたぐいを、金井美恵子は決して許さないと思うのだが、どうもそうでもないらしい。

まあオレもふとやってしまうことがないとは言えないが、読み返して赤面するのが、「ロマネスク」に対する最低限の感性だと思うがね。すくなくとも金井美恵子やナボコフは、《「俗物根性」を批判するのが文学のつとめなのだ》としているわけだから。


蓮實)……柄谷さんは錯覚を晴らすべく教育者として振舞いますか。

柄谷)振舞いません。ただ、文壇の作家や評論家と話していると、ほとんど啓蒙したくなる(笑)。一つ一つ“あやまり”を正したくなる。啓蒙が必要なのではないかと、思ってしまうんです。(『闘争のエチカ』)

…………


まあ、オレも親切なほうだから、「文学好き」のきみを啓蒙などするつもりはないが、少なくともオレの理解する「ロマネスク」に係る文をいくらか再掲しておくよ(ひとにはそれぞれの「ロマネスク」があるのだろうよ)。

彼が好んで使う語は、対立関係によってグループ分けされている場合が多い。対になっている二語のうちの、一方に対して彼は《賛成》であり、他方に対しては《反対》である。たとえば、《産出/産出物》、《構造化/構造》、《小説的〔ロマネスク〕/小説〔ロマン〕》、《体系的/体系》、《詩的/詩》、《透けて見える/空気のような》〔ajouréaérien〕、《コピー/アナロジー》、《剽窃/模作》、《形象化/表象化》〔figuration/ représentation 、《所有化/所有物》、《言表行為/言表》、《ざわめき/雑音》、《模型/図面》、《覆滅/異議申し立て》、《テクスト関連/コンテクスト》、《エロス化/エロティック》、など。ときには、(ふたつの語の間の)対立関係ばかりではなく、(単一の語の)断層化が重要となる場合もある。たとえば《自動車》は、運転行為としては善であり、品物としては悪だ。《行為者》は、反“ピュシス〔自然〕”に参与するものであれば救われ、擬似“ピュシス”に属している場合は有罪だ。《人工性》は、ボードレール的(“自然”に対して端的に対立する)なら望ましいし、《擬似性》としては(その同じ“自然”を真似するつもりなら)見くだされる。このように、語と語の間に、そして語そのものの中に、「“価値”のナイフ」の刃が通っている。(『彼自身のよるロラン・バルト』)

――と引用したことがあるが。

あるいは、《この一人称は自我を引寄せるよりも、ひとまず他者の近くまで遠ざける働きをする。》《「私」という人称を使ったら、自分からやや離れたところで、とにもかくにも表現できる》ともしたが。

私の場合、小説の中で「私」という素っ気ない一人称を思い切りよく多用することを覚えてから、表現の腰がひとまず定まった。この一人称は自我を引寄せるよりも、ひとまず他者の近くまで遠ざける働きをする。それとひきかえに、私は表現といういとなみの中で以前よりもよほどしぶとく自我に付くことができるようになった。描写においてである。見たままを写す、記憶に残るままを写す、そこまではまさに描写だが、描写によって心象が呼び起され、その心象がさらに細部まで描写で満たすことを要請することがある。その時、人は物に向うようにして心象に向いながら、おのずと自我を描写することになる。 ……そして小説は全体として、いくつかの描写による自我の構図となる。 (古井由吉「翻訳から創作へ」 )


とにかくある人物ができかかって、それが何者であるかを表さなくてはならないところにくると、いつも嫌な気がしてやめてしまう。そんなことばかりやつていたんです。で、なぜ書けるようになったかというと、本当に単純なばかばかしいことなんです。「私」という人称を使い出したんです。……そうしたらなぜだか書けるんです。今から考えてみると、この「私」というのはこのわたしじゃないんです。この現実のわたしは、ふだんでは「私」という人称は使いません。「ぼく」という人称を選びます。この現実のわたしは、ふだんでは「私」という人称は使いません。「ぼく」という人称を選びます。だけど「ぼく」という人称を作品中で使う場合、かえってしらじらと自分から離れていくんです。
(中略)
…… この場合の「わたし」というのは、わたし個人というよりも、一般の「私」ですね。わたし個人の観念でもない。わたし個人というよりも、もっと強いものです。だから自分に密着するということをいったんあきらめたわけです。「私」という人称を使ったら、自分からやや離れたところで、とにもかくにも表現できる。で、書いているとどこかでこの「わたし」がでる。この按配を見つけて物が書けるようになったわけです。 (『「私」という白道』)


あるいはこうも引用したが。

《小説にくらべてみた、エッセーの宿命、それは《信憑性》を避けられぬこと。》(『彼自身によるバルト』)

“虚構”は、ひとつの《新しい知的な技芸》(『モードの体系』の中では記号学と構造論とがそのように定義されている)に属するのだ、と言えそうである。知的なものごとを扱うとき、私たちは、理論と批判的闘争と快楽とに同時にたずさわっているのだ。私たちは知識や論考にかかわるものごとを―――ずべての技芸においてそうであるように―――もはや真理という審級にではなく、《効果》についての思考にゆだねる。

できることなら彼が産出したかったと思っているらしいもの、それは“知性”のコメディではなく、“知性”の小説的表現〔ロマネスク〕である。(『彼自身によるバルト』)

ーー《こうしてバルトは小説的虚構こそ、偽りに見えながらも「真理の瞬間」や内心の「叫び」をもっともよく表現しうるものとする。》―――(石川美子小論『ロラン・バルトにおける小説の探求』)。


まだまだいくらでもあるのだが、まあ、こういった文も別の読み方があるのだろうし、好きにしたらいい。



まあ、オレに係らずに、せいぜいきみの「ロマネスク」をやったらいい、アタシ、アタシ、アタシをミテ! というたぐいの。いまどき珍しい「興味深い人物」には変わりないのだから。ーーどうして恥ずかしくならないのか不思議でならないぜ。研究に値する人物だね。


きみが「妄想」や「自己陶酔」を呟き続けるのは、きみの勝手だがね、今後オレにいまだ係るつもりなら、《胴元のお仕事のかたから受けたRT攻撃》の主やら、DMを送った「どこかの他人」のアカウントを提示してくれることを希望するね(もしアカウントが削除されていたとしても、だからできないなどと言い訳せずに、なんらかの方法はあるだろうよ)。


いや、実はいまカンボジア旅行帰りの若い客人が二人ここにいるのだが、どうやら、彼らのうち一人はどこかの学会できみらしき人物に遭遇したらしいぜ…いや確実ではないようだがね…なんだがあちこちにしゃしゃり出るタイプらしい…どこかのエライ学者や俊英の研究者の隣りに座ったり知り合いになることにウツツを抜かしているらしいな、その人物は。


まあ、この二人に励まされていささか「粗暴」に振舞ってみたよ、今度は、きっと学会で挨拶させてもらうってさ。まあ名刺でも交換しとけよ(オレの知り合いだとは間違っても明かすな、と言っておいたから安心しろ)。

いずれにせよ、オレのことを「相似形」のお友達だとか、似ているとか、しばしば呟いているようだが、もしそうなら、恥ずかしくて首でも吊りたいところだぜ



ーー以上、この記事は、いくら前にように依頼されても、しばらくは削除するつもりはない。すでに二度繰り返しているわけで、きみの非礼さに対しては、これくらいは許されるだろう。まあ、きみの「妄想」の具合を明らかにしたら、つまり「オレの胴元のお仕事のかた」やら、DMの送り先の「どこかの他人」が分かったら別だが。