このブログを検索

2013年6月5日水曜日

ラカンの愛の定義


ラカンの愛の定義(のひとつ)は、「愛とは自分のもっていないものを与えることである」(「セミネール 」)―― その意味するところ、「愛するということは、あなたの欠如を認めて、それを他者に与える、他者のなかにその欠如を置く」ということである。

ある人たちは、他者、たとえば何人かの愛人に――男でも女でも同様にーー、愛を引き起こすやり方を知っています。彼らはどのボタンを押したら愛されるようになるのか知っているのです。けれど彼らはかならずしも愛する必要はありません。むしろ彼らは囮をつかって、猫と鼠の遊戯にふけるのです。愛するためには、あなたは自分の欠如を認め、あなたが他者を必要とすることに気づかなければなりません。あなたはその彼なり彼女なりがいなくて淋しいのです。己が完璧だと思ったり、そうなりたいと思っているような人たちは愛し方を知りません。そしてときには、彼らはこのことを痛みをもって確かめます。彼らは操作し、糸を引っ張ります。けれども彼らが知っている愛は、危険も悦びもありません。(ミレール on love


ここにある「欠如」と「他者」が曲者である。


自らの「欠如」を認めること、すなわち、わたしたちが「去勢」されていることを認めること、そして何よりもまず女性は「欠如」した存在であり、人が愛することためには、「女性」のポジションからでなければならない、愛する男性がいささか滑稽にみえるとしたらこのせいである、――などとされても、実感としてはそうでありつつ、やはりいささか首を傾げなくてはならない。――ああ、またしてもフロイトやラカンの「去勢」! ウンザリだ、という声がすぐさま聞こえてくる…。

※「欠如」について、いまだウンザリしていないひと向けには、ここにいくらかの説明がある→ラカン派における「主体と大他者の欠如」、あるいは「疎外と分離」の覚書


しかし、次のような説明には頷かずにはいられない。

ーーなぜ男は愛していない女を欲望するのだろうか。それは彼が愛しているとき宙吊りにされてしまう「男らしさ」を取り返すためだ。

ーー結婚生活において、妻が夫にぴったり寄り添い過ぎれば、夫は「去勢」されてしまう。ーー《恐るべき家族の神秘…おびえて、疲れ果てて、のべつ調子外れで、女性化され、虚弱化され、干からびて、女々しく、飼い馴らされ、母性化された男たちの眼差し、ぶよぶよのオッパイ 》 (ソレルス『女たち』

あるいは、

男性は欲望の線上でも、つまり、彼が女性について自分の満足感を見つけなければならない場合でも、やはりファルスを捜そうとします。しかし(……)このファルスは、男性がそれを探しているところには見つからないため、彼は、よそのいたるところを捜すことになります。別の言い方をすれば、女性にとって、象徴的なペニスはいわば女性の欲望の領野の内部にありますが、男性にとってはそれは外部にあります。このことは、男性が、一夫一婦制の関係のなかでいつもその関係から離反する傾向があるのを説明してくれます。(ラカン「セミネールⅤ」ーー『ファルスの意味作用』読書会
psychanalyse.jp/archives/T_MATSUMOTO/.../bedeutungphallus.doc


ところで、完璧であることを願うのがかつての男性の傾向だったとしても、女性も男女平等を願って、男性と同じようでありたいとするのが父権制社会における女性の「男性化」であるとするならば、女たちも愛することを失いつつある。いまさら復習する必要もないだろうが、かつての「悪しきフェミニスト」たちの主張のようであってはならないだろう。

man(男)と woman(女)という二項対立があったとして、そこでは明らかに man womanを暴力的に抑圧しているのだから、その二項対立を転倒し、 manに対して womanを復権しなければならない。しかし、 man womanは実は Man(人間=男)という土俵に乗っているのだから、そこで優劣を転倒しただけでは、ニーチェの言うように勝利した女が男になった自らを見出すだけという結果に終わりかねない。したがって、転倒と同時に、 Man(人間=男)という土俵自体を脱構築していかなければならない(浅田彰「理屈 「デリダ追悼」」

男たちの「女性化」もあるだろう。

「父なき世代」においては、ひとは、「女性なるものに不可避的に惹きつけられる」、――それは、《父性隠喩の不成立によって「母のファルスになる」という欲望を「ファルスをもつ」に変換できなかった主体が、「母に欠けたファルスになることができないならば、彼には、男性たちに欠如している女性になるという解が残されている」(lacan E566)ことに気づくからである》(松本卓也)などといういささか厄介な説明を参照するまでもなく、たとえば共稼ぎの家庭で、帰りが早く「待つ」男性は女性化する。


「わたしは恋をしているのだろうかーー然り、こうして待っているのだから。」相手の方はけっして待つことがない、自分も待つことのない者として振舞ってみようと思うことは多い。別のところで忙しくして、遅れてゆこうと努めてもみる。しかし、この勝負はいつもわたしの負けに終る。なにをどう努めてみても、結局のところ私は暇なのであり、時間に正確で、早めに来てしまっている。「わたしは待つものである。」これが、恋する者の宿命的自己証明なのだ。

(転移現象のあるところには常に待機がある。医師が待たれ、教師が待たれ、分析者が待たれているのだ。さらに言えば、銀行の窓口や空港の出発ゲートで待たされている場合にも、わたしは、銀行員やスチュアーデス相手にたちまち攻撃的な関係を打ちたてる。彼らの冷淡さが、わたしのおかれた隷属的状態を暴露し、わたしをいらだたせるからだ。したがって、待機のあるところには常に転移があると言えよう。わたしは、自分を小出しにしてなかなかすべてを与えてくれようとしない存在――まるで欲望を衰えさせ、欲求を疲労させようとするかのようにーーに隷属しているのだ。待たせるというのは、あらゆる権力につきものの特権であり、「人類の、何千年来のひまつぶし」なのである。)(ロラン・バルト『恋愛のディスクール』p62) 

歴史的に見れば、不在のディスクールは女性によって語りつがれてきている。「女」は家にこもり、「男」は狩をし、旅をする。女は貞節であり(女は待つ)、男は不実である(世間を渡り、女を漁る)。不在に形を与え、不在の物語を練り上げるのは女である。女にはその暇があるからだ。女は機を織り、歌をうたう。「糸紡ぎの歌」、「機織りの歌」は、不動を語り(「紡ぎ車」のごろごろという音によって)、同時に不在を語っているのだ(はるかな旅のリズム、海原の山なす波)。そこで、女ではなくて男が他者の不在を語るとなると、そこでは必ず女性的なところがあらわれることになる。待ちつづけ、そのことで苦しんでいる男は、驚くほど女性的になるのだ。男が女性的になるのは、性的倒錯者だからでなく、恋をしているあらである。(神話とユートピア、その起源は女性的なところをそなえた人びとのものであったし、未来もそうした人びとのものとなるだろう。)(同『恋愛のディスクール』p23)


…………


「欠如」と「他者」に係るいくらかの資料を添付しよう。

まず「欠如」。

幼い少女は、一時的であるにせよ、ファルスを奪われたという意味で自分は去勢されたと考えます。少女は自分を去勢した相手を、まず最初は自分の母親であると認識し、そして――これ〔=この転換〕が重要な点なのですが――、続いて自分を去勢したのは父親である、と認識するようになりますが、これは一体何故なのでしょうか。〔これは非常に解釈が難しい問題ですが、〕ここに言葉の分析的な意味における転移を認めなければならないでしょう。(Lacan, E686)――(フロイト「女性の性愛について」まとめ

《象徴は物の殺害である》(ラカン「ローマ講演(1953)」)


(立木)人間が言語と関係をもつと、それとひきかえに失うものがある。ラカンはそう考えます。そういうレベルのことは、システム論ではどう位置付けたらいいのでしょうか?

(十川)欠如とひきかえに成立する自己の構造ということは……基本的に問題にしていないんです(笑)。議論の方向が違いますから。

(立木)要りませんか、その次元は? もっともラカンにしても言葉以前の世界といったものを実在的にとらえているわけではありません。そこが問題なのではない。われわれはいかにしても言語の外になど出られないわけだから。しかし、われわれが言語にとらわれている、というこの状態は、ラカンにとって何らかの喪失抜きにはありえない。ラカンが1953年に「物の殺害」と言ったのもそのことです。言語は物を殺す。同様に、言語は人間も殺す。主体が一つのシニフィアンに同一化すれば、他方ではその存在が欠如とならざるをえない、という疎外の理論も、まさに欠如とひきかえに言語の中へ入っていくという思想です。

(十川)世界の根源に欠如や喪失を想定し、そこから理論を構築していくという方法論があります。例えばラカンのフロイト読解などはその最たるものだと思います。このような方法を「否定神学的」といって批判する人もありますが、これはこれで私たちの思考を遠くまで導いてくれる力をもっています。一方で、欠如や喪失を最初に想定するのではなく、生成する力やその際に獲得する能力に力点を置いて論理を展開する方法があり、私はこの後者の論と親和性があります。欠如や喪失というのは、見方を変えれば別の側面の過剰や新たな形での獲得ということなので、これは物事の二つの異なった側面ということになります。しかし、ここで重要なのは、欠如を埋める形で獲得がなされているのではない、また喪失の場所に何かが生成しているわけではないということです。そのように考えると、やはり欠如や喪失が起源にあるという考えになってしまいます。おそらく精神分析経験を考える際には、欠如と生成という二つの問題系を視野に入れることが必要なのだと思います。……(『来るべき精神分析のために』座談会 十川幸司 原和之 立木康介


存在欠如は欲望の側にあり、それは基本的に-φ(想像的ファルスの欠如)と書かれます。その一方、欲動の側では、存在欠如は存在しません。フロイトが欲動と呼んだものはつねに成就する活動です。欲動は確かな成功へとつながりますが、その一方で欲望は確かな無意識の形成物へとたどり着きます。つまり、「自分の番を間違った」「鍵をなくした」等の失策行為や言い間違いです。反対に、欲動はその鍵をいつも手の中に持っています。(資料:欲望と欲動(ミレールのセミネールより))



次に「他者」をめぐって。


「愛することは、本質的に、愛されることである」(「セミネール ⅩⅠ」)とか、「鏡像的なものとして、愛は本質的にごまかしである」(同 ⅩⅠ)などという言明があり、「小文字の他者」に係るものかと思えば、愛の欲望 ‘desire’ for ‘love’という次元なら、「大文字の他者」に係る。

このあたりのラカンの複雑さを、ディラン・エヴァンスは次のように書いている(「 An Introductory Dictionary of Lacanian Psychoanalysis」)。

One of the most complex areas of Lacan’s work concerns the relationship between love and DESIRE. On the one hand, the two terms are diametrically opposed. On the other hand, this opposition is problematised by certain similarities between the two:

1. As an imaginary phenomenon which belongs to the field of the ego, love is clearly opposed to desire, which is inscribed in the symbolic order, the field of the Other (S11, 189–91). Love is a metaphor (S8, 53), whereas desire is metonymy. It can even be said that love kills desire, since love is based on a fantasy of oneness with the beloved (S20, 46) and this abolishes the difference which gives rise to desire.

2. On the other hand, there are elements in Lacan’s work which destabilise the neat opposition between love and desire. Firstly, they are both similar in that neither can ever be satisfied. Secondly, the structure of love as ‘the wish to be loved’ is identical to the structure of desire, in which the subject desires to become the object of the Other’s desire (indeed, in Kojève’s reading of Hegel, on which this account of desire is based, there is a degree of semantic ambiguity between ‘love’ and ‘desire’; see Kojève, 1947:6). Thirdly, in the dialectic of need/demand/desire, desire is born precisely from the unsatisfied part of DEMAND, which is the demand for love. Lacan’s own discourse on love is thus often complicated by the same substitution of ‘desire’ for ‘love’ which he himself highlights in the text of Plato’s Symposium (S8, 141).


…………


最後に、冒頭のラカンの愛の定義《愛とは自分のもっていないものを与えることである》に戻って、ジジェクのひとひねりある文を『ラカンはこう読め!』から付記しよう。

ラカンによる愛の定義 ――「愛とは自分のもっていないものを与えることである」 ――には、以下を補う必要がある。「それを欲していない人に」。誰かにいきなり情熱的な愛の告白をされるというありふれた体験が、それを確証しているのではないか。愛の告白に対して、結局は肯定的な答を返すかもしれないが、それに先立つ最初の反応は、何か猥褻で闖入的なものが押しつけられたという感覚だ。 P83

情熱は定義からしてその対象を傷つける。相手が情熱の対象の位置を占めることに徐々に同意したとしても、畏怖と驚きを経ずして同意することは絶対にできない。 P175

…………

冒頭のミレールの文章をもうすこし長く訳しておこう(翻訳には馴れていないので、あくまで私意訳である)

Jacques-Alain Miller: On Love

――どうしてある人たちは愛し方を知っていて、ほかの人たちはそうでないのでしょう?

ある人たちは、他者、たとえば何人かの愛人に――男でも女でも同様にーー、愛を引き起こすやり方を知っています。彼らはどのボタンを押したら愛されるようになるのか知っているのです。けれど彼らはかならずしも愛する必要はありません。むしろ彼らは囮をつかって、猫と鼠の遊戯にふけるのです。愛するためには、あなたは自分の欠如を認め、あなたが他者を必要とすることに気づかなければなりません。あなたはその彼なり彼女なりがいなくて淋しいのです。己が完璧だと思ったり、そうなりたいと思っているような人たちは愛し方を知りません。そしてときには、彼らはこのことを痛みをもって確かめます。彼らは操作し、糸を引っ張ります。けれども彼らが知っている愛は、危険も悦びもありません。
――自分を完璧だとするなどは、ただ男性だけの場合のように思えますが……

まさに! ラカンはよく言いました、「愛することはあなたが持っていないものを与えることだ」と。その意味は、「愛するということは、あなたの欠如を認めて、それを他者に与える、他者のなかにその欠如を置く」ということです。あなたが持っているものーーなにかよいものを与えるのではない、それを贈り物にするのではないのです。あなたが持っていないなにか他のものを与えるのです(対象aの定義のひとつは、「あなたの中にあってあなた以上のもの」である:引用者)。そうするには、あなたは己れの欠如――フロイト曰くの「去勢」――を引き受けなくてはなりません。そしてそれは女性性の本質です。ひとは、女性のポジションからのみ本当に愛することができます。「愛を与える女性」とはそういうことです。男性の愛がいつもやや滑稽なのはその理由です。けれども男性がそのみっともなさに自身を委ねたら、実際のところ、己れの男らしさがさだかではなくなります。
――男にとって愛することは女より難しいということでしょうか?

まさにそうです。愛している男でさえ、愛する対象への誇りの閃きと攻撃性の破裂があります。というのはこの愛は、彼を不完全性、依存の立場に導くからです。だから男は彼が愛していない女に欲望するのです。そうすれば彼が愛しているとき中断した男らしさのポジションに戻ることができます。フロイトはこの現象を「性愛生活の(価値の)下落debasement of love life」と呼びました。すなわち愛と性欲望の分裂です。
――女性はどうなのでしょう?

女性の場合は、その現象はふつうではありません。たいていの場合、男性のパートナーとの同化共生doubling-upがあります。一方で、彼は女性に享楽を与えてくれる対象であり、女性が欲望する対象です。しかし彼はまた、余儀なく去勢され女性化した愛の男でもあります。どちらが運転席に坐るのかは肉体の構造にはかかわりません。男性のシートに坐る女性もいるでしょう。最近ではよりいっそうそうです。ひとりの男は、家庭での愛のため、そして他の男たちは享楽のために、インターネットで、街で、汽車の中で。

…………


ジジェクの最近の書『LESS THAN NOTIHING』(2012)によれば、晩年のラカンは「驚くことに」、神への愛、見返りのない愛(リルケの『ドゥイノの悲歌』的な愛、としておこう)を語っているそうだ。この書はもうしばし待てば翻訳がでるはずなので、あえて拙訳をさらすつもりはない)。


Furthermore, the late Lacan surprisingly reasserts the possibility of another, authentic or pure love of the Other, of the Other as such, not my imaginary other. He refers here to medieval and early modern theology (Fénélon) which distinguished between “physical” love and pure “ecstatic” love. In the first (developed by Aristotle and Aquinas), one can only love another if he is my good, so we love God as our supreme Good. In the second, the loving subject enacts a complete self‐erasure, a complete dedication to the Other in its alterity, without return, without benefice, whose exemplary case is mystical self‐erasure. Here Lacan engages in an extreme theological speculation, imagining an impossible situation: “the peak of the love for God should have been to tell him ‘if this is thy will, condemn me,' that is to say, the exact opposite of the aspiration to the supreme good.”Even if there is no mercy from God, even if God were to damn me completely to external suffering, my love for Him is so great that I would still fully love him. This would be love, if love is to have le moindre sens. François Balmès here asks the right question: where is God in all this, why theology? As he perceptively notes, pure love must be distinguished from pure desire: the latter implies the murder of its object, it is a desire purified of all pathological objects, as desire for the void or lack itself, while pure love needs a radical Other to refer to. This is why the radical Other (as one of the names of the divine) is a necessary correlate of pure love. This leads Lacan to address the complex interaction between love and sexuality, culminating in the canonical thesis according to which love supplements the impossibility of sexual relationship. The starting point is il n'y a pas de rapport sexuel. In outlining this discordance, Lacan refers to Freud: there are no representations of sexual difference; all we have is the active/passive opposition, but even this fails—and what this means is that the only support of sexual difference is, for both sexes, masquerade. Masquerade has to be opposed here to parade in the animal kingdom: in the latter, males parade in order to be accepted as sexual partners by the females, while in masquerade, it is the woman who is masked. This reversal signals the passage from imaginary to symbolic: for the feminine masquerade to work, the big Other has to be present, since sexual difference is Real, but a Real immanent to the symbolic.