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2013年5月24日金曜日

父なき世代(中井久夫)


[春画 アートなのに… 国内巡回展は開催難航]への反応として「クレーム文化」だから仕方がない、という発話を読んだ。美術館側が公衆のクレームをおそれて、春画展を開催できない、というもの(わたくしは、すこしまえ騒がれた会田誠展へのクレームをまずは思い起したが)。

そのうち、「青少年」には、こんな文も禁止されかねない。

あの美しく血の滑らかな唇は、小さくつぼめた時も、そこに映る光をぬめぬめ動かしているようで、そのくせ唄につれて大きく開いても、また可憐にすぐ縮まるという風に、彼女の体の魅力そっくりであった。(川端康成『雪国』)







苦情の文化(culture of the complaintについては、わたくしの知るかぎり、ジジェクや、日本ではそれに依拠する大澤真幸によって、語られている(ジジェク曰く、社会学的には常識の部類に属するらしい)。

現代社会においては、伝統的な規範の枷がその効力を徐々に失い、原理的には、他者危害要件(他人に危害を及ぼさないという留保条件)さえみたしていれば、すべてが許されているように感じられるのである。つまり、少なくとも規範との関係でいえば、ほぼ完全な(消極的)自由が保証されているように見えるのだ。

だが、これと連動して、まったく逆方向の傾向も見出すことができる。すなわち、個人の幸福や厚生の水準の向上の名のもとに――つまり他者危害要件によって――、従来ではありえなかったような規範が急速に増大しつつあるのだ。(…)喫煙を限定する規制、望ましい食事を規定する規範、家庭内での暴力を禁止する規範、あるいはセクシュアル・ハラスメントやストーカー行為を禁止する規範などが、そうした規範に含まれる。(大澤真幸『<自由>の条件』)

「伝統的な規範の枷が効力を失う」とは、大文字の他者の喪失とか、「主人のシニフィアンの権威、言い換えれば父性的自我理想が失効する」(暗号的民主主義──ジェファソンの遺産 | 田中純)とか語られる。その規範の支えを失ったわれわれは、反面、「従来ではありえなかったような規範」を求める。つまり、「大文字の他者」の欠如は、主体が自分の責任を転移し、自分の行き詰まりを打破してくれるような公式を提供してくれるものと思われる、数々の「小さな<大文字の他者たち>little big Others」としての「倫理委員会」などを求める。

それはまた別に次のように説明されたりもする。象徴的規範の失効により、パラノイアティック(妄想的な)病理的ナルシストが跳梁跋扈するようになり、彼らは伝統的な規範が失われたことを知りつつ、その規範の影の欺瞞の糸を握って操っている「<他者>の<他者>」(ラカン)を要請する、と。

The Return of the Big Other
Besides the construction of little big Others as a reaction of the demise of the big Other, Zizek identifies another response in the positing of a big Other that actually exists in the Real. The name Lacan gives to an Other in the Real is "the Other of the Other". A belief in an Other of the Other, in someone or something who is really pulling the strings of society and organizing everything, is one of the signs of paranoia. Needless to say that it is commonplace to argue that the dominant pathology today is paranoia: countless books and films refer to some organization which covertly control governments, news, markets and academia. Zizek proposes that the cause of this paranoia can be located in a reaction to the demise of the big Other……

この大文字の<他者>の後退の第一の逆説は、いわゆる「苦情の文化」に見ることができる。その根底にある論理はルサンチマンである。主体は、大文字の<他者>が存在しないことを喜んで引き受けるのではなく、その失敗かつ/あるいは無力を<他者>のせいにする。<他者。が存在しないということが<他者>の罪であるかのようだ。つまり、無力は言い訳にならないかのようだーー大文字の<他者>はまさにそれが何もできなかったことに責任があるのだ。主体の構造が「ナルシシスティック」になればなるほど、主体は大文字の<他者>に責めを負わせ、そうして自分がそれに依存していることを確かめる。「苦情の文化」の基本的な特徴は、大文字の<他者>に向けられた、介入して事態を正してくれ(損害を受けた性的少数派あるいは少数民族などに報いてくれ)という要求であるーーまさにそれをどうするかが、さまざまな倫理的=法的「委員会」の問題になる。(ジジェク「サイバースペース、あるいは幻想を横断する可能性」松浦俊輔訳)www.ntticc.or.jp/pub/ic_mag/ic024/084-097.pdf

今日の典型的な主体は、いかなる公のイデオロギーに対しても冷笑的な不信を表に出しながら、どこまでも陰謀や脅威や〈他者〉の享楽の過剰な形態についてのパラノイア的幻想にふけっている。大文字の〈他者〉(象徴界の虚構の次元)の不信,つまり主体が「それをまともにとる」ことをしないのは、「〈他者〉の〈他者〉」があること、実は、ある秘められた見えない全能の代理人(エージエント)が「糸を引いて」おり、舞台を動かしているということを信じることにかかっている。眼に見える、公の権力の背後に、別の、猥褻な見えない権力構造があるということだ。この別の、隠れた代理人が、ラカン的な意味での「〈他者〉の〈他者〉」の役、大文字の〈他者〉(社会生活を調節する象徴界の次元)が一貫することの、メタ保証の役を演じている。われわれはここにこそ、近年の物語化の行き詰まり、すなわち「大きな物語」というモチーフの終わりの根を求めるべきだろう。(同上)

もちろん「<他者>の<他者>」は存在しない(ラカン)。あくまでもパラノイアの機制である。


中井久夫はこのあたりのことをより平明な言葉で間歇に語っている。


中井)確かに1970年代を契機に何かが変わった。では、何が変わったのか。簡単に言ってしまうと、自罰的から他罰的、葛藤の内省から行動化、良心(あるいは超自我)から自己コントロール、responsibility(自己責任)からaccountability〔説明責任〕への重点の移行ではないか。(批評空間2001-1 「共同討議」トラウマと解離(斎藤環/中井久夫/浅田彰)


1970年代を契機に変ったとすれば、なぜなのか。それはやはり「父なき世代」のせいである。

「学園紛争は何であったか」ということは精神科医の間でひそかに論じられつづけてきた。1960年代から70年代にかけて、世界同時的に起こったということが、もっとも説明を要する点であった。フランス、アメリカ、日本、中国という、別個の社会において起こったのである。「歴史の発展段階説」などでは説明しにくい現象である。

では何が同時的だろうかと考えた。それはまず第二次世界大戦からの時間的距離である。1945年の戦争終結の前後に生まれた人間が成年に達する時点である。つまり、彼らは戦死した父の子であった。あるいは戦争から還ってきた父が生ませた子であった。しかも、この第二次世界大戦から帰ってきた父親たちは第一次大戦中あるいは戦後の混乱期に生まれて恐慌時代に青少年期を送っている人が多い計算になる。ひょっとすると、そのまた父は第一次大戦が当時の西欧知識人に与えた、(われわれが過小評価しがちな)知的衝撃を受けた世代であるかもしれない。

二回の世界大戦(と世界大不況と冷戦と)は世界の各部分を強制的に同期化した。数において戦死者を凌駕する死者を出した大戦末期のインフルエンザ大流行も世界同期的である。また結核もある。これらもこの同期性を強める因子となったろうか。


では、異議申立ての内容を与えたものは何であろうか。精神分析医の多くは、鍵は「父」という言葉だと答えるだろう。実際、彼らの父は、敗戦に打ちひしがれた父、あるいは戦勝国でも戦傷者なりの失望と憂鬱とにさいなまれた父である。戦後の流砂の中で生活に追われながら子育てをした父である。古い「父」の像は消滅し、新しい「父」は見えてこなかった。戦時の行為への罪悪感があるものも多かったであろう。戦勝国民であっても、戦場あるいは都市で生き残るためにおかしたやましいことの一つや二つがあって不思議ではない。二回の大戦によってもっともひどく損傷されたのは「父」である。であるとすれば、その子である「紛争世代」は「父なき世代」である。「超自我なき世代」といおうか。「父」は見えなくなった。フーコーのいう「主体の消滅」、ラカンにおける「父の名」「ファルス」の虚偽性が特にこの世代の共感を生んだのは偶然でなかろう。さらに、この世代が強く共感した人の中に第一次大戦の戦死者の子があることを特筆したい。特にアルベール・カミュ、ロラン・バルトは不遇な戦死者の子である。カミュの父は西部戦線の小戦闘で、バルトの父は漁船改造の哨戒艇の艇長として詳しい戦史に二行ばかり出てくる無名の小海戦で戦死している。

異議申立ての対象である「体制」とは「父的なもの」の総称である。「父なるもの」は「言語による専制」を意味するから、マルクス主義政党も含まれる道理である。もっとも、ここで「子どもは真の権威には反抗しない。反抗するのはバカバカしい権威silly authorityだけである」という精神科医サリヴァンの言葉を思い起こす。第二次大戦とそれに続く冷戦ほど言語的詐術が横行した時代はない。もっとも、その化けの皮は1960年代にすべて剥がれてしまった。(「学園紛争は何であったのか」書き下ろし『家族の深淵』1995中井久夫)

このあと、《しかし、この精神分析的解釈は、反乱が学生・知識人に限局して起こったことを説明しない》とあり、《最近、私は文化大革命の記録をいくつか読んで、はっと思うことがあった。大学の教師も迫害され、農村に追いやられているが、もっとも迫害されたのは高校教師であって、彼らはしばしば生徒に殺害されている》とも。

以下はいささか割愛して、次のように書かれることになる。

せっかく入試にとおったエリートの学生がなぜ真先に異議申立てをするのか。フランス革命においてもロシア革命においても貴族たちが身分社会への反乱の理論を用意したのと似ている。これは単純な「ノブレス・オブリージェ」ではない。「体制」の中で不当に低く待遇されるであろうという予感を抱いていた若者である。今あまり人気のない歴史家トインビーであるが、彼が指摘するとおり、文化の「リエゾン・オフィサー」(連絡将校)としてのインテリゲンチアへの社会的評価と報酬とは近代化の進行とともに次第に低下し、その欲求不満がついにはその文化への所属感を持たない「内なるプロレタリアート」にならしめると私は思う。  
冷厳な事実は、二つの大戦が優秀な青年を戦死させたために、多くの国でその同世代と続く世代との、それほどでない人たち(たとえば私の世代の)に余分の機会を与えたことである。反乱世代は、この余沢が消滅した時点において成人に達しつつあった。団塊の世代といわれる彼らのところで行列が渋滞しはじめたのである。(同上)

しかし、日本がことさら「父なき」国の特質が目立つということが実感としてあるなら、次のようなこともあろう。
かつては、父は社会的規範を代表する「超自我」であったとされた。しかし、それは一神教の世界のことではなかったか。江戸時代から、日本の父は超自我ではなかったと私は思う。その分、母親もいくぶん超自我的であった。財政を握っている日本の母親は、生活費だけを父親から貰う最近までの欧米の母親よりも社会的存在であったと私は思う。現在も、欧米の女性が働く理由の第一は夫からの経済的自立――「自分の財布を持ちたい」ということであるらしい。

明治以後になって、第二次大戦前までの父はしばしば、擬似一神教としての天皇を背後霊として子に臨んだ。戦前の父はしばしば政府の説く道徳を代弁したものだ。そのために、父は自分の意見を示さない人であった。自分の意見はあっても、子に語ると子を社会から疎外することになるーーそういう配慮が、父を無口にし、社会の代弁者とした。日本の父が超自我として弱かったのは、そのためである。その弱さは子どもにもみえみえであった。(中井久夫「母子の時間 父子の時間」初出2003 『時のしずく』2005所収)



これが日本は露悪趣味的な共同体のつくり方が伝統的にある、ということでもある。


浅田)日本人はホンネとタテマエの二重構造だと言うけれども、実際のところは二重ではない。タテマエはすぐ捨てられるんだから、ほとんどホンネ一重構造なんです。(……)

偽善をめざすことをやめた情けない姿をみんなで共有しあって安心する。日本にはそういう露悪趣味的な共同体のつくり方が伝統的にあり、たぶんそれはマス・メディアによって煽られ強力に再構築されている。(『「歴史の終わり」と世紀末の世界』浅田彰・柄谷行人)

 …………

ここでもう一度、冒頭の「ナルシシスト的主体」に戻ろう。


象徴的法を自分の中に取り入れるのではなく、複数の規則、すなわち「いかに成功するか」を教えてくれる便利な規則がいろいろ与えられる。ナルシスト的な主体は、他者たちを操るための「(社会的)ゲームの規則」だけを知っている。社会的関係は、彼にとってはゲームのためのグラウンドである。彼はそこで、本来の象徴的任務ではなく、さまざまな「役割」を演じる。(ジジェク

この社会的ゲームの規則に耐えられない人たちが、たとえば「ひきこもり」に向かうといってよいのかもしれない。

浅田)浅いコミュニケーションがものすごく広がった社会なんですね。しかし、その一方で、「充実したコミュニケーション」という理想がどこかにあって、それが実現されないのでコミュニケーションから撤退するという人たちもいる。ひきこもりもそういうケースがあるように思います。例えば、「親は、言葉を聞くだけで、自分の本当の気持ちを分かってくれない」などという子供がいる。本当の気持ちなんか分かるわけないんで、言葉を聞いてくれるだけでもありがたいと思え、と(笑)。むしろ、本当の気持ちを分かり合うなどという方が気持ち悪いでしょう。けれども、そういう上っ面だけのインチキなコミュニケーションには耐えがたい、だからコミュニケーションそのものを切断してひきこもる、という人がいるわけです。それはもともとの前提が間違っているのではないか。(批評空間2001-1 「共同討議」トラウマと解離(斎藤環/中井久夫/浅田彰)

もう少し付け加えよう。

浅田)まあ、ラカンのように難しいことを言うまでもなく、人間は互いに分かり合えない、だからこそコンフリクトを重ねつつ共存していくんだ、という大前提が、ふと気がついてみたら、まったく共有されなくなっていた、そのことにはさすがに愕然としますね。


斎藤) ひきこもりの最高年齢がちょうど私と同じ年齢で、世代論は避けたいと思ってはいても、やはりそこには何かがあるという気がします。共通一次試験と特撮・アニメの世代ですね。例えば「働かざるもの食うべからず」といった倫理観を自明のこととして理解できず、むしろ働けなければ親が養ってくれると思っている。


中井)先行世代がバブルにいたるまで蓄積し続けたから、寄生できるんだね。


斎藤)経済的飢餓感も政治的な飢餓感もない。妙に葛藤の希薄な状況がある。ある種、欲望が希薄化しているようなところがあるわけです。なにがなんでもこれを表現せねばならない、というようなものもないんですね。


中井) これはいつまで続くんだろうね。その経済的な前提 というのは、場合によったら失われるわけでしょう。震災だってある。欠乏したとき、いったいどうなるのか。


斎藤)ひきこもりの人たちというのは、日常に弱くて、非日常に強いところがあります。父親が事故で亡くなったりすると、急に仕事を探し始めたりして、わりと頑張りがきくところがある。だから、必然的な欠乏が早くくれば救われるということはありますね。

浅田)治療者としての斎藤さんは拙速な「兵量攻め」には反対しておられるけれども、一般的には、欠乏に直面して現実原則に目覚めるのが早いのかもしれませんね。


※「超自我」と「父の名」、あるいは「自我理想」など、フロイトやラカン用語が出てくるが、これらは論者によって扱いがひどく違う。ここでは厳密な区分はせず一律「大文字の他者」として扱っている。

――たとえば柄谷行人にとっては、《寛大な親に育てられた子供が強い倫理感(超自我)をもつことがある》(超自我と文化=文明化の問題)とされるように、中井久夫の《良心(あるいは超自我)》、おそらく象徴界的なものと近似する。

他方、ジジェクにとっては、ラカンの《楽しみを強制するものはない。超自我を除いて。超自我は享楽の命令である。「楽しめ!」》(「セミネールⅩⅩ」)に依拠して、「超自我」は、現実界的なもの。このあたりは、『ラカンはこう読め!』の第五章「自我理想と超自我」に詳しい。

最近の書LESS THAN NOTHING(2012)でも、《まなざしー恥ー自我理想、声ー罪ー超自我gazeshameEgo Ideal, and voiceguiltsuperego.》としており、自我理想と超自我の区別はジジェクの理論的核心のひとつだろう。