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2013年6月28日金曜日

礼節と慣習

こどもはまず、自分をとりまく人たち、自分にすべての禍福をもたらしてくれる人たちを観察する。すなわち彼はまず政治的に生きるわけだ。この柔軟な精神は、まず慣習や気まぐれや情念を反映する。真実のものよりも好都合のものを、知識よりも礼節をはるかに貴しとする習慣は、それゆえわれわれだれしものうちにあってもっとも古いものである。多くの無分別、頑迷、不毛の論議といったものは、こうしたところから説明できる。われわれのまわりにも年だけいった大どもにはこと欠かない。》(アラン「外的秩序と人間的秩序」「プロポ集」井沢義雄・杉本秀太郎訳)


ーー「政治的」、すなわち、《広い意味において人々が生活する上で従うルール、支配、統治を創造し、維持し、修正し、また破壊することを通じて行われる活動である》。だれが「政治家」であることを免れるか。


デカルトのすぐれた読み手であったアランのこの文は、すぐさま以下の文を想い起こさせる(アランのいう「真理」は、けっきょく「我思う、故に我あり」に行き着く)。

さて、前にもいったように、実生活にとっては、きわめて不確実とわかっている意見にでも、それが疑いえぬものであるかのように従うことが、ときとして必要であると、私はずっと前から気づいていた。しかしながら、いまや私はただ真理の探求のみにとりかかろうと望んでいるのであるから、まったく反対のことをすべきである、と考えた。ほんのわずかの疑いでもかけうるものはすべて、絶対に偽なるものとして投げすて、そうしたうえで、まったく疑いえぬ何ものかが、私の信念のうちに残らぬかどうか、を見ることにすべきである、と考えた。(デカルト『方法序説』野田又夫訳)

けっきょくのところ、われわれに確信を与えているものは、確かな認識であるよりもむしろはるかにより多く習慣であり先例であること、しかもそれにもかかわらず少し発見しにく真理については、それらの発見者が一国民の全体であるよりもただ一人の人であるということのほうがはるかに真実らしく思われるのだから、そういう真理にとっては賛成者の数の多いことはなんら有効な証明ではないのだ、ということを知った。(同 デカルト『方法序説』)

慣習や礼節とは、共同体の形式的な規則であり、社会を滞りなく泳いでいくためには、もちろん、そのゲームの規則を知らなければならない。

ところで共同体のゲームの規則には、三つのタイプがある。まず、私に盲目的・習慣的に従うが、反省する際は、それを少なくとも部分的に意識することができるもの(日常的な挨拶など)。次に、私に取り憑いていて、私は知らないうちにそれに従っているもの(無意識的な禁止など)。三つ目は、他人の意図(悪意など)を知っているが、知っていることを他人に知られてはならないふりをすること。

たとえば、質問とは多くの場合、訊問だろう。しかし、訊問される者は、質問の意図にではなく、その字面に答えるふりをしなければならない。つまり各人は、相手の意図についてどう考えるべきか、わかっていても、遊戯は、真意ではなく、内容に答えることを強制する(然るべき態度を保つためには、汚い猥雑なあてこすりは黙って無視しなければならないのだ)。――たとえば、《こんなことを書いて何の役に立つのですか》との質問があるとする。つまり、お前さんのやっていることは何の役にも立たないよ、という嘲弄の意図があっても、それを知らないふりをして、《これこれの役に立ちます》、と素直に答えるふりをしなければならない。

第一と第二の規則については守られることが多いが、第三の規則を遵守することは困難な場合が多いだろう。


ところで、この礼節や習慣は、ラカン派では、象徴界の規則といわれたり、大文字の他者の規則と言われたりする。

ラカンによれば、人間存在の現実は、象徴界・想像界・現実界という、たがいに絡み合った三つの次元から構成されている。この三幅対はチェスに例えると理解しやすい。チェスをやる際に従わなければならない規則、それがチェスの象徴的次元である。純粋に形式的・象徴的な視点からみれば、「騎士(ナイト)」は、どういう動きができるかによってのみ定義される。この次元は明らかに想像的次元とは異なる。想像的次元では、チェスの駒はどれもその名前(王、女王、騎士)の形をしており、それにふさわしい性格付けがなされている。…最後に、現実界とは、ゲームの進行を左右する一連の偶然的で複雑な状況の全体、すなわちプレイヤーの知力や、一方のプレイヤーの心を乱し、時にはゲームを中断してしまうような、予想外の妨害などである。(ジジェク『ラカンはこう読め』)


さて、アランの《真実のものよりも好都合のものを、知識よりも礼節をはるかに貴しとする習慣は、それゆえわれわれだれしものうちにあってもっとも古いものである。》に戻って、ここでもまたジジェクから抜き出そう。

欲望の最初の問いは、「私は何を欲しているのか」という直接的な問いではなく、「他者は私から何を欲しているのか。彼らは私の中に何を見ているのか。彼ら他者にとって私は何者なのか」という問いである。幼児ですら関係の複雑なネットワークにどっぷり浸かっており、彼を取り巻く人びとの欲望にとって、触媒あるいは戦場の役割を演じている。父親、母親、兄弟、姉妹、おじ、おばが、彼のために戦いを繰り広げる。母親は息子の世話と通して、息子の父親にメッセージを送る、子どもはこの役割をじゅうぶん意識しているが、大人たちにとって自分がいかなる対象なのか、大人たちがどんなゲームを繰り広げているのかは、理解できない。この謎に答を与えるのが幻想である。どんな単純な幻想も、私が他者にとって何者であるのかを教えてくれる。どんなに単純な幻想の中にも、この幻想の相互主観的な性格を見てとることができる。たとえばフロイトは、苺のケーキを食べることを夢想する幼い娘の幻想を報告している。こうした例は、幻覚による欲望の直接的な満足を示す単純な例(彼女はケーキがほしかった。でももらえなかった。それでケーキの幻想に耽った)などではけっしてない。決定的な特徴は、幼い少女が、むしゃむしゃケーキを食べながら、自分のうれしそうな姿を見て両親がいかに満足しているかに気づいていたということである。苺のケーキを食べるという幻想が語っているのは、両親を満足させ、自分を両親の欲望の対象にするような(両親からもらったケーキを食べることを心から楽しんでいる自分の)アイデンティティを形成しようという、幼い少女の企てである。(同『ラカンはこう読め』)

「現実」が「幻想」であるというのはこういった意味でもある(ラカン派の現実(幻想)と現実界をめぐる)。

間はひとつの構造、つまり言語の構造、-構造とは言語を意味するのですが-この構造が身体を分断することによって思考するのであり、そしてこの身体は解剖学とは何の関係もありません。ヒステリー者がそれを証明してくれます。構造という裁断機が魂にやってくると強迫症状が生ずるのであって、強迫症状とは魂が持てあまし、魂を途方に暮れさせる思考なのです。

魂にかんして、思考は不調和です。ギリシャ語のヌース神話であって、この迎合は世界、魂が責任を持っている世界(環境世界[Umwelt])に適ったも のなのでしょうが、じつは、この世界は思考を支えるファンタスム(幻想)でしかありません。それもひとつの「現実」には違いないかもしれませんが、現実界のしかめ面として理解されるべき現実です。(ラカン『テレヴィジョン』)

ここで、カントの「現象は、感性の形式や悟性のカテゴリーによって構成される」を想い起こしてもよい。新カント派のカッシラーによって、この感性の形式や悟性のカテゴリーは、「象徴形式」といいかえられている。つまるところ「言語」である。


ところで伝統的に「大文字の他者」の規範が弱い日本には、日本的スノビズムという症状がある(コジェーヴのヘーゲル論の小さな註による、それは「父なき世代」であれば、いっそうのこと目立つ(ここでは東浩紀の「動物化」の話は脇に置く)。

日本的スノビズムとは、歴史的理念も知的・道徳的な内容もなしに、空虚な形式的ゲームに命をかけるような生活様式を意味します。それは、伝統指向でも内部指向でもなく、他人指向の極端な形態なのです。そこには他者に承認されたいという欲望しかありません。たとえば、他人がどう思うかということしか考えていないにもかかわらず、他人のことをすこしも考えたことがない、強い自意識があるのに、まるで内面性がない、そういうタイプの人が多い。最近の若手批評家などは、そういう人ばかりです。(柄谷行人

批評家さえもこうなのだ、そのあたりの「どこかの馬の骨」はもちろん。そして本人はそれに全く気づいていない、あれら「世の中で一番始末に悪い馬鹿、背景に学問も持った馬鹿」(小林秀雄)どもは。

しかし、そもそも誰が承認欲求から逃れられるというのか。
哲学者たちは、世の中の意見などどうでもいい、あるがままのぼくらだけが大事なんだと巧みに説明するかもしれない。しかし、哲学者たちには何も分かっていないのさ。ぼくたちが人類諸氏のなかで生きている限り、ぼくたちは人類諸氏によってこうだと見られる人間にされるだろうね。他のひとたちがぼくたちのことをどう見ているだろうかと考えこんだり、ひとの眼にできるだけ感じよく見られようと努力したりすると、腹黒い奴とか策士だとみなされるものなんだな。だけど、ぼくの自我と他人の自我のあいだに、直接の接触が存在するものなのかね、視線をおたがいに交わしあわなくても? 愛している相手の心のなかで自分がどう思われているか、その自分自身のイメージを不安な気持で追跡しないで、愛が考えられるものなのかね? 他人がぼくたちをどう見ているか、その見方が気にならなくなったら、ぼくらはその他人をもう愛していないことなんだよ(『不滅』P194――自己模倣と自己破壊


《その老学者はまわりの騒がしい若者たちを眺めていたが、突然、このホールのなかで自由の特権をもっているのは自分だけだ、自分は老人なのだから、と思った。老人になってはじめて人は、群集の、世間の、将来の意見を気にせずともすむ。近づいてくる死だけが彼の仲間であり、死には目を耳もないのだ。死のご機嫌をうかがう必要もない。自分の好きなことをし、いえばいいのだ。》(クンデラ『生は彼方に』)