ドゥルーズは『シネマ』の第一巻のなかで、おおよそ次のように語っている。『前田秀樹「悟性と感性の「性質の差異」について』(「批評空間」1996Ⅱ―9)より、一部編集
【伝統的な哲学】
哲学にとって、光は精神の側にあるもので、意識と呼ばれるものは、さまざまな事物をそれらが本来住んでいる暗闇から引き出してくる光の束である。意識という内面の光が。外側の暗闇に潜んでいる事物を照らし出す。
ドゥルーズによれば、現象学でさえこうした考えに哲学的伝統には忠実だったのであり、ただ現象学はかつて内面性の光とされていたものを、まるで電灯の光線のようにすべて外側に向けて開いていったに過ぎない。
【ベルクソンの哲学】
これに対して、ベルクソンは、事物というのはどんな光によって照らされているわけでもない、すでにそれ自体が光なのである、と。では意識とは何かというと、この光を屈折させ、停止させ、遮断するもの、言わば光にとっての障害物にほかならない。事物のイマージュは、意識の光によって照らし出されて浮かび上がるのではなく、意識をとおした光の屈折や遮断によって、つまり光の部分的な否定によって視えるものとなる。
前田氏は、このようなドゥルーズのベルグソンの叙述にたいして次のようにコメントしている。
こんなふうに語ることに何の意味があるかと言いますと、これはまず哲学が認識論において抱えてきたさまざまなアポリアから、私たちを一気に離脱させ、それらと無関係にさせつ効果を持つと言える。このアポリアとは、最も基本的には、主体によって認識させる事物のイマージュもしくは表象と、対象である事物それじたいとのあいだには、どのような関係があるか、という問いにかかわるものです。極端な観念論は、主体によるイマージュの形成が在ることしか認めないし、極端な実在論は、そのイマージュが実在する事物とはまったく無関係な主観的ないしは身体的な現象でしかないと主張する。
つまり認識論上のアポリアの中心は、事物の現象やイマージュと、主体の外にある事物との対応関係、あるいは一致をどのように見出し、説明するかにあるのだが、ベルクソンの考え方は。最初から、知の知覚のイマージュは事物の側にあり、事物の物質的な一部分(制限された光)とするわけである。だから、
……ふたつのものの対応や一致を説明する必要はどこにもない。一切は物質の次元で起こっていることです。この場合、説明しなくてはならないのは、知覚する身体が事物の全体を制限するそのやりかたのほうになります。
ここでベルクソンが行っている説明は有名なものです。知覚は哲学が考えてきたような純粋認識ではなく、身体が一定の「運動図式」によって起こそうとする行動の可能的な素描にすぎない。この素描は、一方では身体が有用な行動をめざして準備する「運動図式」を表現していますが、他方ではその図式によって限定され、縮減された物質それじたいを示しています。身体の運動図式は、知覚のイマージュを言わばその否定面において説明しますが、その同じイマージュは、縮減された物質の即自存在として、完全に肯定されるものとなるわけです。
ベルクソンのこうしたイマージュ論には、ドゥルーズ的なマテリアリズムのおそらく最初の源泉があります。