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2013年6月30日日曜日

内田光子のバッハ




旅先の殺風景な狭いホテルの一室で朝、イヤフォンでモーツアルトを聴いている。曲は選べないが、このAbacus.fmのMozart Pianoというサイトはここのところ、ずっと内田光子の演奏を流している。グレン・グールドのモーツアルトも好きだが、内田光子を聴いたらグールドが野暮ったく思えてきた。美には冷静で強い透明な意志が必要だと思わせる演奏だ。

ウェブでiTunesの〈ラジオ〉や、〈naxos〉からのダウンロードでクラシックを聴いていると、これまで知らなかった曲、知らなかった演奏に出会える。技術の進歩をありがたく思うけれど、ゼンマイの蓄音機で音楽を聴き始めた後期高齢者には、どこかに何かを保留したいもどかしい思いも残るのだ。内田光子を聴いている最中は、そんなことはすっかり忘れているのだが。

Abacus.fmをサポートしたいと思ったが、ひどいジングルで演奏を中断したりするから、やめた。 (俊)  谷川俊太郎.com










もっとも内田光子のいくつかのモーツァルトは、次のような印象を与えるときもあるだろう(たとえば、K.545 2nd 。これは過剰の抒情だ)。

私は内田光子のピアノに感心したことがかつて一度もなかった。彼女の得意とするモーツァルトにしても、フレーズのひとつひとつに過剰な意味や感情を付与しようとするその演奏は、ほとんど非人間的な速度で疾走するモーツァルトの音楽を「人間的な、あまりに人間的な」圏域に引き戻してしまうものと思われた。…(浅田彰「内田光子のシェーンベルク」

…………


たとえば、完璧主義者といわれたミケランジェリ。
… ピアノを愛するというなら、そのためには、別の時代からやってきて、つねに完了形で語っているようなアルトゥーロ・べネデツティ=ミケランジェリのピアノがあるだろう。あるいはまた近年のリヒテルのようにある種の期待が告げられるようなピアノがある。期待、すなわち近頃リヒテルが登場すると、一緒にそこにあらわれるあの未来のノスタルジーだ(ドアはそのときひとりでにひらき、そこにあるのがわからなかった部屋が見える。)しかしながら現在形で演奏するグールドの姿は決定的な光をもたらし、無垢あるいは天使という使い古された語を唇にのぼらせる。(『グレン・グールド 孤独のアリア』 ミシェル・シュネデール 千葉文夫訳)


だが、

Recording: Turin (Italy) - RAI Studios, August 13, 1962
Filmed in Paris, broadcast 5. January 1965 

それぞれ、なんという相違だろう。音楽をやっているのだから、彼らも、完璧さの追求よりも、歌がうたいたいのだ。一回限りであれば、しかもアンコールであるならば、是非③の演奏にめぐりあいたいと願うし、しかしながら何度も聴くには、わたくしの場合、②を選ぶことになる(いやそれだって断言できない、どうして①を捨て去ることができるというのか、長く愛聴したミケランジェリのプレリュード演奏のいくつかと同じ音が鳴っているというのに)。内田光子の演奏も、演奏会でめぐり合った場合、その過剰な感情の表出を拒む自信はない。《諸君は自分が何を望んでいるか実際に知っているか?……》

ステージで演奏中に心臓発作で倒れた後、ミケランジェリのピアノが変わった。完璧さを追求するよりも、音楽の流れ、音楽の内容そのものを重視するようになった。(コード・ガーベン 『ミケランジェリ ある天才との綱渡り』

諸君の朝は、事物の上に夕暮れとは違った輝き方をしてはいないか?
諸君は自分が何を望んでいるか実際に知っているか? ――自分たちは真であるものを認識するには全く役に立たないかもしれない。この不安が諸君を苦しめたことはないか? 自分たちの感覚はあまりにも鈍く、自分たちは敏感に見ることさえやはりあまりにも粗っぽすぎるという不安が? 自分たちが見ることの背後に昨日は他人よりも一層多くを見ようとしたり、今日は他人とは違ったように見ようとしたり、あるいは諸君がはじめから、人々が以前に見つけたと誤認したものとの一致あるいは反対を見出そうと渇望していることに、気づくとすれば! おお、恥辱に値する欲望! 諸君はまさに疲れているためにーーしばしば効果の強いものを、しばしば鎮静させるものを探すことに、気づくとすれば! 真理とは、諸君が、ほかならぬ諸君がそれを受け入れるような性質のものでなければならないという、完全で秘密な宿命がいつもある! あるいは諸君は、諸君が冬の明るい朝のように凍って乾き、心に掛かる何ものも持っていない今日は、一層よい目を持っていると考えるのか? 熱と熱狂とが、思考の産物に正しさを調えてやるのに必要ではないか? ――そしてこれこそ見るということである! あたかも諸君は、人間との交際とは異なった交際を、一般に思考の産物とすることができるかのようである! この交際の中には、等しい道徳や、等しい尊敬や、等しい底意や、等しい弛緩や、等しい恐怖感やーー諸君の愛すべき自我と憎むべき自我との全体がある! 諸君の肉体的な疲労は、諸事物にくすんだ色を与える。諸君の病熱は、それらを怪物にする! 諸君の朝は、事物の上に夕暮れとは違った輝き方をしてはいないか? 諸君はあらゆる認識の洞窟の中で、諸君自身の幽霊を、諸君に対して真理が変装した蜘蛛の巣として再発見することをおそれてはいないか? 諸君がそのように無思慮に共演したいと思うのは、恐ろしい喜劇ではないのか? ――ニーチェ曙光(539番)