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2013年6月22日土曜日

フィクションの一人称単数代名詞(谷川俊太郎)


《質問 十五》   

ふつうの言葉と、詩の言葉の 
違いは何ですか?
          (みく 三十四歳)


《谷川さんの答え》


ふつうの言葉だと、
たとえば「あなたを愛しています」と言うと、
あるいは書くと、
それは嘘か本当か、
それとも嘘と本当が混じっているのかが
問題になります。
詩の言葉だと、そういうことは問題になりません。
「あなたを愛しています」という言葉が、
その詩の前後の文脈の中でどれだけ読者を、聴衆を
動かす力をもっているかが問題になります。
言い換えると
ふつうの言葉には、その言葉に責任を負う主体がいますが、
詩の言葉の主体である詩人は
真偽については責任がなく、
言葉の美醜、または巧拙について
責任があるのです。》

ーーー『谷川俊太郎質問箱』p.40-41より



◆「私」 谷川俊太郎

 四十余年前、主に「僕」という一人称を使って私は詩を書き始めました。ふだんも私は僕と言っていて、友人同士のあいだではときに俺になることもあったにしろ、それはごく自然な選択だったと思います。作品における一人称と現実の私とのあいだに、ほとんど距離はなかったと見ていいでしょう。第二詩集である「六十二のソネット」では一人称は「私」に統一されています。どうして「僕」を「私」に変えたのか、はっきりした記憶はありませんが、もしかすると一種の背伸びだったのかもしれない。本来はなかったであろう「僕」のニュアンス、いささか子どもっぽい、ときにはカマトトともとられかねない感じが一九五〇年代にはもうあって、それを避けたかったのでしょう。


 それ以後の作では「僕」「私」「俺」などが混在しています。作品の中に作者、すなわち私自身ではない主人公が登場し始めたということもありますが、その主人公が直接話法で語らない場合にも、詩を書いている私と、詩の中の私とのあいだに一篇一篇の作によって異なるにしろ微妙な距離がでてきたことがその理由でしょう。つまり詩を一種のフィクションとして書くことを、私は知らず知らずのうちに覚えたと言えます。しかしこのことはこういう単純な説明では解明できない、詩というものの本質にかかわっています。私はいまだに一貫した一人称を用いることが出来ず、一篇の作を書き始めるごとに、どんな一人称にしようか迷うことが多いのです。


 近作「世間知ラズ」と「モーツァルトを聴く人」では「ぼく」が使われていて、それは当時の私の気分による、意識的な選択でした。「私」に比べると「ぼく」は一種の傷つきやすさがあり、その頼りなさが私には必要だった。その「ぼく」は「二十億光年の孤独」の中の「僕」とは違うと私は考えています。


 一篇の詩とその作者である詩人との関係は、ふつう考えられているよりはるかに複雑微妙で流動的です。一篇の詩はたしかにその作者の現実生活なしでは生まれてこないものですが、その詩に述べられた考えや感情が、そのまま作者である詩人が現実に抱いたものであるかと言えば、そうは言えないことも多いのです。詩は思想を伝える道具ではないし、意見を述べる場でもない、またそれはいわゆる自己表現のための手段でもないのです。詩において言葉は「物」にならなければならないとはよく言われることですが、もしそうであるとすれば、たとえば一個の美しい細工の小箱を前にするときと同じような態度が、読者には必要とされるのではないでしょうか。そこでは言葉は木材のような材質としてとらえられ、それを削り、磨き、美しく組み合わせる技術が詩人に求められる倫理ともいうべきものであり、そこに確固として存在している事実こそが、詩の文体の強さであるはずです。作者である詩人は「形」の中にひそんでいる。何かを言いたいから書いたのだという視点からだけでは、詩の中の「私」はとらえられないと思いますし、詩に書かれている内容をもとにして、詩人の正邪を断罪するのも公平でないと思う。とは言うものの、詩が散文による書き物と違って、この世の道徳的判断からまったく免責されているというふうには私も考えていません。詩人はたぶん現実世界から見れば不道徳な存在とならざるをえない一面をもっていて、その自覚なしには彼ないし彼女はこの世に生きてはいけないのです。自らのいかがわしさを通して、詩人は世間にむすびつくと今の私は考えています。

…………

「私」という語彙のごく日常的な言語操作に難儀する者はまずいないだろうが、だからといって、人称代名詞としての「私」がそのつど確かな指示対象を持っているかといえば、これは大いに疑わしい。それは「私」にかぎられたことではなく、「転位語」と呼ばれている「あなた」だの「ここ」だの「昨日」だのに見られる一般的な特徴にほかならず、その指示対象を確保するには、「私」を主語とする言説の主体が聞き手に現前していなければならない。すなわち、自分を「私」と呼ぶ何者かの存在は、そう口にする瞬間、その声と同様に視覚的にも認識されるという空間的な状況が成立した場合、そのときのみ、初めてその支持対象は明らかになる。だが、それに対して、聞き手もまた自分を「私」と名指しつつ応えることになるのだから、「私」が、「空」だの「花」だの「草」だののように固有の指示対象を持っていないことは明らかである。(蓮實重彦『ゴダール マネ フーコー 思考と感性とをめぐる断片的な考察』)


次に、ロラン・バルトが「テルケル」誌のインタヴュー(1971年)で珍しく「自己」を語ったときのただし書き。
このインタヴューの回答は書き改められたーーーということは、これがエクリチュールであるということを意味しない。というのも、これは伝記的な説述であるため、一人称私(および過去時制におかれた一連の動詞)は、現に語っている者との過去において生きていた者とがあたかも同一人物である(同じ場所にいる)かのように口にされるにちがいないからである。したがって、1915年11月12日、私と同時に誕生した人物が、単なる言表行為の効果によって、完全に“想像的”なある一人称の人物にたえず転化されてゆくということを忘れないようにしていただきたい。それゆえ、以下の回答には、素朴にも指向対象を指し示すとされるあらゆる言表行為につけるべき括弧をひそかにつけてしかるべきだろう。あらゆる伝記は、あえてその名を名乗らない小説なのである。


自伝は虚構(物語)として読むこと。それは「嘘」ではないかもしれない。だがどれほど真実を目指したものであれ、言葉で記述されるのであり、「現実」(非言語的な指向対象)のレヴェルには位置されない。

巷の「自分語り」のたぐいも同じく。いくら真摯に過去を語っても(たとえば過去の悔恨)、それはあくまで虚構。もしそれが言い過ぎなら、「現在との緊張において」語られた想像的なものである。

《フロイトの夢の研究に徴しても、老人の回想に照らしても、「現在との緊張における」という限定詞つきの意味での「個人的過去の総体」は一般に「人格」と呼んでいるものにほぼひとしい。》(中井久夫『「世界における索引と徴候」について』)



(一般に)過去を変えることは不可能であるという思い込みがある。しかし、過去が現在に持つ意味は絶えず変化する。現在に作用を及ぼしていない過去はないも同然であるとするならば、過去は現在の変化に応じて変化する。過去には暗い事件しかなかったと言っていた患者が、回復過程において楽しいといえる事件を思い出すことはその一例である。すべては、文脈(前後関係)が変化すれば変化する。(「統合失調症の精神療法」)

ーーたとえば、「若い頃、いろんなことに手を出した」という同じ過去の事実は、現在に満足するひとなら、「あの経験が今の幅広い仕事を生んだ」、となるし、逆に現在に満足していないひとなら、「あれが器用貧乏の半生をもたらした」、ということになる。