《ドストエフスキーは、人々は「自由」など望んでいないといったが、同様に、“精神”であることを人は望んでいない。自分はめざめて、現実を直視し、ほかの人は幻想に支配されていると説くあの連中のように、夢をみていることを望むのである。》(柄谷行人「探求Ⅱ」ーー合理的な守銭奴)
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さて、前投稿「魂の非安」について書かれた「不安」と「現実界」についての資料をいくらか附記しておこう。
ラカンによれば、不安は欲望の対象=原因が欠けているときに起こるのではない。不安を引き起こすのは対象の欠如ではない。反対に、われわれが対象に近づきすぎて欠如そのものを失ってしまいそうな危険が、不安を引き起こすのだ。つまり、不安は欲望の消滅によってもたらされるのである。(スラヴォイ・ジジェ ク:『斜めから見る』:p27)
ラカンは裂け目[gap]に特権的な地位を与えています。彼は無意識を定義するのに「躓き、瓦解、ひび割れ」を選びました。(……)
ある意味では、ラカンが「主体」と言うとき、それは「欲望」――巧くいかない何か――と言うことと等価なのです。しかし、これがフロイトの無意識のすべてではありません。なぜなら、無意識は反復としても現れるからです。ミレール「(『精神分析の四基本概念』の)文脈と概念」 )
夢を見るとき、悪夢を見たとすれば、あなたは目を覚まして現実性と接続します。なぜなら夢の基本的機能は眠りを保護すること であり、悪夢を見ることによって夢はあなたの眠りを保護することに失敗したからです(夢は願望充足であるということは本当なのですが、その前に何よりも夢 は眠りを保護するものなのです。)快原理が失敗し、あなたは目を覚まします。ラカンが言うように、それは目を覚まして夢を見続けるためです。これが、ラカ ンが現実性は幻想だという理由です。「(『精神分析の四基本概念』の)文脈と概念」 ジャック=アラン・ミレール)
もしわれわれが「現実」として経験しているものが幻想によって構造化されているとしたら、そして幻想が、われわれが生の〈現実界〉にじかに圧倒されないよう、われわれを守っている遮蔽膜だとしたら、現実そのものが〈現実界〉との遭遇からの逃避として機能しているのかもしれない。夢と現実との対立において、幻想は現実の側にあり、われわれは夢の中で外傷的な〈現実界〉と遭遇する。つまり、現実に耐えられない人たちのために夢があるのではなく、自分の夢(その中にあらわれる〈現実界〉)に耐えられない人のために現実があるのだ。
これが、フロイトが『夢判断』の中で例に挙げている有名な夢から、ラカンが引き出した教訓である。それは、息子の棺を見張っているうちに寝込んでしまった父親がみた夢である。夢の中で、死んだ息子が父親の前にあらわれ、恐ろしいことを訴える。「お父さん、ぼくが燃えているのが見えないの?」 父親が目を覚ますと、ロウソクが倒れ、息子の棺を覆っている布に火がついている。ではどうして父親は目を覚ましたのだろうか。煙の臭いがあまりに強く、その出来事を即興で夢に取り入れ、睡眠を継続することができなかったのだろうか。ラカンはもっとずっと興味深い解釈を述べている。
《夢の機能が眠りの延長だとしたら、そして夢はそれを呼び起こした現実にこれほどまで接近することができるとしたら、眠りから離れることなく夢はこの現実に答えている、と言えるのではないでしょうか。結局、夢には夢遊病的な作用があるのです。それまでフロイトが示してきたことからわれわれがここで立てる問い、それは「何が目覚めさせるのか」ということです。目覚めさせるもの、それは夢「という形での」もう一つの現実にほかなりません。「子どもが彼のベッドのそばに立って、彼の手を摑み、非難するような調子で呟いたーーねえ、お父さん、解らないの? 僕が燃えているのが?」
このメッセージには、父親が隣室で起きている出来事を知った物音よりも多くの現実が含まれているのではないでしょうか。この言葉の中に、その子の死の原因となった出会い損なわれた現実が込められているのではないでしょうか。(ラカン『精神分析の四基本概念』)》
このように、不幸な父親を目覚めさせたのは外の現実からの闖入物ではなく、彼が夢の中で出会ったものの耐えがたく外傷的な性質だった。「夢をみる」というのが、<現実界>との遭遇を回避するために幻想に耽ることだとしたら、父親は文字通り夢をみつづけるために目を覚ましたのだ。シナリオは次のようになっている。煙が彼の眠りを妨げたとき、父親は睡眠を続けるために、すぐさまその妨害要素(煙、火)を組み入れた夢を作り上げた。しかし、彼が夢の中で遭遇したのは、現実よりもずっと強い、(息子の死に対する自分の責任という)外傷だった。そこで彼は<現実界>から逃れるために、現実へと覚醒したのである。(ジジェク『ラカンはこう読め!』)
《現代芸術ではしばしば、「<現実界>に帰る」という企てにあうが、……彼らのやっていることは、彼らの主張とは裏腹に、<現実界>からの逃避であり、幻覚そのものの<現実界>から逃げようとする必死の企てにすぎない。》
《ラカンにとって、究極の倫理的課題は、真の覚醒である。それはたんなる睡眠からの覚醒ではなく、むしろ覚醒しているときにわれわれを強くコントロールしている幻想の呪縛からの覚醒である。》(同上)
ーーたとえば、ジジェクは、チェルノブイリを「世界の開かれた傷口」と呼んだ(ここで、前投稿のデュラスの言葉、《愛するという感情が不意に訪れるとしたら、それはどのようにしてなのか、とあなたは訊ねる。彼女は答える-たぶん、世界の論理の突然のひびわれから》を想起してもよい)。
通常、傷口は象徴界によって塞がれている。つまりわれわれの生活の日常運転によって隠蔽されている(われわれの共通の日常的現実、つまりわれわれが親切で真面目な人間という役割を演じている社会的世界の現実によって)。だが突如、傷口として、あるいは、心的外傷(トラウマ)として、現実界が噴出する。「現実」は、象徴界によって飼い馴らされた<現実界 réel>である、というのはこの意味である。
われわれの一見うまく行っているときの生活を「現実=幻想」と呼び、フクシマを「現実界」と呼ぶとしてもよい。
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さて、こうやって書いていれば、「現実界réel」という語の多用に恥じる<わたくし>がいる。そして、上のラカン派の文章は、ひとつの立場であり、当然のことながら全面的に信頼するには及ばない。たとえば中井久夫なら外傷性悪夢を次のように叙述する。
「死の本能」は戦争が生み出したものであって、平時の強迫神経症はむしろ、理論の一般化のための追加である。裁判でフロイトは戦争神経症を診ていないではないかと非難され、傷ついたであろう。これが「死の本能」の淵源の一つであり、その根拠に、反復し、しかも快楽原則から外れているようにみえる外傷性悪夢がこの概念で大きな位置を占めている。しかし、私は、「死の本能」を仮定するよりも、夢作業が全力を尽くしても消化力が足りないと考える。このほうが簡単である。そもそも目覚めてもしばらくは記憶している夢は夢作用が消化しつくせなかった残りかすではないか。夢の分りにくさと、その問題性とは、夢作業の不消化物だからではないかと私は思う。(中井久夫「トラウマについての断想」『日時計の影』所収 53頁)
最後に、ラカンのエピゴーネンたちを批判する文とも読める蓮實重彦の言葉を引用しておこう。
「 réel」と口にするひとは、そう口にしてしまった自分にその資格があるかどうかという疑いを持たねばなりません。ところが、「 réel」について語ることは、その資格もないひとたちがもっとも楽天的に戯れうる制度になってしまった。この制度は、なんらかのかたちでもう一度わさわさと揺り動かさなければならない。無限の翻訳の連鎖に組み入れられた体験を持たないひとが、「原 =翻訳」なんていっちゃいけないわけですよね、本来は。にもかかわらず、現代では、自分に果たしてその権利があるのかどうかを誰も反省しなくなっているという怖さがあります。それは、思考の頽廃でしかありません。自分がそれを語るにふさわしい人間か、また、そのかたちで語っていいのかということに対する反省が、いたるところで失われてゆきます。そのとき、職業ではなく、体験としての批評が改めて意味を持ち始めるのですが、言い換えの無限の連鎖に取り込まれるより、ひとこと「 réel」といっているほうが、疲れなくていいのかもしれません。(蓮實重彦インタビュー ──リアルタイム批評のすすめ vol.2)