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2013年6月22日土曜日

「逃げさる」男の剰余享楽

「金儲け」の論理、あるいは守銭奴(ヴァレリー、マルクス)」に引き続き、剰余享楽(剰余価値)をめぐる。

「逃げさる」男としたのは、とくに深い思惑があるわけではない、「逃げさる女」が、プルーストの長い小説のひとつの巻名なので、同じように「女」としたら芸がないせいだ(と書けば、男としたことを強調することになる、なにかとても深い意味があるのだろうか? と…)。

そもそも、今日、m a n は「男」を意味しているが、これは「女」を意味していたのだ。m a n は万物創造の月女神であり、祖霊の m a n e sの母であった。サンスクリットの m a n も、「真言」の Ma n t r a に見るように、月女神と叡智を意味していた。m a 、m eを語源にして派生した現在の英単語を見ると、「母親」と「物質(創造物) 」と「叡智」「測定」に関するものが多い。(古代母権制社会研究の今日的視点―神話と語源からの思索・素描―松田義幸・江藤裕之)

ーー勘ぐるのはよそう…たんに、この文を引用したかっただけさ…さてさて…どの「否」やら…フロイトの四つの「否Ver‐」( 排除、抑圧、否定、否認)



ところで、この剰余とは、なにか「正常」な享楽に何かがつけ加わったという意味の剰余ではなく、享楽は、この剰余の中にのみあらわれるということ。それは本質的に「過剰」なのであり、その剰余を差し引いてしまうと、享楽そのものが消え去ってしまう。

剰余価値も同じく。《資本の論理はすなわち差異性の論理であるわけです。差異性が利潤を生み出す。ピリオド、というわけです》(『終りなき世界』柄谷行人・岩井克人対談集1990)

透明なかたちで価値法則が見渡せないということが資本の論理が働くための条件なのであり、つまり、価値法則の自己完結性が破綻していることが、資本主義が現実の力として運動するための条件。もし「同じ状態のままで」いたら、もし内的均衡を達成してしまったら、資本主義は存在しなくなる。

これが、資本主義的生産過程駆動する「原因」である剰余価値と、欲望の対象-原因である剰余享楽(対象a)が、相同的ということ。


…………


ひとつの心理的機制。――逃げ去ったら、なんでもない平凡な人間でも魅惑のオーラを発するようになる場合がある。(冒頭の説明を繰り返せば、オーラとは、剰余享楽なのであり、剰余を差し引いてしまえば、なにものでもない)。

女衒師(古くは「女見」といったらしい)は、このメカニズムをよく知っている(参照:戦略的なマゾヒストたれ!

また、逃避行は、剰余享楽(=対象a)を生んでしまうことがあるのだ、それがかりに囮でなくても、つまり意図的でなくても。

この「逃げ去ること」の「副産物」=<対象a>、これは隠された財宝、「われわれの中にあって、われわれ以上のもの」、すなわち、われわれの肯定的特質のいずれと結びつけることもできないにもかかわらず、われわれの行動すべてに魔法のオーラを投げかける、捉えどころがなく、手の届かないXであり、いったん対象aが生じたら、それを消し去るのは容易ではない。

マルクスの剰余価値という概念をもとにして、ラカンが剰余享楽なる概念をつくりあげたのは当然といえば当然であって、剰余享楽もまた貨幣と同じように、事物 (快楽の対象) をその反対物に変え、通常はきわめて快い「正常な」性体験と見なされているものを猥褻なものに変え、 (愛する人を苦しめるとか、辛い辱めに耐えるといった )ふつうは胸糞悪い行為と見なされているものを言葉では尽くせないほど魅惑的なものに変える、逆説的な力をもっている。 (ジジェク 『斜め から見る』)

《出奔した女は、いままでここにいた女とはおなじ女ではもはやなくなっている》(「逃げさる女」)と、プルーストは書く。こうやって一日前には退屈でうんざりしていた女の裂け目が開き、剰余価値(対象a)が唐突に煌めく。


<対象a>それ自体はごくありふれた日常的な物であるが、こういった些細な出来事で突然、一種のスクリーンとして、つまり主体が自分の欲望を支えている幻想を投射できるような空間として機能しはじめる。ーー《幻想とは不可能な視線のことである。幻想の「対象」は、幻想の光景そのもの、つまりその内容ではなく、それを目撃している不可能な視線である。》(ラカン)


出奔したのが男だった場合、ひょっとするともっとたちが悪いことが起こる、古典的な言い草、嫉妬の執念が、女のほうが強いとするならば(つまり幻想の「対象」に投射するより強い嫉妬の視線のせいで)。あるいは《ひとりの小さな女であっても、復讐の一念に駆られると、運命そのものを突き倒しかねない。 ――女は男よりはるかに邪悪である、またはるかに利口》(ニーチェ)であるなら。さらには、《「ヒステリー女が欲するものは何か? ……」、ある日ファルスが言った、「彼女が支配するひとりの主人である」》(ソレルス『女たち』)であるなら。


タルマン・デ・レオーは、ルイ十三世について、こう書く、《彼の恋は不思議な恋だった。まったく恋する者らしいところがなく、ひたすら嫉妬するだけなのだった》(「小話集」)

嫉妬的受苦のドラマ、常に主体自身へと一回りして戻ってくる囮の鏡の絶え間ないシーソー(イマジネール)。あるいは、主体は他者の欲望を追及して精魂尽き果ててしまう(シンボリック)。

嫉妬するわたしは四度苦しむ。嫉妬に苦しみ、嫉妬している自分を責めて苦しみ、自分の嫉妬があの人を傷つけるのをおそれて苦しみ、嫉妬などという卑俗な気持に負けたことに苦しむのだ。つまりは、自分が排除されたこと、自分が攻撃的になっていること、自分が狂っていること、自分が並みの人間であることを苦しむのだ。(ロラン・バルト『恋愛のディスクール』)

 …………


誇りの高い人間は、相手にすてられることによって愛をそそられてしまう。《恋愛の劇は欲望の劇ではない。むしろはるかに自尊心の劇である。欲望のがわには放蕩は男を人づきあいのよい妥協的な人間にする、というあの味気ない思想のほか、おそらくなにひとつ見いだすに足るものはない。反対に自尊心は妥協しえず、調子を合わすこともしえない。》(アラン『プロポ集』「嫉妬」)

相手の人間に愛をそそられるよりも、相手にすてられることによって愛をそそられるのは、ある種の年齢に達した者の運命で、その年齢は非常に早くくることがある。すてられていると、相手の顔面はわれわれに不明瞭で、相手の魂もどこにあるのかわからず、相手を好きになりだしたのもごく最近で、それもなぜなのかわからず、ついに相手のことではたった一つの事柄しか知ろうとしなくなる。つまり、苦しみをなくすためには、どうしても相手から、「お会いになっていただけるでしょうか?」という伝言をわれわれのもとにとどけさせる必要がある、という一事だけだ。「アルベルチーヌさまはお発ちになりました」とフランソワーズが告げた日の、アルベルチーヌとの離別は、ほかの多くの離別の一つのアレゴリー、むしろひどくは目立たない一つのアレゴリーといってもよかった。ということは、われわれが愛していることを発見するためには、またおそらく、愛するようになるためにさえも、しばしば離別の日の到来が必要だということなのである。(プルースト「逃げさる女」)

《もっとも高く評価されたいと思っているその人から侮辱されたがために、いっそう苦痛は鋭くなる》(同アラン)

こうして苦しみをなくすために「うそ」が始まる。

うそは人間において本質的なものである。うそは人間においておそらく快楽の追及とおなじほど大きな役割を演じているだろう、しかも、うそは快楽の追及に従属するのである。人は自分の快楽をまもるためにうそをつく。人は生涯にわたってうそをつく、人は自分を愛してくれる人たちにさえうそをつく、そういう人たちであればこそとりわけうそをつく、おそらくそういう人たちにだけうそをつくだろう。われわれにとっては、正直いって、そういう人たちだけが、自分の快楽をまもるためにおそろしいのであり、しかもそういう人たちだけから、尊敬を受けることが望ましいのである。(プルースト「逃げさる女」)

ひとは逃げさった人物を再度振り向かせるためにあの手この手の「うそ」をつく。そしてしまいには、そのうそに気づかなくなってしまう。


人がうそをついていることに気づかなくなるのは、他人にうそばかりついているからだけでなく、また自分自身にもうそをついているからなのである(プルースト「ソドムとゴモラ Ⅱ」)



もちろん、こうやって書く<わたくし>は、たんに観察者として書いているわけではない。少年時、ひどく嫉妬に苦しめらた記憶とともに書いており、プルーストやロラン・バルト、フロイトを好んで読むのも、幼少の砌の髑髏に苦しめられてのことである。

ーー《身体の傷は何カ月かで癒えるのに心の傷はどうして癒えないのか。四〇年前の傷がなお血を流す》(ヴァレリー「カイエ」)

頼朝公卿幼少の砌の髑髏〔しゃれこうべ〕、という古い笑い話があるが、誰しも幼少年期の傷の後遺はある。感受性は深くて免疫のまだ薄い年頃なので、傷はたいてい思いのほか深い。はるか後年に、すでに癒着したと見えて、かえって肥大して表れたりする。しかも質は幼年の砌のままで。

小児の傷を内に包んで肥えていくのはむしろまっとうな、人の成熟だと言えるのかもしれない。幼い頃の痕跡すら残さないというのも、これはこれで過去を葬る苦闘の、なかなか凄惨な人生を歩んできたしるしかと想像される。しかしまた傷に晩くまで固着するという悲喜劇もある。平成は年相応のところを保っていても、難事が身に起ると、あるいは長い矛盾が露呈すると、幼年の苦についてしまう。現在の関係に対処できなくなる。幼少の砌の髑髏が疼いて啜り泣く。笑い話ではない。(古井由吉 『東京物語考』)

今は場合によっては「観察者」かもしれない。だが、観察者として振舞う人間に、なんの落ち度があろう、はたして「超然」としている人間のほうが優れているのだろうか。

心理学者の決疑論。――この者は一人の人間通である。いったい何のために彼は人間を研究するのであろうか? 彼は人間に関する小さな利益を引っとらえようと欲する、ないしは大きな利益をも。――彼は政略家にほかならない!・・・あそこのあの者もまた一人の人間通である。だから諸君は言う、あの者はそれで何ひとつ自分の利益をはかろうとしない、これこそ偉大な「無私の人」であると。もっと鋭く注意したまえ! おそらく彼はさらにそのうえ“いっそう良くない”利益を欲している、すなわち、おのれが人々よりも卓越していると感じ、彼らを見くだしてさしつかえなく、もはや彼らとは取りちがえられたくないということを欲しているのである。こうした「無私の人」は”人間軽蔑者”にほかならない。だからあの最初の者の方が、たとえ外見上どうみえようとも、むしろ人間的な種類である。彼は少なくとも同等の地位に身をおき、彼は“仲間入り”する。(ニーチェ『偶像の黄昏』「或る反時代的人間の遊撃」十五 原佑訳 ちくま学芸文庫)

ただし、観察者は自分も観察されていることをも忘れてはならない。他人の「こっけいさ」はよく見え、自分の「こっけいさ」は見えていないのを忘れてはならない。

私が他者の現前意識、すなわち他者の「比例世界」、他者の「私」にはいりこめないことは自明の前提としてもよかろう。しかし、他者の「メタ私」についてはどうか。なるほど、他者の「メタ私」を完全に知ることはできない。しかし、それは私の「メタ私」についても同様である。「私の現前する「私」」と「他者の現前しているであろう「私」」との間の絶対的な深淵のようなものはない。(……) 

他者の「メタ私」は、それについての私の知あるいは無知は相対的なものであり、私の「メタ私」についての知あるいは無知とまったく同一のーーと私はあえていう-――水準のものである。しばしば、私の「メタ私」は、他者の「メタ私」よりもわからないではないか。そうしてそのことがしばしば当人を生かしているではないか。(中井久夫「世界における索引と徴候」)

そう、たとえば、われわれは、「女性の本質に通じた最初の心理学者」、ニーチェのなかにさえ、滑稽さを察知することができる。

わたしは女というものが何かをよく知っていると、あえて仮説的に主張してようだろうか? この知識は、ディオニュソスがわたしに持ってきてくれた財産の一端である。ことによったら、私は、「永遠の女性」の本質に通じた最初の心理学者なのかもしれない。女という女はわたしを愛するーーいまさらのことではない。もっとも、かたわになった女たち、子供を産む器官を失った例の「解放された女性群」は別だ。 ――幸いにしてわたしには、八つ裂きにされたいという気はない。完全な女は、愛する者を引き裂くのだ ……わたしは、そういう愛らしい狂乱女〔メナーデ〕たちを知っている ……ああ、なんという危険な、足音をたてない、地中にかくれ住む、小さな猛獣だろう! しかも実にかわいい! ……ひとりの小さな女であっても、復讐の一念に駆られると、運命そのものを突き倒しかねない。 ――女は男よりはるかに邪悪である、またはるかに利口だ。女に善意が認められるなら、それはすでに、女としての退化の現われの一つである ……すべての、いわゆる「美しき魂」の所有者には、生理的欠陥がその根底にあるーーこれ以上は言うまい。(ニーチェ『この人を見よ』)

もっともこのニーチェの文は、女にたいして終生不器用であったみずからの滑稽さを感じとって、意図的に「ユーモア」の衣を纏わせているようにも見える。《書物はまさに、人が手もとにかくまっているものを隠すためにこそ、書かれるのではないか。(……)すべての哲学はさらに一つの哲学を隠している。すべての意見はまた一つの隠れ家であり、すべてのことばはまた一つの仮面である。》(ニーチェ『善悪の彼岸』289番)


「滑稽だな。いかにもあなたらしい滑稽だ。そうしてあなたはちっともその滑稽なところに気がついていないんだ」(夏目漱石『明暗』 第百八十三章)

プルーストは、芸術家が愚劣な人間の滑稽さを見守る「いじわるさ」を非難するのは間違っていると書く。だが観察するのが鋭利な感性をもった芸術家ではなく、観察されるのが愚劣な人間でなくとも、つまり、平凡な人間が優れた人間の滑稽さを感知してしまうこともありえよう。そうであっても、そのとき恥じ入ったり侮辱を感じたりする必要はない、と言えるのかもしれない。

身ぶり、談話、無意識にあらわされた感情から見て、この上もなく愚劣な人間たちも、自分では気づかない法則を表明していて、芸術家はその法則を彼らのなかからそっとつかみとる。その種の観察のゆえ、俗人は作家をいじわるだと思う、そしてそう思うのはまちがっている、なぜなら、芸術家は笑うべきことのなかにも、りっぱな普遍性を見るからであって、彼が観察される相手に不平を鳴らさないのは、血液循環の障害にひんぱんに見舞われるからといって観察される相手を外科医が見くびらないようなものである。そのようにして芸術家は、ほかの誰よりも、笑うべき人間たちを嘲笑しないのだ。(プルースト「見出されたとき」井上究一郎訳)