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2010年12月24日金曜日

デカルトの「我思う」と「私は嘘をつく」  (ラカン)

ラカンが「同一化」のセミネールで、デカルトの、「我思う。ゆえに我あり」におけるデカルトの袋小路をめぐって述べている箇所を、ここでは、コメント差し挟まずに、そのまま引用する。東京精神分析サークル 要約 J.ラカン、セミネールIX巻「同一化」第I講-第 X (向井雅明試訳)からの抜粋である。(太字強調は引用者)

デカルトの命題を扱うといっても、デカルトを乗り越えるということが重要なのではない。彼はひとつの袋小路に陥ったのであるが、それと同時にその基盤を示してくれた。この袋小路を利用して最大限の効果を得えることが重要なのだということは明らかである。今ここで私はテクストの注釈とは全く離れている批評をしているのであって、それについて来るには、私がそこから自分のディスクールのために何を引き出そうとしているのか思い起こす必要がある。
「我思う。ゆえに我あり」はこの凝縮された表現をもって一般的に使われるようになった。それはマラルメがどこかでほのめかしている、使い古されて表面が磨り減ってしまっている硬貨のようになっている記号のようである。それをちょっと取り上げ、その記号の機能に磨きをかけ、われわれが利用するためによみがえらせようとするために、次のことを指摘しておこう。

それは、この命題―繰り返すが、この凝縮された形は『方法序説』の中のいくつかの部分に見出されるのみで、通常はこのような濃厚な形では表現さない―、この「我思う。ゆえに我あり」は、「我思う」とはひとつの思考ではないという反論に突き当たるということである。これはまだ出されたことがない反論である。もちろん、デカルトは長い思考過程の果てにこれらの命題をわれわれに提供するのであって、それは確かにひとつの思想家の思想である。さらに言うと、思想家の思想というこの特性は、思想について語るには必要ではない。要するに、思考は思考について思考することを全く必要としないのである。とりわけ、われわれにとって思考は無意識から始まる。われわれが思考について何か言おうとするとき、思考は準備状態、縮小版の行為だとか,行為の経済的な小型モデルだとかいう心理学的命題に助けを求めるときの臆病さには驚くばかりである。フロイトのどこかにも同じようなものがあると言えるかもしれないが、もちろんそうである。だが、フロイトには何でもあるのだ。彼は何かの論文に心理学的定義を用いたかもしれない。しかしながら、思考は自慰的な満足の、完全に有効な、いわば自足した方法であるということもフロイトは主張しているということを否定するのは全く困難なことであろう。われわれがこう言うのは、思考の意味について、われわれはおそらく他の連中よりも少しばかり考えが広いということに他ならない。おそらく、この「我思う」は「我あり」という現前から最終的に探し出せるものを支持することにはまったく不十分なパロルなのであろう。
まさにそうである。明確にするために言うと、この単純な形で取り上げられた「我思う」というのは、論理的には幾人かの論理学者を困らした「私は嘘をつく」以上に確固としたものではない。この「私は嘘をつく」というのは論理的な動揺によってのみ支えられており、確かに空虚であるには違いないが支持することはでき、見せ掛けの意味を展開し、十分に形式論理学のうちに自分の地位を見出しているのである。「私は嘘をつく」、こう言えばそれは真実でありながら、私は確かにうそをつく。なぜなら「私は嘘をつく」と言いながら、逆を主張するのであるから。この論理的困難とされるものを分解して、それは、この判断は自らの言表に言及することはできない、それは異なった水準あるものの一方のもう一方への陥没現象であるということに基づいているということを示すのは非常に簡単である。「私は嘘をつく」ということ自体が強調され、そこから判断を分離せず、二つの平面の区別が欠如していることから、この疑似的困難が生まれるだ。これは、この区別が欠けていると、真の命題は成立しないということを意味する。論理学者達はこれらのパラドックスを重視して、それにふさわしい地位を与えているが、われわれにはこれらのパラドックスは意味のないものと映るかもしれない。

だがやはりそれはある重要性を持っている。それを取り上げることによって、先ほど話した有名な論理実証主義も含めたあらゆる形式論理学を位置することもできるのである。これに結びついた有名なエピメニデスのアポリアは十分に生かされてはいないようである。それは「わたしは嘘をつく」に関して上に述べたことを更に発展させたもので、「すべてのクレタ人はうそつきである、とクレタ人エピメニデスが言った」という場合、そこにはこまのように回転して止まることのない論理があることがわかるというものである。
このことは全称肯定命題というものの空虚さを証明するために十分に利用されていない。というのも、これについて指摘されるように、実際それは問題を解決するためのもっとも興味深い形式なのである。次のことを言うことは可能であるが、それを言うとどのようなことがおきるであろう。
「嘘をつくことができないクレタ人はいない」。これは有名な全称肯定命題を批判するために出されたもので、その実体は全称否定命題以外の何でもないと主張する者もいる。だがこう言った時にはもう問題は解消してしまうのである。エピメニデスはこのことを言える。というのは、このように表現されると、クレタ人でも良いのであるが、つねに嘘をつけることのできる誰かが存在するということを意味しないのである。とりわけ、嘘をつきとおすことは一貫した記憶を必要としており、最後にはその人は真理を告白するような方向にディスクールを向けてしまうゆえに、「すべてのクレタ人はうそつきである」が、嘘をつき続けようと思わないクレタ人は一人もいない、という意味なら、真理は最後にはまちがいなく何かの拍子で、また嘘をつこうという意思の強さに比例して、こぼれ出すのである。

すべてのクレタ人はうそつきであるという、クレタ人エピメニデスの告白は結局次の意味を持っている。すなわち1)彼は自慢している。2)彼は自分の方法を正しく使えることで相手の目をくらまそうとしている。これは、自分は礼儀正しくないが、まったく率直に物を言っているのだ、と言うときと同じ位成功するもので、はったりを通用させるときの典型にほかならない。
これは、カテゴリーの形式的な意味においてのすべての全称否定命題は同様な間接的目的を持っている、ということを表しているが、古典的な例においてこの目的がはっきりするのはすばらしいことである。ソクラテスについての三段論法で、ソクラテスが死すべきものであることをわざわざ明らかにするのがアリストテレスだというのは興味深いことである。つまり解釈の対象となるという意味である。ここで解釈とは、まさにアリストテレスの論理学の何巻かの標題としてある機能よりもおそらく多少深い意味を持っているであろう。というのも、アテネがソクラテスと呼ぶ者は、動物としての人間としては死を確約されていても、まさしくソクラテスと名づけられるかぎりで彼は死から逃れるのである。このことは単に、プラトンによってなされた有名な転移の作用が続くかぎり彼の名声は続くという理由だけでない。それはまた、より正確には言えば、社会的な身分を元に、固有の場を持たない存在となることに成功した者としてアテネでソクラテスという名で呼ばれている者である―それだからこそ彼は亡命できなかったのである。ソクラテスが己の死の欲望を自らの生のアクティング・アウトとなすまで自己を維持することができたということが彼の永遠の名を保証しているのでもあることは明らかである。したがって、アリストテレスの三段論法の例として挙げられたもののなかには、知の発展の障害になると彼が考えていた転移をまさに厄払いしようとする試みとして解釈できるものがあるのである。だが、それは彼の間違いであった。失敗することはは明らかであったのだ。彼がプラトンよりもうまく欲望の本性を変えることができたら事態は変わっていたであろう。現代科学は超プラトン主義から生まれたもので、結局、概念の規定に従った知の機能へのアリストテレス的回帰によるものではない。神々の第二の死とでも呼べるようなものが、実際必要だったのである。つまり、言葉が自らの真の真理を、科学の出生地である意味の闇を消し去る真理をわれわれに示すための、ルネッサンスの時代の亡霊としての神々の再退場である。であるから、われわれが言ったように、この「我思う」というフレーズは判断の意思的次元をわれわれに見せてくれるという最低限の利点を持っているのだ。だが、そのことを持ち出す必要はない。言表と言表行為の区別を曖昧にすることによって、「私は嘘をつく」の袋小路に至るあのパラドックスに遭遇するのに十分なのだ。というのは、私が嘘をつき、そして同時に「私は嘘をついている」と言うことは、これらの声を区別すればまったく可能なのである。私が「私は嘘をつくと彼が言う」ということは、私が「彼は嘘をつく」と言う以上に問題とはならない。また、「私は嘘をつくと言う」とさえ言えるのである。ただ、ここには注目すべきことがある。私が「私は嘘をつくと言う」と言うとき、それは分析家として興味深いこと、そしてまったく納得できることなのである。というのは、まさに分析家としてわれわれの介入の独創的で、生きた、そして感激的な点は、われわれはそれとは逆のかたちで厳密に相関している次元の中で動き、語るためにあるのだということを知っているからである。それは「そうではない、おまえは真理を言っているのを知らないのだ」と言うことである。これはそのまま発展し、さらに次のようにも言える。「おまえが真理をかくもよく言得るのは、おまえが嘘をついていると思っているかぎりであって、おまえが嘘をつきたくないというなら、それはこの真理からおまえを守るためなのだ。」この真理はこうした薄明かりの中でしか抱きしめることはできない。真理は乙女である。真理はすべての乙女のように本質的に迷えるものである。「我思う」にしても同様である。教授連中にとって「我思う」が簡単に通用するのは、彼らがそこにあまり詳しく立ち止まらないからにすぎない。
「我思う」に「私は嘘をつく」と同じだけの要求をするのなら次の二つに一つが考えられる。まず、それは「私は考えていると思っている」という意味。これは想像的な、もしくは見解上の「私は思う」、「彼女は私を愛していると私は思う」と言う場合に-つまり厄介なことが起こるというわけだが-言う「私は思う」以外の何でもない。デカルトの「省察」の中でさえ、「我思う」を、彼の言う根源的明証性はなにも保証することできない、まさに想像的次元でしかないものにする遇有的事柄の多さに驚かされる。もう一つの意味は「私は考える存在である」である。この場合はもちろん、「我思う」から自分の存在に対して思い上がりも偏見もない立場をまさに引き出そうとすることをそもそも台無しにすることになる。私が「私はひとつの存在です」と言うと、それは「私は存在にとって本質的な存在である」ということで、ただのおもいあがりである。このことはともかく、ここでわれわれは重要なことに出会う。「私は嘘をつく」に関して取り上げたあの次元、「私は自分が嘘をついていることを知っている」と言うことができるということに行き当たるのである。このことはわれわれにとって興味深いことである。実際、それこそある種の現象学的主体を支えるものなのだ。ひとつの定式を取り出しておこう。コギトというデカルト的探求から発展した哲学的系譜においては、唯一の主体しかなかった。それはこの最後に私が持ち出す知を想定された主体である。
この表現を現象学に、とりわけヘーゲルの現象学に参照してみると、この「知を想定された主体」の機能は、この問題において展開される共時的な機能に関して評価されるにあたいすることに注目すべきである。現象学の問いのはじめからずっとあるこの共時的なものの存在、構造のある結び目が、絶対知に導くはずの通時的展開から逃れることをわれわれに許すのである。後になってわかるだろうが、この絶対知は、この問いに照らし合わせてみると反駁可能な価値を持つ。しかしいまのところはつぎのことだけを言うにとどめておこう。すなわち、この想定された知を誰かに帰属させることも、知に対していかなる主体を想定することもやめて、不信任動議の提出にとどまるということである。知は間主体的なものである。このことは万人の知、大文字の他者の知であるという意味ではない。大文字の他者は主体ではなく、アリストテレスが言うように、それは主体の知を運ぼうとする場所なのである。もちろんこの努力によって、ヘーゲルが主体の歴史として展開したものは残る。しかしそれだからといっても主体がそこで問題になっていることについてわずかでも多く知ると言うことはまったくないのだ。主体が動揺するのは間違った想像から、つまり大文字の他者は知っている、絶対知は存在するという想像からくるものである。しかし大文字の他者は彼よりもまだ知らないのだ。なぜならまさにそれは主体ではないからである。大文字の他者はこの知の想定の表象の代理representants representatifsの貯蔵庫である。そして主体がこの知の想定の中に失われているかぎりでそれを無意識と呼ぶのである。主体は自分自身の無知のうちにこの想定をを引き起こす。それは「ものchose」の中で彼の現実がこうむったものから彼に戻る残骸、多かれ少なかれ形をとどめない残骸である。主体はそれが戻ってくるのを見て「確かにそれだ」とか「それとはまったく違う」とか言ったり、言わなかったりするのだが、それでもそれはまさにそれなのである。