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2013年6月10日月曜日

フロイトの四つの「否Ver‐」( 排除、抑圧、否定、否認)ーージジェク『LESS THAN NOTHING』より



1、排除:Verwerfung (foreclosure/rejection)

2、抑圧: Verdrängung (repression)

――抑圧Verdrängungは、二つに分けられ、原抑圧 primordial repressionUrVerdrängung—と「ふつうの」抑圧“normal repression

3、否定:Verneinung (denial)

4、否認: Verleugnung (disavowal)

ラカン理論では、「排除」が精神病、「抑圧」が神経症、「否認」が倒錯にかかわる。さて「否定」は?


ラカンはフロイトの 著作のなかに、それぞれの構造に対する特異的な用語があることを指摘しました。神経症では抑圧Verdrangung(repression)、精神病で は排除Verwerfung(foreclosure)、倒錯では否認Verleugnung(disavowal,desaveu)です。最後に、ラカ ンは否認Verleugnungdementi(denial)という訳をあてることを好むようになりました。(ミレール「「ラカンの臨床的観点への序論」を読む」)

――もっとも、このあたりはわたくしにはあまり瞭然としていない(後半に引用されたジジェクの『LESS THAN NOTHING』からの抜き書き参照)。


①排除:In Verwerfung, the content is thrown out of the symbolic, desymbolized, so that it can only return in the Real (in the guise of hallucinations).

②抑圧:In Verdrängung, the content remains within the symbolic but is inaccessible to consciousness, relegated to the Other Scene, returning in the guise of symptoms.

③否定:In Verneinung, the content is admitted into consciousness, but marked by a denial.

④否認:it is admitted a positive form, but under the condition of Isolierung (“isolation” —its symbolic impact is suspended, it is not really integrated into the subject's symbolic universe.


――排除については、「父の名」の排除、のようにして通常使われる。

そして、排除されたものの回帰を、「排除された<もの>Das Dingの回帰」と読むのは誤りであり、排除されるのはシニフィアンで、回帰するのもシニフィアン。ただその回帰の仕方が「抑圧されたものの回帰」とは異なり、他のシニフィアンによる媒介を受けないことが精神病の特徴とされる。

たとえば、あまりよくないラカン本ではΦ(象徴的ファルス)と父の名NdPを区別していなかったりするのですが、(Pierre Bruno の)Phallus et fonction phalliqueの説明では、この2つは水準が違うことが明記されています。Φは全体としてのシニフィエの諸効果を指し示すシニフィアンであって、つまるところシニフィアンとシニフィエの結びつきを調整するもの。一方、父の名のほうは、意味作用が関わってくる水準。つまり、ファルス享楽についての謎に答えるために、先行する母の欲望(=シニフィアン)を隠喩化することでファリックな意味作用を作り出すという機能が父の名にはある。

父の名は意味作用に関わる。だからこそ、父の名の隠喩が不成立であった場合(排除)、通常成立するはずのファリックな意味作用が成立せず、世界が「謎めいた意味」の総体になる。(「心的装置の成立過程における二つの翻訳」より)


Take the signifier “mother”:

1)排除:if it is foreclosed or rejected, it simply has no place in the subject's symbolic universe

2)抑圧:if it is repressed, it forms the hidden reference of symptoms

3)否定:if it is denied, we get the by now familiar form “Whoever that woman in my dream is, she is not my mother!”;

4)否認:if it is disavowed, the subject talks calmly about his mother, conceding everything (“Yes, of course this woman is my mother!”), but remains unaffected by the impact of this admission.


1)2)について繰り返せば、前者は「排除されたものの回帰」、後者は「抑圧されたものの回帰」にかかわり、捨てたものが「隠喩」hidden reference of symptomsへと変換されて回帰するのが「抑圧されたものの回帰」。捨てたものが他のシニフィアンに媒介されずにそのままの形で回帰してくるno place in the subject's symbolic universeのが、「排除されたものの回帰」。

3)の否定については、フロイトの小論「否定」から引用してみよう。

4)の否認については? ーーこのフロイトの小論のあとに言及される斎藤環の文にかかわる箇所を参照。斎藤環は否認=倒錯とはしていないにもかかわらず、そこでは否認の機制を示唆させるように思われる。

…………

フロイトの「否定」(1925)  は、手許の人文書院の旧訳では、二段組、わずか四ページばかりの論だ。

旧訳のフロイト著作集(人文書院)から、新しいフロイト全集(岩波書店)まで精力的にフロイト翻訳の吟味をされている方がインターネット上におられ(フロイト翻訳正誤表など)、氏によれば、次のようにされている。

フロイト全集19巻がつい先ごろ発売され、手元に届きましたが、そこに含まれている論文『否定』は、たいへん短いながらも難解とされ、かつ最重要論文の一つでもあり、すぐに独文と照らし合わせながら読み始めました。

翻訳上、決定的なミスといえるのは次の一箇所だけでしょう。……(フロイト全集19から『否定

ーー新訳でも明らかなミスとされる箇所があるようだ。


以下は、いまでは評判のよくない旧訳の冒頭である(一部、「フロイト翻訳正誤表」の指摘により改変)。

われわれの患者が分析作業の過程で種々の思いつきを話し出す様子は、いくつかの興味深い観察の手がかりになる。「先生は私がこれからなにか不愉快なことをいい出すだろうとお考えでしょうが、そんなつもりは毛頭ないのです」  これは、たったいま思い浮かんだ着想の、投射(思いつき)による拒否と解される。あるいはまた、「夢の中のこの人物は誰かとおっしゃいますが、母ではありません」 これをわれわれは『それはほかならぬ母です』と訂正するのである。われわれは分析にさいしては、遠慮なしにこの否定を度外視し、思いつきの内容そのものだけを取り出すのである。そうすると患者はこの場合、「なるほど、私にはこの人が母親に思えました。だがこの思いつきを認める気にはなれないのです」といっているようなものである。

抑圧されている表象ないし思考の内容は、それが否定されるという条件のもとで意識の世界の中に入り込んでくることができるわけである。否定は抑圧されているものを認知する一つの方法であって、本来すでに抑圧の解除を意味しているが、とはいうものの、それはむろん、抑圧されているものの承認ではない。知的機能と情動過程との違いがここに見られる。否定の助けによって解消されるのは、抑圧過程の一部だけであって、その表象内容は意識されないのである。以上のことから、抑圧の本質的なものがそのままであるのに、抑圧されているものの一種の知的承認が行われるという結論が出てくる。(注)

注)同じ事象が、よく知られている「魔呼び」の事象の基礎になっている。「こんなに長いこと偏頭痛がないなんて、すばらしいわ」 しかし、これは発作の最初の告知であり、当人はすでにそれが間近いことを感じていながら、まだ認めようとはしていないだけである。

この身体的な「予感」をめぐっては、大江健三郎の『燃え上がる緑の木』第一部に次のような文がある。

主要登場人物の一人、てんかん気質のザッカリー・Kが、「薬草」の採取をした次の朝、大きい癲癇の発作が起こす。語り手の両性具有の<私>――ザッカリーと性関係があるーーは、大きな屋敷に同居するお祖母ちゃんにザッカリーのてんかんの発作の報告しに行く。
しかしお祖母ちゃんは、すでにてんかんの発作ではないかと推測されていた様子。そしてザッカリーが採取してきた薬草を貰い受けてしまったことを気に病んでいた、というのだ。私に病状を報告する余裕ができた時、お祖母ちゃんは、痙攣を鎮める効能を持った薬草をザッカリーに摘みとらせていたのは、発作が近いことを深いところで感じとった身体の知恵だ、といった。煎じて服用せぬまでも、香りの強い薬草が身の周りにあることは、発作のただなかあのザッカリーを勇気づけたはず、それをどうして自分が取り上げてしまったのかと……P181


さてフロイトの「否定」の冒頭の引用は以上にして、中盤、あるいは最終的に次のように書かれる。


判断によって何事かを否定するとは、結局、「これが自分の一番抑圧したいものである」ということなのである。

分析を受けている患者が「そんなことを考えたことはありません」とか、「そういうことは考えたことが(一度も考えたことは)ありません」というような言い回しで分析に反応を示すときほど、無意識的なものの見事な発見を証明するものはない。

※参照:「あるヒステリー患者の分析の断片」(症例ドラ)の1923年注より。
私が当時まだ気づいていなかった今ひとつのはなはだ注目すべき、また十分たよりうる無意識の是認の形は、「そのことは考えませんでした」とか、「私はそんなふうには考えませんでした」などという患者の嘆声である。これはつぎのように翻訳できよう。「はい、そうです。でも、それは私に意識されませんでした」。著作集5巻 P315


…………

ところで、斎藤環は「解離とポストモダン、あるいは精神分析からの抵抗」(『批評空間』2001 -1)の「自己分析とナルシシズム」の段落で、次のように書いている。


精神分析の世紀、という言葉に意味があるとすれば、それはまたわれわれの時代が、精神分析以後の世界であるという諦観をも含まなければならないだろう。われわれは例えば「母親は問題ではない」と弁明する男性をみて、もはやフロイトのように「ならば、母親こそが問題なのだ」と断定することはできない。なぜならその男性は、その言明によって母親の問題をわれわれに意図的に伝えたがっているのかもしれないのだから。

現代におけるさまざまな抑圧の解放、タブーの解禁という流れについては、われわれが本質的に、みずからの無意識に対して耐え難い恐怖を抱いている可能性のもとで考えておく必要があるだろう。「抑圧しないこと」によって隠蔽されるものこそが「無意識」に他ならない。それゆえ隠蔽の身振りは、まず何よりも「自己分析」としてなされるだろう。評論家の某氏は、講演会やシンポジウムなどへの遅刻や欠席の言い訳として、まずその失策がフロイト的解釈(出席したくない)に耐えるものである可能性を述べてみせ、しかるのちに「実は寝過ごしただけ」というオチをつける。これで人々はすっかり安心し、某氏には悪気などなかったことをあっさり信じてしまう。

この某氏は、あきらかに浅田彰のことであり、浅田彰はNAM運動のシンポジウムに欠席やら遅刻をしており、その時の言い訳はまさに上の通りである。

今日は柄谷行人とNAMをめぐるシンポジウムに紀伊国屋ホールに入りきらないほどのみなさんが集まってくださって、たいへんうれしく思います。実は、昨日も駒場の東京大学でNAMの集会が行われたのですが、僕は、予告されていたにもかかわらず、出席できなかった。こういうことがあると、「なぜ浅田は来なかったのか」とか何とか、くだらないことをいうヤツがいる。簡単なことです、寝すごしたんですよ(笑)。それもフロイト的な無意識の忌避の現われだろうといわれれば否定しようがありませんけど、僕自身はそんなつまらない無意識は持ち合わせていないと思っています。昨日も来ておあれらた方には謝罪するとして、ここでは、この秋から遅まきながらNAMに加わった一メンバーとして、議論の整理役を務めたいと思っています。(『NAM生成大田出版2001

――というわけで、みなさん、あっさり信じないようにしようぜ。

いずれにせよ基本は、《われわれはこういうことができようーー要するに被分析者は忘れられたもの、抑圧されたものからは何物も「想い出す」わけではなく、むしろそれを「行為にあらわす」のである、と。彼はそれを(言語的な)記憶として再生するのではなく、行為として再現する。彼はもちろん、自分がそれを反復していることを知らずに(行動的に)反復しているのである。》(フロイト「想起、反復、徹底操作」人文書院 6巻 P52)であろう。

反復的に行為にあらわれたもの、たとえば「寝過ごし」は、あらゆる説明がなされても、まずは「信頼」してかからなければならない。もちろん、「信頼」とは、その反復行為が偶然に継起した可能性を否定するものではない。あるいは、ある種の現代の「精神分析的」あるいは「心理学的」策略家は、意図的に、つまり意識的な反復行為をして、他者を煙に巻くということはあり得る。だが、そこでも「策士策に溺れる」具合がないかどうかを見きわめる必要がある。

さらに、ラカンが「知っている〔騙されない〕人は間違える(Les non-dupes errent)」という言葉で言い表わそうとしたこと、つまり、戦略的に表にあらわれた「行為」の象徴的機能に目を眩まされることなく自分の眼だけを信じているシニカルな観察者が見落としてしまうような、象徴的虚構の効果、つまりこの虚構がわれわれの現実を構造化しているということをも視野に入れなければならない。

上の例としてそのまま当てはまるわけではないが、プルーストの小説にはこのあたりの心理的メカニズムの描写が豊富である。そのひとつを例示しよう。

サン=ルーは(……)軍務に復帰しない自分自身に向かって皮肉のありったけを弄し、その調子のはげしさにこちらは不快を感じるほどであった。「なあに」と彼は力をこめて陽気に叫んだ、「たたかいに出ないというのは、その人間がどういう理由をつけるにせよ、それはみんな殺されたくないからだ、恐怖からだ。」そういって、身ぶりを加えて他人の恐怖を強調し、さらにその身ぶりよりももっと力強い肯定の身ぶりでもって、彼はつけくわえた、「ところでそおういうぼくが、軍務に復帰しないとすれば、これもあからさまにいって、まったく恐怖からだよ、なあ!」賞讃に値する感情をわざと強くおしだすのが、やましい感情を被いかくす唯一の手段であるとはかぎらない、もっと新しい手は、むしろやましさをさらけだす、すくなくともそれをかくしているそぶりを見せないようにすることである、という点については、私はすでにさまざまな人にあたって気づいていた。おまけに、サン=ルーにあって、そんなやましさをさらけだす傾向が強められたのは、失態を演じたりへまをやったりして人に非難されかねないとき、自分でわざとやったのだといってそのことを大っぴらにする、という彼の習慣によるのであった。(プルースト「見出されたとき」井上究一郎訳) 


さて斎藤環をもうすこし続ければ、
某氏の態度は、精神分析以後の世界、すなわち自己分析が前提とされる社会では、失策行為すらも操作的になされうることを示す典型例事例であり、こうした例は枚挙に暇がない。自分の母親を陵辱したいと語る男性、あっけらかんとペニスを欲しがる少女、彼らは単に露悪的なのではなく、自己分析によって本来的な欲望の隠蔽を試みようとしているのである。本来的な欲望とは何か? それはしばしば「欲望の不在」である。ともあれ精神分析以後の時代にあっては、われわれの欲望もまた、あらかじめ精神分析化を被ってしまうことは避けらない。

ここでの「自分の母親を陵辱したいと語る男性」、「あっけらかんとペニスを欲しがる少女」は、「操作的になされた」言表行為だとして、ジジェクの書く「否認=倒錯」のメカニズムとどう異なるのかという問いが生まれる。if it is disavowed, the subject talks calmly about his mother, conceding everything (“Yes, of course this woman is my mother!”), but remains unaffected by the impact of this admission.


あるいは、現在、「ふつうの精神病」概念でも語られる「排除」は、《精神病とは,対象が失われておらず,主体が対象を自由に処理できる臨床的構造》ならどうだろう。

精神病とは,対象が失われておらず,主体が対象を自由に処理できる臨床的構造なのです.ラカンが,狂人は自由な人間だというのはこのためです.同時に,精神病では,大他者は享楽から分離していません.パラノイアのファンタスムは享楽を大他者の場に見定めることを伴います.…

…パラノイアとスキゾフレニーの差異を位置づけることができます.スキゾフレニーは言語以外の大他者を持っていないのです.また同時に,パラノイアと神経症における大他者の差異を位置づけることも可能です.パラノイアにとっての大他者は存在しますし,大他者はまさに対象aの大食家なのです。(Clinique ironique. Jacques-Alain Miller, La Cause freudienne 23)


…………

さて冒頭の、フロイトの四つの「否」“Ver‐”は、ジジェクの『LESS THAN NOTHING』(2012)からであり、その箇所を附記しておこう。

Lacan's starting point is Freud's notion of a primordial Bejahung, affirmation, as opposed to Verwerfung (usually [mis]translated as “foreclosure”): he reads Bejahung as primordial symbolization, against the background of Heidegger's notion of the essence of language as disclosure of being. However, things quickly get complicated here. As we saw earlier, in Freud there are four main forms, four versions, of Ver‐”: Verwerfung (foreclosure/rejection), Verdrängung (repression), Verneinung (denial), Verleugnung (disavowal). In Verwerfung, the content is thrown out of the symbolic, desymbolized, so that it can only return in the Real (in the guise of hallucinations). In Verdrängung, the content remains within the symbolic but is inaccessible to consciousness, relegated to the Other Scene, returning in the guise of symptoms. In Verneinung, the content is admitted into consciousness, but marked by a denial. In Verleugnung, it is admitted a positive form, but under the condition of Isolierung—its symbolic impact is suspended, it is not really integrated into the subject's symbolic universe. Take the signifier “mother”: if it is foreclosed or rejected, it simply has no place in the subject's symbolic universe; if it is repressed, it forms the hidden reference of symptoms; if it is denied, we get the by now familiar form “Whoever that woman in my dream is, she is not my mother!”; if it is disavowed, the subject talks calmly about his mother, conceding everything (“Yes, of course this woman is my mother!”), but remains unaffected by the impact of this admission. It is easy to see how the violence of exclusion gradually diminishes here: from radical ejection, through repression (where the repressed returns within the symbolic) and denial (where the denied content is admitted into consciousness) to disavowal, where the subject can openly, without denial, talk about it.


もっとも上記の四つの「否」の整理のあと、「原抑圧UrVerdrängung」をめぐって論が進められ、そこが肝要であるのだが、いまはその話題ではない。

All four forms already presuppose that the symbolic order is in place, since they deal with how some content relates to it; consequently, a more radical, “transcendental” question must be raised here, that of the negativity which founds the symbolic order itself.

Is what Freud called Ur‐Verdrängung (primordial repression) a candidate for this role? Primordial repression is not a repression of some content into the unconscious, but a repression constitutive of the unconscious, the gesture which creates the very space of the unconscious, the gap between the system cs/pcs and the unconscious. Here we must proceed very carefully:
this primordial separation of the I from the unconscious, which generates all the standard anti‐Cartesian variations (“I am not where I think,” etc.), should not be conceived only as the separation of the I from the unconscious Substance, so that I perceive the core of my being outside myself, out of my grasp. The Hegelian lesson of Lacan is that de‐centering is always redoubled: when the subject finds itself de‐centered, deprived of the core of its being, this means that the Other, the de‐centered site of the subject’s being, is also in its turn de‐centered, truncated, deprived of the unfathomable X that would guarantee its consistency. In other words, when the subject is de‐centered, the core of its being is not the natural Substance, but the “big Other,” the “second nature,” the virtual symbolic order which is itself constructed around a lack. The gap that separates the subject from the big Other is thus simultaneously the gap in the heart of the Other itself.
This overlapping of the two lacks is what makes it so hard to formulate the ambiguous relation between Ausstossung (the expulsion of the Real which is constitutive of the emergence of the symbolic order) and Verwerfung (the “foreclosure” of a signifier from the symbolic into the Real) in Freud and Lacan—sometimes they are identified and sometimes distinguished. François Balmès makes the appropriate observation:

”If Ausstossung is what we say it is, it is radically different from Verwerfung: far from being the mechanism proper to psychosis, it would be the opening of the field of the Other as such. In a sense, it would not be the rejection of the symbolic, but itself symbolization. We should not think here psychosis and hallucination, but the subject as such. Clinically, this corresponds to the fact that foreclosure doesn’t prevent psychotics from dwelling in language.

This conclusion is the result of a series of precise questions. The fact is that psychotics can speak, that, in some sense, they do dwell in language: “foreclosure” does not mean their exclusion from language, but the exclusion or suspension of the symbolic efficacy of a key signifier within their symbolic universe—if a signifier is excluded, then one must already be in the signifying order. Insofar as, for Freud and Lacan, Verwerfung is correlative to Bejahung (the “affirmation,” the primordial gesture of subjectively assuming one’s place in the symbolic universe), Balmès’s solution is to distinguish between this Bejahung and an even more originary (or “primary”) symbolization of the Real, the quasi‐mythical zero‐level of direct contact between the symbolic and the Real which coincides with the moment of their differentiation, the process of the rise of the symbolic, of the emergence of the primary battery of signifiers, whose obverse (negative) is the expulsion of the pre‐symbolic Real. When the Wolfman, at the age of one, observed his parents’ coitus a tergo, it left in his mind a memory trace: it was symbolized, but it was just retained as a libidinally neutral trace. Only after three more years or so—after Wolfman’s sexual fantasies had been awakened and he had become intrigued by where children come from—was this trace bejaht, properly historicized, activated in his personal narrative as a way of locating himself in the universe of meaning. Psychotics accomplish the first step, they inhabit the symbolic order; what they are unable to do is to subjectively or performatively engage in language, to “historicize” their subjective process—in short, to accomplish the Bejahung.As Balmès perceptively noted, it is for this reason that the lack occurs at a different level in psychosis: psychotics continue to dwell in the dense symbolic space of the primordial “full” (maternal) big Other, they do not assume symbolic castration in the proper sense of a loss which is in itself liberating, giving, “productive,” opening up the space for things to appear in their (meaningful) being; for them, a loss can only be purely privative, a question of something being taken from them.……

ここにあるWolfman’s sexual fantasies のhistoricizedをめぐっては「遡及的な外傷」を語るジジェクを付記しよう。


アインシュタインの特殊相対性理論から一般相対性理論への移行を例にとって考えてみよう。特殊相対性理論はすでに歪んだ空間という概念を導入しているが、その歪みを物質の効果と見なしている、物質がそこに存在することによって空間が歪む、つまり空っぽの空間だけが歪まない。一般相対性理論への移行にともなって、因果が逆転する。物質が空間の歪みの原因なのではなく、物質は歪みの結果であり、物質の存在が、空間が曲がっていることを示している。このことと精神分析との間にどんな関係があるのかというと、見かけ以上に深い関係がある。アインシュタインを模倣しているかのように、ラカンにとって<現実界> ――<物>―― は象徴的空間を歪ませる(そしてその中に落差と非整合性をもたらす)不活性の存在ではなく、むしろ、それらの落差や非整合性の結果である。

このことはわれわれをフロイトへと引き戻す。その外傷理論の発展の途中で、フロイトは立場を変えたが、その変化は右に述べたアインシュタインの転換と妙に似ている。最初、フロイトは外傷を、外部からわれわれの心的生活に侵入し、その均衡を乱し、われわれの経験を組織化している象徴的座標を壊してしまう何かだと考えた。たとえば、凶暴なレイプだとか、拷問を目撃した(あるいは受けた)とか。この視点からみれば、問題は、いかにして外傷を象徴化するか、つまりいかにして外傷をわれわれの意味世界に組み入れ、われわれを混乱させるその衝撃力を無化するかということである。後にフロイトは逆向きのアプローチに転向する。フロイトは彼の最も有名なロシア人患者である「狼男」の分析において、彼の人生に深く刻印された幼児期の外傷的な出来事として、一歳半のときに両親の後背位性交(男性が女性の後ろから性器を挿入する性行為)を目撃したという事実を挙げている。しかし、最初はこの光景を目撃したとき、そこには外傷的なものは何ひとつなかった。子どもは衝撃を受けたわけではさらさらなく、意味のよくわからない出来事として記憶に刻み込んだのだった。何年も経ってから、子どもは「子どもはどこから生まれてくるのか」という疑問に悩まされ、幼児的な性理論をつくりあげていったが、そのときにはじめて、彼はこの記憶を引っ張り出し、性の神秘を具現化した外傷的な光景として用いたのである。その光景は、(性の謎の答を見つけることができないという)自分の象徴的世界の行き詰まりを打開するために、遡及的に外傷化され、外傷的な<現実界>にまで引き上げられた。アインシュタインの転向と同じく、最初の事実は象徴的な行き詰まりであり、意味の世界の割れ目を埋めるために、外傷的な出来事が蘇生されたのである。(ジジェク『ラカンはこう読め!』P128)