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2013年4月16日火曜日

合理的な守銭奴


たとえば自らの所属する共同体が倫理的に許しがたい行為をしていると思う。だが、それを批判することで職を失うかもしれない。明日の生活が脅かされる。一人ならまだしも家族がいれば守らなければならない。だからひとは止むえず黙り込む選択をする。背に腹はかえられない(所属する共同体が下り坂の道を歩んでいるならいっそうのことだ)。

功成り名遂げて生活に困らない資産家ならどうだろう。自らの所属する共同体は国家であってもいい。そのとき批判する自由があるはずだ、とふつう考えられる。もしそうでないなら何を怖れるのか。共同体での名誉・名声を失うことか。

すぐれた人と呼ぱれる人は自分を欺いた人である。その人に驚くためにはその人を見なければならない――そして、見られるためには姿を現わさなけれぱならない。かくしてその人は自分の名前に対する愚かな偏執にとりつかれていることをわたしに示すのだ。そのように、偉人などといわれる人はすぺて一つの過誤に身を染めた人である。世にそのカが認められるような精神はすぺて己れを人に知らせるという誤ちから出発する。公衆から酒手をもらうのとひきかえに、彼ぱ己れの存在を世に知らしむるために必要な時間をさき、己れを伝達し、己れとは本来無縁な満足を準備するためにエネルギーを費消する。そしてついには栄光を求めて演じられるこうしたぶざまな演技を、自らを他に類例のない唯一無二の存在と感じる喜ぴ――大いなる個人的快楽―――になぞらえるにいたるのだ。(ヴァレリー『テスト氏との一夜』)

いやそれだけではないのをわれわれは知っている。富というものはわれわれをつよくとらえる。われわれはこれを羨望し、その奴隷になってしまう。われわれが富をもつとなると、富はさらにいっそうよくわれわれをとらえる。それゆえ、われわれはなにかにつけかせぎたくなる。いいかえれば、より少なくあたえたり、より多く受けとったりしたくなる。シェイクスピアに学ぶなら、ときにひとは自分の金よりも自分の命のほうをいっそう無造作にあたえてしまうなどということもおこる。


マルクスが資本の考察を守銭奴から始めたことに注意すべきである。守銭奴がもつのは、物(使用価値)への欲望ではなくて、等価形態に在る物への欲動――私はそれを欲望と区別するためにフロイトにならってそう呼ぶことにしたいーーなのだ。別の言い方をすれば、守銭奴の欲動は、物への欲望ではなくて、それを犠牲にしても、等価形態という「場」(ポジション)に立とうとする欲動である、この欲動はマルクスがいったように、神学的・形而上的なものをはらんでいる。守銭奴はいわば「天国に宝を積む」のだから。(柄谷行人『トランスクリティーク』)

富者はこの守銭奴としての「場」を失うことを怖れる。そして資本家は愚かなる貨幣蓄蔵者ではなく、合理的な守銭奴である。


使用価値は、けっして資本家の直接目的として取り扱われるべきではない。個々の利得もまたそうであって、資本家の直接目的として取り扱われるべきものは、利得の休みなき運動でしかないのだ。

こういう絶対的な到富衝動、こういう情熱的な価値追求は、資本家にも貨幣蓄蔵者にも共通のものではあるが、しかし貨幣蓄蔵者が狂気の資本家でしかないのに対して、資本家のほうは合理的な貨幣蓄蔵者である。貨幣蓄蔵者は、価値の休みなき増殖を、貨幣の流通から救いだそうとすることによって追求するが、より賢明な資本家は、貨幣をつねに新たに流通にゆだねることによって達成するわけである。(マルクス『資本論』)

「合理的な」とされつつも、この資本の運動(蓄積欲動)そのものは、実際には合理的な動機ではないだろう、それは一種の「反復強迫」なのだから。


マルクスは、資本の源泉にまさしく貨幣のフェティシズムに固執する守銭奴(貨幣蓄蔵者)を見いだしている。貨幣をもつことは、いつどこでもいかなるものとも直接的に交換しうるという「社会的質権」をもつことである。貨幣蓄蔵者とは、この「権利」ゆえに、実際の使用価値を断念する者の謂である。貨幣を媒体ではなく自己目的とすること、つまり「黄金欲」や「到富衝動」は、けっして物(使用価値)に対する必要や欲望からくるのではない。守銭奴は、皮肉なことに、物質的に無欲なのである。ちょうど「天国に宝を積む」ために、この世において無欲な信仰者のように。守銭奴には、宗教的倒錯と類似したものがある。事実、世界宗教も、流通が一定の「世界性」――諸共同体の「間」に形成されやがて諸共同体にも内面化されるーーをもちえたときにあらわれたのである。もし宗教的な倒錯に崇高なものを見いだすのならば、守銭奴にもそうすべきだろう。守銭奴に下劣な心情(ルサンチマン)を見いだすならば、宗教的な倒錯にもそうすべきだろう。(柄谷行人『トランスクリティーク』)

古人は四つの徳を教えた、――勇気、節制、正義、叡智。つまり四つの敵をみとめたということだ、――恐怖、快楽、不正(盗み)、愚昧。

だが、最初の三つの徳は「叡智」の影のようなものに過ぎないといえる、《問題なのはつねに、欺かれぬことであり、自分の明晰な精神を保持すること。情念の第一の作用とは、われわれを盲目にすることえあり、徳とは、よく判断すること、よく判別すること、自分になにがもとめられているか、なにが約束されているか、自分にとって何が重要なのか、自分はなにを欲し、なにを欲していないかを知ることである》(アラン 「プロポ」より)

――つまりは、自己自身をまえにした精神の自由な態度に尽きる。

カントが、自由は義務(命令)に対する服従であるといったが、ここでの服従するものは決して共同体の義務ではなく、「自由であれ」という命令である。

《到達された自由のしるしとは何か? ――もはや自己自身に対して恥ないこと。》(ニーチェ『悦ばしき知識』)

――で、どうだって? ひとは自由など求めていないよな

《ドストエフスキーは人々は「自由」など望んでいないといったが、同様に、“精神”であることを人は望んでいない。自分はめざめて、現実を直視し、ほかの人は幻想に支配されていると説く[あの]連中のように、夢をみていることを望むのである。》(「探求Ⅱ」)

…………

スピノザのいうようにわれわれには自由意志などない。《定理48 精神の中には絶対的な意志、すなわち自由な意思は存しない。むしろ精神はこのことまたはかのことを意志するように原因によって決定され、この原因も同様に他の原因によって決定され、さらにこの後者もまた他のの原因によって決定され、このようにして無限に進む。》(スピノザ『エチカ』)

カントならこう書く。

――私は私の行為する時点において、決して自由ではないのである。それどころかたとえ私が自分の現実的存在の全体は、なんらかの外来の原因(神のような) にまったくかかわりがないと思いなしたところで、従ってまた私の原因性の規定根拠はおろか私の全実在の規定根拠すら、私のそとにあるのではないと考えてみ たところで、そのようなことは自然必然性を転じて自由とするわけにはいかないだろう。私はいかなる時点においても、依然として〔自然〕必然性に支配され、 私の自由にならないものによって、行為を規定されているからである。それにまた私は、すでに予定されている〔自然必然的な〕秩序に従って出来事の無限の系列――  すなわち<a parte priori(その前にあるものから)>つぎつぎに連続する系列をひたすら追っていくだけで、私自身が或る時点にみずから出来事を始めるというわけにいか ないのである。要するに一切の出来事のこういう無際限な系列は、自然における不断の連鎖であり、従ってまた私の原因性は決して自由ではないのである。 (『実践理性批判』、波多野精一他訳、岩波文庫)
だが、柄谷行人曰く、このとき初めて「自由」が始まる、《われわれが自由な選択だと考えるものは、原因に規定されていることが十分にわからないからにすぎない。そう考えたとき、はじめて「自由」はいかに可能かということが問われる。》

ラカン派のカント読み、アレンカ・ジュパンチッチ(『リアルの倫理』)ならこう言う、
《汝を生み出した行為の内なる死の欲動を、決してしらばくれることなしに汝自身のものんと認めよ》