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2013年6月17日月曜日

ひとりの女のうちにある不誠実は、けっして深くとがめられることではない

男性を女性へと結びつける魅力について想像してみると、「仮装した人」として現れる方が優勢であることを我われは知っているからです。仮面の仲介を介してこそ男性と女性は疑問の余地なくもっとも激しく、もっとも情熱的に出会うことができるのです。”(ラカン『セミネールⅩⅠ』)
女性が自分を見せびらかし、自分を欲望の対象として示すという事実は、女性を潜在的かつ密かな仕方でファルスと同一のものにし、その主体としての存在を、欲望されるファルス、《他者》の欲望のシニフィアンとして位置づけます。こうした存在のあり方は女性を、女性の仮装[mascarade]と呼ぶことのできるものの彼方に位置づけますが、それは、結局のところ、女性が示すその女性性のすべてが、ファルスのシニフィアンに対する深い同一化に結びついているからです。この同一化は、女性性ともっとも密接に結びついています。(ラカン「セミネールⅤ」)
どんなにポジティブな決定をしてみても、女性というのはひとつの本質だ、女性は「彼女自身だ」と定義してみても、結局のところ、女性が演技しているもの、女性が「他者にとって」どういう役割をもっているかという問題に引き戻されてしまう。なぜなら、「女性が男性以上の主体となるのは、まさに女性が本来の仮装の特徴を帯びているときだけ、女性の特徴が、すべて人工的に「装われている」ときだけだからである」。(エリザベス・ライト『ラカンとポストフェミニズム』)

 
これらは、一九二〇年代から三〇年代にかけて活躍した名高い精神分析家で、フロイトの著作の翻訳者でもあるジョン・リヴィエールJoan Rivièreの論「仮装としての女性性Womanliness as a Masquerade(1929)」の変奏である。

《…これらの結論は、さらに以下の問いを強いることになる。完全に発達した女性らしさ[femininity]の本質的性質とはなんであろうか? das ewig Weibliche(永遠の女性)とは何か? マスクとしての女性性[womanliness]という概念は、その背後に男性が隠された危険を想定するものであり、謎にわずかな光をあててくれる。》(ジョン・リヴィエール「仮装としての女性性」)


ジジェクならもっと過激に次のように書くことになる。

女とは本来の自己をもたぬ存在であり、倫理的な態度をとることができないし(倫理的な根拠にもとづいて行為しているように見えるときですら、彼女は自分の行為から引き出す享楽を計算している)、真実の次元にはけっして近づくことのない存在である(彼女の言うことが文字通り真実だとしても、その主観的立場の帰結として彼女は嘘をついていることになる)。そのような存在に関しては、彼女は男を誘惑するために愛しているふりをする、と言うだけでは不十分である。なぜなら、この見せかけの仮面の裏には何もないということが問題なのだから。仮面の裏には、彼女の実体そのものである、ねばねばした不潔な享楽しかないのである。(ジジェク『斜めから見る』1991)

もっとも最近は、年齢のせいなのか、若妻Analio Hounieと上手くいっているのか(あるいは騙され切っているのか)、いささか穏健にはなってきたようだが、女性の仮装性についての理論的核心に関して変化はない。
                                         
…… it is wrong to contrast man and woman in an immediate way, as if man directly desires an object, while woman's desire is a “desire to desire,” the desire for the Other's desire. We are dealing here with sexual difference as real, which means that the opposite also holds, albeit in a slightly displaced way. True, a man directly desires a woman who fits the frame of his fantasy, while a woman alienates her desire much more thoroughly in a man—her desire is to be the object desired by man, to fit the frame of his fantasy, which is why she endeavors to look at herself through the other's eyes and is permanently bothered by the question “What do others see in her/me?” However, a woman is simultaneously much less dependent on her partner, since her ultimate partner is not the other human being, her object of desire (the man), but the gap itself, that distance from her partner in which the jouissance féminine is located. Vulgari eloquentia, in order to cheat on a woman, a man needs a (real or imagined) partner, while a woman can cheat on a man even when she is alone, since her ultimate partner is solitude itself as the locus of jouissance féminine beyond the phallus. (Zizek『Less Than Nothing』2012)

あるいは、《woman is more fully “in language” than man.》と書かれることになる。


もっとも、ラカン派の「精神分析」理論など、あまりややこしいことには関わりたくないのなら、ニーチェの、《男の幸福は、「われは欲する」である。女の幸福は、「かれは欲する」ということである。》(ニーチェ『ツァラトゥストラ』)を念頭においておけばよろしい。


で、なにが言いたいというのか。女は偉大だということだ……

真理が女である、と仮定すれば-、どうであろうか。すべての哲学者は、彼らが独断家であったかぎり、女たちを理解することにかけては拙かったのではないか、という疑念はもっともなことではあるまいか。彼らはこれまで真理を手に入れる際に、いつも恐るべき真面目さと不器用な厚かましさをもってしたが、これこそは女っ子に取り入るには全く拙劣で下手くそな遣り口ではなかったか。女たちが籠洛されなかったのは確かなことだ。(ニーチェ「善悪の彼岸」序文より)

そして、いまだ女は謎だということだ、《私にはやはり、ジ・アザー・セックス、ジェンダーというのは少し謎のままにして置きたいですね》(中井久夫(「「身体の多様性」をめぐる対談」『徴候・記憶・外傷』所収)

男は、ひとりの女の振舞いのすべてを分別をもって理解することはできない」、とアントニオーニは言う。「私はスタンダールではないが、二つの性のあいだの関係はつねに文学の中心的課題でした…人々が別の惑星へ行って暮らすようになっても、相変らず事情は同じでしょう! 私にとって、女性は、おそらく男性の知覚よりも深いそれをもつものです。たぶんそれは次のことのよるのでしょうーーでも私の言っているのは愚かなことですーー、つまり彼女は、自分のうちに男性を迎え入れるように物事を受けとることに慣れていて、彼女の快楽はまさにそれを受け入れることにある、ということです。彼女は現実を受け入れるつもりでいる、あえて言うなら、完全に女性的な同じ姿勢のうちに。彼女は、男性以上、場合に応じて、ぴったり合った解答を見つける可能性をもっているのです」

「完璧だ!」、ぼくが言う。「言うことなし! 一等賞! オスカー! 金の棕櫚! 銀のペニス! プラチナのクリトリス! ブロンズのアヌス! 彼は目録に載せられる…総括的レジュメ!…」 (……)彼女は自分が不利な立場にあると感じることにさえ我慢できなかった…そんなことはぼくにはどうでもよかった。ひとりの女のうちにある不誠実は、けっして深くとがめられることではない…(ソレルス『女たち』)


《ひとりの女のうちにある不誠実は、けっして深くとがめられることではない》--これを肝に銘じて生きていかないとひどい目にあうぜ、そこの<きみ>。ーー<きみ>とは、もちろん<わたくし>のことでもある……


女は邪悪であり、利口だ…いまさらの話ではない…忘れるな、そこの<きみ>!…かわいい猛獣なのだ…女が復讐心にかられてみろ…なにがおこるやら…

わたしは女というものが何かをよく知っていると、あえて仮説的に主張してようだろうか? この知識は、ディオニュソスがわたしに持ってきてくれた財産の一端である。ことによったら、私は、「永遠の女性」の本質に通じた最初の心理学者なのかもしれない。女という女はわたしを愛するーーいまさらのことではない。もっとも、かたわになった女たち、子供を産む器官を失った例の「解放された女性群」は別だ。 ――幸いにしてわたしには、八つ裂きにされたいという気はない。完全な女は、愛する者を引き裂くのだ ……わたしは、そういう愛らしい狂乱女〔メナーデ〕たちを知っている ……ああ、なんという危険な、足音をたてない、地中にかくれ住む、小さな猛獣だろう! しかも実にかわいい! ……ひとりの小さな女であっても、復讐の一念に駆られると、運命そのものを突き倒しかねない。 ――女は男よりはるかに邪悪である、またはるかに利口だ。女に善意が認められるなら、それはすでに、女としての退化の現われの一つである ……(ニーチェ『この人を見よ』手塚富雄訳)

女同士のありさまだって見てみろ! たとえばフェミニストたちのひとりがたまさか「女」になったらどうなるか…「悪魔のお通り! 地獄絵図だ!」

女というのは時どき女になるのだろうか?…ある時期に?… 妊娠のことじゃない、ちがう、ちがう (……)

女たちそれ自体について言えば、彼女たちは「モメントとしての女たち」の単なる予備軍である…わかった? だめ? 説明するのは確かに難しい…演出する方がいい…その動きをつかむには、確かに特殊な知覚が必要だ…審美的葉脈…自由の目… (……)

彼女たちのせいで、ぼくたちは生のうちにある、つまり死の支配下におかれている。にもかかわらず、彼女たちなしでは、出口を見つけることは不可能だ。反男性の大キャンペーンってことなら、彼女たちは一丸となる。だが、それがひとり存在するやいなや…全員が彼女に敵対する…ひとりの女に対して女たちほど度し難い敵はいない…だがその女でさえ。次には列に戻っている…ひとりの女を妨害するために…今度は彼女の番だ…何と彼女たちは互いに監視し合っていることか! 互いにねたみ合って! 互いに探りを入れ合って! まんいち彼女たちのうちのひとりが、そこでいきなり予告もなしに女になるという気まぐれを抱いたりするような場合には…つまり? 際限のない無償性の、秘密の消点の、戻ることのなりこだま…悪魔のお通り! 地獄絵図だ! (ソレルス『女たち』せりか書房 p253-254)

気をつけろ! またややこしいラカン派の言い草を持ち出せば、二〇世紀の「神経症」の時代から、二一世紀は「ふうつの精神病」の時代らしい…つまりは「父なき世代」には、神経症なんて水泡に帰したわけだ…ところで精神病というのは、「女性への衝迫[pousse a la femme]」(ラカン)だ…男たちだって、今では「モメントとしての女たち」の予備軍かもしれない…

ラカンが新しい概念をつかんだとき、あるいは臨床的仕事の新しい観点を強調するとき、彼はそれを神経症・精神病・倒錯に適用します。精神分析においては、新しい観点を作るならば、この三つの領域に関連付けて複雑にしなければならないのです。神経症・精神病・倒錯の三つだけが領域なのではありません。例えば、男と女、男性的構造と女性的構造という臨床的カテゴリーもあります。これは三つの主要な臨床的カテゴリーをきれいに横断しています。例えば、ラカンは倒錯は男性的剥奪であり、男と女の二項構造を神経症・精神病・倒錯の三つ組みと結合させるとさらに複雑になると言っています。私たちが言いうるのは、倒錯は男性的剥奪であり、本物の精神病のすべては女性であろうということです。ラカンは精神病を「女性への衝迫[pousse a la femme]」とみなすという、今では有名となったフレーズを作りました。精神病は女性の領域にあるのです。神経症においては、 ヒステリーと強迫が区別され、 一般に女と男に関連付けられます。しかし、だからといってヒステリーの男性がいないと主張するのではありません。…「ラカンの臨床パースペクティヴへの導入」 ジャック=アラン・ミレール 訳 松本卓也

……

さあ、ここらで一息つこう…平凡な話に戻そう…地獄絵図は御免だ…

大衆はみんな嘘つきだ。が、小さな嘘しかつけないから、お互いに小さな嘘には警戒心が強いだけだ。大きな嘘となれば、これは別問題だ。彼等には恥ずかしくて、とてもつく勇気のないような大嘘を、彼らが真に受けるのは、極く自然な道理である。たとえ嘘だとばれたとしても、それは人々の心に必ず強い印象を残す。うそだったということよりも、この残された強い痕跡の方が余程大事である、と。(小林秀雄「ヒットラーと悪魔」)

われわれの社会がたえず立証しづけているのは、大切な人間の権利とはその核心においては十戒を破る権利だということである。「プライバシーの権利」とは、 誰も見ていなければ姦通をしてもいいという権利であり、何者も私の生活に干渉することはできないということである。「幸福を追求し、私有財産をもつ権利」 とは、盗む〔他人を搾取する)権利である。「出版と意見表明の自由」とは、嘘をつく権利である。「自由な市民が武器を所有する権利」とは、人を殺す権利で ある。そして極めつけは、「宗教的信仰の自由」とは、偽りの神を崇拝する権利のことだ。(ジジェク『ラカンはこう読め!』)

女の大嘘つきも許すべきだ、《人がうそをついていることに気づかなくなるのは、他人にうそばかりついているからだけでなく、また自分自身にもうそをついているからなのである》(プルースト「ソドムとゴモラ Ⅱ」》


上手に嘘をつく気など微塵もないのであり、そんなものは思慮の外だ…効果だけを考えている…仮装の効果だけだ…「父」と密約したエディプス的女性だけだ、あやまちをかくそうとする作為などするのは…すこしは「誠実」とでもいうべきか…

あらゆるかくしごとのなかで、一番危険をはらんでいるのは、あやまちを犯した当人が、頭のなかで、そのあやまちをかくそうとする作為である。当人の頭にそのあやまちがつねにこびりついていることは、そのあやまちが世間一般にどれだけ知れれていないか、またある完全なうそがどれだけ安易に信じられるかを、当人に推察できなくさせるとともに、他面で、大した危険はないと見くびってしゃべる言葉のなかに、どの程度まで真相をもらす告白が食いこみはじめるかをも、当人に理解できなくさせるのである。(プルースト『ソドムとゴモラ Ⅱ』井上究一郎訳)


《悪く考えることは、悪くすることを意味する。 ―― 情熱は、悪く陰険に考察されると、悪い陰険なものになる。 …… 》(ニーチェ『曙光』 76番)

追求したって無駄だ、やめとけ…まったき別の世界の全体が、おそろしげなざわめきを立てるのを聞くだけさ…「壺をこわされるme faire casser le pot」だと?

「まっぴらだわ! むだづかいよ、一スーだって、あんな古くさい夫婦のためなら。それよりも私にはうれしいの、一度だけでも自由にさせてくださるほうが、割ってもらいに行くためにpour que j'aille me faire casser le ……」とっさに彼女の顔面は赤くなった、しまったというようすで片手を口にあてた、いま口にしたばかりの言葉、私には一向意味がわからなかった言葉を、口のなかにもどそうとするかのように。「いまどういったの、アルベルチーヌ?」――「いいえ、なんでもないの、私ふらっとねむくなったの。」――「そうじゃない、はっきり目がさめてますよ。」――「ヴェルデュランをむかえての晩餐会のことを考えていたの、あなたからのお申出、とてもありがたいわ。」――「そうじゃなくて、ぼくがきいているのは、さっきあなたがなんといったかですよ。」彼女は何度も言いなおしたを試みたが、どうもぴったりとあてはまらなかった。彼女がいった言葉にあてはまらなかったというのではなくて、彼女がいった言葉は中断され、私にはその意味があいまいだったから、言葉そのものにではなく、むしろその言葉の中断と、それに伴ったとっさの赤面とに、ぴったりとあてはまらないのであった。「いやあ、どうもあなた、そうじゃないな、さっきいおうとした言葉は。でなきゃなぜ途中でやめたの?」――(……)彼女の釈明は私の理性を満足させなかった。私はしつこく言いたてることをやめなかった。「まあいいから、ともかく元気を出してあなたがいおうとした文句をおわりまでいってごらん、割るcasserとかなんとかでとまってしまったけれど……」――「いやよ! よして!」――「だって、どうして?」--「どうしてって、ひどく品がわるくて、はばかられるんですもの、あなたのまえで口にするのは。よくわからないの、私何を考えていたのか、その言葉の意味もよくわからないくせに、いつだったか、人通りのなかで、ひどく下品な人たちがいっているのを耳にしたそれが口に出たんですの、なぜということもなく。なんの関係もありません、私にも、ほかの誰にも。私寝言をいってたのね。」(プルースト「囚われの女」 井上究一郎訳 文庫596-7頁)

サビナのような女は、「抒情」小説のなかにいるだけさ

サビナにとっては真実に生きるということ、自分にも他人にもいつわらないということは、観客なしに生きるという前提でのみ可能となる。われわれの行動を誰かが注目しているときには、望むと望まないにかかわらず、その目を意識せざるをえず、やっていることの何ひとつとして真実でなくなる。観客を持ったり、観客を意識することは嘘の中で生きることを意味する。(クンデラ『存在の耐えられない軽さ』)

………


中井久夫の《私にはやはり、ジ・アザー・セックス、ジェンダーというのは少しのままにして置きたいですね》を引用したとき、次なるラカンの娘婿の文を附記しようと思ったけれど、思い留まった。でもやはり、ここに付加物のようにして、引用しておこう。

無意識には女についての男の無知そして男についての女の無知の点があります。それをまず次のように言うことができます。二つの性は互いに異邦人であり、異国に流されたものである、と。

しかし、このような対称的表現はあまり正しいものではありません。というのも、この無知は特に女性に関係するからです。他の性について何も知らないからなのです。ここから大文字の他の性Autre sexsというエクリチュールが出て来ますが、それはこの性が絶対的に他であるということを表わすのです。実際、男性のシニフィアンはあります。そしてそれしかないのです。(……)

科学があるのは女性というものla femmeが存在しないからです。知はそれ自体他の性についての知の場にやってくるのです。(ミレール「もう一人のラカン」)

女は存在しない。われわれはまさにこのことについて夢見るのです。女はシニフィアンの水準では見いだせないからこそ我々は女について幻想をし、女の絵を画き、賛美し、写真を取って複製し、その本質を探ろうとすることをやめないのです。いずれにせよ女性という存在についてそれに本質などあるかどうかは、普遍的愚行connerie universelle-愚行には常に一片の真理が含まれています-によって疑問とされることですが。このことは女性の価値を低めるものと見なされるかもしれません。しかし別の観点からすると、本質を持たないことは荷が軽いことにもなります。おそらくこれこそ女性を男性よりもはるかに興味深いものにするのでしょう。(ミレール“El Piropo”)

※《女は存在しないil n’y a pas La femme》の否定は、定冠詞Laにかかっており、femmeにかかっているのではないことに注意。

ーー《存在するのは女達les femmes、一人の女そしてもう一人の女そしてまたもう一人の女...です。》(ミレール『エル ピロポ』)


さて最後にジジェクの朋友ジュパンチッチ(Alenka Zupančič)の”Ethics of the Real: Kant and Lacan”より。

結局、「お前の妹(姉さん、母さん)、すぐにやらせてくれるって話じゃないか」などといった罵り文句は、「〈女性〉は存在しない」という事実、ラカンの言葉を借りれば、彼女が「完全ではない」、「完全に彼のものではない」という事実を、下世話な言葉で表現したものである。「女性は非-全体である」という命題は、女性ではなく男性にとって耐えがたい。それは、男性の存在の内、象徴界における女性の役割の内に注ぎ込まれた部分を脅かすのである。この種の中傷に対する男性の極端な、全く法外な反応――殺人を含む――を見てもいいだろう。これらの反応は、男性は女性を「所有物」だと見なしている、という通常の説明で片づけられるものではない。この中傷によって傷つけられるのは、男性がもっているものではなく、彼らの存在、彼らそのものである。関連する命題をもうひとつ紹介して、ドン・ジュアンに返ろう。「〈女性〉は存在しない」という命題を受け入れるなら、スラヴォイ・ジジェクが言うように、男性の定義は次のようなものになる――男性とは「自分が存在すると信じている女性である」。( アレンカ・ジュパンチッチ『リアルの倫理―カントとラカン』)


……

あだしごとはさておき。


ソレルスの《女というのは時どき女になるのだろうか? …女たちそれ自体について言えば、彼女たちは「モメントとしての女たち」の単なる予備軍である…》における「モメントとしての女」とはなんだろう。

《わかった? だめ? 説明するのは確かに難しい…演出する方がいい…その動きをつかむには、確かに特殊な知覚が必要だ…審美的葉脈…自由の目…》

<対象a>それ自体はごくありふれた日常的な物であるが、「<物自体>の地位に引き上げ」られたとたん、一種のスクリーンとして、つまり主体が自分の欲望を支えている幻想を投射できるような空っぽの空間として機能しはじめる。(ジジェク『斜めから見る』)

幻想を投射できるスクリーンとして振舞おうとし始める女(ときに男)がいるよな…ちがうかい?

次の文の「威厳」や「尊敬」は、ジジェクは<対象a>にからめて語っている。
もし私が意識的に威厳を保とうとしたり、他人から尊敬を集めようとしたら、滑稽な結果になってしまうだろう。きっと私は下手な役者のように見えることだろう。これらの状態の根本的パラドックスはこうだーーそれらはきわめて重要なのだが、それをわれわれの行動の直接的な目標にしたとたん、逃げていってしまうのである。(ジジェクーー「金儲け」の論理、あるいは守銭奴

つまり、媚態によって注目を浴びること、と変奏してもよい。

意図的に<対象a>になろうとする振舞いは、「下手な役者」のようにみえるよな、たとえばこんな風だ。

夕闇がおりてきた、ひきかえさなくてはならなかった、私はエルスチールを彼の別荘のほうに送っていった、そのとき突然、ファウストのまえに立ちあらわれるメフィストフェレスのように、通路の向こうの端にーー私のような病弱者、知性と苦しい感受性との過剰者には、およそ縁のない、ほとんど野蛮残酷ともいうべき生活力、私の気質とは正反対な気質の、非現実的な、悪魔的な客観化であるかのようにーーほかのどんなものとも混同することのできないエッセンスの斑点のいくつか、あおの少女たちの植虫群体をなすさんご虫のいくつかが、ぱっとあらわれたが、彼女らは私を見ないふりをしながら、私に皮肉な判断をくだそうとしていることはうたがいをいれなかった。(……)折から私たちが通りかかっているアンティックの店のショー・ウィンドーのほうへ、まるで急にそれに興味をおぼえたように、身をかがめたが、そんな少女たちよりもほかのことを考えることができる、というふりをするのは自分でもわるい気がしなかった、そしてエルスチールが私を紹介しようとして呼ぶとき、おどろきそのものをあらわしているのではなく、おどろいたようすをしたいという欲望をあらわしている、あの一種のけげんそうなまなざしを自分がするだろうことを、私はすでにひそかに予知していたしーーそんな場合、誰しもわれわれは下手な役者であり、相手の傍観者は上手な人相見だーーまた指で自分の胸をさしながら、「私をお呼びですか?」とたずね、知りたくもない人たちに紹介されるために、古陶器の鑑賞からひきはなされた不快を顔につめたくかくし、従順と素直とに頭をたれ、いそいで自分が走ってゆくであろうことを、私は予知していた。(プルースト「花咲く乙女たちのかげに Ⅱ」)

――さて。

《女は存在しない。われわれはまさにこのことについて夢見るのです。女はシニフィアンの水準では見いだせないからこそ我々は女について幻想をし、女の絵を画き、賛美し、写真を取って複製し、その本質を探ろうとすることをやめないのです。》(ミレール)

このわれわれが幻想する女が、<対象a>でなくてなんだろう。

Lacan's Woman doesn't exist (la Femme n'existe pas) does not mean that no empirical, fleshandblood woman is ever She, that she cannot ever live up to the inaccessible ideal of Woman (in the way that the empirical, real father never lives up to his symbolic function, to his Name). The gap that forever separates any empirical woman from Woman is not the same as the gap between an empty symbolic function and its empirical bearer. The problem with woman is, on the contrary, that it is not possible to formulate her empty idealsymbolic functionthis is what Lacan has in mind when he asserts that Woman does not exist. The impossible Woman is not a symbolic fiction, but again a fantasmatic specter whose support is objet a, not S1. The one who does not exist in the same sense as Woman does not exist is the primordial Fatherenjoyment (the mythic preOedipal father who had a monopoly over all women in his group), which is why his status is correlative to that of Woman.(zizek”LESS THAN NOTHING”)

――下手な役者としては振舞うなよな…そのうち血祭りにあうぜ…誰からだって? 「モメントとしての女たち」の予備軍たちからさ…その演技が通用するのは、「審美的葉脈」の欠けたニブイ人相見たちにだけだぜ

それがひとり存在するやいなや…全員が彼女に敵対する…ひとりの女に対して女たちほど度し難い敵はいない…だがその女でさえ。次には列に戻っている…ひとりの女を妨害するために…今度は彼女の番だ…何と彼女たちは互いに監視し合っていることか! 互いにねたみ合って! 互いに探りを入れ合って! まんいち彼女たちのうちのひとりが、そこでいきなり予告もなしに女になるという気まぐれを抱いたりするような場合には…つまり? 際限のない無償性の、秘密の消点の、戻ることのなりこだま…悪魔のお通り! 地獄絵図だ! (ソレルス)

ひどく人間通な、どこかの<わたくし>が忠告しているぜ…偉大なる「無私の人」どもは、ほうっておけ! 

(誤解を怖れて注意書きをすれば、この<わたくし>は、《ここにあるいっさいは、小説の一登場人物によって語られているものと見なされるべきである》(『彼自身によるロラン・バルト』)におけるロマネスクな<わたくし>だぜ)

心理学者の決疑論。――この者は一人の人間通である。いったい何のために彼は人間を研究するのであろうか? 彼は人間に関する小さな利益を引っとらえようと欲する、ないしは大きな利益をも。――彼は政略家にほかならない!・・・あそこのあの者もまた一人の人間通である。だから諸君は言う、あの者はそれで何ひとつ自分の利益をはかろうとしない、これこそ偉大な「無私の人」であると。もっと鋭く注意したまえ! おそらく彼はさらにそのうえ“いっそう良くない”利益を欲している、すなわち、おのれが人々よりも卓越していると感じ、彼らを見くだしてさしつかえなく、もはや彼らとは取りちがえられたくないということを欲しているのである。こうした「無私の人」は”人間軽蔑者”にほかならない。だからあの最初の者の方が、たとえ外見上どうみえようとも、むしろ人間的な種類である。彼は少なくとも同等の地位に身をおき、彼は“仲間入り”する。(ニーチェ『偶像の黄昏』「或る反時代的人間の遊撃」十五 原佑訳 ちくま学芸文庫)

もちろんこの人間通も自分のことはたいして見えていないのを否定するものではない。

私が他者の現前意識、すなわち他者の「比例世界」、他者の「私」にはいりこめないことは自明の前提としてもよかろう。しかし、他者の「メタ私」についてはどうか。なるほど、他者の「メタ私」を完全に知ることはできない。しかし、それは私の「メタ私」についても同様である。「私の現前する「私」」と「他者の現前しているであろう「私」」との間の絶対的な深淵のようなものはない。(……) 

他者の「メタ私」は、それについての私の知あるいは無知は相対的なものであり、私の「メタ私」についての知あるいは無知とまったく同一のーーと私はあえていう-――水準のものである。しばしば、私の「メタ私」は、他者の「メタ私」よりもわからないではないか。そうしてそのことがしばしば当人を生かしているではないか。(中井久夫「世界における索引と徴候」)

……


ところで、対象aと仮装の相違はなんだろう。論者によって同一のものと扱われる場合もある。

上の文では、《The semblant(objet a) is on the side of the fetish object, while the phallus is on the side of masquerade.》とするRussell Griggの議論をベースにして書いている。

たとえば、ミレールが次のように書くとき、仮装と対象aの区別は、不明瞭だが。
《……A second way to look at semblants is picked up by J.A. Miller when he says that the function of semblants is to "veil nothing" and also to convert this nothing into something. [Again, the double aspect of semblants appears in this definition which emphasizes the functions of veiling and also of drawing our attention to this very veiling. Miller goes on to say that it is because of this double aspect of semblants that as a semblant the veil phallicizes, and phallicizes the body in particular.》(The Concept of Semblant in Lacan's Teaching •.........Russell Grigg


もっともミレールは、かなり前に次のように書いている。

このような〔理論〕構築において、二つの用語が前景に出てきます。象徴的ファルスの機能が消去され、欲望の価値が下がるということが、ラカンの〔理論〕構築において起こるのです。ラカン理論の綿密な練り上げのすべての期間において、ラカンは欲望における生きた機能を支えようとしました。しかし、ひとたび欲動を欲望から区別すると、欲望の価値の引き下げがおこり、ラカンは欲望が依拠する「否定[not]」をとりわけ強調するようになります。そして反対に、享楽を生産する失われた対象に関係した活動としての欲動が本質的なものになり、二次的に幻想が本質的なものになります。
幻想と欲動がラカン理論の中心に移動するのです。特にパスの理論においては、失われた対象への主体の関係の二つの様態として、幻想と欲動が理論の中心となります。(資料:欲望と欲動ーーミレールのセミネールより

たとえばPierre-Gilles Guégue の“On Women and the Phallus ”は、「仮装」を理解するにはとても分かりやすい論文だが、<対象aを考えだすと、疑義を感じてしまう箇所が多い(ここでは分かり易い説明部分だけを抜いておく)。

That a woman is not the phallus but desires to be the phallus for an Other as a signifier of his desire. Here appears the theme of woman's otherness with regard to herself: she turns herself into the signifier of the Other's desire. For the Other desires the phallus. The phallus or the object?

Thus femininity is based on a lack. She is not the lack; rather, she desires to become the lack for an other. That is to say, she turns herself into a symptom. A woman turns herself into a symptom for a man as she incarnates for the man the phallus that the mother lacks and which for the man denies maternal castration. Thus a woman serves as a screen in man's relation to castration, and that is why she is a symptom. But she is not the phallus, even if she takes on the semblance of being the phallus. It is by way of this “lie” that she manages to arouse desire. Thus a woman is from the start a social individual. But on the basis of this fact Lacan is also able to refer to a “duplicity” concerning femininity, thus a doubling, but also, as the dictionary says, “the character of a feigning person”.( On Women and the Phallus Pierre-Gilles Guégue.)


ところで、対象aとは、欲望の対象なのだろうか、それとも欲動の対象なのだろうか、--などと書き出せば切りがない、今はジジェクの最新主著から引用だけしておく。

Miller's formula misses the true paradox or, rather, ambiguity of the objet a, the ambiguity which concerns the question: does the objet a function as the object of desire or of the drive? That is to say, when Miller defines the objet a as the object which overlaps with its loss, which emerges at the very moment of its loss (so that all its fantasmatic incarnations, from breast to voice to gaze, are metonymic figurations of the void, of nothing), he remains within the horizon of desire—the true object‐cause of desire is the void filled in by its fantasmatic incarnations. While, as Lacan emphasizes, the objet a is also the object of the drive, the relationship is here thoroughly different: although in both cases the link between object and loss is crucial, in the case of the objet a as the object‐cause of desire, we have an object which is originally lost, which coincides with its own loss, which emerges as lost, while, in the case of the objet a as the object of the drive, the “object” is directly the loss itself—in the shift from desire to drive, we pass from the lost object to loss itself as an object. That is to say, the weird movement called “drive” is not driven by the “impossible” quest for the lost object; it is a drive to directly enact the “loss”—the gap, cut, distance—itself. There is thus a double distinction to be drawn here: not only between the objet a in its fantasmatic and post‐fantasmatic status, but also, within this post‐fantasmatic domain itself, between the lost object‐cause of desire and the object‐loss of the drive.(zizek"LESS THAN NOTHING")