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2013年6月7日金曜日

ただちに理解されれば己の限界を悟って静かに退く

《称賛することには、非難すること以上に押しつけがましさがある。》(ニーチェ『善悪の彼岸』170番)

《思い上がった善意というものは、悪意のようにみえるものだ。》(同 184

――と、以前、引用したけれど(「創作家と批評家ーー夏目漱石『作物の批評』より」)、今度は、昨晩ぱらぱらと読んだ『曙光』(ちくま学芸文庫)から、いくつかの「賞讃」をめぐる引用してみよう。

賞讃。――君を賞讃しようとしていることが君に分かっている人が、ここにいる。君は唇をかむ。胸が締めつけられる。ああ、その聖杯が通り過ぎてくれればよい! しかし、それは通り過ぎない! やって来た。では、讃辞を述べる者の媚びた恥知らずを飲もうではないか。彼の讃辞の核心に対する嫌悪と深い軽蔑とを押えよう。感謝の喜びの皺を顔中に寄せよう! ――彼はたしかにわれわれを喜ばせようとしたのだ! しかし今、それが起こってしまった後では、彼が自分を非常にすぐれていると感じているのがわれわれには分かる。彼はわれわれに勝利を収めた。――そうだ! 自分自身にも勝利を収めたのだ、こいつめ! ――なぜなら彼にとっては、こうした讃辞を自らに無理強いすることは容易なことではなくなったからである。(『曙光』273番)


《お世辞に寛大。――飽くことを知らない野心家たちの最高の才智は、お世辞屋たちの姿を見ると自分たちの心に浮かぶ人間軽蔑を気づかれないようにし、お世辞屋たちに対してもやはり寛大な姿を見せることであるーー全く寛大でいることが出来る神のように。》(ニーチェ『曙光』300番)


《賞讃の効果。――ある人たちは、大きな賞讃によってはにかみ、他の人たちは、あつかましくなる。》(『曙光』525番)


――まあ、誰に賞讃されるかということもあるのだろうけれど、たとえば小説書きが、「大批評家」に褒められれば(今はそんな批評家いるかどうか知らねど)、たぶん大方は素直に喜んでしまうだろうね。


ところで「成熟した大人」というカテゴリーの人びとから褒められたらどうだろう。


俗物(philistine)は成熟した大人であって、その関心の内容は物質的かつ常識的であり、その精神状態は彼または彼女の仲間や時代のありふれた思想と月並みな理想にかたちづくられている。(……)「ブルジョア」という言葉を、マルクスではなくフロベールの用例に従って私 は用いる。フロベールの意味での「ブルジョア」は一つの精神状態であって、財布の状態ではない。ブルジョアは気取った俗物であり、威厳ある下司である。

順応しよう、帰属しよう、参加しようという衝動にたえず駆り立てられている俗物は、二つの渇望のあいだで引き裂かれている。一つは、みんなのするようにしたい、何百万もの人びとがあの品物を褒め、この品物を使っているから、自分も同じものを褒めたり使ったりしたい、という渇望である。もう一つは排他的な場、何かの組織や、クラブ、ホテルなどの常連、あるいは豪華客船の社交場(白い制服を着た船長や、すばらしい食事)に所属し、一流会社の社長やヨーロッパ の伯爵が隣に座っているのを見て喜びたい、という渇望である。(ナボコフ『ロシア文学講義』)

《俗物根性は単にありふれた思想の寄せ集めというだけではなくて、いわゆるクリシェ、すなわち決まり文句、色褪せた言葉による凡庸な表現を用いることも特徴の一つである。真の俗物はそのような瑣末な通念以外の何ものも所有しない。通念が彼の全体の構成要素そのものなのである。》(ナボコフ『ロシア文学講義』)


また、こういったことだってあるからね、ーー《学問の世界で、同僚の話がつまらなかったり退屈だったりしたときの、礼儀正しい反応の仕方は「面白かった」と言うことである。》(ジジェク『ラカンはこう読め!』)


ひとは思いがけないものに遭遇したとき、その感想をすぐさま語りだすことなどないだろう。学者でも創作家でも、その本来の仕事はのねらいは、受け手の、《歴史的、文化的、心理的土台、読者の趣味、価値、追憶の擬着を揺るがすもの、読者と言語活動を危機に陥れるもの》(ロラン・バルト『テキストの快楽』)であるはずなのだから、すぐさま評言を述べるのは失礼に当る場合があるには違いない。


もっとも、《「新しいこと」は十中八九、新奇さのステレオタイプでしかない》(ロラン・バルト『テクストの快楽』)なのだし、程よく優れた作品にめぐり合っても、「なにも語れなくなってしまうという状態」などにはならない。

程よく優れた作品とは、《満足させ、充実させ、快感を与えるもの。文化から生れ、それと縁を切らず、読書という快適な実践に結びついているもの》(バルト)なのであり、つまりは学者たちでも創作家たちでも、実際はほとんどそうである発信・発表で満足してしまっているのなら、失語体験など稀な出来事ともいえる。

多少とも独創性に恵まれていたり、 いなかったりする作家はいるだろう。 だがそうした才能は、 現代的な言説の維持にのみ貢献し、 その説話論的な構造にいかなる変化も導入することはない。 ほどよく面白い物語を綴ったり、 それに失敗したりするだけのことだ。知識人たちが語る物語にしても同様である。刺激的な「問題」の提起もあれば、こくありきたりな「問題」の提起もあるだろう。もちろん、面白い物語を語りうる才能の持ち主はそれなりに評価されるべきだし、 刺激的な 「問題」 の提起者もまた、 それにふさわしく評価されるべきである。 才能が無意味になったというのではないし、 繊細な思考にいかなる価値もないというのでもない。……(蓮實重彦『小説から遠く離れて』)


他方、真に独創的な作品は、《容貌が新しいというまさにそのために、その容貌はわれわれが才能とよぶものにぴったりしているとは思えない》のであり、すくなくとも最初は快く感じない。そこに生まれるかもしれないのは、まずは、齟齬であり驚愕であり、ときには眩暈であり失語である。

独創的な画家にしても、独創的な芸術家にしても、いずれも眼科医のような方法をとる。そんな画家とか芸術家とかが、絵や散文の形でおこなう処置は、かならずしも快いものではない。処置がおわり、眼帯をとった医師はわれわれにいう、ーーさあ、見てごらん。するとたちまち世界は(世界は一度にかぎり創造されたわけではない、独創的な芸術家が出現した回数とおなじだけ創造されたのだ)、われわれの目に、古い世界とはまるでちがって見える、しかも完全にはっきり見える。女たちが街のなかを通る、以前の女たちとはちがう、つまりそれはルノワールの女たちというわけだ。われわれがかつて女だと見るのを拒んだあのルノワールの女たちというわけなのだ。馬車もまたルノワールである、そして水も、そして空も。(プルースト「ゲルマントのほう Ⅱ」井上究一郎訳)
われわれは、ある新しい作家の特殊な容貌のなかに、われわれの通念を陳列している博物館によって「偉大な才能」と銘うたれるような典型をみとめるには、非常に長い時日を要するのだ。容貌が新しいというまさにそのために、その容貌はわれわれが才能とよぶものにぴったりしているとは思えないのである。(プルースト「スワン家のほう」)


かつて、フランスにブルバキという構造主義数学者集団があり、《この匿名集団の内密の規約は、発表が同人にただちに理解されれば己の限界を悟って静かに退くというものであった》(中井久夫)そうだ。

事実、具体的に何ものかと遭遇するとき、人は、説話論的な磁場を思わず見失うほかないだろう。つまり、なにも語れなくなってしまうという状態に置かれたとき、はじめて人は何ごとかを知ることになるのだ。実際、知るとは、説話論的な分節能力を放棄せざるをえない残酷な体験なのであり、寛大な納得の仕草によってまわりの者たちと同調することではない。何ものかを知るとき、人はその物語を喪失する。これは、誰もが体験的に知っている失語体験である。言葉が欠けてしまうのではなく、あたりにいっせいにたち騒ぐ言葉が物語的な秩序におさまりがつかなくなる過剰な失語体験。知るとは、知識という説話論的な磁場にうがたれる欠落を埋めることで、ほどよい均衡におさまる物語によって保証される体験ではない。知るとは、あくまで過剰なものとの唐突な出合いであり、自分自身のうちに生起する統御しがたいもの同士の戯れに、進んで身をゆだねることである。陥没点を充填して得られる平均値の共有ではなく、ときならぬ隆起を前に、存在そのものが途方に暮れることなのだ。この過剰なるものの理不尽な隆起現象だけが生を豊かなものにし、これを変容せしめる力を持つ。そしてその変容は、物語が消滅した地点にのみ生きられるもののはずである。(蓮實重彦『物語批判序説』)

ここでの「説話論的な磁場」とは、《それは、誰が、何のために語っているのかが判然としない領域である。そこで口を開くとき、人は語るのではなく、語らされてしまう。語りつつある物語を分節化する主体としてではなく、物語の分節機能に従って説話論的な機能を演じる作中人物の一人となるほかないのである。にもかかわらず、人は、あたかも記号流通の階層的秩序が存在し、自分がその中心に、上層部に、もっと意味の濃密な地帯に位置しているかのごとく錯覚しつづけている。》(同『物語批判』)である。

《具体的に何ものかと遭遇する》のは何も作品などだけでなく、日々の「出来事」でもいい、《説話論的な分節能力を放棄せざるをえない残酷な体験》とは、記憶の総体を再構成するものだ。


《記憶とは、新しい事件に出会うたびに総体が大きく組み変えられる一つの生きものである。》(中井久夫『「昭和」を送る』)

(この『「昭和」を送る』というのは新刊で、オレは読んでいないのだけれど、こんなことも書かれているようだね、--氏の病(前立腺がんと脳梗塞)に関する文章は、闘病記などではまったくないが、以前にはあり得なかったもので、ちょっとショックを感じずにはいられなかった。(今では奥様と共に、介護付有料老人ホームに入居されているという。)全体に、回顧の文章が多くなったことは否めない。》(中井久夫氏の新刊))…マイッタナ…


記憶の総体が組み変えられるということは、「人格」が変るということでもある。

《フロイトの夢の研究に徴しても、老人の回想に照らしても、「現在との緊張における」という限定詞つきの意味での「個人的過去の総体」は一般に「人格」と呼んでいるものにほぼひとしい。》(中井久夫『「世界における索引と徴候」について』)

…(一般に)過去を変えることは不可能であるという思い込みがある。しかし、過去が現在に持つ意味は絶えず変化する。現在に作用を及ぼしていない過去はないも同然であるとするならば、過去は現在の変化に応じて変化する。過去には暗い事件しかなかったと言っていた患者が、回復過程において楽しいといえる事件を思い出すことはその一例である。すべては、文脈(前後関係)が変化すれば変化する。(「統合失調症の精神療法」『徴候・記憶・外傷』所収 P264)


――などと引用しているけれど、「賞讃」に戻れば、賞讃の仕方にもよるだろうけれど、やっぱり肯定的な「批評」というのは必要なのだろう。


下記の文は、二十年前の文でだけれど、《書評されない本は永遠に未成年》、《人々が日々関心を持つ世界が狭くなり、「新タテ社会」》では殊更…、とされており、まあ、今は、もっと日々の関心を持つ世界が狭くなっているはずだから、ーーいや、インターネットの普及で広くなったという人もいるのだろうけれど、ネットで受け取るのは、その殆んどが、情報/経験、システム/出来事、記録/記憶の二項対立の項の前者だからーー、質の高い「批評」「書評」のたぐいはより必要になっているのだろう。


かつては、できるそばから読みきかせてくれるのを待っている小さな親密なサークルが作家の周囲にあった。一般に現代では読者の顔がみえにくい。現代の本は書評を待って一人前――成年に達するといえようか。逆にいえば、書評されない本は永遠に未成年である。

書評の書評というものがあってもよいのだが、これがふつうないのは、どうしてであろうか。あるいは、書評家自身は成熟もするだろうが書評そのものは成熟ということがない妖精や小鬼なのかもしれない。

さまざまな書評がある。まず「紹介書評」がある。内容の紹介が大部分を占める書評である。温和な老人の顔をした妖精である。まったく違う業界の雑誌に載る書評には、本の属する業界一般の現状から始めてこの本が業界に占める位置、著者の経歴、人となりを述べてから、内容をかみ砕いて述べる。批評は最後の数行に追いやれれるのも致し方ない。「紹介書評」は初歩的書評のようであるが、人々が日々関心を持つ世界が狭くなり、「新タテ社会」といおうか、多数の書が出版されつづける現在では非常に有用である。『週刊ポスト』や『Hanako』によい紹介書評が載ることがある。似て非なるものが「教育書評」である。宗教や政党の新聞雑誌の書評は、例外はあるが、肯定的なものが多い。否定するべきものを取り上げていたらきりがないからだそうだ。ただ“増長漫”にならないように「限界」というものを最後に指摘してある。にこにこしているが、怒らせると怖い妖精であろう。年齢はさまざまである。

専門の書評家というものには、さまざまの種類があって、ここでは分類しきれない。一般に書評をするという行為は天国の門を守る聖ペテロと同じく両義的である。労苦の多くが地下の仕事に終わる、土の精の仕事でもある。少し空気を吸いたくなると「原文の文体(あるいはリズム)をいかした翻訳」などという、ありえない賛辞や、「何々に触れていないのは遺憾である」という、当を得ている場合ばかりではない批判で終わる危険もある。この精が時には大気を吸いたくなると「歌う書評」になる。著者には「地獄に仏」の場合もあるが、危険な妖精の誘いの声のときもあろう。

結局、著書というものは、書評によって成年に達するが、書評にもかかわらず生き続けねばらなないものである。フランスにブルバキという構造主義数学者集団があった。この匿名集団の内密の規約は、発表が同人にただちに理解されれば己の限界を悟って静かに退くというものであった。出版と同時に絶賛される著者には、時にこの自戒が必要であろう。(中井久夫「書評の書評」『リテレール』創刊号 1992)

…………


附記:

《フランツ・カフカという署名のある一篇の寓話は、私には、まだ若い従順な読者であったにもかかわらず、言いようもなく無味乾燥なものに思われた。

長い年月を隔てたいま、私は敢えて自分の弁解の余地のない文学的鈍感さを白状する。啓示を前にしていながらそのことに気がつかなかったのだから。》(ボルヘス『バベルの図書館14カフカ』序文)

要するに、彼が書くもののつねにたぐいまれな、新しい特質は、一つの問題に接近するときに、その既知の面をことごとくすてさるという非常に巧緻な方法によって、その会話のなかにあらわされたので、問題のわずかな一面しかつかんでいないとか、まったく誤解しているとか、逆説を弄しているとかに見え、そのようにして彼の思想は多くの場合にいつもはっきりととらえられないもののように思われた、それというのも、各人は自分自身の思想とおなじ程度の混乱した思想を、明確な思想と呼んでいるからである。それに、すべて新しさというものは、われわれが慣れてしまって現実そのもののように思っていた月並で常識的な態度の除去をまず条件とするものであるから、すべて新しい会話も、独創的な絵画、音楽のすべてとおなじように、いつでも凝りすぎて人を疲れさせるものに見えるだろう。(プルースト『花さく乙女たちのかげに』Ⅰ 井上究一郎訳)