二歳半から三歳半のあいだにさまざまな点で大きな飛躍があるとされている。フロイトのいうエディプス・コンプレックスの時期である。これは、対象関係論者によって「三者関係」を理解できる能力が顕在化する時期であると一般化された(注:バリント『治療論からみた退行』)。それ以前は二者関係しか理解できないというのである。これは、ラカンのいう「父の名」のお出ましになる時期ということにもなるだろう。それ以前は「想像界」、それ以後は「象徴界」ということになるらしいが、ラカンの理論については自信のあることはいえない。
(……)この大きな変化期において、もっとも重要なのは、そのころから記憶が現在までの連続感覚を獲得することではなかろうか。なぜか、私たちは、その後も実に多くのことを忘れているのに、現在まで記憶が連続しているという実感を抱いている。いわば三歳以後は「歴史時代」であり、それ以前は「先史時代」であって「考古学」の対象である。歴史と同じく多くの記憶が失われていて連続感は虚妄ともいいうるのに、確実に連続感覚が存在するのはどこから来るのであろうか。それは、ほとんど問題にされていないが、記憶にかんして基本的に重要な問題ではなかろうか。P44-46
「三者関係」については、別の論に次のような叙述がある。
三者関係の理解に端的に現われているものは、その文脈性contextualityである。三者関係においては、事態はつねに相対的であり、三角測量に似て、他の二者との関係において定まる。これが三者関係の文脈依存性である。
これに対して二者関係においては、一方が正しければ他方は誤っている。一方が善であれば他方は悪である。
ここでは、現象的には二者の関係であっても、目に見えない第三者すなわち社会(世間)が背景として厳存する場合は三者関係とする。したがって四者以上でも三者関係に含まれる。私のいう二者関係とは「文脈以前の二者関係」あるいは絶対的な二者関係と呼んでもよかろう。バリントが「基底欠損患者」について「独特な二者関係」と呼んだものである。このタイプの患者の一例に「境界例」を挙げてもよいであろう。「境界例」性には、治療者や家族・友人が身を以て味わうように、些細な遅刻をも重大な裏切りをも同じ強度で感受し、同様に烈しく糾弾するということがある。
バリントはいみじくも、境界例患者を含む「基底欠損」患者は「通常の成人言語」common adult languageを理解しないと述べている。臨床的には、文字通りの幼児語に戻るわけではなく、妥当な文脈性(前後関係)を失った形で成人言語を使用するためにさまざまな混乱が生じるのである。成人文法性以前への復帰ではないが成人文法性の大きな障害ということはできる。(中井久夫「外傷性記憶とその治療ーーひとつの方針」『徴候・記憶・外傷』p169)
次に世界の整合化と因果関連化について。
仏教用語の「相依相待性」(龍樹=ナーガールジュナによる)が出てくる。
ここで先に仏教用語の因果の意味合いを簡略に記す。
【因果】:直接的原因(因)と間接的原因(縁)との組み合わせによってさまざまな結果(果)を生起すること
【相依相待性】についてはまったく不明の身。
ただ「親鷺教義における二諦説と一異の論理」(北村文雄 博士論文インターネット上PDF)に次のように記述されている。
縁起の法は、釈尊成人の内容として伝えられたものであり、仏教教理の根幹をなすものと云われている。「此有るとき彼有り、此生ずるにより彼生じ、此無きとき彼無く、此滅するにより彼滅する。」という言葉で示されているように、この世の一切の存在は他の物との相依相待の関係によって成り立ち、それ自体としては空であると云う。これが一切のものの理法たり得る所から 「縁起を見る者は法を見る、法を見る者は縁起を見る。」とも云われ、更にこの縁起は 「如来世に出つるも出でざるも、常住にして変異なき真の法性なり。」と云われている。ところが、初期仏教・部派仏教の時代に説一切有部や南方上座部の説く縁起説は有為のみを説明するもので、無為(悟りの世界)は縁起の中に含まれていなかった。大乗仏教の興起にともない、初期般若経典等では「縁起する諸法の本質は空であり無自性であること」を説き、龍樹は、説一切有部の説く「諸法に固有の自性を認めた縁起」を批判して「諸法は空であり無自性であるから縁起し、また縁起するから自性を持たず空である。」と説いた。
中井久夫は、《文脈性が因果関係より広いことを言っておきたい。それは世界の相互連結性であり、すべてが他との関係において初めて存在する相依相待性(大乗仏教哲学での用語で個物自体は「空」つまりあるともないともいえない)である》としており、ここでは「連結性」という語句のほうに注目して、ヤーコブソンの隠喩/換喩の区別を想起しておこう。
失語症の種類は実に多く、さまざまであるが、すべて以上に記述した両極の型のあいだを揺れ動く。失語症性障害のすべての形式が、選択と代置の能力か、あるいは結合と結構の能力かの、多少ともひどい損傷に存する。前者はメタ言語的操作の退化を来たし、後者は言語単位の階層を維持する能力を損なう。類似性の関係が両者の、隣接性の関係が後者の型の失語症で抑圧される。隠喩は相似性の異常と、換喩は隣接性の異常と、相容れない。(ヤーコブソン「一般言語学」)
――つまり中井久夫の「文脈性」は、二つないしそれ以上の存在の間に,原因および結果としての結びつきの関係があるという因果性だけにかかわるのではなく(それは隠喩の選択と代置の能力に近似するだろう)、結合と結構の能力=換喩にもかかわるものだろう。
……三歳以後の言語の成人文法性は、世界の整合化と因果関連化に対応しているであろう。成人文法は整合的世界を前提とし、因果的に事象を表現するものである。ちなみに、因果的事象表現は、自然科学的世界像と同じではない。F=maという力と加速度との関係において、力が「結果」で質量と加速度とが「原因」とうことは数式に含意されていない。しかし、これを言語化する時には因果関係の言葉を用いないわけにはゆかない。同時に現実の複雑性が捨象されて、整合的になり単純化される。
この整合化と因果関係化とが、成人文法による表現を可能にする世界の条件である。未分化なものから分化したものを生むことは容易であり、ものごとの順序にしたがっている。ただし、夢と性と意識障害と錯乱においては、この逆方向の動きが見られると考えてよいだろう。性的状態においては、しばしばプロトパシー、セネステジー、「質」の優越とがみられる。特にオーガズムは「質」しか持たない絶対感覚である。
ここで文脈性が因果関係より広いことを言っておきたい。それは世界の相互連結性であり、すべてが他との関係において初めて存在する相依相待性(大乗仏教哲学での用語で個物自体は「空」つまりあるともないともいえない)である。ナーガールジュナによる世界の相依相待性の発見は、成人言語の文脈性と深く関係したものであると私は思う。
なお、嗅覚、味覚、運動感覚、振動感覚には弁別性もあるが、質が優位であって、全体としてプロトパシー的であるといってよいであろう。これらは言語から遠く、伝達性に欠ける。嗅覚、味覚において特徴的なことは、(1)非常に微妙な違いを質として感じることができるーーたとえば葡萄酒の産地の同定――にもかかわらず、(2)言語的には、特徴的な表現はわずかに数個(たとえば味覚における甘、辛、酸っぱい、塩辛い、苦い、渋い)であって、あとは「うま味」という漠然とした表現か「何々のような」という表現しかないことである。これらをプロトパシー性の特徴としてもよいであろう。これらの感覚の記憶が文脈によって変化することはほとんどない。それらはわずかに、並べると相互に影響し合うという意味の相対性があるだけである。
視覚におけるプロトペイシックな面は色彩である。味覚、嗅覚と似た事情がある。人間は質として数千万の色を区別できるけれども「量化」はできない。色の名は基本的には六個から一〇個である。他は何々(のような)色である。……(中井久夫「発達的記憶論」『徴候・外傷・記憶』所収 p.61-62)
プロトパシーとは原始感覚性protopathy、セネステジーとは共通感覚性conaesthesiaのこと。
成人世界に持ち込まれる幼児体験は視覚映像が多く、稀にステロタイプで無害な聴覚映像がまじる。嗅覚、味覚、触覚、運動覚、振動感覚などはほとんどすべて消去されるのであろうか。いやむしろ、漠然とした綜合感覚、特に母親に抱かれた抱擁感に乳の味覚や流れ入る喉頭感覚、乳頭の口唇触覚、抱っこにおける運動感覚、振動感覚などが加わって、バリントのいう調和的渾然体harmonious mix-upの感覚的基礎となって、個々の感覚性を失い、たいていは「快」に属する一つの共通感覚となって、生きる感覚(エロス)となり、思春期を準備するのではなかろうか。
これに対して、外傷性体験の記憶は「成人世界の幼児型記憶」とはインパクトの点で大きく異なる。外傷性記憶においては視覚の優位重要性はそれほど大きくない。外傷性記憶は状況次第であるが、一般に視覚、聴覚、味覚、触覚、運動覚が入り交じる混沌である。視覚的映像も、しばしば、混乱したものである。すなわち「共通感覚的」であり「原始感覚的」でもある。(中井久夫「発達的記憶論」『徴候・記憶・外傷』P57~58)
外傷性感覚と幼児感覚との類似性はプロトパシーとセネステジー以外にも「絶対性」が指摘される。
私たちは、外傷性感覚の幼児感覚との類似性を主にみてきて、共通感覚性coenaesthesiaと原始感覚性protopathyとを挙げた。
もう一つ、挙げるべき問題が残っている。それは、私が「絶対性」absoluteness、と呼ぶものである。(……)
私の臨床経験によれば、絶対音感は、精神医学、臨床医学において非常に重要な役割を演じている。最初にこれに気づいたのは、一九九〇年前後、ある十歳の少女においてであった。絶対音感を持っている彼女には、町で聞こえてくるほとんどすべての音が「狂っていて」、それが耐えがたい不快となるのであった。もとより、そうなる要因はあって、聴覚に敏感になるのは不安の時であり、多くの場合は不安が加わってはじめて絶対音感が臨床的意味を持つようになるが、思春期変化に起こることが目立つ。
(……)
私は自閉症患者がある特定の周波数の音響に非常な不快感を催すことを思い合わせる。
絶対性とは非文脈性である。絶対音感は定義上非文脈性である。これに対して相対音感は文脈依存性である。音階が音同士の相対的関係で決まるからである。
私の仮説は、非文脈的な幼児記憶もまた、絶対音感記憶のような絶対性を持っているのではないかということである。幼児の視覚的記憶映像も非文脈的(絶対的)であるということである。
ここで、絶対音感がおおよそ三歳以前に獲得されるものであり、絶対音感をそれ以後に持つことがほとんど不可能である事実を思い合わせたい。それは二歳半から三歳半までの成人型文法性成立以前の「先史時代」に属するものである。(……)音楽家たちの絶対音感はさまざまなタイプの「共通感覚性」と「原始感覚性」を持っている。たとえば指揮者ミュンシュでは虹のような色彩のめくるめく動きと絶対音感とが融合している。
視覚において幼児型の記憶が残存する場合は「エイデティカー」(Eidetiker 直観像素質者)といわれる。(中井久夫「発達的記憶論」『徴候・記憶・外傷』所収 P59-60)