男女三歳にして席を同じくせず。これは西洋人のいわゆる「ヴィクトリア朝道徳」をさらに徹底させたタテマエである。タテマエはむろんそのまま実行できないから、徳川時代はウラの性風俗への関心を強めた。その制度化されたものが遊里である。その私的領域で栄えたものが枕絵である。遊里は、少なくとも徳川時代の後半には、歌舞伎の劇場と共に、町人社会の文芸・音楽・絵画の中心となった。枕絵は、同時代の高名な浮世絵版画家で、それを作らなかった者はほとんどいない。
しかしタテマエの非現実性だけが、枕絵の大量生産を説明するわけではないだろう。徳川時代の後半、殊に一八世紀後半から一九世紀初めにかけての町人社会は、物質的に繁栄していたと同時に、近い将来に体制の変革を期待していなかった。そこで人々の関心が私的領域に向かったのは、当然であり、私的領域におけるもっとも強い衝動の一つが、性的欲望であることは、いうまでもない。しかし性的なものへの強い関心は、必ずしも直ちに性的なものの豊富な表現を意味するとはかぎらない。表現は内面的衝動の外面化すなわち社会化であり、その形式は文化によって異る。性的なものが主として商品として表現される文化もあり、それが芸術として表現される文化もあるだろう。徳川時代の文化の特徴の一つは、性的表現の動機がしばしま芸術的表現のそれと結びついていた、ということである。
枕絵の多くは、絵としては稚拙である。しかしその多くは風俗史興味をひく。そこには、たとえば、二人の男女の組み合せばかりでなく、三人以上多人数の組み合せや女二人の組み合せもある。背景は屋内を主とするが、縁先、屋外、海中にまで及ぶ。当事者のうち女には、遊女が多いが、町屋や武家の女もあり、海女の例もある。日本の枕絵はほとんどすべて性器の大きさを著しく誇張する。おそらくそれは「フェティシズム」の直接の反映であるのかもしれない。しかしそういうこととは別に、絵として優れたものも少なくない。たとえば鈴木春信や喜多川歌麿の枕絵は、彼らのその他の作品、たとえば美人画とくらべて、緊密な構図、優美な線、微妙な色彩の、どの点から見ても、少しも劣らず、むしろしばしば勝ることがある。
春信は、相合傘の少年少女を描いたように、若い男女の情交を、室内の、――窓外の風景をも含めて、――細かく描きこんだ背景のなかに置き、情緒的な画面を作った。その人物が画面全体のなかに占める割合も大きくない。われわれは、人物と同時に、彼ら自身が見ていないだろう環境を、見るのであり、そのことがわれわれと人物との距離を大きくする。しかもそれだけではない。春信は、しばしば、情交の当事者の他に、彼らを観察する第三者を、画中に配する。その第三者の視線に、当事者が気づかぬ場合、たとえば柱のかげからもう一人の女が室内の様子を窺っているような場合には、われわれはその第三者の視線を通して、いわば間接に、当事者の行為を見ることになる。そのことがわれわれと対象との距離をさらに大きくするだろうことは、いうまでもない。当事者が意識している第三者は、たとえば遊女の行為を見ている禿〔かぶら〕である。その場合には、絵を見るわれわれではなくて、画中の当事者が第三者の視線を通して自分自身を見るということになろう。われわれはそういう当事者を、すなわち自己を対象化する主体を、対象化する。二重の対象化もまた、人物とわれわれとの距離を強化するにちがいない。
歌麿の方法は、春信のそれの正反対であった。大首絵の接近画法を美人画に用いた彼は、もつれ合う男女をも近いところから見た。その姿態は、画面の全体に拡がって、背景を描く余地をほとんど残さない。しかしそれは細部を観察するためではなかった。歌麿は対象に近づけば近づくほど、抽象化し、様式化し、二次元的な色面を駆使し、透視法――それはもちろん幾何学的であるとはかぎらないーーから遠ざかる。なぜなら当事者には背景が見えず(あるいは断片的にしか見えず)、相手と自分自身の着物や身体の一部だけが大きく視野のなかに入って来て、そこではどういう種類の透視法も成立し難いはずだからである。目的はあきらかに対象(当事者)と画家(したがって絵を見るわれわれ)との距離を大きくすることではなく、小さくすることにあった。あるいはむしろ愛の行為の当事者が見る世界を、絵を見るわれわれが見ることにあった、というべきだろう。そのために歌麿が駆使したのは、彼が知っていたあらゆる手法であり、そうすることで彼は、ほとんど浮世絵の枠を破り、表現主義的抽象絵画の領域にさえ近づくところまで行ったのである。
ーー加藤周一の文はそもそもこの歌麿の「後家」をめぐる。他はわたくしが恣意的につけ加えたもの。
作品がワイセツであるかどうか、そんなことは私にとって何ら興味もない。私に興味があるのは、それが絵としてどれほど完成し、どれほど独創的であったか、ということである。歌麿のすべての版画のなかでも、これほど完成し、これほど独創的なものは、おそらく少い。(加藤周一「対象との距離」『絵のなかの女たち』所収)
《作品がワイセツであるかどうか、そんなことは私にとって何ら興味もない。》とは、加藤周一だから言えるのであって、わたくしのような凡人には、興味がないでもない……
…………
だが「ペニス羨望」までを「フェティシズム」の視野にいれるのなら、どうだろう。
ときに「器官」は、突然フェティッシュなものとなる。"The organ suddenly takes on the value of the fetish……And there is also a tendency to appropriate a symbolic and imaginary mixture of the organ as a fetish" (On Women and the Phallus Pierre-Gilles Guéguen)
だがこれは、女性の「ペニス羨望」をフェティシュとする議論だ。
そもそも枕絵の「巨根」に羨望を覚えるのが、女性であるとは限らないだろう。むしろ標準的な男性の「羨望」を促すことのほうが多いだろう。
以下はいささか議論の水準が異なるが、ジジェクは『LESS THAN NOTHING』で、ファルスのシニフィアンのパラドックスを指摘するなかで次のように書いている。
以下はいささか議論の水準が異なるが、ジジェクは『LESS THAN NOTHING』で、ファルスのシニフィアンのパラドックスを指摘するなかで次のように書いている。
This brings us to the paradox of how sexual difference relates to the phallic signifier: the moment we conceive the phallus as signifier and not only as an image (“symbol”) of potency, fertility, or whatever, we should conceive it primarily as something that, due to the very fact that a woman lacks a penis, belongs to her (or, more precisely, to the mother). It is thus not that, in a first moment, man “has it” and woman does not, and, in a second moment, woman fantasizes about “having it.” As Lacan puts it on the very last page of his Écrits: “the lack of penis in the mother is ‘where the nature of the phallus is revealed.' We must give all its importance to this indication, which distinguishes precisely the function of the phallus and its nature.” And it is here that we should rehabilitate Freud's deceptively “naïve” notion of the fetish as the last thing the subject sees before it sees the lack of a penis in a woman: what a fetish covers up is not simply the absence of a penis in a woman (in contrast to its presence in a man), but the fact that this very structure of presence/absence is differential in the strict “structuralist” sense.
そしてこの文に注が附される。
Against the standard feminist critiques of Freud's “phallocentrism,” Boothby makes clear Lacan's radical reinterpretation of the notorious notion of “penis envy”: “Lacan enables us finally to understand that penis envy is most profoundly felt precisely by those who have a penis” (Richard Boothby, Freud as Philosopher, London: Routledge 2001, p. 292).
もっともこの男性のペニス羨望をめぐっても、一筋縄ではいかない議論であり、象徴的ファルス、あるいは去勢とはなにかにかかわり、ジジェクは次のようにも書いている。
the phallus is an “organ without a body” which I put on, which gets attached to my body, without ever becoming its “organic part,” forever sticking out as an incoherent, excessive supplement. (……)
the phallus is the organ which men effectively possess (as a penis), but they do not feel it as such, always experiencing it as missing, cut off, separated.
《徳川時代の後半、殊に一八世紀後半から一九世紀初めにかけての町人社会は、物質的に繁栄していたと同時に、近い将来に体制の変革を期待していなかった》のであれば、彼らは「去勢」されていたとも言えるだろう。だが、そのとき「巨根」描写の春画の氾濫はなにを意味するのか、ーーなどと捏造された問いを発するつもりはない。