以下引用される『恋愛のディスクール』におけるロラン・バルトの「わたし」は、ロラン・バルト自身のことではない。それは、自伝的な『彼自身によるロラン・バルト』の「わたし」--《ここにあるいっさいは、小説の一登場人物によって語られているものと見なされるべきである》とは、また違った意味で。
つまり、《恋愛のディスクールを記述するかわりにその模擬物をおき、これに”わたし”という基本的人称を与え、分析ではなく発話行為そのものが上演されるようにしてみた。(……)この活写文は心理的なものではない、構造的なものなのだ。それが読みとらせようとしているのはことばの場である。語ろうとせぬ他者(恋愛の対象)を前に、おのが内部で恋情のままに語りつつある誰かの場、なのである》(ロラン・バルト「この書物はどのように作られているか」)
あなたに欲望のありどころを教えようとしたら、当の欲望をほんの少し禁じてやればよい(禁止のないところに欲望はないというのが本当なら)。 Xは、わたしがいつも身近におり、しかも、 “ほんの少し” は自由にさせてくれるよう望んでいる。おりおりに姿を消す柔軟な存在であって、しかも、 “あまり遠くへは”離れてゆかぬよう、望んでいるのだ。つまり、このわたしが、常に禁じられたもの(それがなければ良き欲望もない)として現前していなければならないというのである。しかもまたわたしは、ひとたび Xの欲望が形成されてしまい、これ以上はわたしの存在が邪魔になりかねないようなときがくれば、ただちに遠ざかるのではなけれならないだろう。静かに編物をしながら子供を遊ばせている申し分のない母親(保護者であってしかも放任的な)でなければならないのだ。「うまくいっている」カップルの構造とはそうしたものであるだろう。いささかの禁止と多くの自由。欲望を教示し、あとは自由にさせておく。道は教えてくれるが、一緒に行ってやるなどとは言い出さぬ、親切な土地の人たちのように。(ロラン・バルト『恋愛のディスクール』P208 )
ーー「うまくいっている」カップルでさえも、《わたしの存在が邪魔になりかねないようなときがくれば、ただちに遠ざかるのではなけれならない》。
…… わたしは「母親」である(あの人はわたしに心配をかける)が、不十分な母親なのだ。しかし、それほど慎重に身を持しているにしては、わたしの感じる動揺はあまりにも激しい。それというのも、あの人の不幸に「真摯に」同一化しようとするまさにそのとき、わたしは、この不幸の中に “わたしぬき” という事態のあること、あの人が自分だけのことで不幸になったのであり、したがってわたしは見捨てられているのだということを、読みとってしまうからなのだ。わたし以外のことで苦しんでいるからには、わたしなどものの数に入っていないということだろう。あの人の苦痛は、あの人をわたしの外部で存立せしめるものであり、したがってわたしを無力にするものなのである。 P87
《わたしぬき》、ーーたとえばパラノイア型(あるいはナルシシズム型)の人物に「よそよそしく」したら、どんな目にあうか。
(追跡妄想をもつパラノイアは)、他人が彼らに全然無関心ではないことを知り、見知らぬ他人たちが彼らにしめす些細な徴候を「関係妄想」の中で評価している。関係妄想の意味するところは、彼らがすべての見知らぬ人から、なにか愛情のごときものを期待していることである。ところが他人たちはそういう素振りをしめすこともなく、なにげなくひとりで笑ってみたり、通りすがりにステッキを振りまわしたり、あるいは地面に唾をはいたりする。かりに親しい気持ちを傍の人にたいしてもつ場合に、そういう仕事をするはずがない。傍の人にまったく無関心のときや、それをかるくあしらうときだけにそういうことをするものである。「よそよそしい」ことと「敵意がある」ということは根本的には似ているので、パラノイア患者が、他人の無関心を敵意があると感ずるのは、彼らの愛情を期待することの強さに照らし合わせてみて、さほど不思議ではない。
ところで、嫉妬妄想をもつ患者や追跡妄想をもつ患者が、内心に認めたくないことがあって、それをほかの他人に投射するのだと、われわれがいっても、それだけでは彼らの態度を十分には述べていないように思われる。
投射することは確かだが、彼らはあてなしに投射するわけではないし、似ても似つかぬもののあるところに投射するのでもない。彼らは他人の無意識なものについて知っていて、その知恵にみちびかれている。彼らは自分自身の中の無意識なものから注意をそらして、他人の無意識なものに注意をむけている。われわれの見た前記の嫉妬ぶかい男は、自分自身の不実のかわりに、妻の不貞を思うのであって、こうして、彼は妻の不実を法外に拡大して意識し、自分の不実は意識しないままにしておくのに成功している。この実例を有力なものとすると、追跡される者が他人のうちに見つけた敵意もまた、この他人にたいする彼自身の敵対感情の反射であると結論してよいだろう。(フロイト『嫉妬、パラノイア、同性愛に関する二、三の神経症的機制について』)
もっとも、この文は、後半箇所がより肝要なのかもしれない。他人を観察して悦に入っている人物の、自らの無意識的なものから注意をそらして、他人の無意識的なものに注意をむけていることが。
《…ところで、自己を語る一つの遠まわしの方法であるかのように、人が語るのはつねにそうした他人の欠点で、それは罪がゆるされるよろこびに告白するよろこびを加えるものなのだ。それにまた、われわれの性格を示す特徴につねに注意を向けているわれわれは、ほかの何にも増して、その点の注意を他人の中に向けるように思われる。》(プルースト「花さく乙女たちのかげに」Ⅱ 井上究一郎訳)
つまりは、《人は自分に似ているものをいやがるのがならわしであって、外部から見たわれわれ自身の欠点は、われわれをやりきれなくする。自分の欠点を正直にさらけだす年齢を過ぎて、たとえば、この上なく燃え上がる瞬間でもつめたい顔をするようになった人は、もしも誰かほかのもっと若い人かもっと正直な人かもっとまぬけな人が、おなじ欠点をさらけだしたとすると、こんどはその欠点を、以前にも増してどんなにかひどく忌みきらうことであろう! 感受性の強い人で、自分自身がおさえている涙を他人の目に見てやりきれなくなる人がいるものだ。愛情があっても、またときには愛情が大きければ大きいほど、分裂が家族を支配することになるのは、あまりにも類似点が大きすぎるせいである。》(プルースト『囚われの女』)ーー鋭利な「他者分析」を得意がって開陳する人間の心性には、つねに、この機微があるのではないか、と疑うことを忘れてはならない。
……他人に対する一連の非難は、同様な内容をもった、一連の自己非難の存在を予想させるのである。個々の非難を、それを語った当人に戻してみることこそ、必要なのである。自己非難から自分を守るために、他人に対して同じ非難をあびせるこのやり方は、何かこばみがたい自動的なものがある。その典型は、子供の「しっぺい返し」にみられる。すなわち、子供を嘘つきとして責めると、即座に、「お前こそ嘘つきだ」という答が返ってくる。大人なら、相手の非難をいい返そうとする場合、相手の本当の弱点を探し求めており、同一の内容を繰り返すことには主眼をおかないであろう。パラノイアでは、このような他人への非難の投影は、内容を変更することなく行われ、したがってまた現実から遊離しており、妄想形成の過程として顕にされるのである。(フロイト『症例ドラ』)
もちろん、このあたりの消息は、「至高の心理学者」のひとりニーチェにさえあるといえる(「ニーチェの骨抜き」)。ましてや、<わたくし>のような「どこかの馬の骨」にないわけがない。
すこし異なった側面からいえば、そもそも心理的なある側面に通暁している人物は、そのことに苦しめられた証しであることが多い。フロイトのエディプス・コンプレックス理論は、フロイトの「敬愛する」父の死の直後からその著作の前面に出てきている。そして、ラカンの「母親の欲望とは大きく開いたワニの口のようなもの」(「ファルス」と「享楽」をめぐって)とするファルス理論が、どこから出てきているのかは言うを俟たない。
※いささか退屈な箇所もあるどこかの博士論文だが、このあたりのことが長々しく(時系列的に精緻を極めて)書かれている→
「Freud, Lacan, and the Oedipus Complex」http://scholar.sun.ac.za/bitstream/handle/10019.1/17843/vandermerwe_freud_2011.pdf?sequence=2
ーーこの論に行き当たったのは、過日、引用したRussell Grigg”The Concept of Semblant in Lacan's Teaching” の著作'Beyond the Oedipus Complex'を追うなかでのこと。
あるいはまた、中井久夫はカヴァフィスのエロス詩を引用したあと、次のように書いている、《現実の詩人のエロスはどうだったかはあまりわかっていない。しかし、ほしいままにエロスの中に浸りえ、その世界の光源氏であった男はそもそも詩を書かないのではないか。彼のエロス詩には対象との距離意識、ほとんどニーチェが「距離のパトス」と呼んだものがあって、それが彼のエロス詩の硬質な魅力を作っているのではないだろうか。(「現代ギリシャ詩人の肖像」)
…………
プラトンの『パイドロス』におけるソフィスト・リュシアスの物語と、最初のソクラテス(前言取消をおこなう前)の物語とは、いずれも次のような原則にのっとっている。すなわち、愛される者にとって、愛してくれる者の存在は耐えがたいもの(その重々しさのため)である。そのあとに、愛する者の望ましからざる特性の一覧表がでてくる。いわく、恋をしている者は、いとしい人の眼に誰かが自分と同等か優越した存在に映ることが耐えられない。そこで、あらゆる競争相手の価値を低めようと努める。愛する人をもろもろの対人関係から遠ざけようとする。あれこれと奸策を弄してまで、愛する人を無知のままにしておこう、恋人である自分から出たもの以外、なにも識らぬままにしておこうとする。愛する人が一番親しい人たちを、父を、母を、親戚を、友人を、失えばよいとひそかに望んでいる。家を失い、子を失えばよいと思っている。この調子で精励に日々を送るのは、いかにも大変なことであろう。恋する者は、昼であれ夜であれ、一刻といえども、ひとりにされることに我慢できない。どれほど年をとった恋人(そのこと自体が望ましからざることであるが)でも、みな、横暴な警官のように振舞うだろう。疑い深く抜け目のないスパイに、愛する人を見張らせるだろう。しかも、自分はというと、やがていつの日か、裏切りを犯したり、恩知らずなことをしでかしたりしかねないのである。つまり、本人がどう考えていようと、恋する者の心にはいろいろと正しからざる思いがつまっている。彼の愛は高潔とはいえないのである。
( ……)恋をしているわたしとは、好ましからざる人間なのだ。なにかにつけて押しつけがましく、相手の迷惑をかえりみず、その好意につけこみ、あっさりしたところがなく、いろいろと要求の多い、脅迫的なところのある(もっと簡単に言えば、おしゃべりな)、不愉快きわまる連中の一人なのだ。……(『恋愛のディスクール』 P249~)
《ラカンによる愛の定義 ――「愛とは自分のもっていないものを与えることである」 ――には、以下を補う必要がある。「それを欲していない人に」。誰かにいきなり情熱的な愛の告白をされるというありふれた体験が、それを確証しているのではないか。愛の告白に対して、結局は肯定的な答を返すかもしれないが、それに先立つ最初の反応は、何か猥褻で闖入的なものが押しつけられたという感覚だ。》(ジジェク『ラカンはこう読め』
P83)
いろいろな恋愛関係を眼にするたびに、わたしはこれを凝視し、自分が当事者だったらどのような場を占めていたかを標定しようとする。類似ではなく相同を知覚するのだ。 Xに対するわたしの関係は、 Zに対するY の関係に等しいことを確認するのである。そのとき、わたしとは無縁で未知ですらある人物、 Yについて聞かされることが、すべて、わたしに強い影響を与えることになる。わたしは、いわば鏡に捕らえられている。この鏡はたえず移動しており、双数構造のあるところならどこででもわたしを捕捉するのだ。さらに悪い状況を考えれば、このわたしが、自分では愛していない人から愛されていることもあるだろう。それは、わたしにとって助けとなる(そこから来るよろこび、あるいは気晴らしによって)どころか、むしろ苦痛な状況である。愛されぬままに愛している人の内に、自分の姿を見てしまうからだ。わたし自身の身振りを目のあたりにしてしまうからだ。今や、この不幸の能動的主辞はわたしである。わたしには自分が犠牲者であって同時に死刑執行人でもあると感じられる。
(恋愛小説がなりたつーー売れるーーのも、こうした相同性によるのである。) P196
そう、愛されぬままに愛している人の内に、自分の「幼少の砌の髑髏」を見てしまうことだってあり得る。そして傷がいまだ疼く。《体の傷はほどなく癒えるのに心の傷はなぜ長く癒えないのだろう。四〇年前の失恋の記憶が昨日のことのように疼く。――ボール・ヴァレリー『カイエ』よりーー》
…………
《定理48 精神の中には絶対的な意志、すなわち自由な意思は存しない。むしろ精神はこのことまたはかのことを意志するように原因によって決定され、この原因も同様に他の原因によって決定され、さらにこの後者もまた他のの原因によって決定され、このようにして無限に進む。》(スピノザ『エチカ』)
自由意志などない。《すべての行為は、それが意欲される以前に、可能なものとしてまず機械的に準備されていなければならない。ないしは、「目的」は、たいてい、その遂行の準備がととのえられたときにはじめて思い浮かぶ》(ニーチェ「権力への意志」)
情念などコントロールできない。だが、その「原因」を知ろうとすることはできるし、少なくともその間は情念からは自由である。
……
プルーストは、《われわれの悲しみが協力した作品は、われわれの未来にとって、苦しみの不吉な表徴〔シーニュ〕であるとともに、なぐさめの幸福な表徴である、と解釈もできる》とする。
悲しみが協力した作品が未来の苦しみの不吉な表徴だと解する第一の見方からすると、作品はもっぱら一つの不幸な愛と考えられ、その愛はさらにほかの不幸な愛を宿命的にまえぶれし、その結果、生活は作品に似ることになり、詩人にはもう書く必要がほとんどなくなるほど、彼はすでに書いたもののなかにこれから起ることの先どりされた形を見出すだろう。そのようにして、アルベルチーヌへの私の愛は、それがどのような相違を見せようとも、ジルベルトへの私の愛のなかにすでに書きこまれていたのであ(る)。(「見出された時」井上究一郎訳 P381)
そう、作品にあらわれた「悲しみ」や、他者観察における「悲しみ」の現われが、「不吉な苦しみのシーニュ」であるのは、言うをまたない。
「不幸・不満」をめぐって、かつてのモラリストなら次のように言う、《不幸ないし不満でいるのはむつかしいことではない。ひとが楽しませてくれるのを待っている君主のするように、じっとして座っているだけで十分なのである。市の売物であるかのように幸福をねらい、値ぶみしているあの目つきは、その見るものすべてのうえに退屈の色を投げかける》(アラン「プロポ」)
…幸福になりたいと思わずして幸福たりうることなどありえないのである。だから、自己の幸福を欲し、かつそれを作り出さなくてはならぬ。
幸福たることは、自己以外の人々にたいする義務でもある。このことは、まだ十分にいわれたためしがない。幸福な人間しかひとに愛されない、とは至言である。
しかし、この褒美が正当なもの、まさに当然のものだ、という点は忘れられている。不幸、退屈、それに絶望は、われわれが例外なしに吸っているこの大気のなかにある。だから空気中のこの毒気を処理してくれる人々、その精力的な模範によって共同生活をいわば浄化してくれる人々を、われわれが戦士として厚く遇し、彼らに褒美をあたえてそれは当然なのである。こういうわけで、愛のうちには、幸福になろうという誓いより以上に深いものはひとつもない。愛する人たちの退屈、悲しみのない不幸、これほど克服しがたいものがあろうか。男性のがわでも女性のがわでも、何ごとにつけ、いつも、つぎのことをよく考えねばならない。幸福、さらにいうならば自己のためにかちとる幸福こそ、与えうるもっともすばらしくそしてもっとも気前のよい贈物だということ。(アラン「プロポ集」井沢義雄・杉本秀太郎訳 弥生選書 1978)
ひとは、常にこのようにはあり得ぬことはたしかだが(たとえばジジェクが言うように、二一世紀に入って世界の到る所に、《新しい形態のアパルトヘイト=新しい〈壁〉とスラム》の出現が明らかになっているとき、どうして幸福でいられよう)、それにもかかわらず、「人生」への態度の基本はまずは、アランのいうようであろう(もっとも、第二次世界大戦前のアランのギリギリまでの楽観主義は、アランの名声を地に落としたのだが)。だが、そのためには、《「見たくないもの」を見ない》振りをせねばならぬなら?
なんのために見たくないものを見なければならないのか? ーーー《彼らが気になるという事実がまずあって、私がその事実から出発する、また少なくとも、出発することがある、ということにすぎない》(「なんのために」ーーー加藤周一『羊の歌』より)
そして、残されている僅かな「幸福な」態度のひとつは、《たとえ明日この世界が滅びることを知っていても、私は、それでもなお、今日、私のリンゴの若木を植えるだろう。》ーーー第二次大戦が始まる直前に、ドイツでひそかに呟かれることが多くなったらしいこの格言は、《ルターの言葉》と言われてきたが、実際はそうではないらしい(3.11を心に刻んで 宮田光雄 岩波書店)。
さてプルーストに戻る。
ーーーなぜ「悲しみが協力した作品」が「なぐさめの幸福なシーニュ」ともなりうるのか。
…しかし、第二の見方からすれば、作品は幸福の表徴なのだ、なぜなら、作品は、どんな恋愛のなかにも普遍は特殊と並存することをわれわれに教えるとともに、また作品は、悲しみの本質を深めるために悲しみの原因である相手を閑却させながら、悲しみにたいする一種の強化訓練によって、特殊から普遍に移ることをわれわれに教えるからである。P382ドゥルーズは『プルーストとシーニュ』「セリーとグループ」の章で、この《幸福な表徴》箇所を引用して次のように続ける。
われわれが反復するのは、そのたびごとに、ひとつの個別的な苦しみである。しかし、反復それ自体は常に楽しいものであり、反復という事実は、ひとつの一般的な歓びを形成する。あるいは、事実は常に悲しく、個別的であるが、そこから抽出される観念は一般的で楽しいものである。なぜならば、愛の反復は、苦しみを歓びに変えるような意識の把握にわれわれが近づく、進行の法則と不可分だからである。われわれは、苦しみが対象に依存しなかったことを認める。それはわれわれが自分自身に向ってする《芸》であり、《道化》でありあるいはむしろ、イデアの罠と媚態と、本質の陽気さであった。反復するひとには悲劇的なものがあるが、反復の行為には喜劇的なものがあり、もっと深いところでは、法則に含まれた反復、あるいは法則の理解からえられる歓びが存在する。(宇波彰訳 P91)