今日は日本から客人があっていささか忙しいのだが、ニーチェの声がする、礼儀を欠かしたくはないし、胃を悪くしたくもない。
小さい愚行やはなはだ大きい愚行がわたしに加えられても、わたしは、一切の対抗策、一切の防護策を―――従って当然のことながら一切の弁護、一切の「弁明」を自分に禁ずるのである。わたし流の報復といえば、他者から愚かしい仕打ちを受けたら、できるだけ急いで賢さをこちらから送り届けるということである。こうすれば、たぶん、愚かしさの後塵を拝さずにすむだろう、比喩を使っていうなら、わたしは、すっぱい話にかかりあうことをご免こうむるために、糖菓入りのつぼを送るのである。(……)
わたしはまた、どんなに乱暴な言葉、どんなに乱暴な手紙でも、沈黙よりは良質で、礼儀にかなっているように思われるのである。沈黙したままでいる連中は、ほとんど常に、心のこまやかさと礼儀に欠けているのである。沈黙は抗弁の一種なのだ、言いたいことを飲み下してしまうのは、必然的に性格を悪くするーーそれは胃さえ悪くする。沈黙家はみな消化不良にかかっている。--これでおわかりだろうが、わたしは、粗暴ということをあまり見下げてもらいたくないと思っている。粗暴は、きわだって”人間的な”抗議形式であり、現代的な柔弱が支配するなかにあって、われわれの第一級の徳目の一つである。--われわれが豊かさを十分にそなえているなら、不穏当な行動をするのは一つの幸福でさえある。……(ニーチェ『この人を見よ』手塚富雄訳)
…………
《いかにも頭が不自由そうな感じで、なりそこねた気障(スノッブ)というか、育ちが良さそうに上品ぶっている様子が無教養そうである》(金井美恵子『猫の一年』)
《フランソワーズは、…自尊心に媚びられると謙遜で愛嬌たっぷりのくせに、すこしでも過失をとがめられると、年のせいでまがりはじめた腰を誇らしげにのばしながら、居丈高になった。》(プルースト「花咲く乙女たちのかげに Ⅱ」井上究一郎訳)
――フランソワーズのような齢でなくても、このようなことは起こるようだ。
《違うんです。トンカツ屋大衆食堂ではなくて、おいしくて低価格の正真正銘の素敵なフレンチレストランなのです。ま、パリの大衆食堂って感じです。つまり臭い香水つけたセレブ風ババアが絶対一人もいないフレンチレストランなのです。》(作者不詳 TWEET)
《たぶんそうかも。伯父さんと称する人の写真はバーネット・ニューマンだったし、彼女の元恋人も面白かった。というか、もしかしたらあの三人は、「ひとりの男」だった可能性もあると思っているのですよ…。たぶん私の妄想は間違っているだけじゃなく、本心じゃないですが。》(作者不詳 ツイート)
以上、あくまでも、すべてイマジネールな水準での引用である。
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「あなたは私のことをあなたの恋人だとおっしゃる。私をそのようにした、私の中にあるものは何? 私の中の何が、あなたをして私をこんなふうに求めさせるのでしょう?」“You say I am your beloved – what is there in me that makes me that? What do you see in me that causes you to desire me in that way?”(シェイクスピア『リチャード二世』)
この文は、鏡像的なナルシシスト(精神病的)ではなく、古典的な大文字の他者の欲望(神経症的)をめぐる五世紀前の至高の表現とされるが、二〇世紀の「神経症の時代」から二一世紀の「ふつうの精神病の時代」であるなら、いまでは少なくなった大文字の他者の欲望による古典的なヒステリー気質の生き残りではないかと思われるタイプによる、珍重すべき発話にときおり遭遇するのは幸運なのだろうか。
いや必ずしもそうではない。鏡像的なナルシシスト、あるいは、《病的ナルシシストをヒステリー化するには、その属性に還元できないような象徴的委託を押しつけさえすればいい。そうした対決はヒステリー的な疑問をもたらす。「どうして私は、あなたがこうだと言っているような私なのか」。》(ジジェク『斜めから見る』p195)
そう、シェイクスピアを変奏するなら、こうでもよい。
《あなたはわたしのことを「成熟した大人」だとおっしゃる。私をそのようにした、私の中になるものは何? 私の中の何が、あなたをして私を「成熟した大人=偉大なる下司」とするのでしょう?》
するとこの人物は、たちまちヒステリーの典型的な発作をおこすだろう。
…ヒステリー性の発作を起こし、次から次へと新しい戦略にとびつく。最初は脅迫したかと思うと、今度は泣き叫び、一体何がどうなっているのか自分にはさっぱりわからないと訴える。だが突然、ふたたびお高くとまった態度をとり、相手を見下す、といったことが繰り返される。要するに彼女は、たがいに矛盾した、さまざまなヒステリー的な仮面を次から次へと被ってみせる。この……女が味わう最後の挫折の瞬間、彼女はもはや中身のない外被にすぎず、一貫して倫理的態度を欠いたてんでばらばらの仮面にすぎない。この瞬間、彼女の魅力は空中に霧散し、われわれに吐き気と嫌悪感だけを残す。その瞬間、われわれの眼には「存在しないものの影以外の何物も」見えない。(ジジェク『斜めから見る』)
ーーもちろん、この「威厳ある下司=俗物」は特定の誰かれではなく、それは、この<わたくし>であるかも知れず、すくなくとも、かつての<わたくし>である。
人は自分に似ているものをいやがるのがならわしであって、外部から見たわれわれ自身の欠点は、われわれをやりきれなくする。自分の欠点を正直にさらけだす年齢を過ぎて、たとえば、この上なく燃え上がる瞬間でもつめたい顔をするようになった人は、もしも誰かほかのもっと若い人かもっと正直な人かもっとまぬけな人が、おなじ欠点をさらけだしたとすると、こんどはその欠点を、以前にも増してどんなにかひどく忌みきらうことであろう! 感受性の強い人で、自分自身がおさえている涙を他人の目に見てやりきれなくなる人がいるものだ。愛情があっても、またときには愛情が大きければ大きいほど、分裂が家族を支配することになるのは、あまりにも類似点が大きすぎるせいである。(プルースト『囚われの女』)