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2013年6月21日金曜日

なぜ口を閉じ耳を開けておかないのだろうか。馬鹿なんだろうか(ジョン・ケージ)

なぜ口を閉じ耳を開けておかないのだろうか。馬鹿なんだろうか。(ジョン・ケージ @jcbotjp



《閉じた眼と謂う言葉が、私に 開かれた耳 と謂う言葉を聯想させる》(武満徹)

――開かれた口という言葉は、閉ざされた耳という言葉を聯想させる


《どこにいようと、彼が聴きとってしまうもの、彼が聴き取らずにいられなかったもの、それは、他の人々の、彼ら自身のことばづかいに対する難聴ぶりであった。彼は、彼らがみずからのことばづかいを聴きとらないありさまを聴きとっていた。》(ロラン・バルト


あれらひとりでいられない者たち。

《芸術家が本当の意味で仕事をやれるのはまさに孤独のなかでしなかない。外的世界についてのその人の知識がつねに制限されていて、異物の侵入のせいで彼自身の想念とその実現を結び付ける一体性が破壊されたりしないような環境においてでしかない……ちょうどよい配分がどの程度なのかはわからないが、それでも、いわば直感から、ほかの人間と一時間一緒にいれば、x倍の時間はひとりでいる必要があると感じる……》(グレン・グールド)

人が芸術的なよろこびを求めるのは、芸術的なよろこびがあたえる印象のためであるのに、われわれは芸術的なよろこびのなかに身を置くときでも、まさしくその印象自体を、言葉に言いあらわしえないものとして、早急に放置しようとする。また、その印象自体の快感をそんなに深く知らなくてもただなんとなく快感を感じさせてくれものとか、会ってともに語ることが可能な他の愛好者たちにぜひこの快感をつたえたいと思わせてくれるものとかに、むすびつこうとする。それというのも、われわれはどうしても他の愛好者たちと自分との双方にとっておなじ一つの事柄を話題にしようとするからで、そのために自分だけに固有の印象の個人的な根源が断たれてしまうのである。(プルースト「見出された時」)


あれら「外で吠える犬」たち。

ひとりでいることは孤独のなかにあることとは違う。孤独という言葉は、たしかにほかに誰も一緒にいる人間がいなくとも、自分を相手としている状態を語るものとしたい。ひとりでいようが、それともほかの人間と一緒にいようが、自分を相手としていない時間、「誰かの不在が意識される」としても、それがほかの誰かというよりも自分自身の不在であるような瞬間が自己喪失と呼びたい(その逆に、愛とは、ほかの誰かがいるのに、まるでいないような意識が生じる場合だ)。孤独のなかにあること、それは他者がそこに、わたしの内部にいるという確実さの体験である。そのほかに孤立ということがある。この場合は他者も自己も不在なのだ。


思惟は孤独の営みである。世界は少しばかり沈黙しなければならない。だが自己喪失は思考のはたらきに致命傷を与える。想像するに、グールドがどうしようもなく孤独だったのは、「イン・オン・ザ・パーク」の部屋でフーガの対主題の開始のフレージングをどのようにやるべきかひとりで考えているときではなくて、コンサートの終わった後、満足したファンがいい気になって楽屋に押し寄せるのを迎えるときだったと思う。たぶんそのときの彼は、悪を「外で吠える犬だ」と呼んだ聖女テレサと同じように、悪霊に対して苛立っていたにちがいない。(ミシェル・シュネデール)

T. S. Eliot The Four Quartets(エリオット『四つの四重奏』第一部の詩篇「バーント・ノートンBurnt Norton」より)

Descend lower, descend only
Into the world of perpetual solitude,
World not world, but that which is not world,
Internal darkness, deprivation
And destitution of all property,
Dessication of the world of sense,
Evacuation of the world of fancy,
Inoperancy of the world of spirit;


低く降りてゆけ、ひたすら降りて
永遠なる孤独の世界
世界ではない世界、まさしく世界ではないものに向かってゆけ
内部の闇、
すべては財産の剥奪と没収
感覚世界は乾燥し
想像世界は中身が抜かれ
精神世界は活動がやむ

親しさではなく人混みへの愚かな愛。

孤独のなかに存在する、そこに困難がある。存在しつづけ、おのれの存在感情――もはや他者がいなくなっても存在し、そして存在しつづけるーーをたもちつづける、そして自分が誰であるかの意識、つまり自分であって、他者ではないという意識をたもちつづける。単純な事柄だと思う人々もいる。そう思う人々は自分たちの真の部分が間断なく存在しつづけ、しかも他者から離れることでたぶんそれがはじまるとさえ信じている。こうしてひとりになるとは、彼らの言い方にしたがえば、私生活、書きもの机、自分の寝室などの意味になるのだ。しかしながら多くの人々の場合、他者がいなくなれば、存在は解体し変質を遂げる(だが、他者がいなくなれば自分が無のなかに落ち込んでゆかざるをえないというなら、そのときこの他者なるものは果たして他者といえるのだろうか)。彼らは孤独でないかぎりにおいて存在するにすぎないのだ(親しさではなく人混みなのだ)。(シュネデール)

あれら、ホモ・センチメンタリス(ホモ・ヒステリクス)たち。

ホモ・センチメンタリスは、さまざまな感情を感じる人格としてではなく(なぜなら、われわれは誰しもさまざまな感情を感じる能力があるのだから)、それを価値に仕立てた人格として定義されなければならない。感情が価値とみなされるようになると、誰もが皆それをつよく感じたいと思うことになる。そしてわれわれは誰しも自分の価値を誇らしく思うものであるからして、感情をひけらかそうとする誘惑は大きい。(クンデラ)

 ………

“それはふつう〈音楽的〉と考えられているものに音が隷属させられている状態を拒否することです.(…)

1つの周期的リズムに多少とも結びつけられている音を聴くとき,私達は必然的に音そのものとは別のなにかを聞いているのです.音そのものではなく,音が組織されているという事実を聞くことになります.(…)

感情は,嗜好や記憶と同じように,あまりにも密接に自分自身に,自我(エゴ)に結びついています.感情は私たちが自らの内部に触れられたことを表し,嗜好は外部に触れられたことを各自のやり方で示すわけです.私たちは自我(エゴ)によって壁を築きます.しかしこの壁には,内部と外部が通じ合えるようなたった1枚の扉さえない.(…)

私は自分の感情から自由になろうとつとめています.そして自分の感情を殆ど主張しない人のほうが,感情がなんであるかを他の人々よりずっとよく知っていることに気づいたのです.”— ジョン・ケージ『小鳥たちのために』

音楽を聞くには隠れなければならないと思うことがある。音楽は手袋の内と外をひっくり返すようにわたしを裏返してしまう。音楽が触れ合いの言葉、共同体の言葉となる。そんな時代がかつてあったし、いまも人によってはそんな場合があるのはもちろん知っているが、わたしの場合は、ほかの人々と一緒に音楽は聞けない。誰かと一緒に音楽を演奏するとなれば話は別だ。(……)


だが、なぜ一緒に聞くことができないのだろう。なぜ音楽は孤独で身動きできない状態にあるときのわたしたちをとらえるのか。一緒に聞けば、他人の目の前で、そして他人とともにいながら、自己をあくまでも自分ひとりきりのものでしかない状態に投げ出してしまうことになるからなのか。それぞれの人間によってたがいに異なるはずの遠くの離れたものを共有することになるからなのか。子供時代も死も共有できはしないからなのか。


音楽、それは身体と身体のぶつかりあいであり、孤独と孤独のぶつかりあいであり、交換すべきものがなにもないような場での交換である。ときにそれは愛だと思われもしよう。演奏する者の身体と聴く者の身体がすっかり肉を失い、たがいに遠く離れ、ほとんどふたつの石、ふたつの問い、ふたりの天使を思わせるものとなって、どこまでも悲しい狂おしさを抱いて顔を向き合わせたりしないならば。(シュネデール)

 なぜ口を閉じ耳を開けておかないのだろうか。馬鹿なんだろうか。退屈しているのか、それとも孤独を失い自己喪失したいのか。あれら感情をひけらかそうとする「ホモ・センチメンテリス」、人混みへの愛、「外で吠える犬」の悪。それともたんなる「難聴者」なのだろうか。


いや、捏造された疑問符はやめにしよう。観客目当ての「演技」に決っている。

サビナにとっては真実に生きるということ、自分にも他人にもいつわらないということは、観客なしに生きるという前提でのみ可能となる。われわれの行動を誰かが注目しているときには、望むと望まないにかかわらず、その目を意識せざるをえず、やっていることの何ひとつとして真実でなくなる。観客を持ったり、観客を意識することは嘘の中で生きることを意味する。(クンデラ『存在の耐えられない軽さ』

そして、ひとは多かれ少なかれ、誰かの視線を求めることから免れない。だがその視線はいくつかのカテゴリーに分けられる。

クンデラ曰くは、

①限りなく多数の無名の目による視線(大衆の視線)
②数多くの知人の目という視線
③愛している人たちの視線
④想像上の視線(死者の視線、理念の視線など)


これ以外にもあるだろう…(参照:「金儲け」の論理、あるいは守銭奴


少なくとも①②の観客目当ての演技によって失うものがある(③だって場合によってはそうだ)のを知らぬわけではあるまいに。
……というのは、彼といっしょにしゃべっているとーーほかの誰といっしょでもおそらくおなじであっただろうがーー自分ひとりで相手をもたずにいるときにかえって強く感じられるあの幸福を、すこしもおぼえないからであった。ひとりでいると、ときどき、なんともいえないやすらかなたのしい気持に私をさそうあの印象のあるものが、私の心の底からあふれあがるのを感じるのであった。ところが、誰かといっしょになったり、友人に話しかけたりすると、すぐ私の精神はくるりと向きを変え、思考の方向は、私自身にではなく、その話相手に移ってしまうので、思考がそんな反対の道をたどっているときは、私にはどんな快楽もえられないのであった。ひとたびサン=ルーのそばを離れると、言葉のたすけを借りて、彼といっしょに過ごした混乱の時間にたいする一種の整理をおこない、私は自分の心にささやくのだ、ぼくはいい友達をもっている、いい友達はまたとえられない、と。そして、そんなえがたい宝ものにとりまかれていることを感じるとき、私が味わうのは、自分にとって本然のものである快感とは正反対のもの、自分の薄くらがりにかくれている何かを自分自身からひきだしてそれをあかるみにひきだしたというあの快感とは正反対のものなのであった。(プルースト「花さく乙女たちのかげに Ⅱ」)


※参照:John Cage quotes