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2013年4月5日金曜日

デルタの夜


泥水がうねるような大河の流れに挟まれた、あの黄金のデルタの土地に日が暮れかかると、男も女もカフェ・オーレ色の水で入浴しはじめる。といっても女たちはかつての日本の庭での行水のようには素っ裸ではなく、タオルやゆったりしたシュミーズ状のものをまとっている。最初に訪れた十八年まえも、今もこの風習はかわらない。妻はこの土地の貧しい農村地帯の出身であり、わたしもこの母方の伯母の家――かつては祖母の家――に数年に一度は訪れる(父方の系統は逆にこの土地の川向うの高地に住まう名家であり、日本からの観光でも知られている壮大な寺院の正面入り口にはその苗字が刻まれた寄進の石柱が立並び、儀式の折には、今でも祖父の名が祈りの最初に唱えられるらしい)。母方の義理の伯母のある地帯は高床式の家が並び、河岸に近い遠いで高さには差があるが、伯母の家の縁の下は、私の首のあたりまでの高さはあって、雨季にはそこまで川水が到く。そうなれば交通の便は小舟だけというエリアだ。



妻の母親の世代のひとびとの話を米焼酎を飲みながら耳を傾ければ、かつてはクメールの土地から屍体がいくつも流れてきた。胴体だけであったり足だけであったり。不思議に首だけの話はきかない。こうやって滋養分いっぱいの川水は土地を潤す。女たちの肌や髪を輝かす。隣国との国境の町は異文化混交で食べ物が美味であったり女が美しいといわれるが、この土地にも珠玉の乙女たちが棲息しており、小汚く薄暗い家の土間から貴種の蕾やら可憐な花の姿態を覘かせる。


おまえ、この爛漫らんまんと咲き乱れている桜の樹の下へ、一つ一つ屍体が埋まっていると想像してみるがいい。何が俺をそんなに不安にしていたかがおまえには納得がいくだろう。馬のような屍体、犬猫のような屍体、そして人間のような屍体、屍体はみな腐爛ふらんして蛆うじが湧き、堪たまらなく臭い。それでいて水晶のような液をたらたらとたらしている。桜の根は貪婪どんらんな蛸たこのように、それを抱きかかえ、いそぎんちゃくの食糸のような毛根を聚あつめて、その液体を吸っている。何があんな花弁を作り、何があんな蕊しべを作っているのか、俺は毛根の吸いあげる水晶のような液が、静かな行列を作って、維管束のなかを夢のようにあがってゆくのが見えるようだ。(梶井基次郎『桜の樹の下には』)



入浴が川水なら用便もそうだ。川が内側に彎曲した場所をもうすこしだけ掘り込んで水を引き込み、岸辺からすこしはなれたところに、竹の骨組みに椰子葺きで囲った小部屋をつくって、人ひとり通れる板を通して、そこで用を足す。そこを若い女がひっそりと歩み小屋の簾を閉じる姿を脇目で眺めればなにか神聖なものに立ち会った気味合いがある。「渡し場に/しやがむ女の/淋しき、」(西脇順三郎)であり、「河原で自然の女神の泉の/音を聞いた」、そして、「永遠にやるせない音を残して/女は便所からもどつてまた」である。女とすれ違うようにして厠に向かえば、「藪の腐つた臭いは/強烈に脳髄を刺激する/神経組織に秘む/永遠は透明な/せんりつを起す」――ああ、永遠!

――《わたしに何事が起ったのだろう。聞け! 時間は飛び去ってしまったのだろうか。わたしは落ちてゆくのではなかろうか。落ちたのではなかろうか、――耳をこらせ! 永遠という泉のなかに。(……)――おお、永遠の泉よ、晴れやかな、すさまじい、正午の深淵よ。いつおまえはわたしの魂を飲んで、おまえのなかへ取りもどすのか》(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第四部 「正午」)


しかし束の間の旅行者にとって、夜が落ちて、蝋燭一本のたよりない明りをたずさえてこの厠に向かうのは、大のおとなでも気味がわるい。幼い息子たちは大のほうの便でも近場の川辺で済ます、もっとも入浴場とはすこし離れた場ではある。

密生した椰子の樹々の幹にハンモックがいくつも吊らしてある。蚊を追いはらう工夫さえすれば、午睡も快適だがーーときには可憐な少女が珍しい異国の旅行者のために椰子の葉で編んだ大ぶりの団扇で扇いでくれるーー、ものものの輪郭が明晰さを失っていく宵闇のなか、川風に吹かれて星が瞬きはじめるのを眺めるのはまた格別だ。ストローで吸うどぶろくのような壺酒と馴れ寿司状の塩と米飯で発酵させた川魚が傍らの卓に用意されてあり、叔父たちやいとこたちに竹筒で吸う水煙草も勧められるが、こっちの方は強烈過ぎて、一度試して眩暈がしてからは、愛用のパイプを掲げて遠慮することにしている。そうやって寛いでいれば、梢を飛び交ったり葉ごもりに潜んでいる無数の小鳥たちの囀りも朧になってゆく。だが同時に、樹々が、草々が、岩や小石までが息づきはじめる。川の水の流れが昼間とはまったく違ってきこえてくる。ゆったりとうねる水のさざめきは、むしろ静けさの鼓動のようであり、それが闇のぬくもりの中で心地よい。そして虫たちの鳴き声や小動物たちのかすかに吐く息が静寂を際立たせる。




ここで竹笛の音やらギターの爪弾きがきこえてくれば申し分ないのだが、そういう訳にはいかない。晩飯を終えた家々からは、テレビやラジオの音が大音響できこえてくる。なんと無粋な!、などという感慨は都会に住むものの身勝手な感想だ。実際、闇のなかで沈黙に領され続けるのは耐え難いに相違ない。文明機器のフィルターが途絶えれば、細木の骨組みと椰子の葉で覆っただけの屋根と壁の小さな家からは、男と女の睦言の囁き、肌を擦れ合わせる気配、快楽に耐え切れずうめき洩らす吐息まで聞こえてくる。

……

音楽は、テレビの大音響のように、世界の囁き声に耳を塞ぐために聴く場合もあり、逆に静けさの鼓動に敏感になることを促す音楽もあるだろう。これは音楽の質による場合もあるし、同じ音楽だって人により二つの聴き方をしていることもある。世界の徴候化とは、《もっとも遠くもっとも杳かな兆候をもっとも強烈に感じ、あたかもその事態が現前するごとく恐怖し憧憬する》(中井久夫)であり、あるいは、《些細な足音や草の倒れた形から獣が通った跡を推理する狩人の「徴候的知」》(カルロ・ギンズブルグ)でもある。

夜の闇はわたしたちに不安を齎したり世界は徴候化する。だが、《ラカンによれば、不安は欲望の対象=原因が欠けているときに起こるのではない。不安を引き起こすのは対象の欠如ではない。反対に、われわれが対象に近づきすぎて欠如そのものを失ってしまいそうな危険が、不安を引き起こすのだ。つまり、不安は欲望の消滅によってもたらされるのである。》(ジジェ ク『斜めから見る』)――われわれの〈現実〉は世界の囁き声に圧倒されないための遮断幕であり、それは美情意のフィルターにかけられているという意味では〈幻想〉の側にある、ひとは〈不安〉によりもっとも遠くもっとも杳かな兆候に溢れる〈現実界〉に接近する。そこで音楽という美の遮断幕を利用して〈現実界〉との遭遇からの逃避として機能させる場合もあるのだ。

人間存在は、この夜、その単純さの中にすべてを包含しているこの空無である。そこには表象やイメージが尽きることなく豊富にあるが、そのどれ一つとして人間の頭に、あるいは彼の眼前にあらわれることはない。この夜。変幻自在の表象の中に存在する自然の内的な夜。この純粋な自己。そこからは血まみれの頭が飛び出し、あちらには白い形が見える。(ヘーゲル『現実哲学』草稿)


また「徴候化」とは、ときによれば「精神の危機」でもあろう、

徴候化は、対象世界にも、私の側にも起こる。対象の側に起こる簡単な場合には、山で道に迷った場合があろう。「道に迷った!」と直観した刹那に、人はもはや眼前の美しい森やこごしい断崖に眼を注がない。ささやかな踏みわけ跡らしきものを、けものみちであるか、先人のとおった跡であるかを見分けるために、ごく些細な徴候を捜して、明確な対象は二の次三の次になるだろう。これが、世界が徴候化する場合のごくわかりやすい一例である。それが私の中に起これば精神の危機である。私の中に起こるつかもどころのない変動のいちいちは、私の精神がバランスを失うかも知れない徴候である。この場合にも、私にとっては、日常の食事、睡眠、入浴が二の次になる。(「「世界における索引と徴候」について」同P27


高橋悠治は、《異次元の何かがすぎていった軌跡の余韻の漣を書くことも描くことも指すこともせずにそばだてた耳に悟らせる気配》と書く。

全体の展望がある音楽は構成を決めるまでに時間がかかるがその後は途中で考えを変える余裕をあたえず一気に作りあげるのに対して響きについてゆく音楽は入口が決まればそこから回廊のように蔓草のように時間をかけて伸びてゆきなにかに出会うとそれを避けて周囲を回転しながらそのものになじんでゆくすこしつづ けては作業を休んでしばらく時間を置いてからもどったときには響きの感触が変わってそこまで持ち続けて来た記憶の惰性が失われ冷めた状態になっているそこ から再開すると彩りはむらになり予測とはちがう方向にずれてゆく逸脱と言っても近代のあるいは啓蒙主義のもっていた論理の徹底化や対立や競合の強調によって過剰増幅加速に向かうのではなくわずかなものたちがあいまいに漂う空洞の空白のゆるやかな時間の内側できこえる音そのものではなくその周囲の沈黙ですらなくそこにはないがその彼方に微かな感触を残している不安定な短い波の一瞬の断面実現しなかった可能性の幻は視角によってさまざまに映るにしても協同作業のなかで一歩ごとにそこから眼を離さずにいることがどうしたらできるのだろうとは言え直接見つめることはできないそれは見るものを石に変えるゴルゴンのたとえのように鏡像としてとらえるかいやそれさえできない残像か周辺視のなかにしかない虚像として感じられるもの論理や方法ではなく関数や方程式でもなく分布や密度のように特徴があるものでもない異次元の何かがすぎていった軌跡の余韻の漣を書くことも描くことも指すこともせずにそばだてた耳に悟らせる気配ベンヤミンの歴史の天使は過去の断片をひろいあげる楽園から吹きつける進歩の風は止んでいるもがれた翼はもう拡げられることもなく閉じることもできない谷間 に(耳の慎ましさ  高橋悠治


《私が理想とする音楽の聴かれかたは、私の音が鳴って、そのこだまする音が私にかえってくる時に、私はそこに居ない――そういう状態。》(武満徹『音、沈黙と測りあえるほどに』)

…………


冒頭の文は武満徹の親しい友人でもあった川田順造『曠野から―アフリカで考える』 1973の「夜」の章冒頭の変奏である。
サヴァンナの上に夜が落ちると、ものの輪郭は明晰さを失う。月の明るい夜でも、木立が木立の影と同質のものになるだけでなく、枝にさがっているこうもりたちや、葉のしげみに抱きかかえられている無数の小鳥たちは、もう枝や葉から区別できない存在になってしまう。乳呑子は、母親の胸に身体をおしあてたまま、母親とともに昼の世界をはなれ、男と女とが生命を交換する。岩や小石までが、息づきはじめる。すべてのものは、自分たちが、かたくなに閉ざされた、ひとつひとつの「個」を形づくっているのではなく、開かれ、他のものと交わり、はてしなく連続したものの凹凸や鼓動であることを、闇のぬくもりのなかで感知する。私の吐く息を、白い花をしぼませているこのひょうたんの葉や、あの黒くふくらんだバオバブの木が吸うことだろう。私の吸う息は、あの井戸にひそんでいる蛙や、穴の奥でじっと目をあいているかもしれないねずみどもの吐く息なのであろう。すべてのものは、エーテルのように自由になる。音と形が、たがいにたがいを変換しあう。空をわたる風や、遠くからまたたきを送ってくる星たちとさえ、私はことばを交わせるように思う。