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2013年9月10日火曜日

「みせかけsemblant」の国(ラカン=藤田博史)

何かを理解することと「何かを理解したかのような気分」になることとの間には、もとより、超えがたい距離が拡がっております。にもかかわらず、人びとは、 多くの場合、「何かを理解したかのような気分」になることが、何かを理解することのほとんど同義語であるかのように振舞いがちであります。

たしかに、そうすることで、ある種の安堵感が人びとのうちに広くゆきわたりはするでしょう。実際、同時代的な感性に多少とも恵まれていさえすれば、誰もが「何かを理解し たかのような気分」を共有することぐらいはできるのです。しかも、そのはば広い共有によって、わたくしたちは、ふと、社会が安定したかのような錯覚に陥りがちなのです。

だが、この安堵感の蔓延ぶりは、知性にとって由々しき事態だといわねばなりません。「何かを理解したかのような気分」にな るためには、対象を詳細に分析したり記述したりすることなど、いささかも必要とされてはいないからです。とりわけ、その対象がまとっているはずの歴史的な 意味を自分のものにしようとする意志を、その安堵感はあっさり遠ざけてしまいます。

そのとき誰もが共有することになる「何も問題はない」という印象が、むなしい錯覚でしかないことはいうまでもありません。事実、葛藤が一時的に視界から一掃されたかにみえる時空など、社会にとってはいかにも不自然な虚構にす ぎないからです。しかも、その虚構の内部にあっては、「何も問題はない」という印象と「これはいかにも問題だ」という印象とが、同じひとつの「気分」のう ちにわかちがたく結びついてしまうのです。(蓮實重彦「齟齬の誘惑」序文)

ラカンをめぐって記事など書くと

「何かを理解した気分」になった有象無象が湧いてくるので

あまり書かないようにしてるのだがね

オレも初心者さ、わかるだろ?

オレの文に相槌打っても仕方がないんだよ、わかるかい?


…………


前回、「騙されない人は彷徨うLes non-dupes errent」にて、藤田博史氏のセミネール録のなかでの違和を感じる箇所を書きとめたが、あれは、たかだか初心者向けの講義録であって、単純化や言い足らないところもあるだろうし、それを全面的に信用してはならないということを指摘しただけであり、藤田氏を批判するつもりなど毛頭ない。たとえば、別のセミネールに於いての、以下の藤田氏の幻想の定式の図式化には賛嘆せざるを得ない(すくなくとも、わたくしにとって)。


…………


藤田博史氏はこのセミネールの一年ほどまえ、幻想の式 $◇a を次のように分解している(参照:「心的装置の成立過程における二つの翻訳」補遺)。




$ ー -φ ー Φ ー A ー a(-φマイナス・プチ・フィーは、想像的ファルスの欠如であり、Φグラン・フィーは、象徴的ファルス)

そして次のように読まれる、《斜線を引かれて抹消された主体が、生の欲動に運ばれて、突き進んで行くその先には、まず「想像的ファルスの欠如」があり、次に「象徴的なファルス」があり、そして言葉で構築された世界があり、そしてその先に永遠に到達できない愛がある。》

下記はここからの新たな展開である。



藤田博史 セミネール断章 2013年 5月11日講義 第5講:「精神分析の数学化」より

ラカンの幻想の式とフロイトの用語

(……)

ここで幻想が構成されてゆく様子を時間軸に沿って見てみましょう。そもそも幻想の式の中では別個に書かれている S と petit a は一つのものでした。いってみれば母子未分化の状態がそれに相当します。そしてこれが両極へと引き裂かれてゆく。まだはっきりと分かれてはいないがそのような力が働き始める段階、これは鏡像段階よりも以前の段階です。これを精神分析では前エディプス期と呼んでいますが、メラニー・クラインはこの段階の研究に力を注いだ人です。そして鏡像段階に入ると、大文字の S、これはまだ斜線を引かれていません。一つのものが二つの極へと分かれてゆく、つまり大文字の S と小文字の petit a が出現し、引き離されてゆくのですが、これは両極の間にイメージとしてのファルス(想像的ファルス)が明滅しているような状態です。つまり想像的ファルスは欠如と非欠如を繰り返している。想像的ファルスが、現れたり消えたり、プラスになったりマイナスになったりして、非常に目まぐるしく入れ替わる状態になっている。そこへ大文字のファルスが割って入る。つまり象徴的な去勢が生じて、この危うい関係に終止符を打つ。式でいえば、小文字のφが左右に引き裂かれて真ん中に大文字の Φ が入ってくるということになります。

以上を考慮して幻想の分解式を書いてみましょう。エスバレ $ から小文字のファイ φ が繋がって、そこから大文字のファイ Φ になって、大文字の他者 A になって、大文字の他者からマイナスのファイ ーφ になって、小文字の a に繋がっていく。だから $◇a を見たときに、ここまで瞬時に分解できるようにしておくことが肝要で、これが臨床に役に立つのです。

(図1)



これが基本的な式になるわけです。

$◇a を見たら、すぐにこれら6つの要素について思い浮かべるのです。きちっと順番で並べられるかどうか。そして現実界 R、想像界 I 、象徴界 S 、想像界 I 、現実界 R、という順になっている。つまり両端に R が来ています。フロイトの用語に置き換えるなら、φ が自我 le moi に相当する。これは想像的な自我です 。そして大文字の A に相当するのが超自我 le sur moi です。さらに -φ が理想自我 le moi idéal に相当します。その理想自我の彼方に小文字の a がある。このことは非常に重要です。紙に書いてトイレに貼っておくのがよいと思います(笑)。



日本的な幻想の構造

わたしが提案している日本的幻想の構造的特徴は、想像的自我に見せかけの他者が接続されているところにあります。つまり φ As が接続されているのです。

(図2)





先ほど「日本に戻ってきて目に飛び込んでくるものの殆どすべてがサンブラン」と表現しましたが、これは日本人の幻想の中に、自我からΦへ向かう道の他に、As へと接続される道があるということです。日本には偽物が多いというのは、この枝分かれによって生じている見せかけの他者 As があるからです。φーAs という連鎖は、対象の価値や意味が想像的自我との二項関係の中で決まるということを表わしています。つまり本来 A に隠喩作用を及ぼしている Φ を経ていないのです。φ が直接 As に接続されることによって、世界が自我との一対一の関係の中で意味を持ってくるようになるのです。こうして構成されてゆく見せかけの世界は、自我との関係においてのみ意味を持つようになり、Φ の隠喩作用を受けた客観的世界とは別に、自我の投影による独自の世界が構築されることになります。この時世界は自我との関係においてのみその意味を持つようになります。

ここでもう一度幻想の式に立ち返ると、本来の流れのなかに横道(バイパス)が入る形になっていることがわかります。つまり通常の幻想は $ーφーΦーAー-φーa となっているけれども、日本的な幻想の場合は $ーφーAsー-φーa という Φ を回避した流れがある。

(図3)





フロイトの第二の局所論とラカンの幻想の式と日本人の幻想の式

それをちょっとまた組み合わせて直してみると、一つのサーキットを作っていることがわかります。フロイトの第二の局所論に照らすと次のようになります。

(図4)




aー$ がエス Le Ça 、-φーAsー-φ が自我 Le moi、AーΦ が超自我 Le surmoi に呼応しています。したがって、日本的幻想の特徴は、他者のサンブランがあたかも大文字の他者のように振る舞ってしまうところにあります。

逆にいえば、エスのなかでうごめいているのは斜線を引かれて象徴界から抹消された主体と永遠に失われた愛の対象、これが無意識的エスのなかに格納されている。一方、わたしたちが自我あるいは自分と呼んでいるのは、実はプラスとマイナスの二つの想像的ファルス、メラニークライン的にいえば(笑)良いファルスと悪いファルスとでも表現できるような、その両者を見せかけの他者が結びつけている。つまり見せかけの他者は、愛と憎しみが目まぐるしく交代する関係性のなかへ入り込んで自我を代理している。そしてその自我をコントロールする審級として超自我すなわち大文字の他者と大文字のファルスがある。

以上は精神分析の数学化 mathématisation の一つの試みとして位置づけられるものです。そしてこのような数学化の試みがあってこそ、捉えがたい人の心を可視化し、さらには操作し、変形してゆけることになります。どんなに文章で人間の心を叙述してもこういう叙述や変形はできないでしょう。



図4により、超自我の弱い日本では、自我が鏡像的関係になってしまう(サンブランを介して)、--それがとても分りやすく図式化されている。

日本人は、日本語の構造そのものにより鏡像的な二項関係になってしまうという見解もかつてからある(参照:日本語と下からの目線)。

あるいはまた、日本的スノビズムの説明としても優れている。

日本的スノビズムとは、歴史的理念も知的・道徳的な内容もなしに、空虚な形式的ゲームに命をかけるような生活様式を意味します。それは、伝統指向でも内部指向でもなく、他人指向の極端な形態なのです。そこには他者に承認されたいという欲望しかありません。たとえば、他人がどう思うかということしか考えていないにもかかわらず、他人のことをすこしも考えたことがない、強い自意識があるのに、まるで内面性がない、そういうタイプの人が多い。(柄谷行人『近代文学の終り』より

中井久夫によれば、一神教の世界ではない日本は、そもそも江戸時代から「超自我」はなく、藤田氏曰く、ほとんどサンブランしかない。ーーサンブランとは、《ロラン・バルトの『記号の帝国』を捩って、ラカンは日本のことを『サンブランの帝国』と表現しています。つまり本来ならば大文字の他者として意味を生成してゆく世界のかなりの部分が、日本ではサンブランで構成されているのです。サンブランというのは意味生成に関与してこない、それだけで何か意味があたかもあるかのように振舞う「見せかけの他者」なのです。》(藤田博史)

かつては、父は社会的規範を代表する「超自我」であったとされた。しかし、それは一神教の世界のことではなかったか。江戸時代から、日本の父は超自我ではなかったと私は思う。その分、母親もいくぶん超自我的であった。財政を握っている日本の母親は、生活費だけを父親から貰う最近までの欧米の母親よりも社会的存在であったと私は思う。現在も、欧米の女性が働く理由の第一は夫からの経済的自立――「自分の財布を持ちたい」ということであるらしい。

明治以後になって、第二次大戦前までの父はしばしば、擬似一神教としての天皇を背後霊として子に臨んだ。戦前の父はしばしば政府の説く道徳を代弁したものだ。そのために、父は自分の意見を示さない人であった。自分の意見はあっても、子に語ると子を社会から疎外することになるーーそういう配慮が、父を無口にし、社会の代弁者とした。日本の父が超自我として弱かったのは、そのためである。その弱さは子どもにもみえみえであった。(中井久夫「母子の時間 父子の時間」初出2003 『時のしずく』2005所収

この中井久夫の指摘からは、そもそも「父の名」、あるいは「超自我」などは、一神教、あるいは男権社会での虚構であり、つまり「みせかけsemblant」ではなかったのか、という問いも生まれるだろう。

そして現在、世界的にみても、父なき世代をわれわれは生きている。

二回の大戦によってもっともひどく損傷されたのは「父」である。であるとすれば、その子である「紛争世代」は「父なき世代」である。「超自我なき世代」といおうか。「父」は見えなくなった。フーコーのいう「主体の消滅」、ラカンにおける「父の名」「ファルス」の虚偽性が特にこの世代の共感を生んだのは偶然でなかろう。(同 中井久夫)


これがラカン派にて、二〇世紀の「神経症の時代」から二一世紀は「ふつうの精神病の時代」(あるいは倒錯の時代)と言われることの内実のひとつだろう(そして日本はその面で、「先進国」であった、ということにもなる)。もっともコジューヴのいう世界の日本化など、実際は起こっていない、とする柄谷行人もいることを忘れないようにしよう、--《実際には、世界は別に「日本化」していないのです。日本では、知的・倫理的な要素が死に絶えてしまった。それを嘲笑する人たち(動物化した人間達)が、幅を利かせている。》(柄谷行人の「構造と反復」をめぐって

1990年代後半になると状況が変わってきて、フランスの分析家たちも自分たちが臨床で相手にしている患者さんが今までと違ってきているのではないか、という感触を持ち始める。それがはっきりとした形で出てきたのが、1998年にECFの大きな会合で精神病の問題が扱われた時でした。ジャック=アラン・ミレールが「普通の精神病(psychose ordinaire)」というタームを掲げて、それがまたたくまにECFの中で広まり、今では普通名詞のように、あるいは診断名のように使われています。明らかに神経症ではない構造をもつ主体なのに、はっきりと発症した精神病にも見えない。シュレーバーのようなパラノイアや古典的な統合失調症(分裂病)のタイプにもあてはまらない緩い形、精神病の状態がいわば「普通に」生きられているように見える主体の問題は、妄想や幻覚といった具体的な病理現象というより、おうおうにして、ある種の社会的不適応、つまり社会の中に場所をもてないという形で現れてきます。こうした患者さんに分析家が接する機会が増え、たちまち臨床の前景を占めるようになってきた。20世紀から今日まで、ずっとそれが続いています。実はECFでは今世紀初頭から、制度の中での精神分析の実践を見直そうという動きが始まったのですが、それと呼応し合う形で現在の臨床の中に「普通の精神病」が踊り出てきたというのは興味深いですね。非定型とは言わないまでも、古典的な神経症と精神病の構造的な差異を揺るがすような現象だと思いますが、「普通の精神病」はポスト神経症時代の臨床の中心的な概念になってきたと思います。

ただ、フランス全体、ラカン派全体の状況で言うと、ECFが「普通の精神病」という形でポスト神経症時代の臨床の中心に精神病をもってくるのに対して、シャルル・メルマンらのALI(国際ラカン協会)は「倒錯」という概念を前面に出してきました。最近では、ジャン=ピエール・ルブランという分析家がミレールの二番煎じで『普通の倒錯』(2007)という本を出した。彼らは心的経済全体が以前と同じようには動いておらず、抑圧の経済から享楽中心の、享楽を見せびらかすような経済へ移った、という議論をしています。このようにポスト神経症時代の主体の支配的な構造を精神病と見るか倒錯と見るかによって、フランスの二大ラカン学派の主張が分かれているのは注目に値します。
来るべき精神分析のために(2009/05/29 岩波書店)十川幸司/原 和之/立木康介

…………


以下は、藤田博史氏の別のセミネールから「サンブランsemblant」の説明(セミネール断章 2012年 8月4日講義より)。


シニフィアンが連鎖するためには必ずそのシニフィアンが参照するべき第三項が必要になってきます。つまり「法」が必要になってくるのです。言語の構造じたいは、象徴平面がこうあるとしたら(図1)シニフィアンがどれだけ多数あっても、単独でバラバラのものは連鎖し得ません。連鎖するには、一つ一つのシニフィアンがある特権的なシニフィアンに結びつけられていなければならないのです。こういってよければ、シニフィアンはある使命を帯びて初めて連鎖するのです。その使命というのは、その象徴平面の外側の第三項から与えられている隠喩的な拘束です。つまりそれぞれのシニフィアンは第三項の隠喩という資格の下に、相互に連鎖し得るのです。ちなみに隠喩はフランス語でメタフォール métaphore といいます。シニフィアンとして機能するにはまず隠喩であることが必要条件になります。つまりシニフィアンが連鎖して意味が生成されるためには各シニフィアンがまず第三項の隠喩として成り立っていることが前提条件になります。第三項の隠喩であるという資格のもとにそれらが連鎖していく。扇に喩えるなら第三項は要の部分です。その要があってこそ扇はきれいに開く。もし要がなかったら全部バラバラになってしまいますね。






二項関係とサンブラン

一方、サンブランは連鎖しません(図2)。興味深いことにラカンはサンブランがつくり出す煌めく世界を星空 constellation に喩えました。星と星が連鎖することはありません。もしあるとすれば、それは空を見上げた人が意味をつり出すためにそれらを結びつけた時で、それが星座に他なりません。この時星座は何に関連づけられているのでしょう。その答えは「自我」です。星座は、最初に名付けられた時、自我との一対一対応において関係づけられたのです。ですから星座とそれを名付けた人との関係は二項関係です。ですからある人には白鳥に見えてもある人に十字架に見えるかもしれません。その関係は想像的で任意なのです。この関係は想像的な関係であり、意味を与えられた星座は実は自我の置き換えとして機能しているのです。沈んでゆく夕日を見て感動するというのも、そこに感情的なものを読み込む自我の置き換えになっています。そして驚くべきことに、自我と一対一で対峙されたものを確実なものだと思い込み、信じるに値するものであると確信し、さらにはこれを論理の根源であると勘違いしている人がかなりいます。詩人が使うテクニックとして、言葉をあたかもモノのように扱う、というものがあります。この時、言葉は透明性を失い、石ころのようなモノになります。先日のワークショップでお話しした例でいえば、西脇順三郎の有名な詩があります。「『覆された宝石』のような朝」。何となく分かった気にさせてはくれますが、本当は永遠にわからないままです。この「分かった気にさせる」というのがサンブランの本質的な機能です。サンブランで構成された世界は、意味ではなく、雰囲気や感覚で分かったつもりになっている世界なのです。

日本語にはとりわけサンブランが多く含まれており、日本語を話すわたしたちの語りのなかには、こういう疑似論理が数多く含まれています。人を説得する疑似論理というのは必ず情念的なものを伴います。感情に訴え掛けるのです。「大切なものって言葉じゃないよね」とか、「わたしたちはここで一つになるよね」とか、「絆って大事だよね」等々、これらはすべて疑似論理なのです。疑似論理には客観的な根拠がありません。ですからこの想像的な二項関係による疑似論理が横行すると大変危険なことになります。例えば、自我と書いてあるところにヒトラーが嵌まり、サンブランのところにドイツ国民が嵌ったらどういうことになるか、ということを考えてみるとお分かりいただけるはずです。

※最後のヒトラーとドイツ国民をめぐっては、ジジェクによる「想像的同一化」(理想自我)に、「象徴的同一化」(自我理想)に関する議論を参照。→「優しい人たちによる魔女狩り


…………

以下は附記。

藤田博史氏の「サンブラン」の説明は、彼自らが認めているように単純化であり、上で記されたものだけではない。だが、最低限おさえるべきことを伝えてくれており、そこにとどまってしまうことがない限り、とても有用であるだろう。


ところで、ジジェクの大著『LESS THAN NOTHING』(2012)の第一章は、“Vacillating the Semblances” という名を持っている。

たとえば、挨拶の言葉「お会いできて嬉しいですNice to see you!」は、「みせかけ」ではないのか。

There is, however, a fundamental ambiguity at work here, which is why Lacan moved on from fictions to semblances. The distinction is between symbolic fiction proper and semblance in the sense of a simulacrum. Although, in both cases, the illusion works in spite of our awareness that it is only an illusion, there is a fine line separating them. It is crucial to distinguish here between pretending as a form of politeness, part of the “alienation” constitutive of the symbolic order as such, and the cynical instrumental use of norms which relies on another subject believing in them. It is one thing to greet an acquaintance with a polite “Nice to see you!” when we both know that I do not really mean it; it is another thing to play the other for a sucker, expecting him to fall for our lies. (The catch is not only that the first case cannot be dismissed as hypocrisy—in being polite, I “lie sincerely”—but also that the second case is not that of a simple lie—in duping the other, I become my own sucker …)
The key formula of semblance was proposed by J‐A. Miller: semblance is a mask (veil) of nothing. Here, of course, the link with the fetish offers itself: a fetish is also an object that conceals the void. Semblance is like a veil, a veil which veils nothing—its function is to create the illusion that there is something hidden beneath the veil.

あるいは、サンブランがシミュラクルや仮面=仮装にかかわるのであるならば、議論の視野は大幅に拡がるだろう。たとえば、仮装、すなわち「仮装としての女性性」(ジョン・リヴィエールJoan Rivière)であるなら、女性性とはサンブランではないか、と。

さらには、ファルスはサンブランではないか、と。

ファルスはそれが象徴する――ペニスやクリトリスといった――器官でもありません。そして、フロイトが、古代人にとってファルスが表わしていたシミュラクルを参照事項として取り入れたのは、理由なきことではありません。(ラカン「ファルスの意味作用」)

※参考: The Concept of Semblant in Lacan's Teaching •.........Russell Grigg

ーーラカンの英訳者.Russell Griggによるものだが、ミレールの「サンブラン」概念の曖昧さが指摘されている。そして彼はファルスはサンブランではない、としている。《The semblant is on the side of the fetish object, while the phallus is on the side of masquerade.》

もっとも、これもジジェクの観点からは、ある限られた側面からの指摘に過ぎないというふうにみえないでもない。

……the opposition of to have/to appear: woman is not the phallus, she merely appears to be to be phallus, and this appearing (which of course is identical with femininity qua masquerade) points towards a logic of lure and deception. Phallus can perform its function only as veiled-the moment it is unveiled, it is no longer phallus; what the mask of femininity conceals is therefore not directly the phallus but rather the fact that there is nothing behind the mask.(ZIZEK"Woman is One of the Names-of-the-Father")

そしてジジェクにも騙されないようにしよう。

ジジェク派というかその無邪気なエピゴーネンは、できればものなど見ずにやりすごしたい人類の思惑と矛盾なく共鳴しあってしまう。ジジェクに騙される連中は馬鹿として放っといていいと思っているんですが……(蓮實重彦

《理論というのは、良かれ悪しかれ、展望を可能にする。その切れ味の良さに嵌ると、何でも語れそうに思う。それが理論の罠なんだけどね。その罠の快楽を自覚的に楽しんで娯楽にしたのがジジェク。》(田中純)


いずれにせよ、藤田博史氏の図式化やその説明により、たとえば、いまそこらじゅうに氾濫する私的な生活の些事や好悪、感想などをツイートやブログで公開するたぐいの振る舞いは、ほとんどの場合、想像的ファルス(小文字の他者の欲望の対象)になろうとする行為であるというふうにも言うことができるかもしれない(もっとも、これも理論の罠ではないかどうかを疑うべきだろう)。


※補遺:資料:ラカンの幻想の式と四つの言説