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2013年9月27日金曜日

音楽演奏のリクリエイトをめぐって

まずごく平凡にグールドのゴールドベルク変奏曲の二つのヴァージョンを並べる。


◆1955studio recording





◆1959 ザルツブルグ live recording




1981年のヴァージョンはあえて貼り付けない。


◆次に別の演奏家のもの。





この演奏は、2006年に録音されている。→ by John Q. Walker Zenph Studios

これは、2007年のTEDで紹介されて、比較的よく知られるようになったのだろう。→ John Q. Walker: Great piano performances, recreated

※参照:Zenph re-performanceによるゴールドベルク全曲版


ジャズピアニストたちの演奏のリクリエイトもあるようだが、打鍵(クー)の調整はまだうまくできていないようで、いささか平板な演奏(に感じる)。


ディスクを聴く人の実感の結果は、全面肯定(違和感をまったく認めない立場)から、全面否定(コンセプト自体を斥ける立場を含む)までさまざまであろう。賞讃しつつも若干の留保を挙げる評として、例えば、金子建志は「[通常ステレオ版]は、アコースティックな残響が幾分、水っぽい印象を与えるため、モノラル原盤の切れ味や、独特の点描的なタッチが与えた衝撃が薄れ気味。一方、バイノーラル[……]は、タッチのの粒立ちが鮮明で、ペダリングやフレージングの微妙な息遣い(もちろん、実際の唸り声は原理的にも介在しない)までもが感じられ」ると述べる。また、米国のある評では、冒頭のアリアは見事に同じだが、第26~29変奏のような速いパッセージで、「55年盤」では音の粒立ちが悪いために緊迫感の出ている箇所が「再演盤」では音の並びが均等化されて、そうした感覚が消えていることや、「55年盤」の「速さ」に伴う「非現実感」が「再演盤」にはかえって欠けていること、第10変奏(フゲッタ)で反復される主題が「55年盤」ではそれぞれに表情が違うが、「再演盤」では均一に聞こえること、などの指摘がなされている。(「新しいピアノ演奏再生技術をどう位置づけるか」宮澤淳一)

ここでいささか文脈とは外れるが打鍵(クー)をめぐるロラン・バルト=浅田彰を引用する。

バルトは声について「きめ」(グラン)を間うたようにピアノについて「打つこと」(クー)を問う。

ルービンシュタインは打つことができない。許し難く凡庸な優等生アシュケナージはもちろん、時にすぱらしく重いピアニシモを聴かせる老練なブレンデル、そしておそらくポリーニさえ、打つことができないと言うべきだろう。

彼らは音楽の制度に余りにも見事に適合しているため、分節構造の内部のしかるベき位置に音を置いていくことしかできないのだ。

ナットやホロヴィッツは打つことを知っている。いや、打つというのは知ってできることでほない、彼らは音楽の制度から何ほどかずれているがゆえに、分節構造からはみ出るような音をどうしようもなく打ち出してしまうのである。(浅田彰『ヘルメスの音楽』)

あるいは。

スタジオ録音が絶対的にすぐれているとするグールドの主張は間違っていた。ストックホルムでのピアノ・ソナタ作品110の実況録音には厚みがある。時間に対してどこか緊張したところ、なにか奪われたもの、最後のシカゴ・コンサートで同じ曲も退くの演奏がどのようなものだったかを想像させるに足るなにかが存在する。時間の切迫が動作を鋭くし思考の速度をはやめるチェスの勝負のように、ある種の絶対的必然性があるのだ。スタジオの場合、時間はじゅうぶんにある。あらゆる方向で時間をたどりなおすことができる。自由だともいえるが、それなりの代価を払わねばならない。(『グレン・グールド 孤独のアリア』 ミシェル・シュネデール)



以下は架空の話。


ジョン・Q・ウォーカーは、グールドの既存の演奏を分析尽くすことによりグールドの身体脳を獲得し、グールドが録音していない作曲家の演奏まで作り出すことに成功した。だがウォーカーは、音楽業界からの多額の献金と引きかえに、これ以上の研究は差し止めることを要請されている。なぜなら研究成果は演奏家の神話を剥ぎ取ることになり、ひいては音楽業界の衰退を招くことが推測されるから。ヤマハもようやくそのことに気づき共同研究からおりた。


…………


コンピュータ音楽を否定するのではない。
コンピュータは道具にすぎないし、
それがまだ限られたことしかできないとしても、
だれかがそこに別なコンセプトをもちこまなければ、
それ以上のものにはならないのだから。
別なコンセプトはいまのコンピュータの内部からではなく、
外部からやってくる。
現状をいくら見ても、
そのなかに現状を超えるものが見えるわけはない。
科学者がカエルの泳ぎを、鳥のはばたきを研究して
うごきのメカニズムを機械にとりいれようとするように、
コンピュータをつくりだした知の風土では忘れられたもの、
異なる心のはたらき、手のうごき、息のゆらぎから、
別な論理、未知のメカニズム、
それだけでなく、それを実現する人間の
関係とかかわりの再組織ができるかもしれない。
東アジアの複数の伝統を観るのは、回帰のためではない。
原初の分岐点にたちもどり、ありえたが実際にはなかった道に
はいりこむために、伝承を役立てるだけだ。
身体にきざまれた伝承は、
意味にさきだち、ことばのように拡散していない。
コンセプトやイメージは、了解をたすけるかもしれないが、
了解それ自体を代行はできない。

高橋悠治『音楽の反方法論序説』