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2013年9月24日火曜日

オクノフィリア/フィロバティズム

若い「相対的には聡明な」研究者が
批評の言葉で語っているのに
なにを愛してるのか分らないヤツがいる
って書いたけど
思い出したな
あいつらフィロバットなんだろう
オレはもろにオクノフィルだからな

バリントという、フェレンツィの弟子の、なかなかユニークで実践的でもある精神分析家がいた。彼は『スリルと退行』という本を書いて、発達論的対象関係論からすれば、最初の母子一体の「調和的渾然体」が破れた時に二つの状態が実現すると指摘したことがある。第一は、安全保障感を距離に依存する「フィロバティズム」であり、第二は、安全保障感を膚接に依存する「オクノフィリア」である。ことばが変なのはバリントだから仕方がない。

土居 健郎の「甘え」に即していうなら、「調和的渾然体」が原初的な純粋な「甘え」の状態であり、「フィロバティズム」は「甘えの拒否」、「オクノフィリア」は「甘えの病理的形態」ということになるだあろう。

これが成人において実現すれば、フィロバティズムの場合、対象なき空間とおのが「スキル」に全幅の信頼を置いて飛躍する「スリルの人」となる。対象はスキルを発揮するための道具にしかすぎず、いくらでも取り替えの利くものである。バリントは、例としてパイロットや曲芸師を挙げているが、数学者、理論物理学者、哲学者も多数派はフィロバットだと私は思う。実際、彼らの書いた数学や宇宙物理学(の啓蒙書)を読む時味わう「スリル」は、日常からの超脱のスリルで、飛行のスリルと同じ質のものである。

これに対してオクノフィリアとは、対象なき空間を恐怖し対象にしがみつき膚で接していることを好む臆病な人、独りでおれない人である。

バリントの独創は「フィロバティズム」の概念創出にあり、精神分析は従来もっぱら「オクノフィリア」にだけ目を向けていたといっている。また、バリントの筆致は明らかに「フィロバティズム」に好意的である。しかし、その文章から、バリント自身はどちらかといえば「オクノフィル」、つまり甘えの人でなかったかと思わせるものがある。

(……)一般論として「フィロバット」のほうがよいと私は思わない。「フィロバット」も出発し帰還する大地を必要とする。無限に長いロープの綱渡りというものは不可能である。

さて、精神病理の世界にも両方があるように思われる。数学や宇宙物理学(の啓蒙書)を読む時に確かに感じるスリルと同じものを感じさせる精神病理学の論文がある。「自己」や「他者」「世界」をいう言葉が縦横に使われている論文である。「フィロバット」の成果であろう。私は、これらに畏敬の念を持つが、私自身はたぶんかなり「オクノフィル」であってーーその証拠の一つにバリントが挙げるように私はスポーツが下手であるーー。才能の乏しさとは別に、非常に一般的、抽象的な言明をしようとする時には必ずそっと袖を引いてやめるようにさせる一種の感覚を感じる。具体的なものを対象としない時には、確かに、自分の中で臆するものがある。

したがって、私は、自分の精神医学の枠組みの全体を明らかにできない。それは、自分にも見通せていない。そういうものが明確にできれば、非常に楽になるかもしれないし、逆に腑抜けのようになるかもしれない。そこが分らないから、私には、明確にしようとする努力ができない。私にとって、私の精神医学は、私の前にあるのではなくて、私の背後にあるような感覚である。

そのような精神科医は、(一)何も書かないか、(二)症例報告を書くか、(三)エッセイかアフォリズムを書くか、であろう。(中井久夫「精神科医がものを書くとき」Ⅰ 広栄社 P5-6)

もっともバリントは、オクノフィリアとフィロバティズムに関して, “一方は他方の陰画 (ネガ)ではない”ことを強調しているらしい。

すくなくとも隠れオクノフィリアの類型はたくさんいそうだな
オクノフィルであることを恥じて理論的に冷たく振舞う人間
三島由紀夫の似合いもしない筋肉増強やボクシングなんかは
オクノフィルの抵抗でフィロバットの仮装する試みかじゃないか

「僕は明快な人間ではない。だから不明快さに対する苛立ちがあるわけです」
と語る柄谷行人(『闘争のエチカ』)だってその気配がありそうだ


オクノフィリア ocnophilia の語源は“しがみつく人”であり,スリルを恐怖し堅固 不動な対象にしがみつかざるをえない心性を表している。つまり, 空間は危険をはらんだ空虚であり,対象と片時も離れないよう密接 することで一次愛の調和を取り戻そうと試みるものである。それに 対して,フィロバティズム philobatism の語源は“つま先立ちで歩 く人”であり,対象を手放して空間にさまよう,スリルを楽しむこ とのできる心性を表している。つまり,対象は危険な存在であり, むしろ対象の存在しない空間において一次愛の調和を取り戻そうと 試みるものである。(「オクノフィリア、フィロバティズム概念を用いたパーソナリティ理解の一考察」)www.lib.kobe-u.ac.jp/repository/81000805.pdf‎

だそうだ。


この論文の研究者たちは一般大学生の統計調査をするなか

クラスタ①「オクノフィリア・フィロバティズム混合型」
クラスタ②「共存自立型フィロバティズム」
クラスタ③「単独安住型フィロバティズム」
クラスタ④「完全 なオクノフィリア」

に分けているのだけれど

二類型しかないのに①の混合型というのはちょっと味気ない分類だな

フロイトのやったような三類型はないと面白くない

フロイトのエロティック型というのはオクノフィリアと似ている
強迫型というのはフィロバティズムかも(これはちょっと怪しい)
ここにもうひとつナルシシズム型があって
混合型として三つを挙げている

エロティック・強迫型
エロティック・ナルシシズム型
およびナルシシズム的強迫型


心的装置の諸領域がどこでリビドーがおもに消費されるかにしたがって、三つのリビドー的類型を区別することができる。これに命名するのはそう簡単なことではない。われわれの深層心理学をたよりとして、私はエロティック型、ナルシシズム型、および強迫型と名づけることにしたい。

エロティック型はたやすく性格づけることができる。エロティック型の人というのは、そのおもな関心――そのリビドーの相対的に最大の量――が愛情性格にむけられているような人物である。愛すること、しかしとくに愛されることが、彼らにとってはもっとも重要なのである。彼らは愛を失うことに対する不安に支配されており、それゆえとくに、自分たちを愛してくれなくなるかも知れないようなおそれのある他のひとびとに左右されやすい。このような類型は純粋な形のままでも、よく見られる。これらの変種は、他の類型との混同や、同時にふくまれている攻撃性の度合にしたがって、生じてくる。社会的にも文化的にも、この類型はエスの要素的な欲動的要求を代表しており、その他の心的な要請はこのエスのいいなりになっているのである。

私がさしあたり強迫型というなじみのない名前をあたえた第二の類型は高度の緊張のもとに自我から分離してゆく、超自我の優勢ということで際立っている。この類型は愛の喪失に対する不安のかわりに良心の不安によって支配され、外への依存性のかわりにいわば内への依存性をしめしており、高度の独立性を展開して、社会的には、文化のどちらかといえば保守的な真の担い手となるのである。

第三の、正当にもナルシシズム的と名づけられた類型は、本質的には否定的な特性をもっている。自我と超自我とのあいだにはいかなる緊張もなくーーこの類型からは、超自我というようなものを設定することにはほとんどならなかったであろうーーエロティックな欲求の優越ということもなく、主な関心は自己保存に向けられていて、自主的で、物おじするということはほとんどない。自我はいつでも大量の攻撃性を思いのままにすることができるのだが、これはいつでも行動に移りうることのなかにもよく表れている。愛情生活では、愛されることよりも愛することのほうが優位をしめる。この類型のひとびとは「人格者」として、他の人たちに畏敬の念を起させるが、とくにふさわしいのは、他のひとびとのためによりどころとなってやることであり、文化の発展に新たな刺激をあたえたり、既成のものを打ちこわしたりする、指導者の役割を引き受けることである。

これら純粋な類型は、リビドー理論から導きだされたものではないかという疑惑をのがれるわけにはいかないだろう。しかし、純粋型よりもいっそう頻繁に観察される混合型に目を向けるならば、自分が経験というしっかりした地面の上に立っているのが感じられる。これらの新しい類型、つまりエロティック・強迫型、エロティック・ナルシシズム型、およびナルシシズム的強迫型は、事実われわれが分析学によって知った個々人の心的構造を、うまくとりおさめているように思われる。ずっと前からよく知られているもので、この混合型を追及してゆくさいに行きあたるような性格像がある。エロティック強迫型では欲動生活の優越が超自我の影響によって制限をうけているように見える。身近な人間的な対象に対する依存症と同時に、両親の遺物や教育者や模範などに対する依存症も、この類型では最高度に達する。エロティック・ナルシシズム型はおそらくこれに属するという判定がいちばん多く下されるに違いない類型である。これはそのなかで互いに緩和しあうことができるようないくつかの対立を合一している。これを他のエロティック型の類型と比較してみれば、攻撃性と活動性とがナルシシズムの優位と協力しているのを、知ることができる。最後に、ナルシシズム的強迫型は、外的な自立性と良心の要請への顧慮にさらに協力な活動への能力を付加し、こうして自我を超自我に対して強化することによって、文化的にもっとも価値の高い変種を生み出す。

(……)エロティック型が罹患すると、強迫型が強迫神経症となるように、ヒステリーになるということは容易に推量できるように思われるが、しかしこれは最後に強調しておいたような不確実性とも関わりをもっている。ナルシシズム型は、その平正の非依存性によって外界から拒否される機会にされされており、犯罪を犯しやすいという本質的な条件をそなえていると同時に、精神病への特別な素因をふくんでいる。(フロイト「リビドー的類型について」(1931)


まあオレがディレッタントとして本を読みながら
にやにやしているのは(日本独特の)血液型性格分類を楽しむみたいなもので

ラカンの構造論――《神経症,精神病,倒錯はどう頑張ってもお互いに行き来できない.神経症の「治癒」は幻想の横断と主体の脱解任によって生じ,精神病の「治癒」は妄想形成か補填によって生じるのであって,構造は死んでも変わらない,というのがラカン派のセントラルドグマ》を面白がるのも、せいぜいその範囲を出ない


エロティック型(エロティック・ナルシシズム型かも)、あるいはオクノフィリアであるはずのロラン・バルトは、『テル・ケル』の仲間たちに、あいつらにはついていけないと言っている


『テル・ケル』誌に拠る彼の友人たち〔フィリップ・ソレルス、ジュリア・クリステヴァなど〕。彼らの独創性、彼らの《真実性》(それ以前に、彼らの知的エネルギー、エクリチュールの才能)は、彼らがある共通の、一般的な、非身体的なことばづかい、すなわち政治的なことばで語ることを受け入れている点に由来する。《とは言っても、そういうことばを、かれらはひとりひとり自身の身体をもって語っているのだ。》――それなら、なぜ君も同じようにしないのか?――それはまさに、私が彼らと同じ身体を持っていない、ということであるに相違ない、私の身体は、《一般性》、ことばづかいの中に存在する一般性の力に、なじむことができない。――それこそ個人主義的見解というものではないか。キェルケゴールのようなーー知らぬ者もない反ヘーゲル主義のーークリスチャンに見いだされるものではないのか。

身体とは、還元不可能な差異であり、また同時に、すべての構造化の原理でもある(なぜなら構造化とは、構造の“唯一性”のことである)。もし私が《私自身の身体をもって》政治を語ることに成功するのだとしたら、その場合は、さまざまの(言述的)構造のうちでもいちばん平板な構造を構造化として扱うことになってしまうだろう。反復によって私はいくぶんかの“テクスト”を産出するということになるだろう。問題は、生きている、欲動的な、享楽的な、私自身の身体を戦闘主義的な平凡さの中に沈めながらなおその平凡さから逃れようとするこのやり口を、はたして政治的装置が長い間認めつづけるかどうか、という点にある。(『彼自身によるロラン・バルト』P278)

そもそもロラン・バルトの資質はエッセイストなのであり、オクノフィリアである精神科医としての中井久夫が、《(一)何も書かないか、(二)症例報告を書くか、(三)エッセイかアフォリズムを書くか》と語っているのに共鳴する。


いま、わたくしの視線をとりわけ惹きつけるのは、世間的な意味からするなら、バルトにとっての「生涯の輝ける日」にほかならぬコレージュ・ド・フランス教授就任の日の儀式である。そこでの彼は、伝統にのっとった開講講義を多くの聴衆を前にして口にするのだが、「講義」(邦訳題名は『文学の記号学―― コレージュ・ド・フランス開講講義』)という題名で公刊された書物の中で、バルトは、新たな同僚となる著名な学者や研究者たちに対して、自分自身の存在様態を「不確かな主体」《 subjet incertain 》と名付けている。この言葉に魅せられたわたくしは、それに類する語彙を「開講講義」のテクストから芸もなく拾いあげずにはいられなくなる。

すぐさま目にとまるのは、「曖昧な」《 ambigu 》という言葉だ。「充分に自覚せざるをえないのですが、私は、エッセイと呼ばれるもののみを刊行してきました。エッセイとは、書くことが主体を分析と競わせる曖昧なジャンルにほかなりません」。ここでのバルトは、「エッセイ」という「曖昧なジャンル」ばかりにかまけてきたがゆえに、みずからを「不確かな」存在とみなしている。それを期に、おのれの存在を貶めるものともとれる形容詞や、否定的な色合いの言辞ばかりが彼の口からもれることになる。「私は、通常、この地位へと人を向かわせるにふさわしい学位を持ってはおりません」、「私が、早い時期から、記号論と呼ばれるものの発生とその発展に自分の探求を結びつけていたのはたしかであります。とはいえ、私は、それを代表する権利をほとんど持っていないのも確かな事実であります」、等々。そして、彼はこう結論づける。

それゆえ、科学と、知と、厳密さと、規律のとれが学問的創意が支配しているこの家に迎え入れられたのは、まぎれもなく、一つの不純な主体なのであります。(「開講講義」六頁)

すぐさまいいそえておかねばなるまいが、この「不確か」で「不純な」《 impur 》主体や、「曖昧なジャンル」という言葉の中には、いかなる謙虚さもこめられてはいない。これらの形容詞は、いささかも主体の相対的な劣性を意味するものではなく、主体に「作家」としての身分を保証する絶対的な何かのあり方を示唆しているのである。

実際、「曖昧なジャンル」にほかならぬエッセイの作者としてのバルトは、いたるところで「確か」で「純粋」な存在たることをこばみ、「不確か」で「不純」な状態への執着を隠そうとしない。彼の開講講義の冒頭に読まれるこうした言葉は、コレージュ・ド・フランスという権威ある制度的な空間に教授として迎えられた以上、「不確か」で「不純」で「曖昧さ」であることを今後は自粛するつもりだなどとこれっぽちも断言していない。そればかりか、あなた方は、「曖昧さ」(ママ)からはほど遠い「不確か」で「不純」である存在を同僚として迎え入れたのだから、私としては、それにふさわしく、あくまで言葉とのそうした関係を維持し続けるだろうという寡黙な態度表明として、その言葉は読まれるべきものなのだ。

そこには、ひたすら快癒することをこばむ患者の頑固な病的光学ともいうべきものがある。「確か」でも「純粋」でもなく、もっぱら「不確か」で「不純」な存在たろうとして言葉の「曖昧」な配置に執着する状態こそ、彼の中に批評的な言説を生起せしめる潜在的な母胎にほかならないからである。このフィクションめいた装置の中では、あらゆる意味での衰退 ―― 失望、苦難、失敗、不快感、器官の不調ぶり、等々 ―― が、書くことにふさわしい状況へとひたすら彼を誘うことになる。(蓮實重彦「バルトとフィクションーー『彼自身によるロラン・バルト』を《リメイク》する試み)


中井久夫のもう一つのオクノ フィリア/フィロバティズムへの言及箇所を附記しておこう。

おそらく採集者であった最古の人類も今日の採集者と同じく、兆候的なものに敏感であることが優位を保証したであろうことは、今日の子供の「発見遊び」におけるのと変わらないだろう。

そればかりか、そのような最古層の採集者は狩るよりもまず他の動物に狩られうる存在であったろう。今日のブッシュマンもライオンに対しては狩る立場にない。もっとも今日の彼らは主に白人やバントゥー族によって狩られる存在であり、彼らがいかによく身を隠すかは文化人類学者の記述に明らかなところである。逃走のとき、微分(回路)的認知はもとより、不安もその伝染力によってきわめて有理的であったろう。不安はほとんど不快な匂いのごとく、しばしば不安になった者から他を遠ざける(リルケの小説『マルテの手記』に不安を臭気として感じる一節があった)。結果的に集団は散開し、捕食者に捉えられる個体は減る。逆に凝集塊をつくることもあって、これまた有理的である(各々、イギリスーハンガリー出身の精神分析家バリントの、フィロバティズムとオクノフィリアという対立概念に対応するというべきか)。分裂病者特有といわれるある種の匂いは人間が不安なときに出す警戒フェロモンであるかも知れないという主張がある。実際、分裂病者であろうとなかろうと私は不安になった人がたちまちその種の匂いを放つのを直接経験している。それは快い匂いでは全然ないが、不快でなければ警報の意味をなさないだろう。不快は相互の距離をとらせる。相互の距離をひらいて散ることは、第二次大戦初期イギリス護送船団のとった戦術であるが、単数あるいは少数の攻撃者捕食者に対して一般に有利的な集団行動である。なお、安永浩の分裂病論であるファントム理論における比喩が、まず、狩られるカモシカの立場に身を置いての、トラとカモシカの関係であることに注意したい(カモシカはトラから時空間に遠ざかるように行動する。トラならば逆であろうがーー)。(中井久夫『分裂病と人類』)