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2013年9月24日火曜日

9月24日

ジャズの映像を断続的にみつづける

◆Miles Davis Sextet and Gil Evans


「モード・ジャズなんていうコンセプトは、最初から頭の中になかった。オレが考えていたのは、少ない音で多くのことが語れるフォームのことだ。当時のジャズはどんどんハードになっていったが、その逆の演奏をしたかったんだ。パワーではなくて、情緒を表現したかったんだ。そのためには、リズムやハーモニーに手を加える必要がある。そんな話をギルと話したことがあった。おそらくヤツは、それをヒントにアレンジを組み立てたんだろう。オレたちは「マイルス・アヘッド」を吹き込むにあたって、それほど多くの話をしたわけじゃない。けれどスタジオに行ったら、オレが考えた通りのサウンドが出来上がっていた。そこがギルのギルたるところだ。あとは、吹きたいように吹けばいいだけになっていた」

レコーディングに望んだギル・エヴァンス曰く、「マイルスはスタジオでオーケストラのサウンドを聴くなり、ベストと思われるフレーズを次々に吹いてみせた。しかもソロ・パートでは、通常のコード進行から離れて、オーケストレーションにフィットする音を選びながら演奏してみせたんだから驚いた」
(50年代ジャズの遺産たち)

上の演奏や文を読めば、マイルスの畢竟の名作カインド・オブ・ブルーの生みの親(の少なくともひとり)が、ギル・エヴァンスであったことが判然とするだろう。

◆武満徹ジャズ語録

《サキソフォンを吹いている男がいた。彼の吹くという行為は、生の挙動そのものだった。そして、いつか彼をとり囲むすべてのものと結びついていた。彼と僕の距りはほんとうに近いものになった。僕たちに、言葉はなかった。》-武満徹





《ジャズでは、よく The try ということがいわれる。これは字義通り、新曲を演奏するためのこころみを云うのだが、この The try が、彼らジャズマンにとって、もっとも充足した瞬間であるし、これをみごとにやりおおせるということが誇りだ。その誇りが彼らの人生を形づくって行く。》-武満徹

《ジャズを聴き始めた頃からいつか現代音楽を聴いてみようと思っていました。『現代音楽』か『前衛ジャズ』かを問うことは虚しくなって止めましたが。》-武満徹

《ルイ・アームストロングが、シカゴでかれの口にトランペットをもちあげると、そこにいるひとびとは幸福を感ずるのでした。かれがブルースをうたうと、ひとびとはどうじに悲しくもあり幸福をも感ずるのでした。そしてルイがスキャット・スタイル(自由に即興的に意味をもたない言葉で演奏されるジャズのうた)をうたうと ー「スキー・ダットル・ド・ディー・ダットル」何の意味もないのですー ひとびとはほとんど横腹がさけるまで笑いました》

と、ラングストン・ヒューズは書いている。どんなに深い悲しみをうたっても、ジャズはバイタルな力を失わない。それは観念ではとらえられない肉体のものだからだ。だからルイ・アームストロングのスキャットは、あくびのようにユーモラスであり、またそれは嗚咽のように深い悲しみにもみちている。ルイのスキャットは、音楽的行為とよぶよりはるかに素朴な生命の挙動なのだ。そして、かれの吹きならすトランペットが、またなんとそのスキャットに似ていることか。(武満徹『音、沈黙と測りあえるほどに』)

《個人的なことだが、私が生まれた一九三〇年に、デューク・エリントンの《Mood Indigo》が生まれている。エリントンは、今世紀の最も偉大な音楽家のひとりに数えられていい存在だが、ジャズという音楽への偏見が現在もかなりそれを妨げている。》-武満徹






いささか許しがたいな
アームストロングのwhat wonderful worldを
ベトナム戦争兵士士気高揚に使うなんて
まあそれもたまにはいいさ

でもきみたちには熱帯雨林のざわめきと驟雨の音
死者たちのうめき声や残されたものたちの祈りの声も必要だ






さて、芸術と生とを分離したとすれば、あるいはこういってしまいましょうか、つまり、もしその光に着目し│光は闇よりも善く、闇よりも明るい│、それを〈芸術〉と呼ぶとすれば、‥‥‥人はその明るさだけを手にすることになります。ところが、私達が必要としているのは、闇の周りを手探りすることです。なぜかといえば、(いつでもではないにせよ、少なくともあるとき、殊に、私達にとって生が不確かになったとき)、そこが私達の生きる場となるからです:闇の中、あるいはキリスト教でいわれるように「魂の暗い夜」。〈芸術〉が働くのは、こうした状況の中なのです。そしてそのとき、それは只〈芸術〉であるのではなく、私達の生にとって有用なものとなるでしょう。(ジョン・ケージ)


素朴な生命の挙動の音楽がジェノサイドに終わることもある

からだの中を血液のように流れつづける言葉を行わけにしようとすると
言葉が身を固くするのが分かる
ぼくの心に触れられるのを言葉はいやがっているみたいだ

(……)

憎んでいると思ったこともない代わりに
言葉を好きだと思ったこともない
恥ずかしさの余り総毛立つ言葉があるし
透き通って言葉であることを忘れさせる言葉がある
そしてまた考え抜かれた言葉がジェノサイドに終わることもある

ぼくらの見栄が言葉を化粧する
言葉の素顔を見たい
そのアルカイック・スマイルを(谷川俊太郎「鷹繋山」『世間知ラズ』より)

《音楽は 社会的芸術であり 複数の人間をつなぐという意味で 政治的であることは避けられない》(反システム音楽論断片   高橋悠治

われわれの疑問は、たとえば「生の肯定」、「生の蕩尽」としてカーニバル的にあらわれたものが必ずファシズムに転化するのはなぜかということだ。ニーチェやベルグソンはファシストではないといってもはじまらない。もはや純粋なカーニバルなどありえないように、純粋な「生の哲学」もありえない。それはいったん歴史的な文脈に存在するやいなや、思いもよらぬ反転や置換を強いられるのだ。本当は、「暴力的なもの」は《近代》に出現するのだといってもよい。(柄谷行人『歴史と反復』)


このあたりが、ロラン・バルトが、「私」よりも「私たち」について表現する集団的で大衆的な激しい音楽(マーラーやブルックナーをあげている)を敬遠する理由のひとつなんだろうがね

そして、《シューマンの「私」に向かう音楽表現 を「反時代性」の哲学》として顕揚

ドゥルーズしかり
高橋悠治しかり

「まずしいものの芸術。手にある最小の材料でできているもの。音楽に必要なものは、わずかだ。よけいなものをはぎとり、そこにあるものではなく、ないものから音楽を定義する。」(高橋悠治)

シューマン--「はるかな解放へのあこがれが、抑圧されたものの素朴なゆめへの共感としてあらわれる」(同)





ただ一度だけ、写真が、思い出と同じくらい確実な感情を私の心に呼びさましたのだ。それはプルーストが経験した感情と同じものである。彼はある日、靴を脱ごうとして身をかがめたとき、とつぜん記憶のなかに祖母の本当の顔を認め、《完璧な無意志的記憶によって、初めて、祖母の生き生きした実在を見出した》のである。シュヌヴィエール=シュル=マルヌの町の名も知れぬ写真家が、自分の母親(あるいは、よくわからないが、自分の妻)の世にも見事な一枚の写真を遺したナダールと同じように、真実の媒介者となったのだ。その写真家は、職業上の義務を超える写真を撮ったのであり、その写真は、写真の技術的実体)から当然期待しうる以上のものをとらえていたのだ。さらに言うなら(というのも、私はその真実が何であるかを言おうとつとめているのだから、この「温室の写真」は、私にとって、シューマンが発狂する前に書いた最後の楽曲、あの『朝の歌』の第一曲のようなものだった。それは母の実体とも一致するし、また、母の死を悼む私の悲しみとも一致する。この一致について語るためには、形容詞を無限に連ねていくしかないだろう。(ロラン・バルト『明るい部屋』)




…………


武満徹の「うた」

高橋悠治


1.ことば

この巻には「うた」(ポップ・ソング)、テープ作品、舞台や放送のために書かれた音楽、初期の未完のスケッチなどが収められる。これまでの4巻がまずオーケストラ曲、次に室内楽という「純音楽作品」からはじまり次に2巻にわかれた映画音楽画がつづくという順序で、作曲家としての武満の中心的な領域をカバーしていたのに対して、これはどちらかというと周辺領域と考えられるもの、しかも作曲家自身がその時々に置き去りにしたものを集めている。

これらの音楽をききながら、それぞれの作品をどう思うかとは別に、ひとはどのようにして音楽をこころざし、作曲家となっていくか、そして作曲家として認知されたあと、最初の志はどうなったかを考えてみることも、なにかの意味があるかもしれない。

武満徹は後から見れば、たいへん幸運な作曲家だったということになるだろう。「現代音楽」という西洋的音楽のフロンティア、つまり最先端にして未知の辺境にいながら、日本のオーケストラ定期演奏会の保守的な聴衆や「音楽愛好家」にも知られている唯一の名であり、死後数年たってもいまだに演奏されていること自体が、例外的な現象と言える。

かれの死後、文章や対話を集めた5巻の「著作集」と、ほとんどすべての音楽作品の録音を集めたこの「全集」5巻が出版されたのも、武満が現代日本を代表する世界的な作曲家だという、一般的な認識にもとづいている。すでに武満を論じたたくさんの文章があるが、この現象がいつまで続くのかはわからない。

武満自身がことばのひとだった。スケッチブックにさまざまなことばを集めながら作品の構想を得ただけでなく、自分の音楽についてもたくさんのことばを残したために、武満を論じた他人の文章のほとんどは、それらのことばを論じているか、それらを通してかれの音楽を聴いたつもりになっている。

かれが自分の体験について語ったことばも、たいへん魅力的だが、真実であるにはあまりにうつくしい。かれが自分と自分の作品のまわりに織り上げた伝説にとらわれずに、このひとを語るためのことばは、まだ存在しない。もし、かれの音楽がこれからも忘れられずにいれば、ことばに覆われているかれの生と音楽を解き放つ考証も、いつかは可能になるだろうか。

2.身体

さて、15歳の武満は、戦時下の学生動員で働かされているとき、ある兵隊がもっていたシャンソンのレコードをきいて、音楽にめざめた、とされている。
多くの学生たちにとって、戦時下に禁じられた「外」の音楽は、ことばよりももっと切ないあこがれを、こころのなかに刻んだ。

敗戦後に生き残った少年たちは、まだひろい世界から切り離されたままで、占領軍のラジオからきこえてくる音楽をきいていた。武満は独学で音楽を志したというが、かれだけではなく、ほとんどみんながそういう環境に置かれていた。音楽の理論書があれば、借り出して読み、楽譜を借りて手で写した。ピアノがある場所をたずねて弾かせてもらった。貧しい時代は、人の行き来はさかんだった。訪ねてくる見知らぬ他人を拒む人はすくなかった。人のつながり、とくにおなじ道を志す友人たちが、修行のほとんどすべてだった。鈴木博義や福島和夫、それから一柳慧、湯浅譲二、秋山邦晴、谷川俊太郎、音楽家たち、詩人たち。ほとんどおなじ頃、出発した芸術家の世代。

1948年から49年にかけて書かれたピアノのための習作の楽譜が何曲か残されている。こういう書きかけの楽譜が発見されて、全集に収められることは、生前の作者は予想していなかっただろう。

「二つのメロディー」と題して書きはじめても、1曲をやっと終えただけで、2曲目はない。この第1曲は「筧」と題されていたらしい。単純なメロディーはわずかに変奏され、はじまった場所に回帰する。このメロディーはどことなく早坂文雄を思わせる。他の曲もみんなどこかにあったような楽譜の姿を見せている。

独学でしかも自己流にならないためには、基礎理論を勉強するよりは、他人の楽譜を見て、それに似たものを書いてみること、それに似た響をピアノでためしてみることのほうが効率的な学習法と言えるだろう。若い武満は、他人の音楽に敏感で、影響をうけやすかった。

「二つの作品」、と言っても3曲の未定稿があり、いたるところで音を訂正しかけたまま放棄されている。アレグロの音楽を書こうとして苦しんでいたらしい。始めと終わりのある「音楽」らしい音楽を書こうとして、始めることはできても、終わりにたどりつけなかったのかもしれない。

「二つの小品」、またアレグロ。すぐ終わってしまう。やはり、一つのはじまりだけでアレグロを書くことはできない。アレグロとは速度ではなく、擬似的二元性だから、元気よく走り出すためには、元気なく取り残されるものを必要とする。これをソナタ形式と呼んでもいいが、それこそ近代的父権主義の音楽でなくてなんだろう。武満は、幸か不幸か、アレグロを書くことができなかった。

それにつづくのは、のちに「二つのレント」の第1曲になるものの発端。これは何回と無く書きなおされて、完成された版は、批評家の山根銀二に「音楽以前だ」と言われたほど、このフレーズのまわりをひたすらめぐる。対立をもたないことは、構成をもたないことではないが、ドイツ的音楽観は対立と闘争を絶対視する。

レントは、武満の身体が受け入れることのできた音楽の時間だった。ピアノで一つ一つの和音の響をたしかめる作曲家の身体。さまよう手がさぐりだした響の余韻に立ち止まりながら、時には激しくぶつかる音程を打ち込んでみる。

二つのレント」の第1曲になった一つのフレーズは、そうした音の身体の隙間からふと浮かび上がってくる。だが、それがどこへ行くのか見まもる忍耐は、この身体にはまだそなわっていない。忍耐は技法であっても、いわゆる作曲技法とはちがう、音がおのずから行くべきところに向かうのを待てずに手を出さないでいられる、抑制の身体技法と言ったらいいのだろうか。

おなじ頃のピアノ曲「ロマンス」もそうだが、5音組織にこだわり、しかも半音を含む江戸的な「陰」旋法によって、それを構成する音程を組み換えながら、統一原理を、あるいは作曲技法をさぐっていたらしい。

その頃知り合った清瀬保二や早坂文雄たち戦前に出発した世代も、チェレプニンの影響からか、ペンタトニック(5音音階)にこだわった。それは日本独自のものであるどころか、東アジアと東南アジアに存在する無数の音組織のほんの一部にすぎないが、近代の民族主義者たちは日本の民族性がここにあると決めていた。武満はそれにことばでは反発しつつも、その皮膚感覚を生きた。

シェーンベルクやヴェーベルンが12音技法とはいいながら、ロマン主義的3度と半音のたった二つの音程を組み合わせた貧しい響に閉じこもり、反転したロマン主義を微分的に凝縮したように、武満のレントも、4度と半音の組み替えのなかで江戸町人の屈折した情緒を温存していたようだ。

第二の「レント」では、ちがう空気が流れる。これを書く直前にメシアンの「前奏曲集」の楽譜を見たらしい。ここでは、初期メシアンの和音や音形をためしているが、、似合わない新しい服を鏡の前でためしているこどものように、いくらかためらいながら、時にはもとの貧しくやせた響が表面に出てくるのを抑えられないでいる。ところが、1年後の「妖精の距離」や「遮られない休息」第1曲では、そのような不器用さはなくなって、自分の音楽のように身についている。独学者の学習はすばやい。

3.現場

1950年代の東京には、いまのようにたくさんの若い作曲家はいなかった。音楽を必要とする場はあって、きっかけさえあれば、映画や舞台、あるいはラジオドラマの音楽を書くしごとがあった。武満は1952年から早坂文雄の映画音楽の助手をしている。そのほかにバレー音楽を書いたり、編曲の仕事もしている。こうして音楽の現場で、楽器の使い方や演奏家とのつきあい、画面に音をつけるやりかたをまなんだ。のちには、かれ自身の映画音楽を手伝ってくれる若い作曲家と工房を作って、しごとをした。

その頃の日本では、映画や放送局のような商業メディア専門の作曲家たちはまだいなかった。コンサート音楽をめざす作曲家も、生活のためにこういう場でしごとをしていた。当時内幸町のNHKの向かいにあった喫茶店には、しごとを求める作曲家たちが出入りしていた。新しい映画の企画がすすんでいるときくと、偶然のようにプロダクションに顔を出したりもした。

放送局では磁気テープが録音に使われはじめた。フランスではラジオドラマの効果音からミュジック・コンクレートの技法が編み出された。それは1950年代はじめには日本に輸入されて、実験的音楽作品としてよりは、ラジオドラマや詩劇のなかに使われた。テープを切り張りし、速度を変え、逆回転させる、といった操作は、作曲家がやるより、音響技術者がいて、効果音のライブラリーや、新しい効果の実験をしてくれたし、声は俳優を雇い、台本は詩人が書き、そこに演出家までいるといった工房の集団作業で創られた当時の作品は、演劇的・心理的な表現がおおかった。NHKではケルンの放送局で開発した電子音楽の実験もはじまっていたので、発振器の音を組み合わせることもできた。

1950年代の武満はテープ音楽の作曲家として知られていた。当時の技術水準でできることはすべてやっているし、現実音の思いがけない使い方のくふうがある。40年後の今きくと、ディジタルのなめらかな響に慣れた耳には、当時の音はかえって生々しい起伏がある。古くなったのは、過剰にエコーのかかった響と翻訳舞台劇の誇張された心理表現を思いださせる俳優のわざとらしい声だ。

全体に叙情性がつきまとっている。声をつかうことの背後に「うた」と官能的な「愛」への屈折した思いが感じられる。

武満はもとから映画が好きで、暇さえあれば映画館に行っていたが、当時の日本映画の音楽には映画会社の商業的な規制がきびしかったので、1950年代はラジオや舞台のほうが、いろいろな試みができた。テープ音楽のような実験的な試みも、番組のなかに使われれば、コンサートよりもたくさんの人がきくことになる。また、ジャズやポピュラーソングのスタイルで主題歌を書くこともあった。

オペラがかつてそうであったように、映画やラジオドラマは20世紀では音楽・現実音・主題歌・会話を取り込んで、総合的なメディア制度になっている。武満はサウンドトラックの最終的なミックスに立ち会って、音楽だけでなく、それぞれのシーンにつけられる音のすべての配分を慎重に決めていた。

ここでは創造性は、コンサート音楽の場合のように色彩や手法のような表面的次元ではなく、どの場面にどのような音をつけるか、あるいはつけないか、というもっと知的なレベルで表現される。音楽の構造は、音列やソナタ形式のように使い古されたものではなく、編集の背後にある技術的・社会的な世界観のかたちで潜在する。

このような場での音楽の役割は、それだけを切り離して聴いてみる時とはちがう「うつくしさ」をもっている。だが、それはそれとして、じっさいには、ある音楽は切り離されて、別な場で別な編集をほどこして使えるかもしれない。バッハの時代には、ある音楽を宗教的な場から世俗の場に転用することがおこなわれていた。原曲を変奏しつつ、個人的な感情をそこに忍ばせることもおこなわれた。それをバロック的と見ることもできるだろうし、啓蒙主義の兆しを読みとることもできるだろうが、表現はつねになにかを顕すことによって別なものを隠す。表現者の、そのバランスのとりかたに歴史のシステムがはたらいている。

舞台音楽からテープ音楽としてのちにまとめられた作品がいくつかある。「ルリエフ・スタティク」はラジオドラマの音楽だった。「ユリディス」は舞台音楽だった。

オーケストラ作品に組み込まれたものもある。「弦楽のためのレクイエム」は劇音楽に使ったメロディーにもとづいている。「地平線のドーリア」には、「砂の女」の映画音楽の一部を転用している。

4.職業

個々の作品は完結しても、作曲家のしごとが完成することはない。それはいつも途上にある。

1960年代のなかばまで、武満は実験していた。5音組織の音列的展開の貧しい響から、メシアンにまなんだ和音の堆積や過剰な装飾、ベリオの「セクェンツァ」の無拍記譜法、ルトスワフスキの周期の異なるフレーズの反復の堆積、リゲティの絡み合う多数の声部の「ミクロポリフォニー」、ペンデレツキのグリッサンドやクラスター、ケージの図形楽譜、グラフィック・デザイナー杉浦幸平とのコラボレーションによる多色刷り円環図形楽譜など。

1967年の「地平線のドーリア」について武満はharmonicpitchによる音組織とpulsationによるリズムという自分の技法に触れている。pulsation(脈拍)いうことばとは反対に、かれの音楽には固定した拍は感じられない。呼吸のようにたえず変化するフレーズの長さと音の密度による周期があり、呼吸のように絡まる音はすべて円環の時間のなかに溶けこんでいる。ここには多元的な時間はない。

harmonicpitch(倍音を含むピッチ)は5音組織やそのさまざまな変形をそれ自身の上にかけあわせ、鏡のように上下反転させて音程関係の網を織り、それをそのまま提示するよりは、それをめぐり、たえずそこに回帰する線や音の束を制御する隠れた中心として作用する。「地平線のドーリア」や雅楽のための「秋庭歌」では、それは前景に位置する楽器群の名でもあり、それに対してエコーと呼ばれる楽器群が背後に置かれて、前景の和音をからまる線でひきのばし、陰影と余韻をあたえる。見かけの上では多層空間だが、平面的な印象をあたえる。

武満自身が自分の和声的語法について語ったのは1984年の「夢と数」と題する講演のなかだった。1980年代にはかれの語法は確立し、多くのオーケストラ作品を書き、アメリカ、フランス、イギリスで演奏されるようになった。かれの音楽はシェーンベルク、メシアン、それにのちにはますますドビュッシーの影響を見せていた。東洋的な色彩を表面にちりばめた西洋音楽、あるいは西洋から見た「東洋」を提供してくれるジャパネスクとして、グローバルな音楽制度のなかで作品を創り、国際的な音楽市場に受け入れられた、とかれ自身は思っていなかったし、思いたくもなかっただろう。

ちょうどその頃は、ヴェーベルン的音列技法の可能性を使いつくし、メシアンが発見したストラヴィンスキーの「春の祭典」のリズム細胞の変化もアカデミックな技法に退化させてしまったあとで、ブーレーズが再発見したドビュッシーの音色が、このヨーロッパ前衛の旗手を19世紀音楽の守護者に変えていった時期だった。武満の音楽は、ドビュッシーやメシアンのオリエンタリズムを問題にしたことのないヨーロッパで、かれらの音楽の正統性とグローバル性を保証したようなものだった。

オーケストラはかつては宮廷に雇われていた。作曲家たちもそうだった。いまは文化国家の助成金か、アメリカのような軍事国家ではそれにかわる財団にささえられなければ、やっていけない。

それでもオーケストラは国民国家のなかの一つの文化制度でありつづける。新作を委嘱し、初演するのは、一人の指揮者が情報を管理する軍隊式集団で、その情報は背後にいる集団、楽譜の使用料を取り立てる出版社や、レコード産業やヨーロッパの国営放送局でなければ、ニューヨークから世界の音楽市場を支配するマネージメントの見えない手で操作される。

この闘技場で非ヨーロッパ人が活動を継続するためには、個人的スタイルが商標の役割をはたし、その上にナショナル・アイデンティティーを要求される。作曲家は守りの姿勢にはいる。うつりかわる現実は、さまざまな影響は、磨かれたスタイルの表面に映る淡い影のようなものになっていく。

5.うた

コンサート音楽作品が映画音楽より一段高いものとされるのは、音楽の制度内のことにすぎない。どんな音楽ジャンルにも価値の上下はないといって批判する人びとは、制度が政治的・社会的なものであることをしばしば忘れる。

国際的な音楽市場では、作曲家はわりあてられた役割で個人ゲームを演じている。映画では、作家と技術者チームの一員として別なうごきかたをする。映画会社の商業主義は、社会から排除された人びとの夢と現実のあいだで起こるドラマを、メロドラマに変えてかれら自身に売りつけようとする。その作業を現場で担当しながら、そこにちがう意味をそっと添付すること、それが映画作家のバランスのとりかただろう。映画の音楽家もおなじだ。社会的。文化的戦略にもとづいて、多様なスタイル、多彩な手段が流用される。そこでは、作曲家の個性のように固定されるものは障害でしかない。このように使われた音楽を、その場面から切り離して「音楽」として評価することにはあまり意味がない。

ハリウッド映画音楽やブロードウェイ・ミュージカルの音楽の基礎は、1940年代に中央ヨーロッパから亡命した音楽家たちによって創られた。1950年代のジャズのコードは、スクリャービンのようなロシア象徴主義の語法を引き継いでいた。第2次世界大戦後のチャーリー・パーカーのように社会に押しつぶされた個人の自由の表現が、朝鮮戦争の終わりとともにモダンジャズの空虚な名人芸に回収されていったとき、残されたのは白人たちのポピュラー・ソングに肥大したコードチェンジを貼り付けた人工的な音楽だった。

そこで、あらためて問うてみる。武満の「うた」とは、なんだったのだろうか。戦時下のシャンソン、占領下のジャズソング、それらは遠いうただった。外にある自由の夢。

そのうたを自分のうたとして書くことが、1950年代から映画やラジオドラマに「主題歌」として書いてきたあれらの「うた」だったのか。

軽く、口笛で吹きたくなるようなメロディーと、甘く重い1950年代のコード進行。ことば以前にメロディーがあり、さらにそれ以前にスタイルがある。ジャズ風、シャンソン風、クルト・ヴァイル風、などなど。最初の一節はことばと結びついて印象的でもある。それから後はメロディーがことばを追い越していく。それは劇音楽の場での必要であり、個人的にはたのしみだった。生活であり、生計でもあった。

1980年代になって、30年前の「うた」を合唱に編曲してみる。ギター曲やポップソングを書く。1950年代のハーモニーがハリウッド的アメリカの夢を思いださせる。それは意図的に古いやりかたをとりあげたのか。安定した生活のなかで貧しさをふりかえる。あたえられた場、あるいは獲得した場のなかで、失われた愛をかえりみる

ピアソラの流行、演奏スタイルの一つとしてのモダンジャズの復活、60年代や70年代のリメイク、時がたって無害な音楽に変わってしまった過去の冒険をとりあげることは、他の領域でも起こっている。武満の「うたふたたび」も、時代の表面を流れる傾向の一部かもしれない。オリジナルよりなめらかで、だから速度も速めになっている。時代の深いメランコリー。対立軸を見つけられず、力で創り出すよりない一極グローバリズム。

1960年、日米安保条約締結に反対する「若い日本の会」のメンバーたち、江藤淳、石原慎太郎、浅利慶太、谷川俊太郎、大江健三郎、そして武満徹、林光、間宮芳生、1990年にかれらはどこにいた。

武満の演奏者たち、ピーター・サーキンは1967年にはヒッピーのように生きていた。鶴田錦史や横山勝也は邦楽の世界ではアウトサイダーだった。かれらはその後どうなった。

むかしむかしどこかにわたしがいた
いまここにわたしがいる

「系図」(1995年)のなかの谷川俊太郎の詩。わたしとおもうこともなかったはだかのこどもと、いまわたしであるしかないいまのわたし。


[武満徹全集小学館第5巻のために]


…………

高橋悠治はなにを語っているのか
《あたえられた場、あるいは獲得した場のなかで、失われた愛をかえりみる。》

武満徹の「うた」は感傷的なノスタルジーではなかったのではないか
という言外の批判(吟味)を読みとることもできよう


雨の朝きみは武満徹を思い出している。
かれが亡くなって一月たった。
きみはかれのピアニストだった。
作曲の助手だったこともある。そこできみは
細かく書き込まれたスケッチから
映画のためのオーケストラ・スコアを作り、
楽器について、映画と音楽の関係についてまなんだ。
ながいあいだのように思っていたが、それは
ただ3年ほどの、しかし密度のある時間だった。
それからかれの友人となり、つぎに批判者となった。
そのことでかれはきずついた。
だが、きみとちがって、かれは
きみのことを悪くいうことはなかった。
きみは別な道を行った。
しばらく会うこともなかった。(「作曲家の生活」)


そしてジャズはどうだろう ーーノスタルジーでないことを祈るばかりだ

誰もがたやすく絶望しようとはしない現実への深い絶望、それは、特権的な輝きを欠いた現在という曖昧な中間地帯をのがれ、いま、ここではない世界に不在の理想郷を、きまって夢想せずにはおれない。そしてその理想郷が、未来であるか過去にあるのかどちらかでしかないという事実が、文学の制度性とみごとに一致する。(蓮實重彦『凡庸な芸術家の肖像』)

「文学」だけではない、「芸術」の制度性とみごとに一致する、--のかもしれない

なあマルサリス
きみはどう思う?







もっと滲んで  谷川俊太郎

そんなに笑いながら喋らないでほしいなと僕は思う
こいつは若いころはこんなに笑わなかった
たまに笑ってくれると嬉しかったもんだ

おまえは今いったいどこにいるつもりなんだい
人と人のつくる網目にすっぽりとはまりこんで
いい仕立てのスーツで輪郭もくっきり

昔おまえはもっと滲んでいたよ
雨降りの午後なんかぼうっとかすんでいた
分からないことがいっぱいあるってことがよく分かった

今おまえは応えてばかりいる
取り囲む人々への善意に満ちて
少しばかり傲慢に笑いながら

おまえはいつの間にか愛想のいい本になった
みんな我勝ちにおまえを読もうとする
でもそこには精密な言葉しかないんだ

青空にも夜の闇にも愛にも犯されず
いつか無数の管で医療機械につながれて
おまえはこの文明の輝かしい部分品のひとつとなるだろう

          (『世間知ラズ』より)


なあマルサリス
きみのデビュー当時は驚いたんだがな
1980年、18歳だったな(オレより三年下だ)
ラジオから流れてきたあの輝かしい音
アート・ブレイキーのメンバーだったな
それからわずかのあいだにもう
ハーバードで講義なんかやってるのかい
スーツ姿でさ ユーモアたっぷりで


連動するリズムの織物が 自由にうごけるように
余白を残しながら 
周期からはずれた位置から入って 
語りかける 単純な線が 通り抜ける
リズムが急に断ち切られ 
支えをなくした線は しばらく漂ってから
落ちていく マイルス・デイヴィス

ーーー反システム音楽論断片   高橋悠治

  …………





『谷川俊太郎が聞く 武満徹の素顔』より

谷川――(……)何かいかに生きるべきかということを考えないですむパーソナリティーがあると思う、僕の印象としてはね。

武満(娘・真樹)――それはそうかもしれない。

だから、言ってみれば何でそれですんでいるのか、というのはちょっと不思議なのね。だから、ほんとうに悩みが見えない人なんだよね。何かで悩んでいるということを感じたことある。

武満(娘・真樹)――ないですね。というか、もちろん作曲するときはあるんだろうけれども、それは一種喜びでしょう。決してそれを嫌がっている悩みではないから、・・・(……)

僕なんか、中年になれば中年のクライシスや男女の心理の本読んだり、老人の心理の本読んだりするけど、武満は一切そういうのなかったからね。「いや、この人悩みがないんだなあ」と(笑)。ほかに悩みはあったかもしれないけれど、現実生活の上では悩みっていうのはなかったかもしれない。もっと違う次元を生きていた人かもしれないって気がする。
でも、彼が浮き世離れした変人であったかと言えば、そんなことはありません。駄洒落も言うし、けっこうミーハーなところもあったし、家庭にあっても友人としてもまっとうな男だったことは、この本でぼくの相手をして下さったかたがたの証言をお読み下されば分かります。つき合っていて気がおけない楽しい人でした。けれどぼくはどこかでほんの少しですが、彼に遠慮していたような気がします。彼には自分でも気づいていないかもしれない秘密がある、そこに踏み込んではいけない・・・ときどきそんなふうに感じることがあったからです。その秘密はもしかすると、彼個人の秘密というより音楽の秘密そのものだったのかもしれませんが。(谷川俊太郎 あとがき)

『夜中に台所でぼくはきみに話しかけたかった』より

武満徹に

飲んでいるんだろうね今夜もどこかで
氷がグラスにあたる音が聞える
きみはよく喋り時にふっと黙りこむんだろ
ぼくらの苦しみのわけはひとつなのに
それをまぎらわす方法は別々だな
きみは女房をなぐるかい?






谷川知子に

きみが怒るのも無理はないさ
ぼくはいちばん醜いぼくを愛せと言っている
しかもしらふで
にっちもさっちもいかないんだよ