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2013年9月26日木曜日

ピアノを弾くこと

長生きしたカザルスは、最晩年、次のように語ったそうだ。《これまでの 80年間、私は毎日毎日、その日を、同じように始めてきた。ピアノで、バッハの平均律から、プレリュードとフーガを、 2曲ずつ弾く。》

ーーまねしてみたこともあったが、オレには続かないな





カザルスと同じくカタルーニャ生まれのモンポウの「沈黙の音楽」第一曲。

◆高橋悠治のもの




◆モンポウ自身のもの




ーーオレがやってみると、次のフレーズに入るのが、速くなりすぎたり、待ちすぎて曲の流れが途絶えてしまったり、あるいはフレーズの最初の音に力が入ってしまうだよな。YouTubeに他の演奏家のものもあるが、専門家でも下手くそなやつのを聴くと安心するよ 響きに耳をすます才能がないぜ おまえら


どこを押しても 決った音だけなら
慣れた平均律の耳は 
共鳴のちがいをききとれないか
どこを押しても 揃った響が返るだけなら

鍵盤に固定された音階は
音の抑揚ではなく
ない色を一つだけのねいろに映し
不揃いな指 抑えたひびき
ずらしたリズム 崩した和音
すれあう余韻 逸れるふしまわし
かすめ取るふち 息づく空間

弱さに引き込まれ
揺れうごく余地を残した

窪みの陰 翳る


ーーピアノという  高橋悠治




この曲を作ったころ、武満はメシアンの楽譜をみたり、あるいはシェーンベルクやヴェーベルンの曲を学んだそうだ。響きはメシアンであり、音型は、ヴェーベルンの後期の作品(OP.27だったか?)を思い出させないでもない。

…………


昨年はブゾーニとモンポウを録音し
今年はアキといっしょに石田秀実のピアノ曲集を録音した
ブゾーニは夢のように変わりつづける音の流れに
モンポウは遠いざわめきのこだまに
石田は山水画のなかの空間に歩み去る後ろ姿に惹かれて
(……)

休止符と小節線を書かない楽譜にしてみる
拍を数えない 同期しない
それぞれの音が それぞれの時間で明滅する空間
断片を入れ替えて 流れを断ち切る
音をはずして つながりにくくする

書きながら時間をかけてためしているやりかたを
身体に染み付けて 演奏を解体していく
自然にうごいてしまうことから距離をとる
わずかな変化に注意を向けると ありきたりのうごきはしずまる
ほどけ ばらばらになっていく
こんなことで いいのだろうか

くりかえすたびに変化する
二度とおなじうごきはなく
はじまりの地点からはなれて 二度ともどることはない


ーー冷えとひらき  高橋悠治

高橋悠治が(……)体制に迎合するのでもなければ、反体制運動の前衛としてそれと真っ向からぶつかるのでもない、別な形のコミュニケーションの技法を模索している姿は、われわれにとってもきわめて示唆的だ。前衛音楽が退潮し、ありとあらゆる音楽を並列したマーケットがインターネットに乗って世界を覆ったかに見えるいま、そこに回収されない「別な音楽」は、そのような技法によって辛うじて生き延びていくのかもしれない。(浅田彰「高橋悠治 with 波多野睦美」
かつて触れた2011年の神戸でのコンサートを思い出せば、このディスクのようなレパートリーなら高橋悠治(ケージの傑作「プリペアード・ピアノのためのソナタとインタールード」は今もって彼の録音がベストだろう)と波多野睦美でずっといい録音ができるはずだ。日本にそういうことのやれるプロデューサーはもういないのだろうか…。(同「ラーンキ夫妻のドビュッシー」)

高橋悠治の水牛のエッセイを、日記のようにして読んでいくと(まずは2004年から一年ごとに2013年のものまでPDFファイルにしてiPadの画面で線を引きながら読んだのだが、そこから今度は逆に、逆行して2003→2000という読み方をした)、2008年前後に高橋悠治は変わったのではないか、と感じる。批判の舌峰鋭さが消えてゆき、模索の態度が前面に出るようになっている。2008年といえば、1938年生まれの高橋悠治は70歳。もっとも、その切りのいい年齢はとくには関係ないのかもしれないし、変わったというのも錯覚かもしれない。






《2012 年はケージ生誕 100 年で、ヨーロッパやアメ リカでは多くの記念行事がある。最近の作曲家は自 分の作品より長く生きて、晩年は忘 れられ、有名なだけで作品は演奏されないこともある。ストラヴィンスキーは最晩年にニ ューヨークのホテルで暮ら していた。入院したが酸素テントの下でロシア語しか話さず、 聞き取れるのはヴェラ夫人とバランシンだけだったと言われる。亡くなって1年間はすべ ての作品が演奏された。次の年には『春の祭典』と『兵士の物語』だけになった。武満の 最後 10 年間は、日本では演奏されなくなり、委嘱はアメリカ とヨーロッパだけだった。 亡くなって1年間はあらゆる作品が演奏され、それ以後は他の現代作品を演奏しないで済 むために、ポップソングばかりが演 奏されるようになった。クセナキスの最晩年もフランスでは演奏されず、委嘱はドイツとイギリスから来た。音楽は商品で、作曲家の名前は ブランドに なったようだ。音楽への興味や発見のためではなく、業界のアリバイのために使われるのだろうか。

ケージやクセナキスはいまでは研究者たちに解剖される死んだ音楽標本になっていく。で きあがった作品の細部まで分析しても、残された繭の構造のみ ごとさからは、飛び去っ た蝶の姿は見えないだろう。短い 20 世紀と言われる。1914 年までは 19 世紀ヨーロッパ の長い終わりだった。その後は戦 争と革命の時代で、伝統は破壊され、新しさを求めた 試行錯誤が続いたが、1920 年代の終わりから、実験の行き詰まりから引き返し、機械文 明への 素朴な信仰をもったままで「バッハ」や「原典に帰る」新しい権威主義が支配し、 1960 年代の終わりには失速したが、まったく崩壊するまでには 1990 年を待たなければな らなかった。その後の、先の見えない賭博経済と民族紛争しかないこんな時代の音楽の現 実からは、固定したカテゴリーや システムや方法を論じたり、すぎてしまった新しさに 価値や展望を求める態度には、縁遠いものを感じる。過去は技術だけではないだろう。規 則や定義 や理論としてはっきり限定されないままに、世代を越えて受け継がれる文化伝 統、音楽的身体や感情は、歴史の可能性とも言えるし、音楽的ふるまいの 環境でもあり、 呼吸する空気でもあるだろう。》(だれ、どこ     高橋悠治


ピアノを弾くこと  高橋悠治

ピアノは生活の手段だった。オペラの練習や歌の伴奏から、前衛音楽の演奏家になり、そこにバッハのようなクラシックのレパートリーを入れてきたので、ピアニストとしての教育は受けなかった。家が貧しかったのでピアニストとしての教育を継続して受けることはできなかったこともある。19世紀的な名人芸はできもしないし、やる気もなかった。1950年代の前衛音楽では点としての音のタイミングと強度を指定された通りに区別するのがすべ てだったのか。それに対してオペラ的なものは身振りとしてのパターンを過剰に提示すればよかったのか。必要な身体技術を身につけるだけでピアノを弾くことはできる。作曲家だから作品を分析することができて、その知識の上で演奏を構成していると思われているかもしれないが、演奏している時に考えることは妨げにしかならない。同じメロディーが再現するからと言って同じ演奏はできないどころか、時間が経てば同じ音符もちがう響きがするのでなければ、演奏する意味がない。

書かれた音符のちがいをはっきり聞かせるだけの楽譜に忠実な演奏は、1930年代から数十年続いた演奏スタイルにすぎなかった。そうだからと言っ てそれ以前の個性的な表現や技術や感情に支配された演奏スタイルに帰るわけではない。

ピアニストとみなされると、人が聞きたがるものを弾くことになる。バッハを弾いているとそればかり求められるが、日本では数十年前のグレン・グー ルドの代用品にすぎないから、弾くだけむだと最近は思うようになった。19世紀音楽はだれでも弾くから競争になるだけだし、音楽がもう死んでいて、経済的価値しか残っていない

20世紀の構成主義や技術主義的な音楽観はバッハやベートーヴェンからシェーンベルクまでのエリートのものだった。音楽が制度であるかぎり、作曲 や作品の権威はなくならないのかもしれない。でも、何を弾くかが問題であるうちは、音楽の歴史は作曲家の歴史で、楽譜に書けるようなピッチや時間 の長さといった数量が中心である音楽は、市場経済の一部になっていくのだろう。

ピアノを弾くのがいやだった時期が長かった。シンセサイザーやコンピュータ、アジアの伝統楽器に惹かれていたこともあった。電子音には自発的変化がない、擬似ランダムな操作で変化を加えてもそれはほんとうの偶然ではなく、発見がない。伝統楽器は伝統のなかに入らなければ何もできない。残っ たのはピアノだけだった。この19世紀の音楽機械、力と速度と量を操作する技術の楽器を異化することができないだろうか。

ちがう原理による音楽を作ることはできる。だが、「何」の限界にとらわれないためには、「どのように」からはじめるのがよいかもしれない。

音楽は音が聞こえるという「聞こえ」がすべてだ。聞こえるものの背後に音楽の本質があるというベートーヴェン的思い込みは耳の現実ではないように 思える。音は聞こえたときは消えていて。音の記憶にすぎない。『印象がすでに表現だ(馬にとってのように)』(クラリセ・リスペクトール)。『見 えること、それこそあることかもしれない、そのように、太陽は見えているなにか、そのものである』(ウォレス・スティーヴンス)。楽譜の上で左と 右に見える模様は、右から左へ見ていくことはない。時間を横軸とし音の高さを縦軸とする格子のなかの模様を耳は聞いていない。音はすぎていき、次 の音は前の音とはちがって聞こえるのを時間と呼ぶなら、時間は規則的に区切られた線のように連続してはいないだろう。記憶される音楽は録音された音楽とはちがう。

ピアノを弾くときは低く座る。ほとんどのピアニストは鍵盤を見下ろす位置に高く座り、背を前に倒しているが、これでは背だけでなく肩や腕にむだな力がかかるし、タッチが浅くなるような気がする。キーを見ながら弾くと、手や指の位置に関する固有感覚がにぶくなる。ピアノを弾いて疲れるのはま ともではない。弾けば弾くほど身体から余分な力がぬけてらくになるはずなのに。と言っても身体は静止してはいない。静止させた身体から手や指だけを動かすのは部分的な運動でストレスが大きくなる。じっさいには、身体が静止しているときはない。いつもうごいているからうごかすこともできる。 全身がいつも円を描くように運動しているから、それにのせて力を分散させれば、わずかな動きだけで大きな変化を作ることができる。聴覚神経も固有振動があるから音がきこえるのと似ている。

メロディーはさまざまな粒子の相互干渉の流れを無視して、音楽を一本の連続線に均す。近代和声は連続を求心性の周期に翻訳していた。ところが演奏 はメロディーを音色の時差のグループに断片化し、和声を点滅する響きの距離空間に解体する。音色、音質、リズムの揺らぎは楽譜に書くことはむつか しいし、あらかじめ決めることができないから、指定することには意味がない。廃墟に残された道標のように何ものも指していない無意味な指定は、無 視することができるばかりか、構造主義的な音楽観に特徴的な二項対立のように、取り除くことによって音楽は解放されるだろう。同時性、周期性は見 かけの要約だから、乾物をもどすように指のうごきがこわばりを取り除いてしなやかさをとりもどす誘い水になる。ピアノの均質な音色は、強弱の差異 を小さくしながらタイミングをすこしずらすことによって翳りを帯びる

ここに書いていることには個人的な好みもあるが、時代のスタイルの現われでもある。その有効性ははじめから限られている。表現や構成や綜合をめざ してはいないし、それらからはむしろ解放された方向にひらいたものでありたいとは思うが、じっさいそうなっているかどうかはわからない。こうあり たいと努力するようなことではなく、努力やよけいな緊張のない、なにかちがうものであろうとするストレスのない、うごいている身体がそれ自体とそ れを撹乱する外側の両方に注意を向けている夢の持続のようなありかた。それはことばの本来の意味で練習とも言えるが、楽器の練習と言うときによく ある反復ではなく、いつもちがうやりかたの実験でありつづけるという意味の練習と言ってもよいだろう。

ピアノ練習には音はあまり必要ない。聞くことに連動する身体のうごきを意識すればよいのだから。次の音の位置にあらかじめ手があるように、見ないでその位置を感じ、それからそれを音にする、そしてそこから離れる、それをグループごとに沈黙で区切りながらためしてみる、それだけのこと。音はすでに記憶だから、音のイメージはあり、じっさいの音にすこしさきだってあり、音をみちびいていく。知覚は感覚に約半秒遅れて起こるといわれる が、イメージは音を作る身体運動の半秒先を行くように思われる。それが楽譜を読む眼のうごきでもあり、初見の方法でもある。

音のイメージとじっさいの音との落差あるいは乖離は知覚の時差がある限りなくならない。音には思い通りに操作できない部分が残る。それは偶然でも あり時間を遡って修正することはできないから、それに応じて次の音のイメージが修正され、さらなる乖離が続く。完全な方法はありえない。演奏は不 安定なもので、いままで書いたこともガイドラインにすぎないし、それだって保証されたものではない。

それなのに、確信をもっていつも同じ演奏をくりかえす演奏家がいる。この確信は現実の音を聞くことを妨げる障害になるのではないかと思うが、感性のにぶさと同時に芸の傲慢さをしめしているのだろう。演奏が商品でありスポーツ化している時代には、演奏家の生命は短い。市場に使い捨てられない ためには、いつも成長や拡大を求められているストレスがあるのかもしれない。

…………

最後に、ちょっとした長男の悪戯(オレに誰の演奏か当てろ、という)。三人の演奏家によるショパンの最後のマズルカ。演奏家不記載だが、最初のポーランドの女流演奏家は、「あなたたち、マズルカは、あたしの国の民族舞踊なのよ、そんなに気取って演奏しないで!」と語っているかのようだ。とはいっても、19世紀、ポーランド貴族(シュラフタ)のあいだで流行した踊りらしい。だが、シュラフタの数は西欧の貴族と比較すると多いため、時に日本の武士との対比で「士族」と訳されることもあるそうだ。