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2013年9月12日木曜日

悲しいときに悲しい詩は書けません/涙をこらえるだけで精一杯です

問いに答えて」  谷川俊太郎

悲しいときに悲しい詩は書けません
涙をこらえるだけで精一杯です
楽しいときに楽しい詩は書きません
他のことをして遊んでいます
……



感動しているときに感動とは書きません
涙がとまらないときに涙とは書きません
言葉を失ったときに絶句とは書きません

あなたはなにをしているのですか

ホモ・センチメンタリスのまねですか

ホモ・センチメンタリスは、さまざまな感情を感じる人格としてではなく(なぜなら、われわれは誰しもさまざまな感情を感じる能力があるのだから)、それを価値に仕立てた人格として定義されなければならない。感情が価値とみなされるようになると、誰もが皆それをつよく感じたいと思うことになる。そしてわれわれは誰しも自分の価値を誇らしく思うものであるからして、感情をひけらかそうとする誘惑は大きい。 (クンデラ『不滅』)

それともキッチュの病膏肓に入ってしまったのですか

キッチュという言葉は、どんなことをしてでも、大多数の人々に気に行ってもらいたいと望む者の態度を表しています。気に入ってもらうためには、あらゆる人々が理解したいと望んでいることを確認し、紋切り型の考えに使えなければなりません。キッチュとは、紋切り型の考えの愚かさを美しさと情緒の言葉に翻訳することなのです。キッチュは、私達自身に対する感動の涙を、私達が考えたり感じたりする平凡なことに対する感動の涙を私達に流させます。(クンデラ『小説の精神』)


…………


今月号の「水牛」に、高橋悠治がツイートやブログについて書いている。

tweet は「さえずる」、小鳥のか細い高い鳴き声だったが、ツイートは「つぶやく」と訳されている。いまは時々コンサートの予定や「水牛」に書いた文章にリンクする「お知らせ」のツイートをしているだけで、情報が多すぎて情報にならないのに、だれが読むかわからない空間で「さえずる」のではすぐ忘れら れるだけだろうが、それがちがう場所を指す標識ならば、そこに行ってみる手間をかけるために、かえって読まれる場合もありえなくはないとも考 えられる。それにしても確率は低く、しかも確率のように数で偶然を制御する考えとは縁を切ろうとしているのだったら、そんなことを問題にするのもおかしいはずだが。

ツイートの別な使い方。「ボット」のように、自由間接話法の、だれとも知れない声の仮の置き場所として使えないかと思ってはいるが、なかなかとりかかれないまま。

私的な生活や感想をツイートやブログで公開していれば、見えない他人から監視されている囚人の安心感にひたりながら、格差社会から排除されている現実を意識しないで済むのだろうか。インターネットのなかの仮想友人だけでなく、現実の人間も仮想化しているから、じっさいに困ったときは、だれも助けてくれないどころか、ゴシップの種にしかならないのに。

友情は妄想にすぎないとしても、それだからこそ、裏切られたら意味がないということにはならないだろう。裏切られてもやはり友人だと言えるよ うな、ほんの何人かがいるなら、それ以上の何を望むのか。細い曲がりくねった道。

見知らぬ他人の声で「つぶやく」。「水牛のように」に毎月こんなことを書いているのも、自分のために書きとめておくだけだ、とは口実で、じつは公開の場で考えてみせるパフォーマンスではないのか、と時々疑いながら。


高橋悠治でさえも、みずからの振舞いが、《じつは公開の場で考えてみせるパフォーマンスではないのか、と時々疑い》っている。

つまり「あなたはなにをしているのですか」の「あなた」のなかには
「私」も当然いれなければならない

そもそも現在、現実の人間関係さえもが仮想化していることが多いに相違ない


《じっさいに困ったときは、だれも助けてくれないどころか、ゴシップの種にしかならない》のではない友人関係(あるいは愛の関係)をあなたはそこで築けますか

あなたのやっているのは、ただの自己愛をふりまいているだけではないですか

己の感情のみを絶対的な価値に仕立て
およそ懐疑もなければ反省もない無思考で
自己愛的な存在への絶対的同意を求めること

すなわちクンデラのキッチュです

人は、なぜ死について語る時、愛についても語らないのであろうか。愛と性とを結び付けすぎているからではないか。愛は必ずしも性を前提としない。性行為が必ずしも(いちおう)前提とせずに成り立つのと同じである。私はサリヴァンの思春期直前の愛の定義を思い出す。それは「その人の満足と安全とを自分と同等以上に置く時、愛があり、そうでないならばない」というものである。平時にはいささかロマンチックに響く定義である。私も「いざという時、その用意があるかもしれない」ぐらいにゆるめたい。しかし、いずれにせよ、死別の時にはこれは切実な実態である。死別のつらさは、たとえ一しずくでもこの定義の愛であってのことである(ここには性の出番がないことはいうまでもあるまい)。(中井久夫


…………






些細な詩  谷川俊太郎

もしかするとそれも些細な詩
クンデラの言うしぼられたレモンの数滴
一瞬舌に残る酸っぱさと香りに過ぎないのか
夜空で月は満月に近づき
庭に実った小さなリンゴはアップルパイに焼かれて
今ぼくの腹の中
この情景を書きとめて白い紙の上の残そうとするのが
ぼくのささやかな楽しみ
なんのため?
自分のためさ