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2013年9月20日金曜日

真実の仮面による欺瞞

ジジェクの愛の定義」に引き続く。


《――仮装服として何を選びますか?

私の顔に、私の顔の仮面を着ける。そしたら、みんな私の振りをしている誰かで、私ではないと思うだろ。》(ジジェク)

これは何を言っているのか。

まずジジェクの仮面をつけるということは、ジジェクのふりをすることだ。次に、ジジェクが自身の仮面をつけるのは、「ジジェクのふり」のふりをすることだ。

フロイトの『機知』には、真実を言って--「真実のふり」をしてーー、相手を騙そうとする話がある。

あるガリツィア地方の駅で二人のユダヤ人が出会った。「どこへ行くのかね」と一人が尋ねた。「クラカウへ」と答えた。「おいおい、あんたはなんて嘘つきなんだ」と最初の男がいきり立って言う。「クラカウに行くと言って、あんたがレンベルクに行くとわしに思わせたいんだろう。だけどあんたは本当にクラカウに行くとわしは知っている。それなのになぜ嘘をつくんだ?」(フロイト『機知』

ひとは、彼はこういっているから、たぶんこうでないだろう、と推測することがある。その心理を逆手にとって、真実を言って相手を騙す、騙さないまでも韜晦する。これは比較的よくやる手口だろう。

いまは女から引く手あまたな美丈夫が、「ぼくはひどくおくてだったんだがね」と言う。友が「なにいってんだ、この野郎」と返す。だが、実際に、このやさおとこは、若い頃、女の取扱いに不器用で晩熟だったのだ。

たとえば、わたくしなら、今こう言ってみよう。すこしまえ自転車のサドル泥棒があった。「女性の匂いを嗅ぎたかった」として、容疑者の自宅からはサドル計200個が見つかったそうだ。

「オレの少年時代だったらやりかなねなかったな、かなりフェチというのか倒錯的だったからな」

ーーちょっとマズイな、この発話文は。今でもときには次の類の画像を貼り付けている身だから、だれもそうではなかったとは取ってくれそうもない(上の文だけでなく、この但し書きのような文でさえ、「真実」のふりをして騙そうとしているのかもしれないぜ、たとえば少なくともいまはたいして倒錯的でないと受け取ってもらいたい願いをこめての発話かもしれない)。







闇の夜を疾走する
一台の自転車
その長い時間の経過のうちに
乗る人は死に絶え
二つの車輪のゆるやかな自転の軸の中心から
みどりの植物が繁茂する
美しい肉体を
一周し
走りつづける
旧式な一台の自転車
その拷問具のような乗物の上で
大股をひらく猫がいる
としたら
それはあらゆる少年が眠る前にもつ想像力の世界だ
禁欲的に
薄明の街を歩いてゆく
うしろむきの少女
むこうから掃除人が来る

ーー吉岡実「自転車の上の猫」






中井久夫はカヴァフィスのエロス詩を引用したあと、次のように書いている、《現実の詩人のエロスはどうだったかはあまりわかっていない。しかし、ほしいままにエロスの中に浸りえ、その世界の光源氏であった男はそもそも詩を書かないのではないか。彼のエロス詩には対象との距離意識、ほとんどニーチェが「距離のパトス」と呼んだものがあって、それが彼のエロス詩の硬質な魅力を作っているのではないだろうか。(「現代ギリシャ詩人の肖像」)

詩人でなくてもいい、エロスをしきりに語るひとたちは、ほしいままにエロスの中に浸り切っていないことが多いはずだ。







さて、「ふりのふりをするpretending to pretend」の説明としては次の文がよいだろう。

ジジェクの『Less Than Nothig 2012)の第一章は、“Vacillating Semblances”という表題をもっている。その「FROM FICTIONS TO SEMIBLANCES」の節より。
How do we distinguish pretending [that fiction is true] from pretending to pretend?” It is here that Lacan enters, with his distinction between imaginary lure and symbolic fiction proper: it is only within the symbolic space that we can pretend to pretend, or, lie in the guise of truth.
The key formula of semblance was proposed by J‐A. Miller: semblance is a mask (veil) of nothing. Here, of course, the link with the fetish offers itself: a fetish is also an object that conceals the void. Semblance is like a veil, a veil which veils nothing—its function is to create the illusion that there is something hidden beneath the veil.

みせかけ(サンブラン)は、ヴェールのようなものなのだが、なにも隠していない。だがそれはその下になにかを隠しているという幻想を生む。たとえば、イスラム国のように、女が顔や体を覆えば覆うほど、われわれの(男性的)視線は女に、そのヴェールの下に隠されているものに、惹きつけられる、ことさら何も隠していないのに。それはフェティッシュの機能と同様だ。

欲望の対象=原因である<対象a>が、《objet petit a is a semblance of being (LacanS20)とも語られるのは、このあたりからも窺われる。そして、《the semblant closer to Freud's fetish object than to the uncanny》(The Concept of Semblant in Lacan's Teaching •.........Russell Grigg

Another case of lying in the guise of truth: a corrupt philosophy professor from my youth in Slovenia openly admitted his conformism, saying with a disarming smile: “I am scum, I know it, so what?” The lie of such an admission resides in the gap between the enunciated content and its subjective position of enunciation: by way of admitting his corruption openly, did he not adopt an honest position which somehow redeemed him from corruption? Not at all: the appropriate response is to paraphrase the old Jewish joke quoted by Freud: “If you are really scum, why are you telling us that you are scum?” Or, a more aggressive version: “You say that you are scum, but this will not fool us—you really are scum!”—in short: “Don't lie to us by telling the truth—you are scum!”(ZIZEK”LESS THAN NOTHING”)
※「subjective position of enunciation」(言表行為の主体的ポジション)とあるのは、メタ言語的位置のこと。


「ほんとうのことを言って騙す」ーー、次の文も同様に「実は違うと思わせたい」ということだ。

サン=ルーは(……)軍務に復帰しない自分自身に向かって皮肉のありったけを弄し、その調子のはげしさにこちらは不快を感じるほどであった。「なあに」と彼は力をこめて陽気に叫んだ、「たたかいに出ないというのは、その人間がどういう理由をつけるにせよ、それはみんな殺されたくないからだ、恐怖からだ。」そういって、身ぶりを加えて他人の恐怖を強調し、さらにその身ぶりよりももっと力強い肯定の身ぶりでもって、彼はつけくわえた、「ところでそういうぼくが、軍務に復帰しないとすれば、これもあからさまにいって、まったく恐怖からだよ、なあ!」賞讃に値する感情をわざと強くおしだすのが、やましい感情を被いかくす唯一の手段であるとはかぎらない、もっと新しい手は、むしろやましさをさらけだす、すくなくともそれをかくしているそぶりを見せないようにすることである、という点については、私はすでにさまざまな人にあたって気づいていた。おまけに、サン=ルーにあって、そんなやましさをさらけだす傾向が強められたのは、失態を演じたりへまをやったりして人に非難されかねないとき、自分でわざとやったのだといってそのことを大っぴらにする、という彼の習慣によるのであった。(プルースト「見出されたとき」井上究一郎訳)


「ボクは恐れているよ 死が怖い弱虫なんだ」、――といういっけん「誠実に」本音をさらけだす発話は、己れは恐れていないように受け取ってもらいたいのであり、それは真実の仮面による欺瞞lying in the guise of truthということになる。

《精神科医なら、文書、聞き書きのたぐいを文字通りに読むことは少ない。極端に言えば、「こう書いてあるから多分こうではないだろう」と読むほどである》(中井久夫『治療文化論』p81)は基本だとしても、こう書いてあるから、あるいはこう語っているから本当にそうだろう、という心理領域への目配りも、「社会の心理学化」(樫村愛子)が進行中の現在なら殊更忘れてはならないのだ。

そしてここで、もうひとつは、騙されない者は彷徨う、ーー象徴的機能に目を眩ませることなく、自分の眼だけを信じ続ける人は、いちばん間違いを犯しやすいのである。自分の眼だけを信じている冷笑者が見落としているのは、象徴的虚構の効果、つまりこの虚構がわれわれの現実を構造化しているということである。》(ジジェク)を見落としてもならない。

たとえば賄賂まみれの政治家が偽善的な正義の演説をする。シニカルなひとはそれを嘲笑する。だが彼の言葉が国家の理念を代弁するものであれば、それは人びとを良き行いへと導くこともありうる。これが象徴的虚構の効果なのであり、柄谷行人や浅田彰が、露悪的な日本では、偽善の価値を見直さなければならないと主張するのもこの意味である(参照:コードレッド)。シニカルなひとは場合によっては彷徨ってしまうLes non-dupes errentのだ。

(そもそもひとは、《私が自分の選んだ仮面(偽りの人格)を通じて演じる感情は、どういうわけか、自分自身の内部で思っている感情よりもずっとリアルだ》(ジジェク『ラカンはこう読め』P62)ということがしばしばあるだろう。)

たとえば、ジジェクのインタヴュー記事(「ジジェクの愛の定義」にて引用)での応答は、こういったすくなくとも三つの側面から読まなければならない。


…………

以下、附記

ラカン的な視点からすると、最も根源的な見かけとは何か。妻に隠れて浮気をしている夫を想像してみよう。彼は愛人と密会するときは、出張に行くふりをして家を出る。しばらくして彼は勇気を奮い起こし、妻に真実を告白するーーー自分が出張に行くときは、じつは愛人と会っていたのだ、と。しかし、幸福な結婚生活といううわべが崩壊したとき、愛人が精神的に落ち込み、彼の妻に同情して、彼との情事をやめようと決心する。

妻に誤解されないようにするためには、彼はどうすべきだろうか。出張が少なくなったのは自分のもとに帰ってきたからだと妻が誤解するのを阻止するには、どうすべきだろうか。情事が続いているという印象を妻に与えるため、彼は情事を捏造し、つまり二、三日家を空け、実際には男友達のところに泊めてもらわなくてはならない。

これこそが最も純粋な見せかけである。見せかけが生まれるのは、裏切りを隠すために偽りの幕を張るときではなく、隠さなくてはならない裏切りがあるふりをするときである。この厳密な意味において、ラカンにとっては幻想そのものからして見せかけである。

見せかけとは、その下に<現実界>を隠している仮面のことではなく、むしろ仮面の下に隠しているものの幻想のことである。したがって、たとえば、女性に対する男性の根本的な幻想は、誘惑的な外見ではなく、この眼も眩むような外見は何か計り知れない謎を隠しているという思い込みである。

このような二重の欺瞞の構造を説明するために、ラカンは、古代ギリシアの画家ゼウキシスとパラシオスの、どちらがより真に迫った騙し絵を描くことができるかという競争を引き合いに出す。ゼウキシスはすばらしくリアルな葡萄の絵を描いたので、鳥が騙されて突っつこうとしたほどだった。パラシオスは自分の部屋の壁にカーテンを描いた。訪れたゼウキシスはパラシオスに「そのカーテンを開けて、何を描いたのか見せてくれたたまえ」と言ったのだった。ゼウキシスの絵では、騙し絵がじつに完璧だったので、実物と間違えられたのだったが、パラシオスの絵では、自分が見ているこの月並みなカーテンの後ろには真理が隠されているのだという思い込みそのものの中に錯覚がある。

ラカンにとって、これはまた女性の仮装の機能でもある。女性は仮面をつけ、われわれ男性に、パラシオスの絵を前にしたゼウキシスと同じことを言わせる……「さあ、仮面をとって、本当の姿を見せてくれ!」(……)

男は女に化けることしかできない。女だけが、女に化けている男に化けることができるのだ。なぜなら女だけが、自分の真の姿に化ける、つまり女であるふりをすることができるのだから。




ふりをするという行為がひたすら女性的な行為であることを説明するために、ラカンは、自分がファルス(男根)であることを示すために作り物のペニスを身につけている女性を引き合いに出す。

《これがヴェールの背後にいる女性です。ペニスの不在が彼女をファルス、すなわち欲望の対象にします。この不在をもっと厳密に喚起すれば、つまり彼女に、仮装服の下に可愛い作り物のペニスをつけさせれば、あなたがたは、いやむしろ彼女はきっと気に入るにちがいありません。》(エクリ)

この論理は見かけ以上に複雑である。それはたんに、偽のペニスが「真の」ペニスの不在を喚起するということだけではない。パラシオスの絵の場合とまったく同じように、偽のペニスを見たときの男の最初の反応は、「そんな馬鹿げた偽物は外して、その下にもっているものを見せてくれ」というものである。かくして男は偽のペニスが現実の物であることを見落としてしまう。女が「ファルス」であることは、偽のペニスが生み出した影、つまり偽のペニスの下に隠されている存在しない「本物の」ファルスの幽霊である。まさしくその意味で、女性の仮装は擬態の構造をもっている。というのも、ラカンによれば、擬態(物まね)によって私が模倣するのは、自分がそうなりたいと思うイメージではなく、そのイメージがもついくつかの特徴、すなわち、このイメージの背後には真理が隠されているということを示唆しているように思われる特徴である。パラシオスと同じく、私は模倣するのは葡萄ではなく、ヴェールである。「擬態は、背後にあるそれ自身と呼びうるものとは異なる何かを明らかにするのです」(エクリ)。ファルスの地位そのものが擬態の地位である。ファルスは究極的に人間の身体にくっついているいぼみたいなもので、身体にふさわしくない過剰な特徴であり、だからこそそのイメージの背後には真理が隠されているという錯覚を生むのである。(ジジェク『ラカンはこう読め!』P193~)





「オレはほとんどあらゆる性戯を経験しているが、女に張り型つけさせてヤッテもらうのは、まだで、このままでは心残りだ」、--さてこの文は、”lying in the guise of truth”だろうか。

「そうだな、倒錯者としてはSMは当然にしても、女の去勢だってあるさ」

……おさげ髪を切るものの態度には、たとえ遠くからであっても、否認された去勢を執行しようとする欲求が、強く押し出されていることが見てとれると考えられるのである。彼の行動は、そのなかで女性は陰茎を無事にもっているというものと、父が女性を去勢してしまったという、両立しがたい二つの主張を、和解させているのである。(フロイト『呪物』ーー倒錯と女の素足(谷崎潤一郎)


…………

オカマというのはよがりますよね。枕カバーがベットリ濡れるくらい涎を流したりするでしょう。するとやっているうちに、こっち側になりたいという気になってくる。だからオカマを抱いちゃうと、大体一割くらいのケースで、オカマになりますね。(野坂昭如ーー岩井志麻子『猥談』より)

ギリシア神話のテイレシアス曰く、「性交の喜びを10とすれば、男と女との快楽比は1:9である」。


…………

人間だけは真理そのものを使って騙すことができる。動物は、自分とは違うものであるふりをしたり、自分がやろうとしているのとは違うことをやろうとしているふりをすることはできるが、嘘だと受け取られるだろうと予想して真理を述べ、それによって騙すことができるのは人間だけだ。人間だけは騙すふりをして騙すことができるのだ。(ジジェク『斜めから見る』p141)