風邪がいったんは治まったと思ったのに、またぶりかえす。
ーーマタイの聴き比べなどするものではない、最近のものならまだしも、かつての重々しい録音などで。疲れ切って病気になってしまう。
いつだったか私は、『西洋の音楽では、バッハの《マタイ受難曲》がいちばん偉大な音楽だと思っている。西洋音楽から、ひとつだけとるというのなら、これをとるだろう』と書いたことがある。この考えは今も、変わらない。芸術(つまり、ものを考えてつくる営み)と芸術をこえた精神の最高のものに至るまでの間で西洋の音楽の成就したすべてが、あすこにはあるというのが、私の考えである。(吉田秀和『私の好きな曲』p7)
……私は《マタイ受難曲》は、これまでほんの数回しかきいたことがない。レコードでもはじめから終りまできいたのは、何度あったか。数はおぼえてはいないが、十回とはならないのは確かである。私は、それで充分満足している。私は、こんなすごい曲は、一生にそう何回もきかなくてもよい、と考えている。この曲は、私を、根こそぎゆさぶる。(同p172)
とにかく、《マタイ受難曲》の感動の中には恐ろしいものがあり、その迫真性という点からいっても、悲哀の痛烈さには耐えがたいものがある。(……)《マタイ受難曲》はおそろしい音楽だ。話はもちろんのこと、レチタティーヴォが多く、全曲としてはるかに長大なのも、きき通すことの困難さを増す。それから、また、単純にして痛切なコラールの表現性の峻厳さ。P173
《昨日はマタイ受難曲を全部聴いたんだよ。いやぁバッハはすごいね。僕らはクリスチャンじゃないけどなんなんだろう……》(1996年2月19日)
武満徹はこう語って、その次の日(1996年2月20日)に逝った。
吉田秀和は、他にもどこかで、マタイの第39曲のアリア(Erbarme dich)のことだろう、「この演奏のペテロの否認の部分で泣かない者は音楽を聴く必要がない人である」と書いているそうだが、今なら、ひとはこういう言い方はしないだろう。上に引用された文も70年代に書かれたものであり、現在の感覚からすれば大仰な語り口ではある(当時の、啓蒙的な挑発として捉えるべきかもしれない)。
Erbarme dich、すなわち「どうかお憐れみください」は、昨日、フルトヴェングラーの指揮のものを附したが、高橋悠治はその同じアリアをピアノ用に編曲している(波多野睦美さんの歌での伴奏版もあって、演奏会で共演している)。
ここではErbarme dichの前の、わずか15秒ばかりの輝かしい合唱、”Wahrlich, du bist auch einer von denen; denn deine Sprache verrät dich".(ほんとうだ。お前もあの男たちの一味だ。お前の方言を聴けばすぐに分かる。)を置いておくだけにする。
もうひとつ、ヨハネ受難曲の合唱を二人の指揮者のもので(鈴木雅明/リヒター)。
ーーつい先日、世界的に評判の高い鈴木雅明の演奏をはじめて聴いて(冒頭の合唱は以前聴いたことがありそれ以外は)、こんな生気溢れる鮮烈な合唱箇所だったか、といささか興奮し、カール・リヒターの同じところを聴いてみたのだが、この部分に関しては、鈴木雅明、あるいは最近の指揮者たちの解釈のほうを好みつつある。