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2013年9月28日土曜日

ラカンの対象aとしての声




ラカンのセミネールとエクリの関係は、治療における被分析者と分析家の関係に似ている。

セミネールでは、ラカンは被分析者としてふるまう。すなわち「自由連想し」、即興で語り、飛躍したり跳躍したりしながら、聴衆に語りかける。そのため聴衆のほうはいわば集合的な分析家の役割を負わされる。

これと比べ、彼の書いたものはひじょうに濃縮されていて、公式的である。時には託宣のような不可解で曖昧な命題を投げつけ、それに取り組んで明快な命題に翻訳し、適切な例を挙げ、その意味を論理的に証明しろ、と読者を挑発する。通常の学問的な手続きにおいては、著者が命題を公式化し、さまざまな議論によってそれを裏付けるわけだが、それとは対照的にラカンはしばしばこの仕事を読者に委ねる。いやそれだけでなく、読者は、ラカンが次々に繰り出す互いに矛盾した命題の中から、どれがラカンの本当の命題なのかを決めなくてはならず、託宣のような公式の真意を忖度しなければならない。そうして厳密な意味において、ラカンのエクリは分析家による介入のようなもので、その目的は、被分析者に既製の意見や陳述を提供することではなく、被分析者を働かせることである。(『ラカンはこう読め!』巻末「読書ガイド」より)

ジジェクはラカンのセミネールについて上のように書いているが、どうもそれだけではないように思える(仏語に疎いにもかかわらず冒頭の映像以外にもいくつか垣間見てみたのだが)。やはりセミネールでも「知っていることを想定された主体」、あるいは対象a=分析家として、聴く者の無意識に語りかけているのではないか。無意識、――この語が陳腐化され過ぎて使われている現在なら、中井久夫の<メタ私>でもよい、ーー<私>に語りかけるのではなく、<メタ私>に語りかけているのではないか。

※参照:中井久夫の<メタ私>概念をめぐっては、「フロイトの偽装された自叙伝、あるいは「原抑圧」」にいくらか引用されている。

もっともラカンは分析家だけでなく、分析主体(ヒステリーの主体)も、ときに「知を想定された主体」となると語っているらしい。

ラカンはまた、分析家にとって分析主体は知を想定された主体であるとも言っている。分析家が分析主体に自由連想の基本的ルールを説明するとき、分析家は実際に「さあ、なんでも言ってください。すべては素晴らしいものになるでしょう」というのだ(S17,59)。言い換えれば、分析家は分析主体にすべてを知っているかのように振舞うように言い、それが分析主体を知を想定された主体として成立させる。(ラカンの「知を想定された主体」[subject supposed to know, sujet suppose savoir]


ジャック=アラン・ミレールは、ラカンのセミネール一巻『フロイトの技法論』の日本語版(岩波書店1991年刊行)の序文で次のように述べている。

……ラカンは、書いてきた原稿を読むということはありませんでした。また、何らかの神憑りの状態で、即興で語ったわけでもありません。そうではなくて、ラカンは、机の上に散らばっている夥しい量の彼のノートと対話しながら彼の道を辿り、熟考し、様々な問いを立てました。聴衆の動向に対しても注意深く、ある時は駆け足で進み、ある時はじっくり論じ、熟達したスキャンションの技術をもちいて、話ぶりや調子を変化させました。それはまるで、気紛れな風が様々の形の大きさの雲を作り出し、ついには入道雲が沸き立ち、稲妻が輝き、突然の嵐がやってきて、哀れな聴衆に襲いかかるように、ラカンはほんのしばらく人々を揺さぶるような調子で語ったかと思うと、次の瞬間には穏やかな口調となり、静かな講義の調子を取り戻しました。そして、その結論は時間のセミネールに新しい光をもたらすことを約束するものでした。
ラカンの講義はパリでも比類なきものでした。1969年に、ラカンが法学部のもっと広い教室へと場所を替えたときには、およそ600人の聴衆が集まるようになり、それが、1980年に幕を閉じるまで続きました。おそらく19世紀なら、パリでラカンほど人を集めた人もいたかもしれませんが、現代においては、確かに彼ほどの人はいません。60年代からは、たくさんのテープレコーダーで録音されるようになり(日本はその分野ではなかなかのものです)、ラカンは最初はテープレコーダーを拒否したのですが、やがて受け入れざるを得なくなりました。そして、自分用にタイプさせていた初期の頃のセミネールまでもが、―――それをラカンは、しばしば弟子たちに貸していたのですがーーーコピーされて、流布していました。しかしながらラカンは、そのように書き取られたものは誤りだらけであり、しかも、声や身振りを欠いた筆記された口頭表現では彼の考えを正しく伝えることはできないと考え、出版を許可しませんでした。
ラカンの弟子たちが、次々に師を満足させることができるような、セミネールの決定版を出そうとあれこれ試みました。しかし、どれもラカンには満足のいくものではありませんだした。ある日、ラカンは私に向かって、ひとつ挑戦してみてはどうかと言いました。そこで、今度は私がトーナメントに挑戦することになりましたが、それは中世のおとぎばなしのように、彼の娘を得るためというわけではなく、―――実際にはそうなりましたがーーー彼の誘いに応じて、ラカンのいつもの「そうじゃないんだよ」を打ち負かすためでした。ラカンが対戦者であり審判でした。私は、ラカンのセミネールの中では一番最初に聞いた『精神分析の四つの基本概念』を彼のところにもっていきました。そして、これが最初に出版されたものとなりました。もちろんその際、私も協力して全面的に検討し直すことにはなりましたが。


1953年、ラカンがセミネールを始めたパリのサンタンヌ病院の精神医学教室においては、精神科医中心の聴講者だけの限られたものであり、最初は40人ほどの受講者だったらしい。

上記のミレールの叙述のように、一般の聴講者にも開かれたのは、1963年の劇的な事件、ラカン自身はそれを国際精神分析協会からの「破門」と呼んでいるわけだが、そのためセミネールを中断しなければならず(もっとも中断は三ヶ月で済んだ)、アルチュセールの招聘に応じて、カルチエ・ラタンのまっただ中の高等師範学校の大講義室で再開されてからである。

そこで行われたのが、ラカンの第十一番目のセミネール、『精神分析の四つの基本概念』であり、ミレールもその機会に、初めてラカンを見、聞いたということになる。

当時、20歳のミレールは、もともと高等師範学校の哲学科の学生であり、その時期のことを彼はこのように述べている。


……私は、ジョルジュ・カンギラム、ロラン・バルト、ルイ・アルチュセール、ミッシェル・フーコー、ミッシェル・セール、ジャック・デリダらの講義に出席していました。その当時、彼らはまだ、その後彼らが得ることになる名声を博していませんでした。要するに、私は、フランス哲学のより優れたもの、しかもその精華を知るという幸運に恵まれたということです。

ところが、300人の聴衆の前で語るラカンは、それとはまったく別物に見えました。一月のその日にラカンがスピノザのことを口にした時、あるいは他の機会にアリストテレスやヘーゲルのことを口にした時、そこには過去の偉大な亡霊たちを震撼させるような、直接的といってもよいような接触が打ち立てられたのです。そしてラカン自身はというと、彼らの注解者というより、まさに彼らと同じ情熱に動かされているように見えました。そして我々を過去の大思想家の中の知られざる秘密の領域へと導いたのです。恐らくは、この様な感動的実現化のうちには転移の突然の効果ということもあったでしょう。しかし、後にいろいろと知るようになっても、その時の魅惑は色褪せることはありません。


※附記:Between Sound and Silence: Voice in the History of Psychoanalysis  ALICE LAGAAY Freie Universität Berlinより

Jacques Lacan: Voice as “objet a”

《What language and the body have in common is the voice, but the voice is part neither of language nor of the body》 (Dolar, 2006, p.73)


To begin with it is interesting to note that Jacques Lacan's relationship to the figure of the voice marks one of those exceptional places in the history of thought where life and theory seem to merge in uncanny and fascinating ways. For a start, it has often been noted by some of those who attended his famous Séminaires that Lacan had a most peculiar and quite theatrical way of talking. In a poignant description of what he refers to as the “ethics of Lacanian speech”, Michel de Certeau, who attended Lacan's seminar, recounts how such sounds as coughing, throat clearing, mumbling, the chewing of words and sighing – in short, an array of disturbances of the voice – constantly accompanied Lacan's practice of talking or holding speeches, as if what he said was always on the brink of dissolving, of retreating or regressing, into a kind of incomprehensible physicality. And whilst being clearly audible to the assembled listeners, these “scars of phonation”, which would not so much interrupt as constitute the master's speech, remained totally incomprehensible with regard to their reference or meaning (Certeau, 2002, p.243). In fact, Lacan's eccentric style of talking can thus be seen as a kind of performative enactment of his theory of listening and of voice: it is not about understanding but about letting one's unconscious take in and react to what is heard; the voice brings to the foreground, but in a movement of suspension, of retreat, that of which the speaker has no knowledge.


The personal nature of Lacan's relationship to voice is further revealed in the fact that Lacan was not a keen writer. The texts of the séminaires are for the most part reconstructions put together and edited by one of the students who attended them (between 1975 and 1995 nine of the 25 seminars were “reconstructed” and published by Lacan's son-in-law, Jacques-Alain Miller). And of the texts that constitute his “Écrits”, many of these seem to challenge the conventions of what written texts are usually expected to be like since they often make little attempt to follow the conventions of rational discourse but come closer to a kind of textual screaming; they are, so to speak, more Écris than écrits!3


The pivotal role of voice in Lacan's teachings takes on a peculiarly existential dimension, however, in the light of the fact that in the final stages of his life, Lacan suffered severe aphasia. Thus, the twenty-sixth seminar of 1978-1979 remains “silent”, as by then Lacan had practically lost the ability to talk at all. But the real poignancy of his sad fate in this regard is perhaps only revealed in the light of Lacan's actual theory, which culminates in the figure of a voice that cannot – and indeed must not – speak.


もっとも、「無意識」とか、「メタ私」に語りかけるやら、対象aとしての声などとややこしいことは言わず、ラカンの語り口は、落語家の「間」のようなものがある、とだけしてもよいのかも。そして、それが独特の魅力を生んでいる。

中井久夫はかつて、《 ぼくはたまたまラカンの訳文を少し校訂させられたんですけど、あれはおじいさんの言葉として、おじいさんがわりと内輪の社会でしゃべっておるフランス語と してはそうおかしくはないんじゃないかと思ったんですね。そいつを哲学の文章みたいに訳そうとするから、さっぱりわけがわからなくなってくるんじゃないか とおもったんですけどね。》(1988 『シンポジウム』柄谷行人 編・著)と語っている。

落語家・古今亭志ん生師は「間」の使い方がうまかったと聞きます。
時々、絶句したような「間」をおく。
が、その後に意表をつくギャグでもって笑わせる。
弟子や関係者のはなしによると、
実は噺の途中で次に何を喋るか、本当に忘れて絶句したという「間」が七、八割ではなかったかということで、
そのあたりも、何だかいかにも、らしくて笑ってしまいます。
残された録音には、そうした絶句のような「間」はあんまりないように思いますが、
それでも「間」のうまさがわかる気がします。(緊張と緩和と「間」のカンケイ