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2013年9月30日月曜日

「人びとは驚くほど馬鹿になっています」

性的な対象が、簡単に手に入るせいで──価値を高めるような障害がないせいで──どんどん価値を下げている時代である今日において、交接する欲望をどうよみがえらせるか。(ジジェク「仮想化された現実/仮想化しきれない残余」)

 などと引用したからといって、性的「交接」の話をするつもりはない

したいのは、音楽と交接する欲望をどうよみがえらせるか、という話だ

PCに比較的高音質なスピーカーをつないで
CDから変換したファイルやYouTube
音楽を聴くことがほとんどなのだが
手間暇かけずに
たとえばレコード時代の、
ジャケットから慎重にレコード盤を取り出し、
盤の表面や針の埃を払うなどの神聖な儀式を経ずに
(この儀式はヴェール機能、
アウラや対象aを生み出すことに貢献していたはずだ)
コンピュータや携帯端末の簡単な操作だけで
随意に気に入りの曲や好みの箇所だけを
聴くなどということになっている

以前よりも聴くことが減っているかどうか
それは判然としないが
集中して聴くことは間違いなく減っている
あるいはYouTubeなど音質は劣るにせよ
かつての少年なら宝の山のはずなのに
多くの宝を熱心に探し求めることなどもない
これはなにも音楽だけではない
あらゆる情報が簡単に入手可能なら
それらの情報の価値はかぎりなく低下する
「集められる情報量と情報の価値は反比例するらしい」

強迫的に映画を録画しまくるビデオ・マニア(私もそのひとりだ)ならほとんど誰もが知っているはずだ。--ビデオデッキを買うと、テレビしかなかった古き良き時代よりも観る映画の本数が減るということを。われわれは忙しくてテレビなど観ている暇がないので、夜の貴重な時間を無駄にしないために、ビデオに録画しておく。後で観るためだ(実際にはほとんど観る時間はない)。実際には映画を観なくとも、大好きな映画が自分のビデオ・ライブラリに入っていると考えるだけで、深い満足感が得られ、ときには深くリラックスし、無為(far niente)という極上の時を過ごすことができる。まるでビデオデッキが私のために、私の代わりに、映画を観てくれるかのようだ。ここではビデオデッキが<大文字の他者>、すなわち象徴的登録の媒体を体現している。今日ではポルノですらますます相互受動的な働きをしている。もはやポルノ映画はユーザーを興奮させ、孤独な自慰行為に駆り立てるための手段ではない。「行為がおこなわれている」スクリーンを観ているだけで充分であり、私の代わりに他人がセックスを楽しんでいるのを観察するだけで、私たちは満足する。(ジジェク『ラカンはこう読め』)

まずは、隣りに住むふたりの叔父たちの
収集したレコードを聴いて育ったのだが
叔父たちの世代はレコード一枚買うのに
月収の十分の一くらいの費用を払って購入したはずだ
そんなふうにした手に入れたレコードは
たとえ最初は気に入らなくても何度も聴いてみる
少年も奇妙な曲だと感じつつ何度も聴いた
こうして愛するようになった作品はたくさんある

……この音楽のなかで、くらがりにうごめくはっきりしない幼虫のように目につかなかったいくつかの楽節が、いまはまぶしいばかりにあかるい建造物になっていた。そのなかのある楽節はうちとけた女の友人たちにそっくりだった、はじめはそういう女たちに似ていることが私にはほとんど見わけられなかった、せいぜいみにくい女たちのようにしか見えなかった、ところが、たとえば最初虫の好かなかった相手でも、いったん気持が通じたとなると、思いも設けなかった友人を発見したような気にわれわれがなる、そんな相手に似ているのであった。(プルースト「囚われの女」井上究一郎訳)


いまではこういうことは少ないのではないか
はじめはみにくい女たちのようにしか見えなかったら
それでおしまい
次の曲に向かう
上っ面だけのうつくしい女を求めて

作り手のほうもそれがわかっているから
最初から上っ面のうつくしい女を作る
しまいにはそればかりの技術が磨かれる
長く付き合えば思いがけなく魅力的なうちとけた女
そんなものはうっちゃって

自分の耳や眼が先例と慣習によって汚されている
そして貴重なものを取り逃がしている
そんなことは思ってみもしない


「ガムランでは大きなゴング、雅楽では大きな太鼓が 
最後の拍に打たれるが、長い余韻やアクセントのために 
西洋音楽に慣れた耳はそれを最初の拍として聴く。」(高橋悠治

かつて音楽は、まず人々の―特に作曲家の頭の中に存在すると考えられていた。音楽を書けば、聴覚を通して知覚される以前にそれを聞くことができると考えられていたんです。私は反対に、音が発せられる以前にはなにも聞こえないと考えています。ソルフェージュはまさに、音が発せられる以前に音を聞き取るようにする訓練なのです……。この訓練を受けると、人間は聾になるだけです。他のあれこれとかの音ではなく、決まったこの音あの音だけを受け入れられるよう訓練される。ソルフェージュを練習することは、まわりにある音は貧しいものだと先験的に決めてしまうことです。ですから〈具体音の〉ソルフェージュはありえない。あらゆるソルフェージュは必然的に、定義からして〈抽象的〉ですよ……。(『ジョン・ケージ 小鳥たちのために』 より)

訓練された耳ほど音がきこえなくなっている
そんな場合だってあるのだ
だが自らの感受性を疑ったこともない
そんな奴らばかり
「人びとは驚くほど馬鹿になっています」

連中は何もいうことがないので、名前だけでものをいうのです。テレビは、対話というか、そうした話題をめぐって話をする能力を確かに高めはしました。だが、見る能力、聴く能力の進歩に関しては何ももたらしていない。私が『リア王』にクレジット・タイトルをつけなかったのはそのこととも関係を持っています。

ふと、知らないメロディを聞いて、ああ、これは何だろうと惹きつけられることがあるでしょう。それと同じように、美しい映像に惹きつけられて、ああ、これは何だろうと人びとに思ってもらえるような映画を作ってみたいのです。しかし、名前がわからないということは人を不安におとしいれます。新聞やテレビも、一年間ぐらい絶対に固有名を使わず、たんに、彼、彼女、彼らという主語で事件を語ってみるといい。人びとは名前を発音できないために不安にもなるでしょうが、題名も作曲者もわからないメロディにふと惹きつけられるように、事件に対して別の接し方ができるかもしれません。

いま、人びとは驚くほど馬鹿になっています。彼らにわからないことを説明するにはものすごく時間がかかる。だから、生活のリズムもきわめてゆっくりしたものになっていきます。しかし、いまの私には、他人の悪口をいうことは許されません。ますます孤立して映画が撮れなくなってしまうからです。馬鹿馬鹿しいことを笑うにしても、最低二人の人間は必要でしょう(笑)。(ゴダール「憎しみの時代は終り、愛の時代が始まったと確信したい」(1987年8月15日、於スイス・ロール村――蓮實重彦インタヴュー集『光をめぐって』所収)



こんな時代に
交接する欲望を回復するのにはどうしたらいいのか
自己との距離をとること
なんとも厳しい途


「『偶像の黄昏』でしたか、ニーチェがおもしろいことを言っていて、ルネッサンスのような『強い』時代には、人と人との間、階級と階級との間に距離があり、その距離にパトスがみなぎっていた。そのパトスを通じてこそ、自分が自分自身になり、自分を他から卓越させたいという欲望が実現されたんだと。ニーチェ自身の生きていた十九世紀後半のドイツはそういう『強い』時代ではあり得ないという嘆きなんでしょうが、さらに時代がくだって、我々はそれよりさらにいっそう『弱い』時代を生きている。『距離のパトス』が失われているんですね。そうすると、結局、個人ひとりひとりが自分自身の内面に無理やり『距離』をつくり出していくしかない。これは何とも厳しい途ですよね。切羽詰った力業によって、そのつど捏造されるほかない文学の発生でしょう」。(松浦)(古井由吉・松浦寿輝『色と空のあわいで』)


続く→「大量の馬鹿が書くようになった時代