《立喰の鮓に舌鼓打てばとて、三度の飯がいらぬといふ訳あるべからず》--シューベルトは、少年時の熱中以後、しばらくのあいだ、立喰の鮓のつもりでいたが、どうも最近はそうでもない具合だ。
《此日糊を煮て枕屏風に鴎外先生及故人漱石翁の書簡を張りて娯しむ》(断腸亭日記巻之三大正八年歳次己未)
《十月二日。午後富士見町与謝野氏の家にて雑誌朙星編輯相談会あり。森先生も出席せらる。先生余を見て笑つて言ふ。我家の娘供近頃君の小説を読み江戸趣味に感染せりと。余恐縮して荅ふる所を知らず。帰途歌舞伎座に至り初日を看る。深更強震あり。》(断腸亭日乗 06 断腸亭日記巻之五大正十年歳次辛酉 )
般若 の留 さんというのは背中一面に般若の文身 をしている若い大工の職人で、大タブサに結った髷 の月代 をいつでも真青 に剃っている凄いような美男子であった。その頃にはまだ髷に結っている人も大分残ってはいたが、しかし大方は四十を越した老人 ばかりなので、あの般若の留さんは音羽屋 のやった六三 や佐七 のようなイキなイナセな昔の職人の最後の面影をば、私の眼に残してくれた忘れられない恩人である。 昔は水戸様から御扶持 を頂いていた家柄だとかいう棟梁 の忰 に思込まれて、浮名 を近所に唄 われた風呂屋の女の何とやらいうのは、白浪物 にでも出て来そうな旧時代の淫婦であった。江戸時代の遺風としてその当時の風呂屋には二階があって白粉 を塗った女が入浴の男を捉えて戯 れた。かくの如き江戸衰亡期の妖艶なる時代の色彩を想像すると、よく西洋の絵にかかれた美女の群 の戯れ遊ぶ浴殿 の歓楽さえさして羨むには当るまい。(永井荷風「伝通院」)
気の合つた同志、知らず馴染を重ねしも無理はなし。然りと雖も、女一人わがものになしおほせて、床の喜悦も同じ事のみ繰返すやうになりぬれば、又折々別の女ほしくなるは男のくせなり。三度の飯は常食にして、佳肴山をなすとも、八時になればお茶菓子もよし。屋台店の立喰、用足の帰り道なぞ忘れがたき味あり。女房は三度の飯なり。立喰の鮓に舌鼓打てばとて、三度の飯がいらぬといふ訳あるべからず。家にきまつた三度の飯あればこそ、間食のぜいたくも言へるなり。此の理知らば女房たるもの何ぞ焼くに及ばんや。おのれ袖子が床の上手に打込みて、懐中都合よき時は四日五日と遠出をつゞけ、湯治場の湯船の中、また海水浴には浅瀬の砂の上と、処きらはず淫楽のさまざま仕尽して、飽きた揚句の浮気沙汰に、切れるの切れぬとお定のごたごた、一時はきれいに片をつけしが、いつか焼棒杭に火が付けば、当座は初にもまさり稀世の味、昼あそびのお客が離座敷へひたるを見れば、待合家業のかひもなく、無暗と気をわるくし、明いた座敷へそつと床敷きのべる間も待ちきれず、金庫の扉を楯に帳場で居茶日の乱行、女中にのぞかれしも一二度ならず。夜はよつぴて襖越しの啜泣に、家のおかみさんてばそれあ一通りや二通りではないのよと、出入の藝者に家の女中が嘘言ならぬ噂、立聞してはさすがに気まりのわるい事もありしが、それは所謂それにして、又折々の間食止めがたきぞ是非もなき。無類の美味家にありて、其上に猶間食の不量見、並大抵のあそびでは面白い筈もなし。(四畳半襖の下張全文)
十月一日。築地けいこの帰り桜木に飲む。新冨町の老妓両三名を招ぎ、新島原徃時の事を聞かむと思ひしが、さしたる話もなし。一妓寿美子といへるもの年紀廿一二。容姿人を悩殺す。秋霖霏々として歇まざるを幸ひにして遂に一宿す。
十月二日。雨歇む。久しく見ざりし築地の朝景色に興を催し、漫歩木挽町を過ぎて家に帰る。晡時唖々子来談。
十月五日。(……)この夜寿美子を招ぎしが来らず。興味忽索然たり。寿美子さして絶世の美人といふほどにはあらず、されど眉濃く黒目勝の眼ぱつちりとしたるさま、何となくイスパニヤの女を思出さしむる顔立なり。(断膓亭日記巻之二大正七戊午年)
シュワルツコフの歌声はもちろんのことだが、なりよりエドウィン・フィッシャーのピアノが素晴らしい。
晩年は白井光子を褒めていたらしい、ーー《他人を誉める事は少ない。しかしながら、フィッシャー=ディースカウを「神のような存在」、白井光子とハルトムート・ヘルのリート・デュオを「世界最高の音楽家夫婦」と賛辞を送っている。》(WikiPedia)