スタジオ録音に比べて、かなり速い演奏。コントロールできていない音があるという人がいるかもしれない。だがシューベルトは(ひょっとして他も)、ライヴ録音がいい。
スタジオ録音が絶対的にすぐれているとするグールドの主張は間違っていた。ストックホルムでのピアノ・ソナタ作品110の実況録音には厚みがある。時間に対してどこか緊張したところ、なにか奪われたもの、最後のシカゴ・コンサートで同じ曲も退くの演奏がどのようなものだったかを想像させるに足るなにかが存在する。時間の切迫が動作を鋭くし思考の速度をはやめるチェスの勝負のように、ある種の絶対的必然性があるのだ。スタジオの場合、時間はじゅうぶんにある。あらゆる方向で時間をたどりなおすことができる。自由だともいえるが、それなりの代価を払わねばならない。(シュネデール)
さらに、ここではアファナシエフとともにこう言おう。
《それに私も、どうすればこのソナタ(D.960)の心理的な重みに耐えることができるだろう。たとえウィークデーの夜、小さなホールで演奏するだけとしても。このソナタをわが家で弾いたら何が起こるだろう? 大文字の「他者」がそのまったき光輝と恐怖とともに出現する。ある意味において、このソナタは私の不俱戴天の敵なのだ。弾けば弾くほど、私は具合が悪くなる。私を傷つけ、私の苦痛をいつまでも引きのばすことを知りながら―――今回も、とどめの一撃を与えてはくれないのだ―――私はこの他者を抱きしめ、接吻する。日常生活の中でなら、こんなにひどいカタストロフに襲われれば命を落としていただろう。》
…………
連中は何もいうことがないので、名前だけでものをいうのです。テレビは、対話というか、そうした話題をめぐって話をする能力を確かに高めはしました。だが、見る能力、聴く能力の進歩に関しては何ももたらしていない。私が『リア王』にクレジット・タイトルをつけなかったのはそのこととも関係を持っています。
ふと、知らないメロディを聞いて、ああ、これは何だろうと惹きつけられることがあるでしょう。それと同じように、美しい映像に惹きつけられて、ああ、これは何だろうと人びとに思ってもらえるような映画を作ってみたいのです。しかし、名前がわからないということは人を不安におとしいれます。新聞やテレビも、一年間ぐらい絶対に固有名を使わず、たんに、彼、彼女、彼らという主語で事件を語ってみるといい。人びとは名前を発音できないために不安にもなるでしょうが、題名も作曲者もわからないメロディにふと惹きつけられるように、事件に対して別の接し方ができるかもしれません。
いま、人びとは驚くほど馬鹿になっています。彼らにわからないことを説明するにはものすごく時間がかかる。だから、生活のリズムもきわめてゆっくりしたものになっていきます。しかし、いまの私には、他人の悪口をいうことは許されません。ますます孤立して映画が撮れなくなってしまうからです。馬鹿馬鹿しいことを笑うにしても、最低二人の人間は必要でしょう(笑)。(ゴダール「憎しみの時代は終り、愛の時代が始まったと確信したい」(1987年8月15日、於スイス・ロール村――『光をめぐって』所収)
…………
それは相手に対する何の顧慮も打算もなしに、僕の中に、愛の一つの原型が出来てしまったことを意味する。それはもう彼女ではなく僕だけの原型なのだ。しかし、これは僕に不幸をもたらすとともに、僕に自分自身に対する誇りをあたえてくれた。そういう女と同時に海の遥か向うを見ていた自分を想い出す。どこまでも遥かに行って決して止らないこと、そして愛の親密の中に自分を完全に打ちこむこと、こういう物騒な形が僕の中に出来ていたのだ。
肉体は成長し、成熟し、老衰して死んでゆく。ただ一回だけ。だから本当の愛も唯一つしかない。それにすべてを注ぎ尽くすことのできた人は幸福である。唯一つと言ったが、本当の人生を生きる人間にとって、愛は一つ以上あってはかえって余計で、愛そのものを破壊してしまうのだ。しかしその唯一つはどうしてもなければ、その人の全人生は他に何があっても「無意味」なのだ。その代りそれ一つがあれば、他に何もなくても全部的に充実しているのだ。
魂の深さの差が、愛のすがたが一つであるに限らずあるいは正にその故に、徹底的に露われる。しかしこの深さの度合は、本当は思考の深さの度合の基準にならなければならないものである。何となればそれは、本質的には純粋さの度合だからである。自分を超えるものがそこにある、というのとある意味で同じことだからである。
真の愛とは一人の男あるいは一人の女をその自我から引きはなす、そういう愛である。そして他の者の意志がそれにとってかわるのである。愛の行為とは相手をその自我から引きはなし、それを吸収することである。つまり、相手にとってかわるのである。相手は己れから決定的に引き離されてしまうのである。究極の行為はだから暴力である。しかしそれは、同意し同意された暴力だ。僕は何も、肉体に基づく行為のことを言っているのではない。ただ愛のもつ意義について語っているのである。
愛はそのもの自体としては存在しない。しかし、だからといって、愛が存在する凡てのものよりも強いことに変りはない。死についても同じ事が言える。死は存在しない。が、それが我々の存在にとって本質的であることに変りはない。愛することと死ぬること、この生の二面が、恐るべきある瞬間に合体する。愛は死を鎮め、また、死がなければ愛には何の意味もない。……僕が死のみを待つとするなら、それは愛しか待たないということだ。
ーーここにはリルケがいるだろう、『ドゥイノの悲歌』の、あるいは『マルテの手記』のリルケもいる。
ひょっとして最晩年のラカンさえいるかもしれない。
最晩年のラカン? そのまま信じる必要はない、枯淡のラカンかも。
《「枯淡」は衰えの美称にすぎず、「老成円熟」は積年の習慣の言い換えにすぎないだろう。》(加藤周一「老年について」 1997)
The standard notion of love in psychoanalysis is
reductionist: there is no pure love, love
is just “sublimated” sexual lust. Until his late teaching, Lacan also insisted
on thenarcissistic character of love: in loving an Other, I love myself in the
Other; even if the Other is more to
me than myself, even if I am ready to sacrifice myself for the Other, what I
love in the Other is my idealized
perfected Ego, my Supreme Good—but still my Good. The surprise here is that Lacan inverts the usual
opposition of love versus desire as ethics versus pathological lust: he locates the ethical dimension not in love but
in desire—ethics is for him the
ethics of desire, of the fidelity to desire, of not compromising on one’s
desire.
Furthermore, the late Lacan surprisingly reasserts the
possibility of another, authentic or
pure love of the Other, of the Other as such, not my imaginary other. He refers here to medieval and early modern theology
(Fénélon) which distinguished between “physical”
love and pure “ecstatic” love. In the first (developed by Aristotle and
Aquinas), one can only love another
if he is my good, so we love God as our supreme Good. In the second, the loving subject enacts a
complete self‐erasure, a complete dedication to the Other in its alterity, without return,
without benefice, whose exemplary case is mystical self‐erasure. Here Lacan engages in an extreme theological
speculation, imagining an impossible
situation: “the peak of the love for God should have been to tell him ‘if this
is thy will, condemn me,’ that is to
say, the exact opposite of the aspiration to the supreme good.” Even if there is no mercy from God, even if God were to damn
me completely to external suffering,
my love for Him is so great that I would still fully love him. This would be love, if love is to have le moindre
sens. François Balmès here asks the right question: where is God in all this, why theology? As he perceptively notes,
pure love must be distinguished from
pure desire: the latter implies the murder of its object, it is a desire purified of all pathological objects, as
desire for the void or lack itself, while pure love needs a radical Other to refer to.This is why the radical Other (as
one of the names of the divine) is a
necessary correlate of pure love.(ZIZEK"LESS THAN NOTHING")
※参照:ラカンの愛の定義