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2013年9月25日水曜日

音楽と「ま」ヌケな若い精神科医

・木村敏がよく言う「合奏しているときに、自分と他人はともに〈あいだ〉としか呼びようのないものになっていて、そこに自他の区別はない」みたいな話、ものすごくヘタクソなミュージシャンな感じがするのだが、これは私だけだろうか?

・例えばギタリストの場合、ほんとに上手い人は、弾いてからシールドを介してアンプから空気振動に至るまでの数〜数十msの遅れを意識してものすごく自己反省的に弾いているという人にしか出会ったことがないし、その遅れに対する反省性がないアンサンブルとかクソとしか思えないのだが。

・これは別に音楽の話にかぎるわけではなく、木村敏的な生命論に対するラカン的な対立軸(すなわち、言語の壁は不可避でありそれを無視してはいけない)という話とパラレル。

などと相対的には聡明な若い精神科医が、インテリのパチンコをしているのを見てしまったな

パチンコもときにはよい。中井久夫はこう書いている。

ある程度本格的な企画の場合に、初期高揚だけで完成することは決してと言ってよいほどない。しかし、この時期に「パレット」をできるだけ充実させておくことがずっと後で生きてくる。「パレット」の充実には、聞き手がいるとずっと楽である。独りでは限界がある。ここにも一つ、編集者の「治療」の有用性がある。

これは、「自由連想」をさせて、「抵抗」を破って、「徹底操作」をして「洞察」に到達せしめる精神分析治療に似た過程であると私は思う。「自由連想」とは編集者との駄べりである。

「自由連想」は、主題やキーワードの持つ意外な側面を明らかにし、新しい可能性を開く。著作というものは、発端に立った時に終点まで見通せる直線道路のようなものではない。そういうものであれば、おおよそ詰まらないものだろう、予期外の転回に引かれて読者は読み進むものである。「自由連想」によってこれから書く領域の思わぬ複雑なひだひだが見えてくれば成功である。

「抵抗」にはいろいろある。怖い批評家の言葉の先取りもある。従来の自説が足を引っ張ることもある。ある箇所がとうてい越せない難所に見えることもある。ある部分についての知識が絶望的に欠如していると思うこともある。これらは、みな「抵抗」である。しかし、対話のうちに、難所もさしたるものでないようにみえてくる。ある部分は回避してもよいことがわかる。あるいは違った接近法がよいと知れる。このように「抵抗」を言語化し吟味することが「徹底操作」である。そうすると、この課題でこのようなものなら著者にもできるという、「現実原則」に則った「洞察」が生まれる。この手続きなしで、編集者が「ま、よろしくお願いします」で引き下るとロクなものができない。

編集者は地方にはいないが、その代わり、さいわい、私は大学教師で、周囲に若い人がいる立場にあるので彼らを大いに利用させてもらっている。私のほうが聞き役になることもむろんある。(中井久夫「執筆過程の生理学」)

いまでは、そんな律儀な編集者やリアルな仲間のたぐいは稀にしか存在しないのだろうから、SNS上で「自由連想」の聞き役を求めたらいいのであろう。ただ「パチンコ」の玉を真に受ける相対的には聡明さの劣るひとたちがいるのであって、冒頭のツイートの「<あいだ>抜け」の思考、「あいだ」、つまり「ま」なのだから、ここでは「まヌケ」と呼ばせてもらうが、それを短絡的にマに受けたらまずいだろう。


高橋悠治の音楽をめぐる掠れ書きは、その多くが「身体」論であり、その多くは「あいだ」論であるとしてもよいのではないか。

音楽は「あいだ」のものだから 地図のない道 全体のない部分 座をつなぎ 場をつくるもの 即興とその記録のあいだで どっちつかずにゆれている(高橋悠治「冬のなかで2009年」)
聞こえる音のなかから、いくつかの音のかたちをききとる。それらの音を指先でなぞりな がら、音のうごきを身体運動と内部感覚に移し替える。そのよ うな経験からはじめて、 そこからちがう軌道に踏み出してみる。停まりそうになったら、どこかにもどってやりな おす。このプロセスは即興でもあり、 作曲でもある。即興はその場の聴き手の共感が感 じられるあいだはつづく。聴いているひとたちの自発性が、じっさいはその即興に干渉し、 その道筋を つけている。失速しないうちに、完結しないように、音を中断して、想像力だけがまだしばらくはうごきつづけて、どこともなく消えていくように誘う のはむつか しい。

作曲は、計画された即興とも言える。楽譜に書かれた音のかたちは、一定の意味や情報と 言うよりは、さまざまに見えるインクのしみのようだ。演奏は 一つの見かたにはちがい ないが、それがまたさまざまな聞こえかたや聴きかたにひらかれている。聴き手の主体性 をスペクタクルで惑わしたり、反復パ ターンで麻痺させれば、演奏は支配の道具になっ てしまう。聴くよりどころになる回帰するパターンは、筋感覚的運動イメージと同時に起 こる。それは 個人の内側のもの、一人称的表象と言われているらしいが、むしろ無人称 の視覚像にならない感覚ではないだろうか。回帰はただの反復ではなく、もと もと隠れ ていた逸脱の芽、わずかな歪みが、回帰のたびにちがう回路をひらくように仕組まれてい る、それはベンヤミンが書いていたカーペットの模様 のほころび、あるいは ラドクリフ =ブラウンの注目した籠の編み残した目、「魂の出入り口」。(掠れ書き
演奏によって死んだかたちをふたたび生かすのは、まだやさしい。再現や解釈ではなく、 と言って、まったくの即興でもなく、反復でもなく、循環しな がら即興的に変化し、伝 承されたかたちを崩しながら、卵の殻からちがう運動を呼び覚ます、そんな演奏のありか たを思い描くことはできなくはない。 響きが消えるまでの短い時間のなかに生きる音楽 にとっては、演奏こそが本来のありかたで、作曲は補足的なもの、演奏への指示と結果の 記録が、その 分を越えて、それだけが創造であるようにふるまっているのだとも言える。

音楽の変化が現場からはじまるとすれば、それは歴史的身体の必要に応じて変化するだろ うし、指示や記録方法の不適切は、後になって気づくこと、つ まり作曲法の変化は、演 奏の場の変化にいつも遅れて起こることになる。20 世紀音楽史は、そうしてみれば転倒 しているのではないか。それなら、そ こに登場する作曲家や作品をエリート主義として かたづけられるのか。ポップミュージックまで視野をひろげてみれば、実験とそのデザイ ン的な応用と の相互作用は、コマーシャリズムや音楽ビジネスというだけではなく、表 層文化の両輪が噛み合いながら回っていく。この音楽装置のなかで、相対的に 自律でき る場があるのか、そんな可能性は思い込みでしかないのか。(掠れ書き (2010.6-2013.6) )

あまりにもたくさんあるので、ここでは三つだけの抜き書きにするが、高橋悠治だけでなく、武満徹をつけ加えよう。

私が理想とする音楽の聴かれかたは、私の音が鳴って、そのこだまする音が私にかえってくる時に、私はそこに居ない――そういう状態(『音、沈黙と測りあえるほどに』)

もっとも、これらが木村敏の「あいだ」とほとんど同じことを言っているのかどうかは、木村敏のよい読者ではないわたくしには分らない。しかし冒頭のツイートの演奏の場での「自己反省的」などという語句が通用しない世界のことを語っているには相違ない。


表現と間(前) ―精神医学に学ぶ音楽教育論吉野秀幸」 という木村敏の音楽論に依拠した論によれば、木村は、「ある程度の水準をもった演奏者同士が合奏する場合、三つの段階が想定できる」としているそうだ。

詳しくは論をみてもらうことにして、最後の第三段階はつぎの如し。

初歩段階の正確さにとらわれた 緊張はもちろん,楽譜や相手に合わせようとする意識すら消え去り,各演奏者が外部的規 準に拘束されず,純粋に自発的で主体的なノエシス・ノエマ的創造行為を遂行している段 階である。この段階では,各自がそれぞれの力量や技術を発揮して自らの行為を瞬間ごと に実現し,しかもその結果として一つのまとまった自然な流れとしての合奏が成立する。 このような境地に達することはなかなかないことかもしれぬが,ときに瞬間的に実現する ことがあることをわれわれは確かに知っている。

《ギタリストの場合、ほんとに上手い人は、弾いてからシールドを介してアンプから空気振動に至るまでの数〜数十msの遅れを意識してものすごく自己反省的に弾いているという人にしか出会ったことがない》などとパチンコをする人物は、おそらく「このような境地」が実現することがあるのを知らない人物ということなのだろう。まあ、それはそれでよい。世間にはいろいろな種族がいる。だが「自己反省的」などという語句を書いてしまうのは、いかにパチンコであろうと、まずいのではないか。ベンジャミン・リベットの論を知らないわけでもあるまい。そもそも音楽演奏の場が自己反省的な心持だけで対応できるなどとは、初心者の場合だって考えにくい。

八十歳を越える高齢になってから最近にわかに脚光を浴びているベンジャミン・リベットの仕事によれば、意識はせいぜい二〇~四〇ビットの情報で理性的・倫理的判断を行うのであり、これが「エゴ」であって、エゴはそれに〇・五秒先行する一〇の七乗ビットの「セルフ(私のいう〈メタ私〉か)の判断を受けて、あたかもおのれが今リアルタイムで行っているかのように判断するという。(中井久夫「吉田城先生の『「失われた時を求めて」草稿研究』をめぐって――プルースト/テクスト生成研究/精神医学」より)

意識と複雑性との関連は、「意識は、事物があまりに複雑になると、這入り込まねばならなくなる」といった事実にではなく、その反対に、意識は複雑性の根源的な<単純化>の媒体であるという事実に、存在しているのである。意識は、優れて「抽象」の、一対の単純な形象へのその対象の還元の、媒体なのだ。
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ベンジャミン・リベットの(正当にも)有名な実験は、これと同様の方向性を有してはいないだろうか? 彼の実験を興味深くしているのは、その結果が明白であるとはいえ、それが<何にとっての>議論なのかが明白でない、という点にある。次のように論ずることができるだろう。リベットの実験は、どのような意味で自由な意思が存在しないのかを証明する、と。すなわち、私たちが(例えば、指を動かすといったように)意識的に決断する前に、すでに適切な神経過程が動き始めており、〔その意味で〕私たちの意識決定とは、すでに進行していることに気づくこと(すでに為されたことへの余計な権威づけをおこなうということ)に他ならない、と。(ジジェク『身体なき器官』)


あるいは、スポーツ論における伊藤正男の「無意識」や、オートポイエーシスをめぐる河本英夫の「気づき」を知らないわけではあるまい。

河本英夫は、《「気づき」は行為に伴う調整機構であって、自己意識(自己反省・自己言及)」とは異なる(そこを混同するな)ということが書かれている。これは重要だと思う。自己意識は行為を滞らせるが、気づきは行為のなかにある》(偽日記)としているそうだ。

荒川修作の《意識とは「躊躇」の別名》という名言だってある。自己反省=躊躇などしていたら、どんな演奏を聞かされることになるというのだろう。

ラカンならこう言う。

意識にかんして、前意識を構成するもの、世界をわれわれの思考によって緊密に織り上げられたものにするものにたいして、意識は主体の中心であるものが外部から自らの思考、自らのディスクールを受け取る表面であると言える。意識はむしろ無意識が前意識から来るものを拒否するため、もしくは無意識が意識において十分の必要なものを詳細に選択するためにあるのである。(『同一化セミネール』)

すくなくとも「自己反省的」ではなく「身体反応的」と書くべきではないかね、ラカン派のひどく優秀な<きみ>よ

ーーここではあえて二人称代名詞や隠された一人称を使って、イマジネールかつパラノイア的な投壜通信としよう。

人称代名詞と呼ばれている代名詞。すべてがここで演じられるのだ。私は永久に、代名詞の競技場の中に閉じこめられている。「私〔je〕」は想像界を発動し、「君〔vous〕」と「彼〔il〕」は偏執病を発動する。……『彼自身によるロラン・バルト』)

パラノイア、すなわち「自己非難」に裏打ちされているということだ(すくなくとも、そろそろ、こういった時間の無駄遣いはやめなければならない)。

……他人に対する一連の非難は、同様な内容をもった、一連の自己非難の存在を予想させるのである。個々の非難を、それを語った当人に戻してみることこそ、必要なのである。自己非難から自分を守るために、他人に対して同じ非難をあびせるこのやり方は、何かこばみがたい自動的なものがある。その典型は、子供の「しっぺい返し」にみられる。すなわち、子供を嘘つきとして責めると、即座に、「お前こそ嘘つきだ」という答が返ってくる。大人なら、相手の非難をいい返そうとする場合、相手の本当の弱点を探し求めており、同一の内容を繰り返すことには主眼をおかないであろう。パラノイアでは、このような他人への非難の投影は、内容を変更することなく行われ、したがってまた現実から遊離しており、妄想形成の過程として顕にされるのである。

ドラの自分の父に対する非難も、後で個々についてしめすように、ぜんぜん同一の内容をもった自己非難に「裏打ちされ」、「二重にされ」ていた。……(フロイト『あるヒステリー患者の分析の断片』(症例ドラ))


さて、木村の音楽論をめぐる小論に戻れば、次のように木村から引用されて説明が加えられている。

「最後の理想的な段階では,それぞれの演奏者がすべて各自のパートを独自に 演奏しているという確実な意識を持っているだけでなく,他の演奏者すべての演奏をまと めた合奏音楽の全体すら,まるでそれが自分自身のノエシス的自発性によって生み出され た音楽であるかのように,一種の自己帰属性をもって各自の場所で体験している。しかし その次の瞬間には,音楽全体の鳴っている場所がまったく自然に自分以外の演奏者の場所 に移って,演奏者の存在意識がこの場所に完全に吸収されるということもありうる。音楽 のありかがこのようにして各演奏者の間を自由に移動しうるということは,別の言い方を すれば,音楽の成立している場所はだれのもとでもない,一種の「虚の空間」だというこ とになる」 (木村敏『躁鬱病と文化/ポスト・フェストム論』2001)


《 「虚の空間」とは,木村によれば「あいだ」である。しかし, 「虚」と言われる以上,そ れは単なる空白の隙間ではなく,もちろん視覚的に捉えられる空間でもなく,それと指し 示すこともできない。すなわち「虚の空間」とは,実体としては( 「もの」としては)知 覚し得ないけれども,にもかかわらず演奏者にとっては確かに存在すると実感できる場所 である。このことを木村は, 「ずっしりと重みのある,実質的な力の場」 26)と言い表して いる。一体それはどこにあると言えばよいのであろうか。  木村は述べる。 「そういう状態の時に[第三段階において] ,音楽がどこで鳴っているか というと四人の間[カルテットの場合]で鳴ってるんじゃないか」 27) 。あるいはこの場所 のことを「自分と相手のあいだのだれもいないところ」 28)とも言っている。だが一方,彼 はつぎのようにも語っている。 「…音楽が鳴る「あいだ」とは,各自の内部にあって,同 時に各自のあいだにもあるという,不思議な場所だということですね」 29) 。つまり,こう いうことなのである。 「実在の物理的空間に定位不可能なこの「虚の空間」は,いわばす べての演奏者がそこから「等距離」にあるような場所である。合奏全体を一つの閉じたシ ステムと見なせば, それは各演奏者の「あいだ」であると言ってよい。だがこの「あいだ」 は,ノエマ的な空間の内部で個々の演奏家を隔てている間隔とは違って,決して各自の外 部に定位されるものではない。この「あいだ」には明瞭なノエシス的自己帰属感が伴って いる。各演奏者はそれをむしろ,各自の行為的自己の「内部」として体験している。それ は,各自の内部に見出されながら各自のあいだにも見出されるという不思議な場所なので あって,この不思議さは,それが本来ノエシス的な現象であるのにノエマ的にしか意識さ れないという,その二重構造から来ている」30)》


これらを読むと、武満徹や高橋悠治とほぼ同じようなことを語っているという錯覚に閉じこもってしまう。

精神科医でもあるグールド論の著者シュネデールは次のように書いている。

……音楽は遠ざかろうとするなにかであり、人がつかまえたと思っても、どこかへ行ってしまうようななにかである。留まるものと逃れ去るもののあいだに張られた絆。逃れ去る女。北の茫漠とした風景にたれこめる灰色の霧がすぐに包み隠してしまう太陽光線のはかなさ。光が死に絶えても、なおあとに残る不定形のうごめき。(ミシェル・シュネデール『グレン・グールド PAINO SOLO』)

聴取だけであっても、こういった経験はクラッシック音楽だけのものではないのではないか。


冒頭の一連のツイートのあと、しばらく置いて、若い精神科医はつぎのように呟いている。

木村敏はこのあいだ「フロイトの死の欲動は小文字の死しか扱ってない。俺が扱うのは大文字の死」って言ってるのをみて末代まで呪うことを決めた。

つまりは「自己反省的」ではなく、「身体反応的」に書かれたツイートであることを白状しているのだろう。


ラカンが「大文字の死」を扱っていないかどうかは、わたくしの知るとろこではないが、S・シュナイダーマンの『ラカンの《死》』によれば、ラカンは精神分析理論の中心軸を、フロイトの「性」から、「死」へとずらしたい願望を密かに抱いていたとされる。

なんらかの事情があって(シュナイダーマン曰く、トラブルを回避すべく)、「死」ではなく「享楽jouissance」にすり替えるという妥協の道を選んだらしい(伊藤正博「ラカンの《第二の死》の概念について」による)。

この見解に従えば、現実界的(リアル)な「死」は、扱っていることになる。

木村敏の「死」をめぐる議論については、いま唯一手元にある小さな本の「あとがき」に次のように書かれている。

私はつねづね、人間に関するいかなる思索も、死を真正面から見つめたものでなければ、生きた現実を捉えた思索にはなりえないのではないかと思っている。もちろん、この死というのは個人個人の有限な生と相対的に考えられた、個別的生の終焉としての死のことではない。生の源泉としての死、生が一定の軌跡を描いたのちに再びそこへ戻って行く故郷としての死、私たちの生にこれほどまでの輝かしさと、同時にまたこれほどまでの陰鬱さを与えている包括者としての死のことである。私たちの生は、その一刻一刻がすべて、この大いなる死との絶えまない関わりとして生きられているのであろう。

私たちは自分自身の人生を自分の手で生きていると思っている。しかし実のところは、私たちが自分の人生と思っているものは、だれかによって見られている夢ではないのだろうか。夢を見ている人が夢の中でときどきわれに返るように、私たちも人生の真只中で、ときとしてふとこの「だれか」に返ることができるのではないか。このような実感を抱いたことのある人は、おそらく私だけではないだろう。

夜、異郷、祭、狂気、そういった非日常のときどきに、私たちはこの「だれか」をいつも以上に身近に感じとっているはずである。夜半に訪れる今日と明日のあいだ、昨日と今日のあいだ、大晦日の夜の今年と来年のあいだ、そういった「時と時とのあいだ」のすきまを、じっと視線をこらして覗きこんでみるといい。そこに見えてくる一つの顔があるだろう。その顔の持主が夢を見はじめたときに、私はこの世に生まれてきたのだろう。そして、その「だれか」が夢から醒めるとき、私の人生はどこかへ消え失せているのだろう。この夢の主は、死という名をもっているのではないか。(木村敏『時間と自己』)