《――あなたを落ち込ませることとは?/アホな連中が幸せそうにしているのを見ること。》(ジジェク)
ああ、幸福な凡庸性に浸れる連中がなんとうらやましいことよ
フロイトは下記の文で、「 同時代の人間に尊敬されている私の友人(ロマン・ロラン)」を穏やかながら徹底的に軽蔑しているがね
「純粋な愛」とか、「魂」とか言い放って澄ましこんでいる
愛やら魂やらの称揚は、「フィクション」のなかの言葉、詩や小説のなかだけだな
我慢できるのは、ね
《死なれてみると父親の一生が前よりよく見えるようになった/あれはあれでなかなかのものだ/呆けて寝たきりになった母の枕もとで/何時間も黙って新聞を読んでいた/「ぼくは多喜子を愛していたと思う」と母が死んでから彼は言った//「愛していた」じゃなくて「愛していたと思う」かとぼくは思う/……》(谷川俊太郎「猫たちと」)
虚構のつもりなら、「 言葉の美醜、または巧拙」に気をつけなくちゃな
まずは、トーマス・マン「トニオ・クレーゲル」より。
認識と創造の苦悩との呪縛から解き放たれ、幸福な凡庸性のうちに生き愛しほめることができたなら。…もう一度やり直す。しかし無駄だろう。やはり今と同 じことになってしまうだろう。-すべてはまたこれまでと同じことになってしまうだろう。なぜならある種の人々はどうしたって迷路に踏み込んでしまうからだ。
ああ、幸福な凡庸性に浸れる連中がなんとうらやましいことよ
「愛」やら「魂」、「祈り」でもいい、そのことの実質はなんなのかを問わずに、そこでとどまっていられる文芸愛好者らのナイーヴさよ
「このばら色の光の中で息をつける者は幸福だ」(シラー)
――これはフロイトの『文化への不満』(人文書院旧訳)からだが、シラーの詩を別訳でもうすこし長く引用しておこう。
Der Taucher 海に潜る若者
Lange lebe der König! Es freue sich,
「Wer da atmet im rosigten Licht! Aber da unten ist's fürchterlich,
Und der Mensch versuche die Götter nicht,
Und begehre nimmer und nimmer zu schauen,
Was sie gnädig bedecken mit Nacht und Grauen.
王様万歳!バラ色の光の中で
生きられることの喜びよ!
この海の底は恐ろしいありさまでした。
人は神々を試そうなどと思ってはなりません。
神々が慈悲深く、闇と恐怖でおおい隠している
物を、のぞき見ようなどと思ってはなりません。
(獨協大学外国語学部ドイツ語学科教授 渡部重美)
神々が慈悲深くおおい隠している
海の底などをのぞく誘惑にかられない精神よ
バラ色の光だけで我慢している手合いよ
なんとウラヤマシイことよ
ロマン派のロマン・ロランよ
「大洋的な感情」だと?
きみも同じ穴のムジナだ
高橋義孝の翻訳の加減もあるのだろうが
《「大洋的な感情を持ってさえおれば、自分を宗教的な人間だと称してさしつかえない」と書いてよこした》ーーなんてのは悪意ある訳かもな
ところで、きみらはいまだロマン・ロラン派かね
詩好きや三文小説好きには多いんだよな、いまだ
お上品な音楽好きもだな
◆フロイト『文化への不満』より
われわれは、人類は物事を間違った尺度で測っている、権力とか成功とか富とかを自分でも追い求め、それらを手中に収めた人々を讃嘆する一方では、人生において本当に価値のあるいろいろなものは不当に低く評価しているという印象を禁じえない。(……)
(同時代の人間に尊敬されている)すぐれた人間の一人が、手紙の中で自身のことを私の友人と呼んでいる。宗教を幻想だと断定した私の小論(『ある幻想の未来』)を送ったところ、その人は返事の中で、「自分は宗教についてのあなたの判断にまったく賛成である。しかし、あなたが宗教のそもそもの源泉を十分評価していないのが残念だ。それは一種独特の感情で、つねづね一瞬たりとも自分を離れず、ほかの多くの人々も自身がその種の感情を持っていることをはっきり述べているし、また無数の人々についても事情は同じと考えてよいものだ。それは、「永遠」の感情と呼びたいような感情、なにかしら無辺際・無制限なもの、いわば「大洋」のようなものの感情である。この感情は、純粋な主観的事実で、信仰上の教義などではない。この感情は、死後の存続の約束なでとは無関係であるが、宗教的エネルギーの源泉であり、さまざまの教会や宗教的体系によって捕捉され、一定の水路に導かれ、じじつたしかに消費されてもいる。たとえすべての信仰、すべての幻想は拒否する人間でも、こうした大洋的な感情を持ってさえおれば、自分を宗教的な人間だと称してさしつかえない」と書いてよこしたのである。
幻想の持つ魔力をかつてみずからもその作品の中で高く評価したことのある尊敬すべき友人のこの言葉に、私は少なからずとまどってしまった。私自身のどこをどう探してもこの「大洋的な」感情は見つからない。(……)私の理解が正しいとするならば、私の友人のいわゆる大洋的な感情とは、あるかなり風変りでユニークな詩人が、主人公の自殺にあたって餞として与えた「われわれは所詮この世界から足を踏み外すことはない」という慰めの言葉と同じものを意味している。つまり、「外界全部と一体になっている・離れがたく結びついている」という感情である。しかし私としては、私にとってはそれはむしろ知的洞察の性格を持っていると言いたい。むろん、そこには感情の要素が伴っているけれども、それは、これほど包括的な観念内容であればどんな場合にも当然起こってくることであろう。私自身に関して言うならば、この種の感情がもともと存在しているということはどうしても納得できないであろう。しかし、そういう感情がほかの人々には事実存在するということは、私としても否認はできない。問題はただ、この感情が正当に解釈されるかどうか、それがあらゆる宗教的欲求の「源泉にして起源」だとされるべきかどうかの点である。
私としては、この問題の解決に決定的な影響をおよぼすような意見は何ひとつ持ち合わせていない。ただし、「自分の存在が周囲の世界と一体をなしていることは、そもそもその目的のために備わっている直接の感情によってすべての人間に分かるはずだ」という考え方はまことに唐突で、われわれの心理の全体系からいってぜんぜん異質のものであるから、そもそもこういう感情がどこから生まれていうるかという精神分析的な検討が試みられてしかるべきである。そうすると次のように考えることができる。普通の場合、われわれにとっていちばん確実なものは、われわれ自身の感情、われわれの自我感情である。この自我はわれわれの目に、独立したもの・統一的なもの・すべての他のものからきっぱり区別されているもののように映ずる。ところが、このように思うのはわれわれの錯覚であること、内部へと探っていった場合むしろ自我は、明確な境界のないまま、われわれが「エス」と呼んでいる無意識の精神的存在につながっており、自我はいわばこのエスの表玄関にすぎないことーーこのことは、精神分析的な研究をまってはじめて明らかにさらたもので、自我とエスの関係については、精神分析的な方法によって明らかにされなければならないことがまだまだ多い。しかし自我は、少なくとも外部に向っては、明確で異論の余地のない境界線を主張できるように思われる。例外は一つだけで、その状態はもとより異常ではあるけれども、病的であるとして退けることはできないものである。すなわち、恋愛の極致においては、自我と客体のあいだの境界線はぼやけてしまいそうになる。恋に夢中になっている人間は、客観的な事実がどれほどそれに背馳しようとも、自分と恋人とは一体なのだと主張し、本当にそうであるかのように振舞おうとする。一時的な生理作用(恋愛)によって除去されてしまうようなもの(自我と外界の境界線)は、病的な現象によっても阻害されうるはずであることはむろんである。じじつ、病理学によれば、自我と外界の境界が不明確になったり、その境界線が本当に間違って引かれてしまうような状態は非常に多い。(……)
さらに考察を進めると、普通の大人が持っているこの自我感情なるものは、はじめからいまの形のものだったはずはないと言える。そこにも発展があったはずで、この発展の経路は、むろん証明は不可能であるが、かなり確実に再構成することができる。乳児はまだ、自分の自我と自分に向かって殺到してくる感情の源泉としての外界を区別しておらず、この区別を、さまざまな刺激への反応を通じて少しずつ学んでゆく。乳児にいちばん強烈な印象を与えるのは、自分を興奮させる源泉のうちのある種のものはーーそれが自分自身の身体器官に他ならないことが分かるのはもっとあとのことであるーーいつでも自分に感情を供給してくれるのに、ほかのものーーその中でも自分がいちばん欲しい母親の乳房――はときおり自分を離れてしまい、助けを求めて泣き叫ばねば自分のところへやってこないという事実であるに違いない。ここにはじめて、自我にたいして「客体」が、自我の「そと」にあり、自我のほうで特別の行動を取らなければ現われてこないものとして登場する。感情の総体からの自我の分離――すなわち「非我」とか外界とかの承認――をさらに促進するのは、絶対の支配権を持つ快感原則が除去し回避するように命じている、頻繁で、多様で、不可避な、苦痛感と不快感である。こうして自我の中に、このような不快の源泉になりうるものはすべて自我から隔離し、自我のそとに放り出し、自我とは異質で自我を脅かす非我と対立する、純粋な快感自我を形成しようとする傾向が生まれる。この原始的な快感自我の境界線は、その後の経験による修正を免れることはできない。なぜなら、自分に快感を与えてくれるという理由で自我としては手離したくないものの一部は自我でなくて客体であるし、自我から追放したいと思われる苦痛の中にも、その原因が自我にあり、自我から引き離すことができないと分かるものがあるからである。われわれは、感覚活動の意識的な統制と適当な筋肉運動によって、自我に所属する内的なものと外界に由来する外的なものを区別することを学び、それによって、今後の発展を支配することになる現実原則設定への第一歩を踏みだす。この区別はむろん、現実のーーないしは予想されるーー不快感から身を守るという実際的な目的を持っている。自分の内部に由来するある種の不快な興奮を防ぐために自我が用いる手段が、外からの不快を避けるために用いるのと同じものだという事実は、のち、さまざまの重大な病的障害の出発点になる。
自我が外界とのあいだに境界を置くようになる過程は以上のようである。もっと正確に言えば、はじめに一切を含んでいた自我が、あとになって、外界を自分の中から排除するのである。したがって、今日われわれが持っている自我感情は、自我と外界の結びつきが今よりも密接であった当時にはふさわしかったはるかに包括的なーーいや、一切を包括していたーー感情がしぼんだ残りにすぎない。多くの人々の心にこの第一次的な自我感情がーー多かれ少なかれーー残っているものと考えてさしつかえないならば、この感情は、それよりも狭くかつ明確な境界線を持った成熟期の自我感情と一種の対立をなしながらこれと並んで存続するだろうし、またこの感情にふさわしい観念内容とは、無限とか一切のものと結びついているとかう、まさに私の友人が「大洋的な」感情の説明に用いたのと同じ観念内容であろう。けれども、はじめあったものが、それから生まれてきたあとのものと並んでそのまま生きつづけると考えて正しいのであろうか。
むろんである。(……)
これでわれわれは、人間心理における存続という一般的な問題に触れることになる(……)。われわれによく起こる忘却という現象が記憶痕跡の破壊――つまり一種の抹殺――であるという謬見を打破して以来われわれは、これとは正反対の、人間の心理生活の中では、ひとたび形成されたものは何一つ消え去ることなく、すべてが何らかの形で存続し、たとえばその時点までの逆行など、適当なチャンスにさえめぐり会えばふたたび表面に浮かべ出ることもあるのだという仮説を取っている。(……)
ひょっとすると、この仮説自体が行きすぎかもしれない。おそらくわれわれとしては、心理生活においては過去は存続することもあり、必ずしも破壊されるとは限らないと主張するだけで満足すべきなのかもしれない。いずれにせよ、人間心理の中においても、古いものの一部がーー原則としてであれあるいは例外的にであれーーいかなる出来事によってももはや回復したり甦生したりすることができないほど酷く消されたり消耗しつくされたりすることがあるということーー別の言葉でいえば、一般的に、存続はある種の有利な条件があって始めて起こりうるということーーは考えられないことではない。じじつはそうであるかもしれないが、詳しいことはまだ何も分かっていない。われわれに確認できるのは、人間の心理活動においては過去の存続という現象が、唐突な例外というよりはむしろ原則だということだけである。
このようにして、多くの人々が「大洋的な」感情を持っていることを進んで承認し、しかもその感情の根拠を自我感情の昔の段階の一つに求めようとすると、つづいて起こってくるのは、この「大洋的な」感情を宗教的欲求の源泉とみなすべきだとする主張にはどのような根拠があるかという疑問である。
私は、この主張にはすべての人々を納得させるに足る根拠はないと思う。なぜなら、感情がエネルギーの源泉たりうるのは、その感情自体がある強い欲求の表現である場合に限られるのだから。宗教的欲求の起源としては、幼児時代の寄辺ない状態、およびその状態によって呼びさまされた父親への憧憬以外には考えられないように思われる。ことに、この感情はたんなる幼児生活からの継続であるばかりではなく、圧倒的に強大な運命にたいする不安によってたえず維持されているわけだから、なおさらそうである。私は、幼年時代の欲求で父親の保護にたいしる欲求ほど強いものをほかに知らない。こういわけで、「大洋的な」感情は、あるいは無制限なナルシシズムの復活を目指しているかもしれないけれども、宗教的欲求の源泉としてはもはや問題になりえない。宗教的な態度の源泉は、幼児が持つ「寄辺がない」という感情にいたるまで、明確な線を辿って追求することができる。その背後にはもっと別のものが潜んでいるかも知れないが、その点はまださしあたりヴェールに包まれている。
「大洋的な」感情があとになって宗教と関係を持つようになったということは十分考えられる。この感情の観念内容である例の万物との合一感は、宗教的な慰めの最初の試みであるかのようなーー自我が外界からの脅威と考えている危険を否認するもう一つの手段であるかのようなーー印象を与えることは否定できない。けれども、前にも白状したように、ほとんど捕えがたいこの種の対象を相手にするのは私にはたいへん苦手である。止みがたい知識欲に駆られてまことに異常な実験を試みたあげく、ついには悟りを開いた私のいま一人の友人の断言によると、ヨガの修業においては、外界に背を向けること、注意力を肉体機能だけに集中すること、独特の方法で呼吸することなどによって、実際に自分の中に新しい感情や普遍感情を呼びさますことができるそうで、その友人はそれらの感情を、とっくの昔に埋没してしまった原始状態の心理活動への逆行現象だと解釈しており、これらの感情は神秘思想の叡知の多くのもののいわば生理的裏づけだと考えている。失神や恍惚状態など、心理活動のヴァリエーションの暗黒面のいくつかとも関係のあることは容易に察せられるであろう。しかし私としては、シラーの潜水者の言葉を借りていちどせひ次のように叫んでみたいのである。
「このばら色の光の中で息をつける者は幸福だ」と。
この文は、『文化への不満』の冒頭であり、後半には「死の欲動」概念が出てくるのだが、それについては見解の相違はあるにしろ、また《宗教的欲求の起源としては、幼児時代の寄辺ない状態、およびその状態によって呼びさまされた父親への憧憬以外には考えられない》と、「父」が強調されすぎていることを除けば、ラカンやミレール、ジジェクの系譜の現在につらなる基本的な姿勢だろう(いや現在なら、思索にたずさわる者の基本的姿勢だとしておこう)。
解釈放棄の思考の怠慢の手合いよ
海に潜る心持はこれっぱかりもないようだ
ああウラヤマシイ、ばら色の光の中で息をするのみのきみたちよ
わたしの大好きな云々、魂に突き刺さる、言葉を失う……
などとつぶやいてばかりおらずに、な
ーー《当たり前のことだからこそ、繰り返します。「言葉に出来ない」「言葉なんて野暮」ということも、言葉ではないと言えない。言葉は言葉ではないもののなかで生成し、言葉ではないものは言葉のなかでこそ咲(ひら)く。簡単に(簡単に、です)「言葉の外」なんて「言う」のは、それこそ「言葉が軽い」。》(佐々木中)
《「言葉が軽い」のと「言葉に軽みがある」のとは断じて違う。無闇と振り回さないと決めて大事にしている語彙はあるか? 安易に流れるから絶対使わない言葉は? 重々しい言い方で、だらしない共感をもとめていないか? 純粋素朴を装い、自らの密かな欲望から目をそらして言葉を使っていないか?》(同佐々木ツイート)
…………
《私は藝術についての漠然として主観的なお喋りを、私自身のそれを含めて、好まない。》(加藤周一著作集「芸術の精神史的考察 I」あとがき 1979)などとつぶやいてばかりおらずに、な
ーー《当たり前のことだからこそ、繰り返します。「言葉に出来ない」「言葉なんて野暮」ということも、言葉ではないと言えない。言葉は言葉ではないもののなかで生成し、言葉ではないものは言葉のなかでこそ咲(ひら)く。簡単に(簡単に、です)「言葉の外」なんて「言う」のは、それこそ「言葉が軽い」。》(佐々木中)
《「言葉が軽い」のと「言葉に軽みがある」のとは断じて違う。無闇と振り回さないと決めて大事にしている語彙はあるか? 安易に流れるから絶対使わない言葉は? 重々しい言い方で、だらしない共感をもとめていないか? 純粋素朴を装い、自らの密かな欲望から目をそらして言葉を使っていないか?》(同佐々木ツイート)
…………
……個人の好き嫌いということはある。しかしそれは第三者にとって意味のあることではない。たしかに梅原龍三郎は、ルオーを好む。そのことに意味があるのは、それが梅原龍三郎だからであって、どこの馬の骨だかわからぬ男(あるいは女)がルオーを好きでも嫌いでも、そんなことに大した意味がない。昔ある婦人が、社交界で、モーリス・ラヴェルに、「私はブラームスを好きではない」といった。するとラヴェルは、「それは全くどっちでもよいことだ」と応えたという。(加藤周一『絵のなかの女たち』)
《質問 十五》
ふつうの言葉と、詩の言葉の
違いは何ですか?
(みく 三十四歳)
《谷川さんの答え》
ふつうの言葉だと、
たとえば「あなたを愛しています」と言うと、
あるいは書くと、
それは嘘か本当か、
それとも嘘と本当が混じっているのかが
問題になります。
詩の言葉だと、そういうことは問題になりません。
「あなたを愛しています」という言葉が、
その詩の前後の文脈の中でどれだけ読者を、聴衆を
動かす力をもっているかが問題になります。
言い換えると
ふつうの言葉には、その言葉に責任を負う主体がいますが、
詩の言葉の主体である詩人は
真偽については責任がなく、
言葉の美醜、または巧拙について
責任があるのです。
ーーー『谷川俊太郎質問箱』より