「原抑圧」について調べていたら、それとは直接かかわりがないが、岩波書店版のフロイト新訳にかんしての誤訳の指摘がある。
フロイト翻訳正誤表として、旧訳の人文書院版をはじめとして岩波書店版でも精力的に誤訳の指摘されているfreudien氏のブログより。
気になったところなどを取り上げてみようと思います。
「すなわち、エスにおいて意図されていた欲動の蠢きは、抑圧の結果、意図通りの経過をたどることが全くできず、自我は首尾よくその経過を阻止するか、あるいはその方向を逸らせる、と。」(岩波版16頁)
『欲動の蠢き』という概念は、エスの中にすでに存在して作用する、いわば出発点となる状態を指しますから、『エスにおいて意図されていた欲動の蠢き』というのは変です。原文を見ると『Erregungsablauf』ですから、次のようになります。
「すなわち、エスにおいて意図されていた興奮経過は、抑圧の結果、そもそも成立せず、自我は首尾よくその経過を阻止するか、あるいはその方向を逸らせる、と。」(代案)
(……)
「多くの声は、エスに対する自我の弱さ、私たちの内なる魔的なものに対する合理的なものの弱さを切々と強調し、この言葉を精神分析的「世界観」の支柱としようと手をこまねいている。」(岩波版20頁、下線は引用者)
原文は『sich anschicken』ですから、訳は単に『支柱としようとしている』でよいと思います。訳者は『手をこまねいている』という日本語の慣用句の意味を取り違えてはいないでしょうか。
問1 「手をこまねく」とは,本来どのような意味でしょうか。
答 「手を胸の前で組んでいること」,転じて,「何もせずに傍観している。」という意味です。
問2 「手をこまねく」について尋ねた「国語に関する世論調査」の結果を教えてください。
答 本来の意味ではない「準備して待ち構える」という意味だと回答した人の割合が,本来の意味である「何もせずに傍観している」と回答した人を上回りました。(文化庁「手をこまねく」の意味)
無為無策で手をこまねく、とか、周章狼狽して手をこまねく、などと使われ、類語として、「手を束(つか)ねる」「腕をこまねく」などがある。
【手をこまねくの語源・由来】
「こまねく」は「こまぬく」が音変化した語で、漢字ではどちらも「拱く」と表記する。
「こまぬく」は、両手の指を胸の前で組んで挨拶する中国の敬礼の一で、腕組みをするという意味もある。
傍観している際に腕組みをすることが多いことから、手をこまねく(こまぬく)は「何もしないでいる」「何もできないでいる」の意味で使われるようになった。
「言葉の意味というのは言語の使用(慣用)である」(ヴィトゲンシュタイン)であるにしろ、上のフロイト訳文は、この本来の意味でない「準備して待ち構える」としても、かなり抵抗のある文だ(わたくしも人のことは言えないのはわかってるよ、おそらく誤用ばかりだからな)。
この翻訳文は、すこし洒落た表現で翻訳してみようと試みた結果の奇訳であろう。いっけん穏やかな指摘だが、訳者はかなりこたえるのではないか。
あるいは編集担当者(岩波書店!)の劣化もあるのだろうか。
そもそも医学界には次のようなことがあるらしいが。
…………
上とは全く関係がないが、《然るに作者俄に惑うて思案投首煙管(キセル)銜へて腕こまねくのみ》と荷風を引用したので、キセルをめぐって思い出した。
《記憶は ススキの根に寄生する ナンバンキセルのように 曲つている 人間の毛穴にふく 女神の息のように 淋しい》(宝石の眠り「記憶のために」)西脇順三郎
ナンバンキセルっての花の名なんだな、ってのに最近気づいたよ
「ナンバンギセルは他の植物の根に寄生して、そこから養分を取りながら生育する寄生植物です。」
そもそもダンヒルのパイプをすすきの中へすてるんだよな、第三の神話では
《タバコをやめたから/ダンヒルのパイプを河原のすすきの中へ/すててヴァレリの呪文を唱えた/「お前さんは曲がつている。すずかけの木よ」》(西脇順三郎「第三の神話」)
バッハのBWV564は、ジャクリーヌ・デュ・プレの十七歳のときの演奏やら、ホロヴィッツのカーネギーホールでの演奏もあるが、ここではもうひとつシュヴァイツァーのBWV625(Christ lag in Todesbandenキリストは死の縄目につながれたり)。
この曲は、バッハのもっとも有名なカンタータのひとつBWV4の最後のコラールとしてある。ここで感傷的にナンバンギセルの記憶を捻り出せば、わたくしの24歳のとき50歳で逝った母の棺のなかにカール・リヒター指揮のアルヒーフのBWV4のレコードを入れた。いまはなぜかトン・コープマン(Ton Koopman)のものを好んで聴く(独唱者の声が気に入らない箇所はあるのだが)。もうひとつのお気に入りのカンタータBWV78はリヒターのもので大丈夫だ(皮膚がひきつり軀が痙攣することはない。できるだけ離れていたいと思うことはない)。
《身体の傷は何ヶ月かで癒えるのに心の傷はどうして癒えないのか。四十年前の傷がなお血を流す。》(ヴァレリー『カイエ』)
あまり詳しくはないのだが、バロック演奏では、ピッチはヘレヴェッヘがA=415ぐらい。アルノンクールとコープ マンがA=465。そしてリヒターは現代ピッチ430~440らしい。(もっとも曲と場合によって異なるのだろう)。
…………
音の静寂静寂の音(2000)
この翻訳文は、すこし洒落た表現で翻訳してみようと試みた結果の奇訳であろう。いっけん穏やかな指摘だが、訳者はかなりこたえるのではないか。
あるいは編集担当者(岩波書店!)の劣化もあるのだろうか。
そもそも医学界には次のようなことがあるらしいが。
一般に、医学系出版社は、ボスだけを握っていれば、そちらからの原稿依頼で、皆かしこまって書くと思っているふしがある。ある編集会議に出た時のことを思い出す。編集委員が集まったところで、編集者が挨拶をして、では夕食を用意させたありますから召し上がって後はよろしきと言って退席し、編集者抜きで会議が始まった。私は失礼なと思ったが、これは編集者は口を挟みませんという、医学界ではしかあるべき態度と受け取られていた。こういうふうであるから、医学書は悪文に満ち、金ぴかの俗悪な装丁の本が多いのであろう。
ほんとうかどうか、医学界のボスには、誤字訂正をしても激怒するのがあるそうで、こういう手合いを相手にしていると、編集者もたまらないであろう。私も面白くないので、医学系出版界とは積極的に関係を持たない方針である。幸い精神医学だけの出版社が別個にある。これには、精神医学の本は専門家以外にも販路があるという事情もあるだろうが、著者-編集者関係の違いも大いに手伝ってのことだろう。(中井久夫「執筆過程の生理学」『家族の深淵』1995)
…………
上とは全く関係がないが、《然るに作者俄に惑うて思案投首煙管(キセル)銜へて腕こまねくのみ》と荷風を引用したので、キセルをめぐって思い出した。
《記憶は ススキの根に寄生する ナンバンキセルのように 曲つている 人間の毛穴にふく 女神の息のように 淋しい》(宝石の眠り「記憶のために」)西脇順三郎
ナンバンキセルっての花の名なんだな、ってのに最近気づいたよ
「ナンバンギセルは他の植物の根に寄生して、そこから養分を取りながら生育する寄生植物です。」
よく読めば、「ススキの根に寄生する」ってのがあるのだから、煙草のほうのキセルじゃないのは気づいてしかるべきだけれど
パイプの愛用者としては、いまだ記憶はダンヒルのパイプようであったほしいけどね
そもそもダンヒルのパイプをすすきの中へすてるんだよな、第三の神話では
なぜかここで、シュヴァイツァーのオルガン演奏を貼っておこう(十六歳のときシュヴァイツァーのバッハ論を買いこんだ、ダンヒルのパイプのような記憶だ)
バッハのBWV564は、ジャクリーヌ・デュ・プレの十七歳のときの演奏やら、ホロヴィッツのカーネギーホールでの演奏もあるが、ここではもうひとつシュヴァイツァーのBWV625(Christ lag in Todesbandenキリストは死の縄目につながれたり)。
この曲は、バッハのもっとも有名なカンタータのひとつBWV4の最後のコラールとしてある。ここで感傷的にナンバンギセルの記憶を捻り出せば、わたくしの24歳のとき50歳で逝った母の棺のなかにカール・リヒター指揮のアルヒーフのBWV4のレコードを入れた。いまはなぜかトン・コープマン(Ton Koopman)のものを好んで聴く(独唱者の声が気に入らない箇所はあるのだが)。もうひとつのお気に入りのカンタータBWV78はリヒターのもので大丈夫だ(皮膚がひきつり軀が痙攣することはない。できるだけ離れていたいと思うことはない)。
《身体の傷は何ヶ月かで癒えるのに心の傷はどうして癒えないのか。四十年前の傷がなお血を流す。》(ヴァレリー『カイエ』)
あまり詳しくはないのだが、バロック演奏では、ピッチはヘレヴェッヘがA=415ぐらい。アルノンクールとコープ マンがA=465。そしてリヒターは現代ピッチ430~440らしい。(もっとも曲と場合によって異なるのだろう)。
今回の来日のメインはベートーヴェンの「第九」。本誌先月号の特集でも話題になっていた、ベーレンライターの新しいエディション(デル・マー校訂)を使用。オーケストラ六十二名(弦は10・10・7・7・5)、合唱四十四名(14・10・10・10)という編成で、ピッチはA=430Hz(ちなみに、バロックのときは415Hz、ロマン派は438Hz)。(フィリップ・ヘレヴェッヘのインタビュー)
…………
音の静寂静寂の音(2000)
高橋悠治
3.バッハから遠く離れて
1750年の死から250年もたつというのに
ヨーロッパ音楽はまだバッハを鏡として
自己中心的な夢にひたっているのか
だれでも知っているバッハの音楽
トッカータとフーガの開始の身構え
G線上のアリアの気楽なベースライン
主よ 人の望みの喜びよ を吹き鳴らすトランペット
シャコンヌの誇張された身振り
ロマン主義が発明して
レコード産業とディズニーがひろめたバッハ
それ以外はとても複雑で退屈な音楽ではないか
そうではない
鏡として発明されたもう1人のバッハがいる
きく必要もなく存在している音楽
記号となった音 テキストとして読むことができる音楽
楽譜に書くことができる固定された音の列
楽器をつかわずに頭で考えた音のイメージを
次々に紙に書き出す能力
ほとんど訂正なしに完成される原稿
こういう技術なしには
作曲家という職業は自立したものにはならない
演奏家たちを作品の高みから支配し
消え去る音にも頼らず
どんな演奏も汲み尽すことのできない本質の
秘法の奥に憩うことができるのも
方法論となった作曲技術のおかげ
楽器ではなく 洋傘と杖を使っても
バッハの音楽は演奏できるだろう
旋律型や装飾法といった演奏の慣習のモザイクである旋法を
トニカとドミナントの関係に一元化した 調性のシステム
地中海の5度と北方の3度の対立を弁証法的に統合して
まだ平均律ではないがバランスのとれた 鍵盤楽器調律法
改良された指使いで 歌のように なめらかに波打つ旋律も
和声の表面にすぎない
主題法 分析によって見つけ出される一つの音列が発展し
作品全体を支配する
このように 専門家の術語でしか語れない音楽
作曲から自己編集に重点を移したバッハの晩年
教会暦のすべての日に対応できるカンタータ集
調整された鍵盤のためのあらゆる調の前奏曲とフーガ
世俗鍵盤音楽スタイルのカタログ ゴールドベルク変奏曲
音楽の捧げ物 じつはカノンの技法
改定の途中で放り出されたフーガの技法
抽象化され 分類され 操作される百科全書派的知
音から離れて記号となった音楽は 生活からも離れていく
マタイ受難曲 生きた神を裏切り見捨てた人間の
ロゴスとなった神からの 耐え難い距離
ブランデンブルク協奏曲 音楽の捧げ物
宮廷のアマチュア貴族の手や耳には複雑すぎる名人芸
市民社会にさきだって 音楽の世俗化ははじまった
技術の集約と個人化
主体と客体の分離
知の権力
音楽の啓蒙主義はまだ世界を支配している
あらゆる伝統文化に寄生し 内側から造りかえ
存在しなかった起源を発明しながら
1964年西ベルリンで ヘルマン・シェルヘンに
シェーンベルクのピアノ曲を弾いてきかせたことがあった
プロイセンのこの精密さは全世界を征服した
と シェルヘンは言った
のがれられない文明の呪縛
転換ギアはどこだ ベンヤミンさん
あるいは絨毯の模様の一点のほころび
籠の編み残された魂の出入口
バッハの曲のどれかを鍵盤の上でためしてみる
完成されたものとしてではなく
発明された過去としてではなく
未完のものとして
発見のプロセスとして
確信にみちたテンポや なめらかなフレーズを捨てて
バッハにカツラを投げつけられたオルガン弾きのように
たどたどしく まがりくねって
きみは靴屋にでもなったほうがいい
その通りです マエストロ
そして この音楽と現代社会とのかかわりについて
さらに 日々の生に その苦しみにこたえる音楽をもたず
過去の夢に酔うことしかできないこの世界の不幸について
瞑想してみよ
(ExMusica 1号のために)