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2013年9月17日火曜日

相対的には聡明なガキ(蓮實重彦)

語りながら、フーコーは何度か聡明なる猿のような乾いた笑いを笑った。聡明なる猿、という言葉を、あの『偉大なる文法学者の猿』(オクタビオ・パス)の猿に似たものと理解していただきたい。しかし、人間が太刀打ちできない聡明なる猿という印象を、はたして讃辞として使いうるかどうか。かなり慎重にならざるをえないところをあえて使ってしまうのは、やはりそれが感嘆の念以外の何ものでもないからだ。反応の素早さ、不意の沈黙、それも数秒と続いたわけでもないのに息がつまるような沈黙。聡明なる戦略的兵士でありまた考古学者でもある猿は、たえず人間を挑発し、その挑発に照れてみせる。カセットに定着した私自身の妙に湿った声が、何か人間たることの限界をみせつけるようで、つらい。(蓮實重彦「聡明なる猿の挑発」フーコーへのインタヴュー 「海」 初出1977.12号)

表題を「聡明なるガキ」としたが、けっして聡明なる猿のことではない。ポイントは「相対的には聡明な」である。

《フーコー当人からして、すでに正確な意味で人称とはいえないような人物だったわけですからね。とるにたりない状況でも、すでにそうだった。たとえばフーコーが部屋に入ってくるとします。そのときのフーコーは、人間というよりも、むしろ大気の状態の変化とか、一種の<事件>、あるいは電界か磁場など、さまざまなものに見えたものです。かといって優しさや充足感がなかったわけでもありません。しかし、それは人称の序列に属するものではなかったのです》(ドゥルーズ


…………

記号でも作品でもいい。文章でもかまわない、それを、ものとして、物質として、それが語られているその場で、みずから輝かせることが批評ではないか。(蓮實重彦『闘争のエチカ』P50

――とあるように、氏のいくつかの作品を輝かせる批評に遭遇することにより、まずはなりよりも蓮實重彦にお世話になったのであり、それは安岡章太郎や藤枝静男、あるいは後藤明生であったり、夏目漱石の再評価であったり、最近では黒田夏子の発掘であったりする(映画作品のことはここでは触れない)。


安岡的宙吊りの世界は,世の道徳的水準における責任回避とは本質的に異なった身振りであり,世界の中核へと向けて自己の存在を全的に開示しようとする生の条件を構成するものである。(「安岡章大郎論」『海(昭和48年7月号)』中央公論社)

最近の若いのは、「宙吊り」という語彙がきらいらしいな。だが、この語が活きて使われだしたのは、ドゥルーズのマゾッホ論(蓮實重彦訳)起源じゃなかったかい? 《期待と宙吊りという体験は、根本的にマゾヒズムに属するものだ。(……)マゾヒズムに特有の形態とは期待なのだ。マゾヒストとは、待つことを純粋状態において生きるものである。》

ドゥルーズ批判してみたらどうだい? いやそうじゃなくてよい、手ごろな相手がいるだろう、それとも今年になっての三冊のドゥルーズ研究者批判ってのは、相手が小者すぎて、きみたちには物足りないのかい? (まさか仲間内だから批判できないなんてことはないだろうな)

いずれにせよ、きみたちよ、蓮實批判もいいが、ツイッターなどでやっておらずに、すこしまとまった文で書いてみたらどうだろう。そして、それよりなりより、まずは自ら慈しむ作品を輝かせてみることはできないのだろうか。きみらにはそんな気配は毛頭ないのだかね。そもそも何を愛してるのかも判然としない。

……みんな、批評っていうものを解釈だと勘違いしてしまったんですよ。解釈といったって、形式を読むこともしなければ、ましてや魂の唯物論的な擁護などと思ってもみない。共同体が容認しうるイメージへと作品を翻訳することを意味の解釈だと思っちゃった。(……)

批評の第一の役割は、作品の意味が生成される可能性を思い切り拡げることであり、それを閉ざすことではない。ところが、みんな、無意識に意味生成の場を狭めればそれが主体的だと思ってるんです。僕はそれを可能な限り豊かなものにすることを一貫してやってきた。べつに、意味を無視したわけじゃあないんです。読むことって、無数の意味の闘いでしょ。表層というのは、その闘いの現場であるわけです。解釈が始まるのは、その闘いの現場を通過してからの話でなければいけない。(蓮實重彦『闘争のエチカ』P159)

こう引用すれば、「魂の唯物論的擁護」なる語句が気に入れない連中もいるのだろうが、魂とはドゥルーズのいうアンタンシテ(強度)であり、光であって、「アクションを必然化するもの」と蓮實重彦が書く文句から想到すれば、ドゥルーズ=プルーストの次の文がここではふさわしい。

プルーストは、観察には感受性を対立させ、哲学には思考を、反省には翻訳を対立させる。知性が先にたち、《全体的な魂》というフィクションの中に集中させるような、われわれのすべての能力全体の、論理的な、あるいは、連帯的な使用に対して、われわれがすべての能力を決して一時には用いず、知性は常にあとからくることを示すような、非論理的で、分断されたわれわれの能力がある。また、友情には恋愛が、会話には沈黙した解釈が、ギリシア的な同性愛には、ユダヤ的なもの、呪われたものが、ことばには名が、明白な意味作用には、中に包まれたシーニュと、巻き込まれた意味が対立する。(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』「アンチ・ロゴスと文学機械」の章)
真実の探求者とは、恋人の表情に、嘘のシーニュを読み取る、嫉妬する者である。それは、印象の暴力に出会う限りにおいての、感覚的な人間である。それは天才がほかの天才に呼びかけるように、芸術作品が、おそらく創造を強制するシーニュを発する限りにおいて、読者であり、聴き手である。恋する者の沈黙した解釈の前では、おしゃべりな友人同士のコミュニケーションはなきに等しい。哲学は、そのすべての方法と積極的意志があっても、芸術作品の秘密の圧力の前では無意味である。思考する行為の発生としての創造は、常にシーニュから始まる。芸術作品は、シーニュを生ませるとともに、シーニュから生まれる。創造する者は、嫉妬する者のように、真実がおのずから現れるシーニュを監視する、神的な解釈者である。(『プルーストとシーニュ』「思考のイマージュ」の章)

恋人の表情に嘘のシーニュを読みとるもの、恋する者の沈黙した解釈、それのみがアクションを必然化する。ーーこの「解釈」ってのは「解釈学」とは訳が違う。

《Meaning is an affair of hermeneutics(解釈学), Sense is an affair of interpretation(解釈)、Meaning belongs to the level of All, while Sense is non‐All……Lacan's notion of interpretation is thus opposed to hermeneutics: it involves the reduction of meaning to the signifier's nonsense, not the unearthing of a secret meaning》(.「否定判断」と「無限判断」--カントとラカン


そもそも、今年になってドゥルーズ研究書がいくつか出ているのだから(そしてもうすぐ真打的な「動きすぎてはいけない」ってのが出るのだから)、「強制forcé」がキーワードのひとつであるのを知らぬわけではあるまい(オレは読んでいないがね)。動きすぎてはいけないのは、蜘蛛になるためであり、恋人の表情に嘘のシーニュを読むためじゃないのかい? つまりは「魂の唯物論的擁護」さ---私はとても旅をしようという気になれない(ドゥルーズ)

『失われた時を求めて』のすべては、この書物の生産の中で、三種類の機械を動かしている。それは、部分的事物の機械(衝動)・反響の機械(エロス)・強制された運動の機械(タナトス)machines à objets partiels(pulsions), machines à résonance (Eros), machines à movement forcé (Thanatos) .である。(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』「アンチロゴスまたは文学機械」CHAPITRE IV “Les trois machines”
※訳語はいささか違和があるだろうが(たとえばobjets partielsってのはフロイト=ラカンの「部分対象」なんだろうな、仏語には疎いがね)、あえて訂正はしないよ。


観察/感受性、哲学/思考、反省/翻訳、友情/恋愛などの二項対立があるとして、前者ばかりでやっていては埒が明かない。蓮實重彦が次のように語るのは、ほとんどその意味だろう。

僕がやっている批評のほとんどは無駄に近い列挙なんです。これもありますよ、これもありますよ、というようなものでね。こっち見てごらんなさい。夏目漱石、こんなことを書いていますよ。またこっちではこんなことを書いていますよ、という愚鈍なまでの列挙なんです。その意味では批評というより事項が並んでいるだけなんです。ところがいまの若い人たちは列挙しないんですね。非常に優雅に自分の言葉に置き換えちゃっている。(……)

僕の無駄というのは、その無謀な列挙にある。なぜ列挙するかというと、列挙することそのものがかろうじて根拠たりうるようなものしか論じないからです。たとえば、ジョン・フォードには太い大きな幹が出てくる。僕は、それを美しいと思う、というよりそのことに理由のない恐れをいだく。しかしそれには何の意味もない。ただ、太い樹木の幹が見えるというだけなんです。だから『静かなる男』にもあった、『タバコロード』にもあった、『我が谷は緑なりき』にもあったと際限なく羅列してゆくしかない。(『闘争のエチカ』)


以前も蓮實批判をしつつ、それなりに聡明ではあるようにみえる若い輩が、《……私は、たとえば蓮實の言った身体性・動体視力・運動神経をはじめとして、この種の自己認識言語(ぶっちゃけキャッチコピ-であり、他党派を「奴らには~~が無い」と指弾するときに使われる評言にもなる)をそのまま鵜呑みにして使う奴は馬鹿だと思ってる。》とか発話していたが、《勘を鈍らせるものがパラダイムである。》(『闘争のエチカ』 p242)の「勘」やら、「動体視力」であれば、次のような文が気に入らないのだろう(まあここはいっけん蓮實批判ではなく、鵜呑みする手合い批判だがね、そうはいっても、魂、勘やらは嫌いなのだろうよ、それで蜘蛛や動きすぎてはいけないってのも実は嫌いなんだろ? いまから推測されるぜ、10月出版以降、新種の鵜呑みの手合いが輩出するのが)。


「批評」は、本質的に言い換えの作業にほかならない。翻訳とも呼べるその作業は、言い換えるべき対象としての他者の言説の中でまどろんでいるしかるべき記号に触れ、それを目覚めさせることから始まる。数ある記号のどれに触れて目覚めさせるかで、読む主体の「動体視力」が問われることにもなろうが、それは、読むことで、潜在的なものを顕在化させる作業だといってよい。その覚醒によって、他者の言説は、誰のものでもない言説へと変容する。その変容は、“できごと”として生起し、「批評」の主体をもいくぶんか変容させずにはおくまい。言い換えれば、その二重の変容を通して、とりあえずの翻訳におさまるのだが、「批評」は、それがあくまでとりあえずのものでしかないことを知っている。また、それを知らねば、たんなる「厚顔無恥」に陥るほかはない。

決定的な翻訳にたどりつくことなく、「厚顔無恥」に陥ることも避けながら、とりあえずの翻訳にとどまるしかない「批評」は、あるとき、その宿命として、「表象の奈落」を目にする。そこには、もはや、他者の言説など存在せず、覚醒すべき記号さえ見あたらない。その視界ゼロの世界で、とりあえずのものでしかないにせよ、主体にこの不断の翻訳をうながすものは何か、どんな力に導かれて「批評」は記号の覚醒を目ざしたりするのか、それが物として生みだされるのではなく、事件として起こることを許すものは何か、等々、いくつもの声として響かぬ疑問を前にして、人は言葉を失う。「批評」が「批評」を超えた何かに触れることで陥る失語に言葉を与えるものは、もはや「批評」ではない。だかれといって、それが「哲学」かといえば、それは大いに疑わしい。(『表象の奈落』「あとがき」)

ーー批評とはたかだか「翻訳」かい、などと愚かなことを云わないようにしよう。

《自分のは原文のない翻訳みたいなものだと言っていたこともあります。実際に原典があったらどんなに幸せだろうと思いますよ。ただ、原典のない翻訳というものは、文学一般のことかもしれないとも思っているんです。》(古井由吉「文藝」2012年夏号)

あるいはその威勢のいい若輩はこうも発言していた。《丹生谷は優秀な人だった…嗅覚が利いてたとか、蓮實に対する抵抗に見えるときもあった…とかの愛着は私も結構あるのだが。いや、それはそれとして、「~~をこう読解する」と「それは~~の産物であると自己認識する」はつねに別々になりえて、後者の「自己認定の評」とは別に分析・読解の結果から遡行すると、自己認識なんて当てにならないというか、単なる「信念の表明発話」であり、そう発話することを欲している主体あるいは共同体が透けて見えることがザラなわけですよ》《やっぱ字面として「身体性・運動神経」を落としどころに持ってくる言葉に、人はあっさりやられてるんじゃね?》云々。



最初にあげた発話の「私は……そのまま鵜呑みにして使う奴は馬鹿だと思ってる」の文が、この当人自身の「そう発話することを欲している主体あるいは共同体が透けて見え」てしまっていることに、この人物が自覚的であるなら、それなりに穿った見解として扱うことができもしようが、その発話当人が、みずからの狭い共同体というのか村社会というのか、その内部でのみの「相対的な聡明さ」の誇示であることに気づいている気配がないのなら、ションベン臭いガキの戯言として扱うよりほかあるまい。

ガキとは失礼な言い草であるなら「凡庸」の典型と呼ぼう。

凡庸さとは才能の欠如のことではない。凡庸さとは《相対的な聡明さに自足しうる精神と、その精神に一つの役割を演じさせることで社会を安定させる力学の支配》(『凡庸な芸術家の肖像』)に侵されていることを云う。きみたちの村社会はさぞや慰安の場所なのだろう、うなずきあいやら無数の相槌によって。

もっとも、《あたりに氾濫する無自覚な凡庸さを何とか超えようとする姿勢そのもの》が「凡庸さ」を形作るのであり、《誰も、凡庸な連中を笑う自由など持っていない》のであって、実際、他人の欠点を嘲笑してきた連中は、《等しく彼と同程度に凡庸な人間ばかりである》のだから、ひとは「凡庸」から逃れようもないが、「共感の共同体」に憩いつつの「批判」だけはやめとけよ、それが凡庸の真打って奴だぜ

《耐え難いのは重大な不正などではなく凡庸さが恒久的につづくことであり、しかもその凡庸は、それを感じている彼自身と別のものではない。》(ドゥルーズ『シネマ Ⅱ』)

フローベールの愚かさに対する見方のなかでもっともショッキングでもあれば、またもっとも言語道断なことは、愚かさは、科学、技術、進歩、近代性を前にしても消え去ることはないということであり、それどころか、進歩とともに、愚かさもまた進歩する! ということです。(クンデラ「エルサレム講演」『小説の精神』所収)

ここでいう愚かさは、蓮實の愚鈍じゃなくて凡庸のことだがね、クラスタ内でのみ呟いて凡庸を進歩させるのだけはやめとけよ


それともすこしはこういった気配があるのかね、きみたちのクラスタとやらには。

・気心の知れた仲間同士の親しいうなずきあいとは異なる外部の力学
・共感とは異質のある種の齟齬感
・同調からくる納得ではにわかに処理しかねる違和感
・親密さではなく、むしろそれをこばんでいるかにみえる隔たり


ーーそもそもこの式辞をもろに聞いて反撥を感じた世代かね、きみたちは。


繰り返すが、批判するなら、ツイッターなどで仲間同士で相槌など打っておらずに、ブログなどでもいい、もうすこし長い文でやってそれをツイッターに貼り付ければよいのだし、それよりも先に、まずは何かを輝かせてみたらどうだろう。

なあ、おい! 「ツイッターはインテリのパチンコ」っていう名言があるのを知らぬわけではあるまい、パチンコばかりやっていても致し方ないぜ

それとも、そんな才能は微塵もないないから、ちょろい悪口をやっているのかい? 

何ごとによらず、悪口をいうことのほうが褒めることよりもやさしいようである。褒め言葉は、当の対象がよほど十分に褒められるのに値していなければ、とかくうわつ調子なものになりがちである。これに反して、悪口のほうは、対象の弱点を取り上げるのがその仕事であるから、本来の性質上、甘くなることがそれほどできぬではないかと思う。それだから、たとえある悪口が実際にはちょろいものであっても、それが悪口であるというだけの原因によつて、けつしてちょろいものではないという外観をーーー少なくとも褒め言葉よりは、そなえやすいようである。(中野重治 「映画の悪口ーーー罪はどこにある」)

いや、そもそも夜郎自大のナルシシストの口じゃあるまいな? 自分自身を輝かせるのだけはやめとけよ

サブカルチャーはいい、マンガはいい、アニメはすばらしいというようなことは、かつてはイロニーとしていわれていた。その限りで、一応の批評性があった。ところが、今の日本ではもうイロニーはありません。たんに夜郎自大の肯定があるだけです。はっきりいって、現在の日本には何も無い。そして回復の余地も無い。》(柄谷行人「イロニーなき終焉」「近代文学の終り」2005よりーー柄谷行人の「構造と反復」をめぐって

ーーなどと書けば本人に届くつもりか、このおっさんとかなんたら言ってくる連中がいるかもしれないから、そんな意図は毛頭ないと先に答えておくよ。これは投壜通信さ。


航海者は遭難の危機に臨んで、自分の名と自分の運命を記した手紙を瓶に封じ込め海へ投げる。幾多の歳月を経て、砂浜をそぞろ歩いていて、わたしは砂に埋もれた瓶を見つけ、手紙を読んで遭難の日付と遭難者の最後の意思を知る。わたしにはそうする権利がある。わたしは他人あての手紙を開封したりはしない。瓶に封じ込められた手紙は、瓶を見つけた者へあてて書かれているのだ。見つけたのは、わたしだ。つまり、このわたしこそ秘められた名宛人なのである。……(オシップ・エミリエヴィチ・マンデリシュターム 早川眞理訳)