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2013年9月13日金曜日

読むという秘儀がもたらす淫靡な体験が何の羞恥心もなく共有されてしまっているという不吉さ

何んと沢山な告白好きが、気楽に自分を発見し、自分を軽信し、自分自身と戯れる事しか出来ないでいるかを考えてみればよい。正直に自己を語るのが難しいのではない。自己という正体をつきつめるのが、限りなく難しいのである。(小林秀雄 『近代絵画』)

 《現代におけるさまざまな抑圧の解除、タブーの解禁という流れについては、われわれが本質的に、みずからの無意識に対して耐え難い恐怖を抱いている可能性のもとで考えておく必要があるだろう。「抑圧しないこと」で隠蔽されるものこそが「無意識」に他ならない。》(斎藤環『解離とポストモダン、あるいは精神分析からの抵抗』「批評空間」 2001 Ⅲ―1所収)

ここで、「告白」したり「抑圧しないこと」で隠蔽されているもの、あるいはそこに生じる「無意識」は何であろうか、などと問うつもりはないが、告白や抑圧しない仕草において反復されるパターンは、それぞれのひとにある。


《「反復としての無意識」を強調しておくことは重要なことです。なぜなら、それは自我心理学において基本的な考え方である「抵抗としての無意 識」を強調することとは完全に違うからです。(……)

ラカンは反復を、失敗の反復として捉えています。成功の反復ではありません。》(「(『精神分析の四基本概念』の)文脈と概念」Context and Concept ジャック=アラン・ミレール)


……「反復強迫」をよく理解するさいには「無意識」の抵抗とたたかわねばならないという誤解を除くことが必要である。無意識、つまり「抑圧されたもの」は、けっして治療の努力には抵抗しない。それどころか、ただ重い圧迫にさからって、意識に達しようとしたり、実際行動によって放出しようとつとめるだけである。治療のさいの抵抗は、かつて抑圧を遂行したのと同一の、より高次の精神生活の階層と体系とから生ずる。しかし、抵抗の動機は、いや抵抗そのものさえ、治療のさいの経験によれば、最初は意識されないものなので、われわれは、われわれの表現法の適切でない点をあらためる必要にせまられる。意識と無意識とを対立させるかわりに、統合する自我と抑圧されたものとを対立させるならば、曖昧さが少なくなる。自我の多くのものは、それ自身無意識的である。とりわけ自我の中核とみなされるものは無意識的である。そしてそのごくわずかな部分は、われわれが前意識とよぶものに相当する。こんなふうに、単に記述的な表現法を、体系的あるいは力学的な表現法にかえるならば、被分析者の抵抗はその自我から生ずるのである、ということができる。それにつづいて、反復強迫を意識されぬ抑圧されたものに由来すると理解することができる。反復強迫は、適切な治療の操作が抑圧を緩和するまでは、おそらく発現することができなかったであろう。意識的な自我と前意識的な自我の抵抗が、快感原則に奉仕していることは疑いを入れない。実際、この抵抗は、抑圧されたものの解放によってよび起こされるであろう不快をまぬかれようとする。われわれの努力は、現実原則の助けを借りて、あえてこのような不快を、生ずるままにまかせようとする。しかし、反復強迫、つまり抑圧されたものの力の発現は、快感原則に対してどのような関係にあるのであろうか。反復強迫が、ふたたび体験させるものは、たいてに自我に不快をもたらすものにちがいない。それは明白である。なぜなら、反復強迫は、抑圧された衝動興奮の活動を発現させるからである。だが、その不快は、われわれがすでに評価したとおり、快感原則に矛盾しない不快であって、心の一定の体系にとっては不快であると同時に、他の体系にとっては満足であるようなものである。とはいえ、われわれが、いま述べなければならないあらたな注目すべき事実は、反復強迫がなんら快感の見込みのない過去の体験、すなわち、その当時にも満足ではありえなかったし、ひきつづき抑圧された衝動興奮でさえありえなかった過去の体験を再現するということである。(フロイト『快感原則の彼岸』人文書院 旧訳)P160

この文のすこしあと、《あらゆる人間関係が、つねに同一の結果に終わるような人がいる》という文がある。何人かの人に特化してツイッターでの様子をしばらく観察していると(失礼!)、ああ、まさにそうだな、と感じることがある。

精神分析が、神経症者の転移現象について明らかにするのとおなじものが、神経症的でない人の生活の中にも見出される。それは、彼らの身につきまとった宿命、彼らの体験におけるデモーニッシュな性格といった印象をあたえるものである。精神分析は、最初からこのような宿命が大かたは自然につくられたものであって、幼児期初期の影響によって決定されているとみなしてきた。そのさいに現れる強迫は、たとえこれらの人が症状形成によって落着する神経症的葛藤を現わさなかったにしても、神経症者の反復強迫と別個のものではない。あらゆる人間関係が、つねに同一の結果に終わるような人がいるものである。かばって助けた者から、やがてはかならず見捨てられて怒る慈善家たちがいる。彼らは他の点ではそれぞれちがうが、ひとしく忘恩の苦汁を味わうべく運命づけられているようである。どんな友人をもっても、裏切られて友情を失う男達。誰か他人を、自分や世間にたいする大きな権威にかつぎあげ、それでいて一定の期間が過ぎ去ると、この権威をみずからつきくずし新しい権威に鞍替えする男たち。また、女性にたいする恋愛関係が、みなおなじ経過をたどって、いつもおなじ結末に終る愛人達、等々。もし、当人の能動的な態度を問題にするならば、また、同一の体験の反復の中に現れる彼の人がらの不変の性格特徴を見出すならば、われわれはこの「同一物の永劫回帰」をさして不思議とも思わない。自分から影響をあたえることができず、いわば受動的に体験するように見えるのに、それでもなお、いつもおなじ運命の反復を体験する場合の方が、はるかにつよくわれわれのこころを打つ。(……)

以上のような、転移のさいの態度や人間の運命についての観察に直面すると、精神生活には、実際の快感原則の埒外にある反復強迫が存在する、と仮定する勇気がわいてくるにちがいない。また、災害神経症者の夢と子供の遊戯本能を、この強迫に関係させたくもなるであろう。(……)反復強迫の仮定を正当づける余地は充分にあり、反復強迫は快感原則をしのいで、より以上に根源的、一次的、かつ衝動的であるように思われる。(同上P161-163)



わたくしもほとんど毎日のようにブログを書き続けることをしていると、みずからの「反復されているもの」に気づくことになる。それは「不滅の幼児願望」のようなものだ。

R教授との同一化に対しては、この同一化によって不滅の幼児願望たる「えらくなろう」という願望が充足させられるのであるから、私はすでに無意識裡にいつもその用意をしていたのである。(フロイト『夢判断』下 新潮文庫 p318)

フロイト自身の夢分析のように「えらくなろう」としなくてもよい。多くの人は、そんな幼児願望は拭い去っているよ、とその思いを「抑圧」するだろう。だが、<母>――それはクライン派のように小文字の母であったり、ラカン派のように大文字の母(欲求―要求―欲望の弁証法)であったりするだろうがーー、その<母>に見られることを欲することからは逃れようがない。

もし他人がわれわれの望みに応えてくれたとしたら、彼はそれによってわれわれにたいしてある一定の態度表明をしたことになる。したがって、ある物にたいするわれわれの要求の最終目標は、その物と結びついた欲求の満足ではなくて、われわれにたいする他者の態度を確かめることなのである。たとえば子どもにミルクをやるとき、ミルクは彼女の愛情の証になる。(ジジェク『斜めから見る』)


《誰もが、誰かに見られていることを求める》(クンデラ『存在の耐えられない軽さ』)

クンデラはこう書き、四つの視線のカテゴリーをあげる。

①限りなく多数の無名の目による視線(大衆の視線)
②数多くの知人の目という視線
③愛している人たちの視線
④想像上の視線(死者の視線、理念の視線など)


私自身は①②ではないことを望むばかりだが、たとえば次の文を読めばある種の「欲望」から逃れているかどうかは疑わしい、ましてや「反復欲動」からは。

『法哲学』の中で、ヘーゲルは、人間のモノに対する欲求が、他者によって認められたいという社会的な欲望になり、それが逆にモノをのものあるいはモノの獲得の目的になってしまうことを論じた後、次のように述べている。

[欲望の社会化という]この契機は、さらに直接に、他者との平等への要求をそのうちに含む。一方で、この平等化への欲望および自己を他者と同一化したいという模倣への欲望が、他方で、それと同時に存在している、自己を他者と区別させることによって自己を主張したいという独自性への欲望が、それ自身欲望を多様化しかつそれを増殖していく事実上の源泉となるのである。

すなわち、人間の社会的欲望には、他人を模倣して他人と同一の存在であると認めてもらいたい模倣への欲望と、他人との差異を際立たせ自己の独自性を認めてもらいたい差異化への欲望とのふたつがあるのである。 (岩井克人「ヴェニスの商人の資本論」)

《It is only with Hegel that the fundamental and constitutive “reflexivity” of desire is taken into account (a desire which is always already desire of/for a desire, that is a “desire of the Other” in all variations of this term: I desire what my Other desires; I want to be desired by my Other; my desire is structured by the big Other, the symbolic field in which I am embedded; my desire is sustained by the abyss of the real OtherThing》ZIZEKLESS THAN NOTHING2012


ーーここでジジェクの他者が大文字になっていることに注意。


他者の「メタ私」は、また、それについての私の知あるいは無知は相対的なものであり、私の「メタ私」についての知あるいは無知とまったく同一のーーと私はあえていうーー水準のものである。しばしば、私の「メタ私」は、他者の「メタ私」よりもわからないのではないか。そうしてそのことがしばしば当人を生かしているのではないか。(中井久夫「世界における徴候と索引」より)

中井久夫の「メタ私」概念は、フロイトなどのそれよりも広範な「無意識」概念のこと。


……もし、私の記憶の総体が同時に現前すれば、私は破滅するであろう。私の記憶の総体は私の中にあるが、同時にこの全体が意識のスクリーンに同時に現前しないように何かによって護られている。

精神病理学は、それを「無意識」というかもしれず、神経学は「側頭葉」だというかもしれない。しかし、これはフロイトの個人的記憶がたたまれている無意識でもユングの超個人的な無意識でもなく、またベルグソンは言ったような生理的無意識すなわちわれわれの意識的活動を可能にするために無意識化・自動化している心臓運動などの生理的無意識でもなく、テニスや外科手術など、社会学者チクセントミハイが「フロー(乗り)」という状態で実現する一種の超意識的無意識(この研究を行った京都大学生理学教授の名をとって「佐々木の無意識」といっておこう)でもない。それらの全部を含んでいるかもしれないが、そのどれかに含めさせることはできない。このように「意識的私」の内容になりうるものであって現在はその内容になっていないものの総体を私は「メタ私」と呼んできた。これは「無意識」よりも悪くない概念であるとひそかに私は思っている。まず、上に示したように「無意識」は「意識」でないものとして多種多様なものを含んでいて、それらを総称する言葉はないからである。

同じように、世界についても「メタ世界」というものがあるかもしれない。私に見えていない世界が見えている世界と同じ権利で存在していることを私は知っている。その存在の仕方は「メタ私」と違う。さらに歴史的事象の「存在」の仕方もまた別個である。しかし、これ以上立ち入ることは私の能力を超えている。 (中井久夫「記憶について」『アリアドネからの糸』所収)


…………


前投稿で高橋悠治のツイッターやブログをめぐる文を引用した。

私的な生活や感想をツイートやブログで公開していれば、見えない他人から監視されている囚人の安心感にひたりながら、格差社会から排除されて いる現実を意識しないで済むのだろうか。インターネットのなかの仮想友人だけでなく、現実の人間も仮想化しているから、じっさいに困ったとき は、だれも助けてくれないどころか、ゴシップの種にしかならないのに。

これは、ベンサム=フーコーのパノプティコンを想起して書いているはずだ。

全要素間相互アクセスが可能なら
    無用な接触が多く 
       うごきをさまたげ エネルギーはうしなわれる
すべての要素が見透かされるパノプティコン
       外から監視されていても 内では自由選択のつもり
              閉じた部分で自由運動は加速する
            生産のための生産 消費から浪費へ
         必要なく拡大し 自己破産する
コンピュータの夢は      資本主義に囲い込まれた仮想空間の自由

別な世界はまだ可能か  高橋悠治

フーコーが言ったパノプティコンのポイントは、真ん中の監視塔から常に見られているということではなくて、実際は真ん中から見られていなくても,見られているかもしれないから、そういう視線を個々の主体が内面化して二重体になってしまうということだった。

ベンサムにとって、パノプティコンの恐ろしい効力を生むのは、主体(囚人、患者、生徒、工場労働者)が、全体を見渡せる中心の監視塔から自分が本当に監視されているのかどうかを絶対に確実には知ることができないという事実である。そしてまさしくその不安が、<他者>の視線から逃れることは不可能だという恐怖心を高めるのである。『裏窓』(ヒッチコック)では、裏庭の向こうのアパートの住人たちは四六時中、スチュアートの油断ない視線によって実際に監視されているが、怯えるどころか、そのことをまったく知らず、日常の営みをつづける。反対に、パノプティコンの中心であり、すべてを見渡せる眼であるスチュアート自身は、たえず脅え、なにか大事な細部を見逃すのではないかと怯えつつ、四六時中窓の外を観ている。(ジジェク『斜めから見る』)

インターネット上では、観察される側だけでなく、観察する側も奇妙な状況に陥ってしまうことがある。


◆InterCommunication No.12 1995 「ハイパーメディア社会における自己・視線・権力」(浅田彰/大澤真幸/柄谷行人/黒崎政男)より

黒崎――あまりにその瞬間瞬間をそのまま書き留めてしまうものだから,「知覚の束」,「知覚のラプソディ」になってしまって,統一的な視点を作るだけの時間的なディレイがない,という感じはありますよね――もちろん,カントで言えば,超越論的統覚は,単に時間的なディレイの問題だけじゃありませんけど.とにかく,情報がほとんど光の速さでわれわれの所に来てしまうという状況の中で,主体的に状況を見わたすってどういうことなんだろう.さっき,大澤さんが,電子メディア時代では,持続的に管理されてるのに,先験的な主体の視線が内面化されない,という管理される側のアイロニカルな構造を指摘なさったけど,具体的な電子情報網の次元の話に戻せば,同じ構造が,管理する側にも起こっていると思う.あらゆる情報が光速でやって来て同時に表示されてしまうということになると,1000も2000ものリアルタイムの情報が私の所に入って来てしまうわけで,それは「すべてを見る」というパノプティコンめいた錯覚を与えるにもかかわらず,実際にそれを見る者は膨大な情報の海の中におぼれてしまうだけかもしれない.われわれが,主体的に,つまり,推論的(理性的)にものを考えられたのは,メディアの制約によって,たまたま判断すべき要素が比較的少数だったから可能であっただけなのかもしれませんね.

浅田――ヴィリリオも強調するように,リアルタイムの電子情報の時代の最大の問題は「判断する時間がない」ということでしょう。

黒崎――さらに言えば,近代のパノプティコン的状況がパラドキシカルな状況に陥るのは,電子メディア時代において,少数の権威ある〈著者〉と多数の読者という峻別の構造が壊れるのと,類比的だとも言えます.



蓮實重彦は『随想」にて、現在地球に暮らす人々がこんなにまで活字に接している時代は人類史上なかったと述べ、インターネットだって大半は活字なんだから、問題はむしろ活字があまりに多くの人によって読まれていることであって、「読むという秘儀がもたらす淫靡な体験が何の羞恥心もなく共有されてしまっているという不吉さ」と書いている。


あるいは、

「ネット上のサイトには、注目すべきものもある」が、「読むと、どれも同じ文体に見える。ネットに書くということで、同一性が生まれてしまうのか。文体的に際立つ人が非常に少なくなっている(…)自分がそれを語るにふさわしい人間か、また、そのかたちで語っていいのかということに対する反省が、いたるところで失われてゆきます」その情報社会なり、あるいはネットワークというものが無意味というわけではなく、もっと魅力的になり得るはずでありながら未だ十分魅力的でない。」(蓮實重彦


高橋悠治は、《ツイートの別な使い方。「ボット」のように、自由間接話法の、だれとも知れない声の仮の置き場所として使えないか》、あるいは《見知らぬ他人の声で「つぶやく」》を試みたいと書いているが、ひとはインターネットの弊害にそれとなく気づいていても、やめようとはなかなか思わないのだろうから、いまの閉域を破るには、なんらかの工夫が必要なのだろう。


そのひとつとして、イマジネール(鏡像的)関係に入らないために、一人称単数の「私」やら「ぼく」の使用に繊細になることではないか。《鏡像的なものとして、愛は本質的にごまかしである》(ラカン「セミネール ⅩⅠ』)

《私は、「私」という語を口にするたびに想像的なもののうちにいることになる。》(ロラン・バルト『声の肌理』)

《代名詞と呼ばれている代名詞。すべてがここで演じられるのだ。私は永久に、代名詞の競技場の中に閉じこめられている。「私〔je〕」は想像界を発動し、「君〔vous〕」と「彼〔il〕」は偏執病を発動する。》(『彼自身によるロラン・バルト』)

わたくしは、もともと一人称単数を主語とした文章を書くのが苦手で、『ゴダール マネ フーコ― 思考と感性とをめぐる断片的な考察』で一箇所だけ「わたくし」と書いたほかは、一人称単数を主語とした文章だけは書くまいとして、日本語の慣行と真正面から向かいあうのを避けてきました。古井由吉さんの小説を読むと、一人称単数を主語とした文章を避けようとする姿勢がけしからんと思うほど見事で、思わずため息がでてしまう。(蓮實重彦+川上未映子対談


もっとも日本語の場合、一人称単数を避けても、その言語の構造で、鏡像的(想像的)な二項関係になってしまう、という見解もかつてからある。


《日本人は相手のことを気にしながら発言するという時、それは単に心理的なものである以上に、人間関係そのもの、言語構成そのものがそういう構造をもっているのである。》(森有正ーー「日本語と下からの目線」)




※一人称単数、「私」の使用は倫理的主体として発話する場合は、逆に肝要なことだ。たとえば法律家や政治家、あるいは医師などは、一人称単数を使用することが不可欠であろう。

もちろんフィクションとしての<私>というものはある。


《作者、語り手、主人公のいずれを指すのか決定し難い一人称代名詞《私》を用いた独特な言表行為》(ロラン・バルト「マガジーヌ・リテレール」誌〔1979年1月〕のプルースト論)

……まぎれもなく一人の人間によって書かれた文章の中に、それが日常的な伝達とは異質の水準に展開される言葉である場合、誰がそのように語っているのか識別が困難となるいくつもの指摘がまぎれこむことによってもたらされる、語る主体の曖昧化(……)。書きつつある本人の生身の肉体はいうに及ばず、あらゆる種類の自己同一性への言及が不可能となるそうした言語的環境がエクリチュールにほかならず、それはどんな時代にも存在していたのだが、“近代の登場人物”としての「作者」の概念が誇大視された結果、あたかも「作者」がその起源であるかに考えられてしまった(蓮實重彦『物語批判序説』)

周知のように、ある語り手による物語というかたちをとった小説では、一人称代名詞、直接法現在、時間的・空間的な位置決定の記号はけっして正確には作家にも、彼が現に書いている時点にも、彼の書くという動作そのものにも送り返しはしない。それらは、もうひとつの自己へ-そこから作家までのあいだに程度の差はあれ距離が介在するばかりか、その距離が作品の展開してゆく経緯そのものにおいても可変的でありうるようなもうひとつの自己へ、と送り返すのです。作者を現実の作家の側に探すのも、虚構の発話者の側に探すのも同様に誤りでしょう。機能としての作者はこの分裂そのもののなかで、-この分割と距離のなかで作用するのです。(フーコー『作者とは何か?』清水徹・豊崎光一訳)


あるいは。

欲望する「わたし」を、心理的主体としてではなく倫理的主体として再構成しようとしたのが、最晩年におけるフーコーの試みだったと言える。『快楽の活用』と『自己への配慮』の二著で、彼は、古典古代期のギリシアにおける少年愛の典礼と紀元一世紀から二世紀にかけてのストア派の性愛観とを素材しつつ、倫理的な能動主体としての「自己」がいかにして定立されうるかを考察した。その後を享けてキリスト教の「肉の経験」における言説と権力の相関関係の分析に捧げられるはずであった『性の歴史』最終巻は未完のまま残されることになったが、晩年に至って彼の関心が、欲望する「自己」をいかにして倫理的に律し「生存の美学」を貫徹するかといった、ほとんど反動的とさえ観じられかねない主題へと赴いていった光景には、免疫機構の疾患というもっとも現代的な病で斃れた彼の死ををそこに重ね合わせてみるとき、単に印象的という以上のものがあるだろう。フーコーは欲望の主体をどのように組織しようとしたのか。「わたし」が他者に対して或る力を及ぼすとき、その力は「わたし」自身の方へ反り返ってきて、そこに生じる力動的な関係性の場が「わたし」の内部へ「褶曲」するということが起こる。それはまた、他者へ及ぼす力のただなかで「わたし」が「わたし」自身と関わるところに出現する力動性の場でもあるのだが、そのとき、外部は折り畳まれて内部へと陥没し、存在に「襞」が生じる。「わたし」が主体として構成されるのは、つまり「主体化」が行なわれるのはひとえにこの「褶曲」作用を通じてなのである。襞、それは外部でもなく内部でもない場所、中立性の空間であり、権力の網目のただなかにからめとられていながら、しかしそこだけぽっかりと空虚が穿たれ、関係しあい葛藤しあう諸力の自由な戯れが可能となる空白地帯である。「生存の美学」を全うする能力を備えた倫理的主体としての「自己」とは、この「襞」の別名にほかならない。とりあえずドゥルーズの『フーコー』を参照しながら、死の直前のフーコーが立っていた最後の場所をそんなふうに要約することができるだろう。

この二冊の遺著におけるフーコーの文章は、節制の倫理というその主題にふさわしくストイックとすら形容できるような異様な静謐さを湛えており、かつてのあの華麗な修辞をすっかり払拭しきり無色透明でほとんど単調ですらあるその文体はには、何か不気味なものさえ感じられる。しかしわれわれはここで、フーコー  – ドゥルーズが記述するようなこうした諸力の交錯する場としての倫理的な「わたし」を、今ひとたび修辞の側に引き戻してみたい。倫理的主体として内部に「褶曲」する襞としての「わたし」ではなく、修辞的主体として外界に逸脱してゆく起源なき分身としての「わたし」を仮構しつつ、それを媒介にしていささか強引に性愛の空間をレトリックの領域に重ね合わせてみたい。修辞としての性愛、性愛としての修辞といった体験を、ほとんど何についてでも何をめぐってでもない言葉の連なりを組織する隠喩的実践のただなかで反復してみたい。そうしたときに、いったいどのような光景が見えてくるだろうか。性愛において修辞性に徹すること。その身振りのうちに胚胎される或る倫理的態度といったものを想像することは、はたして不可能であろうか。(松浦寿輝『官能の哲学』)